郎女迷々日録 幕末東西

薩摩、長州、幕府、新撰組などなど。仏英を主に幕末の欧州にも話は及びます。たまには観劇、映画、読書、旅行の感想も。

モンブラン伯の長崎憲法講義

2008年02月14日 | 前田正名&白山伯
 いけません。昨日書きました美少年と香水は桐野のお友達 のような次第で、妄想がとまりません。
 ほんとうは、モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol1 vol2 vol3に続けまして、順をおって書こうと思っていたのですが、がまんできなくなりました。

 モンブラン伯爵は、慶応3年9月22日(1867年10月19日)、薩摩藩家老、岩下方平とともに、長崎へやってまいりました。パリ万博はまだ閉幕しておりませんが、すでに幕府の面目はつぶしましたし、国内事情の方が大変、ということで、岩下方平が連れ帰ったようなのですが。
 ここのところの資料を、まだあまり読み込んでいませんで、残留組英国留学生(畠山義成、森有礼、吉田清成など)がハリスの新興キリスト教に傾倒して、モンブランを非難したゆえなのか、イギリス(パークス)への配慮なのか、それとも他の理由なのか、しかとは確かめていませんので、こまかい事情は省き、またの機会にします。
 ともかく、薩摩藩はしばらくモンブランを長崎にとめおき、五代友厚がめんどうをみます。
 岩下はさっそく京に復帰し、西郷、大久保、小松帯刀と協力し、京の政局を倒幕へと導くべく奔走します。
 実のところ、薩摩も藩論がまとまっていたわけではなく、藩主の弟・島津図書を筆頭として、討幕反対派が多数いました。
 そりゃあ、そうでしょう。薩摩はなにも朝敵ではありませんし、薩摩内のことのみを考えるならば、なにも危ない橋を渡ることはなかったのです。
 討幕の密勅は、薩摩にとっては藩内むけ、つまりは久光公説得のためであったという説に、私は賛成です。密勅は、世間に公表できないから密勅なんですから。
 朝敵とされていた長州は、なにがなんでも討幕を、と必死でしたが、それでも大村益次郎は、即時挙兵に反対でした。
 薩摩内にも反対派がいることから薩摩の出せる軍勢もかぎられていましたし、長州はといえば、とりあえず朝敵ですから、堂々と軍勢を出すことはむつかしいですし、幕府軍の兵力がはるかにまさっていましたので、勝ち目はないと踏んでいたのです。
 それで私は、久光に影響力を持ちかけていた赤松小三郎が、薩摩藩討幕派にとっては、邪魔だったんだろうと憶測するのですが。

 モンブランは、ちょうど大久保が長州と討幕挙兵の相談をしているころに長崎に着きまして、どのくらいの期間かよくはわからないのですが、長崎に滞在しました。
 そこはそれ、転んでもただでは起きないのが、五代友厚です。
 長崎には、薩摩藩だけではなく、西日本各地から、蘭学や英学を学ぶ洋学生が集まってきています。
 モンブランに講義をさせて、「天皇を頂く西洋式統一国家」とは、どのように運営されるものか、宣伝しようとしたらしいのですね。
 尾佐竹猛氏が「維新前後に於ける立憲思想」というご著書に、「佐々木老僕昔日談」から、以下の一文を引いておられます。

 白川の紹介で仏人のモンブランに面会して、薩の朝倉省吾の通訳で、種々議論を聞いた。同人は岩下と同船して来朝したのだ。仏国の貴族で勤王論を主張して居る。一体仏国は佐幕論であるが、同人は反対の主義であるところからして、薩人とも昵懇にした。松の森の千秋亭、吉田屋などで會宴したり、或は直接往来して、色々と談話を聞き、大に新知識を得た。彼の書物の講義も聞き、著述ももらい、またその談話を筆記して之を聞き書きと命名して、四冊ばかりのものを揃えた。この聞書は当時にあっては非常に有益なものとして珍重せられ、自分は国許にも送ってやるし、また前田に託して太宰府にも送るし、それから君公が御覧になりたいからと云うて渡辺から希望されてやったり、芸藩の石津大蔵からも懇願されてやった。大分方々にひろがった。モンブランの紹介で、他に同国人三人とも交際して事情等を聞いたけれども、名前は忘れて了った。


 「佐々木老僕」とは、土佐藩士・佐々木高行です。渡辺とは渡辺清のことと思われ、君公とは大村藩主でしょう。
 最初に出てくる白川は、モンブランがフランスへ連れていっていた日本人で、薩摩藩にやとわれたジェラールド・ケンだと思われますが、ときの長崎奉行は河津伊豆守で、文久三年幕府横浜鎖港談判池田使節団の副使なんです。ジェラールド・ケンは、モンブランのもとで、この使節団の随員とは懇意にしていました。
 それで、河津伊豆守がモンブランを幕府側に誘った、というような話もあり、どうもその仲買を、ケンがしようとしたらしいのですね。白川ことジェラールド・ケンは、この後、薩摩藩士に殺された、といわれています。
 松の森の千秋亭・吉田屋は、現在、富貴楼という名の卓袱料理店になっていますが、建物は当時のままです。
 
   

 諏訪神社や長崎奉行所も近く、一等地です。
 モンブランはおそらく、五代友厚が越前藩士に吹き込んだようなこと、つまり「上下両院の制を設け、上院は公卿諸大名、下院は諸大名の家臣集会して国事を議定し」といったような議会制度をもっと詳しく説明し、おそらくは憲法制定にまで話はおよんだのでしょう。なにしろ聞書が四冊なんですから。
 もちろん、おそらく、この立憲政体講義のプロデュースは五代友厚でしょう。

追記 
「続再夢紀事」を見て確かめなければいないのですが、赤松小三郎が、慶応3年(1867年)5月、松平春嶽に提出した「御改正之一二端奉申上候口上書」というのは、五代友厚の宣伝工作の一環であったと、私は思っています。
モンブラン伯は維新回天のガンダルフだった!? vol2で書きましたように、すでに慶応元年のパリで、五代は、オランダ留学をしていた幕臣・津田真道と西周の知識を乞い、モンブラン伯爵、レオン・ド・ロニーとともに、「日本の政体は天皇をいただく諸侯連合であり、将軍は諸侯のひとりにすぎず、天皇の委任を受けて一時的にその役割を代行しているにすぎない」という、ヨーロッパの現状にあてはめて、近代的日本を築くべき理論を構築しているんです。イギリス公使官員・アーネスト・サトウの「英国策」は、モンブラン伯爵がパリの地理学会で発表したこの理論を、五代が筆記して持ち帰り、それを下敷きにして書かれていた可能性が高いんです。
ヨーロッパの政治制度を、じっくりと勉強していた日本人は、この時点では、津田真道と西周しかいませんし、この二人が話に加わっていた以上、議会制から憲法まで、出てこないはずはありません。
ちなみに、モンブラン伯爵はベルギーの男爵でもありますが、ベルギーは新しい国で、初代国王はヴィクトリア女王の母方の親族であり、イギリスに領地を持っていた人で、政治的にはイギリスの影響が強いんです。イギリスには成文憲法がありませんから、このベルギーの憲法は、当時のヨーロッパでは、理想的な立憲君主国憲法と見られていました。
なお、五代友厚が討幕をどう思っていたか、ですが、この人はまず通商ありき、ですから、戦争状態が長引くことを望んではいなかったでしょう。しかし、寺島宗則のような学者ではありませんし、根本的な変革には戦いが必要であることは、十分に呑み込んでいたと私は思います。当時のヨーロッパで、現在進行形だったドイツ、イタリアの統一運動がそうでしたしね。



 通訳が朝倉省吾。
 朝倉は、中村博愛とともに、薩摩密航イギリス留学生仲間の中の蘭方医で、長崎でオランダ人ボードウィンに学んでいたのですが、イギリスでは入学可能な適当な学校がなく、二人してフランスに渡って、モンブランの世話になっていました。中村博愛は、博覧会の始末をつけるため、フランスに残りましたが、朝倉は帰国し、モンブラン一行の通訳をしていたのです。
 ええ、もうこうなりますと、ぜひとも、私の愛する町田清蔵くんを登場させたいものです。
 この当時、日本にいた薩摩藩フランス留学経験者は、朝倉と清蔵くんのみですし、清蔵くんはモンブランの世話になっていますから、長崎へ顔を出さない方が不思議なくらいじゃないでしょうか。

 そして、佐々木は言っていますよね。「また前田に託して太宰府にも送る」と。
 当時太宰府には、薩会の8.18クーデターで長州に落ちた七卿のうち、五卿がいました。
 こうなってくるともう、まるで討幕後の準備のようなんですが、モンブラン講義録を、太宰府に運んだ前田とは、当然、正名くんでしょう。
 薩摩藩長崎留学生で、洋行を宿願としている正名くんが、突然、薩摩藩が目の前につれてきたフランス人を、見逃すはずがありません。
 どうも私、正名くんをフランスに連れていってくれるよう、モンブランに紹介したのが大久保利通だって話、あやしいと思うんです。いつものお方が調べてくださった話では、正名くんの渡航費用は、どうやらモンブランが出したようなのです。数年の後、モンブランを嫌っていた英国留学生の鮫島が、フランス公使として赴任してきたとき、モンブランは鮫島に、正名くんの渡航費用を請求しているんだそうなんです。
 正名くんは、このとき長崎で、五代友厚に紹介してもらって、モンブランに気に入られたんじゃないでしょうか。

 しかし、ここから昨日の続きなんですが、桐野と正名くんがいつ知り合ったのかは、さっぱりわかりません。
 桐野が京都へ出る前、正名くんがまだ子供で、鹿児島の蘭学者・八木称平の住み込み弟子になっていたころから知り合いだった、と考えた方が、自然ではあるでしょう。
 桐野が京都へ出てからとなると、一度はたしかに帰郷していますし、他にも帰郷した可能性は高いんですが、そうゆっくり故郷に止まったわけではなく、そのうち正名くんも長崎へ行ってますし、ゆっくり知り合う機会がなかったように感じます。

 桐野も正名くんも貧しい育ちです。
 想像をたくましくすれば、です。10歳に満たない正名くんが、住み込み弟子、つまりは学僕をしていて、その日、忙しくて、か、あるいは兄弟子に意地悪をされて、か、ご飯を食べるひまもなく、なにか失敗をして、城下の道端でしょんぼりしているところへ、たまたま桐野が歩いてきて、「おい、どうした?」と聞き、「ま、これでも食ってがんばれ」と、懐から食べかけの芋を出してなぐさめる、なんていうのはどうでしょう?(笑)

 それで、話はとびまして、明治2年の初めころの鹿児島です。
 会津へ行く前に、桐野は横浜の病院で静養していまして、イギリス、フランスの駐日陸軍や海軍をゆっくりと見ています。おそらくは中井桜州から、たっぷりとパリ万博の話なんぞも聞いています。あるいは横浜を案内してもらって、香水なんかを買ったかもしれません。靴は中井にもらったでしょうか(笑)

 で、会津から帰ってきたころの桐野は、すでに大隊長級。
 「フランス軍服の方がよか。士官のサーベルもフランスもんはよかな」なんぞと横浜の見聞を思いだしておりましたところが、鹿児島城下にフランスの伯爵が降ってわきます。
 「田中(中井)どんより、あん人の話の方がおもしろいんじゃなかとか」と、好奇心をたぎらせていたところへ、「半次郎さあ!」と、訪ねてきたのが正名くん。
 正名くんの案内で、太郎くんをお供に、モンブラン伯爵の宿舎を訪ねましたら、モンブランのそばには、朝倉と清蔵くんが。

 モンブラン伯爵はご機嫌で、桐野にいろいろとアドバイスをしてくれます。
 えー、なにしろ、桐野は大隊長級ですし、フランスで士官といえば、もともとは貴族が多く、当時でも士官学校に入れるのは中の上の階層で、下士官以下とは、あきらかにクラスがちがいます。
 まさか桐野が、武士とはいえども百姓より貧しく、近所のお百姓に土地を借りて農業にはげみ、芋ばかり食べて育ったなぞとは夢にも思わず、清蔵くんと同じようなもんだと、美しい誤解をしてのアドバイスです。
「おお、サーベル。日本の刀も美しいが、サーベルも名職人にやらせれば、美しいものですよ。どうだろう、日本刀をサーベル風に仕立てては。ああ、あなたがフランスの軍服を着て、金銀装の日本刀サーベルを持てば、似合いますとも!」
「それは、いい思いつきですねえ、伯爵。僕は海軍がいいかなあ、と思っているんだけど、中村さんは陸軍だし、陸軍はフランス式が一番ですよ。中村さんのフランス式軍服姿、ぼくも早く見たいなあ」
 と、清蔵くん。
 太郎くんも、うっとりと桐野を見上げます。
「半次郎さあ! ぼくが責任もって、日本刀をお預かりしますよ。モンブラン伯爵は、日本の総領事(パリ駐在)になられたんで、ぼくを秘書として、パリにつれていってくれるとおっしゃるんです!」
 と、正名くん。
 朝倉は一人あきれて、「なんかおかしくないか?」と首をかしげていたり。

 で、その年の暮、正名くんは本当に、モンブランに連れられて、パリへ出発するんですが、その手にはしっかりと桐野から預かった綾小路定利が。
 って、桐野の綾小路は、たしか庄内の殿様からもらった、っていうのが定説なので、このときはまだないですかね(笑)
 まあ、そういった疑問はちょっと置いておきまして、妄想をたくましくしますと、です。
 桐野の綾小路は、パリで金銀装の華麗なサーベルとなり、例えば新納少年とか、帰国した薩摩人の手で、桐野に届けられます。ああ、西郷従道の線もありですし、大久保さあかも、しれないですね。
 正名くんは、明治10年、翌年に開かれるパリ万博の準備のために帰国するのですが、すでにそのときには、西南戦争がはじまっていました。
 おそらくは、明治2年に桐野と別れてから、二度と会っていなかったはずです。
 昨日のこのくだり。

 この人に、父が赤い布に包んだ金太刀を桐箱から取り出して見せていた光景が、今でも私の脳裏から離れません。

 桐野の孫を見て、桐野をなつかしむ後年の正名に、桐野の息子が、大切に保管してあった金銀装の綾小路定利を見せた、という光景が、あんまりにもじんときましたので、ついあらぬ妄想を(笑)

追記
上、妄想は妄想なのですが、もしかすると勘違いされる方がおられるかもと、付け加えます。
桐野が綾小路定利であった、といわれる名刀を、金銀装の完璧なサーベル仕立てにしていたことは、史実です。
西南戦争後の懲役人質問でも、西南戦争に参加して、桐野のそばにいた人が、それを認めていますから。
これは、もしかしたら、日本刀をサーベル仕立てにして、将校の儀礼刀にした最初ではないかと思うのですが、日本の工芸職人は器用ですから、私は、舶来のサーベルを手本に、日本でしたものだと思っていました。
もちろん、その可能性もあるのですが、フランスまで加工に出した可能性も、なくはありません。
鞘が日本刀のもので、例えば漆に金細工をからませたもの、などであれば、日本製の可能性が高いのですが、桐野の綾小路は、どうも鞘が金属製であったのではないかと、うけとれるような描写なんです。

これは確かな話ではないのですが、以前に、土佐史談会のおじさまからお聞きした話で、戦後、桐野の綾小路は、有名な横綱の手に渡っていて、土俵入りに使われていた、というのですが、もし、なにかご存じの方がおられましたら、ご教授のほどを。

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美少年は龍馬の弟子ならずフルベッキの弟子

2006年02月08日 | 前田正名&白山伯
龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???でご紹介しました前田正名。
自叙伝が手に入らないのですが、祖田修著『前田正名』 を読みました。
こちらは、自叙伝がかなり正確に使われている様子です。私の推測もはずれていた部分はあるのですが、司馬遼太郎著『余話として』(文春文庫)の「普仏戦争」とくらべますと、なぜ、同じ自叙伝がここまでちがった紹介のされ方になるのか、不思議になってきます。司馬さんの場合、エッセイも説話なんですね。

まず、龍馬とは、ほとんど関係がありません。
「海援隊と薩摩藩をつなぐ連絡係」というのは、まったくのまちがいじゃないんですが、ユニオン号事件の時に、薩摩から長州への使者の一人となり、ユニオン号には海援隊も関係していますので、出発のとき龍馬に見送られ、激励に刀をもらった、というだけのことのようなんです。

それよりも驚きだったのは、正名の兄の一人は、文久3年暮に、薩摩が幕府から借りた交易汽船・長崎丸の釜焚をしていて、馬閑で長州奇兵隊に砲撃され、死亡していたのです。
それよりわずか一年あまり、薩長同盟の密約の中で第二次征長がはじまり、その戦いの最中に、兄の死んだ馬関の海を渡って長州へ使者におもむいたのですから、数えで17歳の正名の覚悟は、悲壮だったんですね。
しかし、「正名の宿志は洋行にあれば、無用のことせる心地せしが」と、自叙伝では述懐しています。

前田正名は、嘉永3年(1850)、薩摩藩士の貧しい漢方医の七男として生まれ、九歳のときから、鹿児島の蘭学者・八木称平の住み込み弟子、となります。
八木称平は、大阪の緒方洪庵塾にいたことのある蘭学者で、種痘の方法を書いた本を翻訳し、普及させたことで有名だそうですが、また、薩摩の海外密貿易にも事務方としてかかわっていたのだとか。
慶応元年(1865)、薩摩藩は五代友厚の建言を入れ、英国へ密航留学生を送り出すこととなりました。正名は、そのメンバーとなることを熱望したようなのですが、若年の場合は家柄のいい者が選ばれ、望みはかないませんでした。
かわりに薩摩藩は、正名に長崎への藩費遊学を許します。
正名は、長崎で薩摩藩の外国係をしていた中原猶介のもとに、まずは身をよせ、その紹介で、幕府の長崎奉行所通事だった何礼之(がれいし)が開いた語学塾へ、入門。
当時、この塾では、オランダ人宣教師のフルベッキが英語教師をしていて、また陸奥宗光が入門してもいました。
正名は、布団のない六歳年上の陸奥宗光を、自分の布団に寝かせていた、といいます。そんなところで、龍馬とも面識がないわけでは、なかったのかもしれません。はるか後年、同じ布団で寝た正名と宗光は政敵となりました。

正名は、なんとしても洋行がしたくて、そのための資金作りに、英和辞書を編纂します。
兄が私費で長崎へ来ていて、その友達とともに思いついたことなのですが、これに正名も加わり、フルベッキが助けてくれることとなりました。
正名たちは辞書編纂に没頭し、戊辰戦争直前に仕上げて、上海で印刷します。薩摩辞書と呼ばれたこの辞書の売上で、正名は、モンブラン伯について洋行することができたのです。
フルベッキの弟子だったわけですから、大隈重信とも知り合いだったようです。
大久保利通と大隈の斡旋で得た留学です。しかし藩費ではなく、自ら費用を作ったのですから、すごい、がんばり屋さんですよね。

正名がパリで絶望を感じたのは、第二帝政最末期の豪奢な都市のさまざまな様相、産業にしろ軍事にしろ学問にしろ、なんでしょうけれども、その西洋近代文明のりっぱさが、とても日本人が追いつくことはできないものに見えたから、だったんですね。
私が勘違いしていたのは、モンブラン伯の代理公使の期間で、普仏戦争が終わるまで、そうだったように思っていたのですが、この本によれば、開戦以前に、後任の鮫島尚信がパリへ来たことになっているんですね。これは、ちゃんと調べてみる必要があります。

さらにこの本では、正名が市民兵に志願したとは、書いてないんです。
正名は、勇敢さを認められてコンプレックスを解消したのではないようなのです。
りっぱに見えたフランスの軍隊は弱く、華の都から物資は姿を消し、不夜城を演出していたガス灯も消え、人々は犬や猫、鼠までを食べる惨状となったのを見て、物質文明のもろさを覚ったんです。同時に、日本人が欧州に遅れているのは物質的な面のみであり、文明として遅れているわけではないのだということも、です。

市民兵の件は、どういうことだったのだろうと、ともかく、自叙伝を直接読みたい思いが募ります。
誇り高く、熱情的な薩摩の美少年(かな?)。モンブラン伯とは、とても良好な関係だったようですしね。

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龍馬の弟子がフランス市民戦士となった???

2006年02月01日 | 前田正名&白山伯
一昨日、『剣豪商人』の載っていた本を探してまして、司馬遼太郎氏の歴史エッセイ本の目次を、次々にめくって見ていたんです。そうしましたら、『余話として』(文春文庫)に、「普仏戦争」という項目がありました。
一度は読んだはずなのですが、さっぱり内容を覚えていなくて、読み返してみました。
驚きです! モンブラン伯が明治2年に駐仏日本公使代理としてパリへ帰ったとき、薩摩出身の医者の息子で、留学生の前田正名を助手にして連れて行ったことは、モンブラン伯に関する記述にはたいてい出てきまして、知っていました。
本によっては、「偶然知り合った」というような書き方をしているものもあるのですが、モンブラン伯の駐仏日本公使代理就任が薩摩藩がらみであり、前田正名が薩摩藩出身である以上、それはありえないことです。
『余話として』収録の「普仏戦争」は、この前田正名のお話だったんですね。

前田一歩園財団

上のサイトの前田一歩園の成り立ちに、創設者・前田正名の略歴が載っているのですが、年表によれば、「大久保利通・大隈重信の計らいでフランス留学」とあります。
大久保がモンブラン伯にかかわった可能性は、

モンブラン伯の明治維新

に書きましたように高いですし、前田正名をモンブラン伯に預けたのは、大久保でしょう。
で、これにはさっぱり、坂本龍馬の名がないんですが、司馬遼太郎氏の「普仏戦争」によれば、海援隊と薩摩藩をつなぐ連絡係として龍馬のもとにいて、正名はまだ少年だったもので、「のう、前田のにいさんよ」と、かわいがった、というのです。
えーと、かわいがられたのは、事実でしょう。
正名は後に、「自分の生涯のうち龍馬からうけた影響がもっとも大きい」と語ったそうなのですが、どうなのでしょう。
ここらへんは、前田正名の自叙伝があるそうですから、それでも読んでみないことには、はっきりとはわからないんですけれども、こういう書き方だと、龍馬の影響で前田正名が海外留学を望んだような、なにやら本末転倒な感じがするんですよね。
すでに薩摩は密航留学生を送り出していますし、五代友厚は欧州でモンブラン伯に近づいて商社設立とともに、対フランス工作をなしつつあり、幕府に次いで薩摩藩が、もっとも海外情報を握っています。
人間的な影響、という意味で書いているのはわかるのですが、それこそ印象操作で、龍馬から海外知識を得たような感じに、読めなくもないのです。
とはいうものの、これは初出が『オール読物』だったようですし、最初に坂本龍馬の名でも出さなければ、前田正名という現在ではあまり知られていない人物に、読者の興味を引きつけることが難しいので、キャッチ効果を狙ったのだと、それは、わからなくはないのですが。

山梨のワインの歴史 6: 国産推進者の前田正名

上の山梨ワインのサイトさんにもありますように、現在では「代理公使のモンブラン伯に随行」が正しいのですが、司馬氏の書き方では、「日本通のモンブラン伯のもとに寄宿」です。
モンブラン伯と五代友厚については、あんまりにも知られなさすぎ、という気がします。幕末薩摩の政治動向を見る上で、かなり大きなウェートを占めているんですけどね。
それで、司馬氏の話は、前田正名が、幕末の留学生と同じく、人種差別とコンプレックスでフランス人を憎悪した、と続くのですが、どーなのでしょう。うーん。
五代友厚や渋沢栄一や、他の留学生にしても、みんながみんなコンプレックスと憎悪の固まりになった、ということはないと思うのですが。
これも自叙伝を読んでみないと、なんともいえないんですけど。
といいますか、公使館で働いているわけですし、文学修行の夏目漱石じゃないんですから、山県有朋と西郷従道の欧州兵制視察もこの時期ですし、いろいろと忙しくて、鬱々とする暇はなさそうなものなのですが。
ちなみに、明治になっての第2次軍事顧問団の編成には、函館戦争に参加したブリュネ大尉が関係しているようでして、パリを訪れた山県有朋と西郷従道は、このときブリュネ大尉に逢った可能性が高いのです。

参照
函館戦争のフランス人vol1

山県有朋と西郷従道が帰国して間もなく、前田正名は普仏戦争のパリ籠城戦にまきこまれます。
函館戦争参加のフランス人、ブリュネ大尉もニコールもコラッシュも参戦していて、パリ籠城の時点では、ニコールはすでに戦死しています。

参照
函館戦争のフランス人vol3

この時期、モンブラン伯がどうしていたか知りたい、と思っていたのですが、これはますます、正名の自叙伝を読んでみないといけないですねえ。写真に見るように、なかなかいい男、ですし。
ともかく、司馬氏によれば、正名は市民軍に志願して最前線まで飛び出したんだそうで、勇敢であることによって、コンプレックスを解消したのだというのですが。
そこまで理屈をつけることかなあ、という気がしないでもないんです。
じゃあニコールやコラッシュたちは、なんで、なんの関係もない函館戦争に参加したのか、という話にもなりますし。
たしかに、「戦いにあってはフランスでも日本でも勇敢であること一つが人間の値打ちを決めた時代だった」とは書いておられるんですけど、それはまた、参加動機とは、ちがうことですよね。
公使館で働いていた正名は、ブリュネ大尉と逢っていた可能性が高い、ですしね。
司馬氏も書いておられますが、同じ時期にパリにいた芸洲出身の留学生、渡正元は、『パリ籠城日誌』を書き残していて、こちらは読んでいる途中ですが、彼は志願しておりません。

ともかく、読むべし自叙伝、なのですが、正田健一郎編『明治中期産業運動資料』第2集19巻(昭和54年・日本経済評論社発行)に収録されているそうなのです。古書サイトでさがしたのですが、売りに出てないですねえ。図書館、ですかしらねえ。
なお、前田正名の写真は、山梨日々新聞社発行の『ぶどう酒物語』(絶版)からの転載です。山梨日々新聞社さまより、転載許可をいただきました。

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