このところ、裁判において精神鑑定の意味、あり方がいろいろと問題になっています。
もともと、裁判における精神鑑定は被告人の責任能力(責任を問うための要件になります)の判断の資料とするために行われるもので、責任能力の有無・程度の判断は、裁判官が判断するものです。精神鑑定はその資料ということになり、精神鑑定結果=責任能力ではありません。
今回の判決は、平たくいうと「裁判官は原則的に精神鑑定結果を尊重するように」ということを意味しています。
この結論を聞いて、「では、この間の光市の判決は?」と思われるかも知れません。
しかし、光市の事件で、精神鑑定といわれていたのは、被告人弁護団側が依頼した精神科医による鑑定意見であって、中立な立場にある裁判所が依頼した鑑定医ではありませんでした。本日判決のこの最高裁で指摘している精神鑑定が、裁判所依頼の鑑定を指す場合には、光市の事件は今回の判決とはケースが異なることになります。
少し前に、渋谷の夫バラバラ殺人事件のケースでは、裁判所の依頼した鑑定人が行った精神鑑定ですので、今回の最高裁判決によれば、その精神鑑定の結果を尊重する方向になるものと思われます。
とすると、精神医学の専門家の判断が裁判でも尊重されるのだと、即思いがちですが、実際には、不思議なことに裁判所から依頼されると責任能力を肯定する方向の鑑定意見が出てくることが多いように思います。松本智津夫(この名前ってもう忘れられていませんか?)の時にはそうでした。
4月25日
東京都北区で2003年、かつて勤務していた塗装店の店主を殴り死亡させたとして、傷害致死の罪に問われた男性被告(39)の上告審判決。
最高裁第2小法廷(古田佑紀裁判長)は
古田佑紀裁判長は、評価方法の枠組みについて「否定する合理的な事情が認められない限り、十分に尊重するべき」との初判断を示した。その上で、「心神喪失」との鑑定結果を否定して被告を懲役3年の実刑とした2審東京高裁判決を破棄、合理的事情があるのかを審理するため、高裁に差し戻した。
古田裁判長は、鑑定を否定する合理的な理由として
(1)鑑定人の公正さや能力に疑問がある
(2)鑑定の前提条件に問題がある-を例示した。
専門意見を特に重視した判断で、責任能力が争われる事件に影響を与えそうだ
もともと、裁判における精神鑑定は被告人の責任能力(責任を問うための要件になります)の判断の資料とするために行われるもので、責任能力の有無・程度の判断は、裁判官が判断するものです。精神鑑定はその資料ということになり、精神鑑定結果=責任能力ではありません。
今回の判決は、平たくいうと「裁判官は原則的に精神鑑定結果を尊重するように」ということを意味しています。
この結論を聞いて、「では、この間の光市の判決は?」と思われるかも知れません。
しかし、光市の事件で、精神鑑定といわれていたのは、被告人弁護団側が依頼した精神科医による鑑定意見であって、中立な立場にある裁判所が依頼した鑑定医ではありませんでした。本日判決のこの最高裁で指摘している精神鑑定が、裁判所依頼の鑑定を指す場合には、光市の事件は今回の判決とはケースが異なることになります。
少し前に、渋谷の夫バラバラ殺人事件のケースでは、裁判所の依頼した鑑定人が行った精神鑑定ですので、今回の最高裁判決によれば、その精神鑑定の結果を尊重する方向になるものと思われます。
とすると、精神医学の専門家の判断が裁判でも尊重されるのだと、即思いがちですが、実際には、不思議なことに裁判所から依頼されると責任能力を肯定する方向の鑑定意見が出てくることが多いように思います。松本智津夫(この名前ってもう忘れられていませんか?)の時にはそうでした。
4月25日
東京都北区で2003年、かつて勤務していた塗装店の店主を殴り死亡させたとして、傷害致死の罪に問われた男性被告(39)の上告審判決。
最高裁第2小法廷(古田佑紀裁判長)は
古田佑紀裁判長は、評価方法の枠組みについて「否定する合理的な事情が認められない限り、十分に尊重するべき」との初判断を示した。その上で、「心神喪失」との鑑定結果を否定して被告を懲役3年の実刑とした2審東京高裁判決を破棄、合理的事情があるのかを審理するため、高裁に差し戻した。
古田裁判長は、鑑定を否定する合理的な理由として
(1)鑑定人の公正さや能力に疑問がある
(2)鑑定の前提条件に問題がある-を例示した。
専門意見を特に重視した判断で、責任能力が争われる事件に影響を与えそうだ
しかし、28日の渋谷の夫バラバラ殺人事件の東京地裁判決はひどいものでした。裁判所の依頼した鑑定人が「責任能力なし」という結論を出したにもかかわらず裁判官は「鑑定に拘束されず」などといったふざけたことを言っています。こんな判決がまかり通るなら精神鑑定など不必要なように思います。事実を明らかにするというより、いかに被告人を有罪にするかのみを考えた判決だったように思います。
日本の刑事裁判は、「無実の人を罰してはならない」
「疑わしきは被告人の利益に」といった基本原則が全く無視されているように思います。
同じ事件でもその日によって判決が変わり、人によってまた判決が変わる。
もしかして裁判官が精神障害、知的障害のある人なのでは?と思ってしまいます。
こんなこと言うと、精神障害、知的障害のある人たちから逆に、俺たちは裁判官みたいにいい加減な人間じゃねーと言われそうですが。
ごもっとも。