荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

『DUBHOUSE: 物質試行52』 七里圭

2012-11-15 00:45:55 | 映画
 瀬田なつき『5 windows』、杉田協士『ひとつの歌』、木村承子『恋に至る病』、森岡龍『ニュータウンの青春』と、このところ自主映画を玉石混淆で接する機会に恵まれた(三宅唱『Playback』は未見)。しかし、年季のちがいがそのまま迫力のちがいとして迫ってくるのが、七里圭のわずか16分間の最新作『DUBHOUSE: 物質試行52』である。
 池田巧実による充実した音響が高鳴るなか、無愛想な黒画面が延々と提示され、わずかに見えるか見えないかの沁み、滲みが画面を這いつくばったのは気のせいかと思っていると、パッと極彩色の亀裂が入り、それが人類の生存とは無関係となった地球の姿を映し出しているように合点する。
 2010年国立近代美術館における建築家・鈴木了二のインスタレーション『物質試行51: DUBHOUSE』は、「建築は闇をとらえることができる」というモチーフが掲げられているが、3.11のカタストロフにより決定的な変化を被った。35mmフィルムで上映される本作は、劇場のスクリーンに〈闇〉という名の光を反転的に投射する。それを見る私たち観客はやがて、モノトーンのインスタレーションを緩やかな移動撮影でとらえたカットのなか、一脚の白いイスを発見する。それは人類によって使用された形跡が見当たらない。何光年も経て、使用の記憶が剥落したのであろうか。使用済み核燃料がかくのごとき漂白を逐えるのにも、これほどの履歴が必要だ、と言っているかのような〈闇〉と〈光〉の一回性の対位法である。


K's cinema(東京・新宿三丁目)の特集上映《のんきな〈七里〉圭さん 光と影を紡ぐ異才・七里圭の世界》は11/16(金)まで
http://www.nemurihime.info/nonki-kei/

『危険なメソッド』 デヴィッド・クローネンバーグ

2012-11-14 03:00:10 | 映画
 フロイト(ヴィゴ・モーテンセン)、ユング(マイケル・ファスベンダー)とその患者であるユダヤ系ロシア人女性ザビーナ(キーラ・ナイトレイ)という男女の6年間にわたる交わりと訣別を静謐に物語る。原作のタイトル《最も危険なメソッド》とは予想どおり、ユングがザビーナに施した心理療法が不倫愛にいたることを指す。
 イギリスの劇作家クリストファー・ハンプトンの戯曲を劇作家自身が映画用にリライトした。その結果、デヴィッド・クローネンバーグ作品としては例外的なまでに(いや挑戦的なまでに)異常なことが起きず、人間界のよくある出来事が感傷的に語られている。画面はたいがいの場合、2人程度の人物のおもに精神分析についての会話が2ショットもしくは切り返しで撮影され、非常にスタティックな印象をもたらす。

 クローネンバーグといえば周知のように、内臓・器官の中から気味の悪い凶器が生起するとか、なまなましい化け物や畸形の迷宮、あるいは果てることなき非情なる殺戮ゲームへと吸い込まれるとか、そういう異常事態がノーマルな状態だったから、この静謐なコスチューム・プレイはかえって居心地が悪い。かつて手がけた舞台劇や文芸物──たとえば『裸のランチ』『エム・バタフライ』──を彷彿とさせる居心地の悪さがあらわれていて、これこそがクローネンバーグのしかけた《危険なメソッド》なのではないか?
 カナダ・オンタリオ州のリトアニア系ユダヤ人家庭に生を受けたクローネンバーグの、ユダヤ的立場による20世紀世界に対する呪詛を、最も赤裸々に言い立てた作品としても記憶されることになるだろう(詳述は控えるが、終盤でフロイトがその手の直接的なセリフを吐く)。クローネンバーグはいつもとちがい、殺戮そのものではなく、殺戮の予感のみを示唆したのだ。そしてそれが、現在にふさわしいメソッドだと考えたのだと思う。


TOHOシネマズシャンテ、Bunkamuraル・シネマほか全国順次公開
http://dangerousmethod-movie.com

クレタクール『女司祭──危機三部作・第三部』

2012-11-12 00:05:00 | 演劇
 フェスティバル/トーキョー2012、ハンガリーからの参加作品、アールバート・シリング率いるクレタクールの『危機三部作』(2011- )の第三部『女司祭』が、東京・池袋の東京芸術劇場シアターイーストで上演された。
 ハンガリーと国境を接するルーマニア・トランシルヴァニア地方での演劇ワークショップ。成績のいいロマ族の女子生徒が差別されるという設定がまず提示され、次に、女性演劇教師のレズビアンのカミングアウトが続く。さらにその女教師の幼い息子の孤独があぶり出され、意気消沈した女教師は都会に戻っていく。
 シネマヴェリテの演劇版だと言える。女教師や生徒からマジャール語で客席にインタビューがおこなわれ、観客は日本語でその質問に答える。アドリブのただ中にシナリオ構成による「劇」が侵入し、舞台後方のスクリーンに、生徒たちの村での生活、都会に戻ったあとの女教師の様子などが写し出され、舞台上の彼ら自身の状況に接ぎ木される。シネマヴェリテであると同時に、連鎖劇(サイレント期の日本で流行した演劇と活動写真の混合ショー)でもある。このシネマヴェリテと連鎖劇の接ぎ木はまだ未完成の域にあるが、将来的にはおもしろい試みとなるかもしれない。

『終の信託』 周防正行

2012-11-10 00:36:48 | 映画
 阪本順治『北のカナリアたち』で元教師の吉永小百合は、20年前の教え子が犯した殺人事件の源流をたどるべく、かつての赴任地・北海道に戻り、教え子の同級生たち一人一人に順番で聞き込み捜査をはじめた。探偵・吉永小百合と彼女の面会者たちは、カフェやホテルのロビーで暖をとりながら面会したりはしない。雪で被われた凍てつく寒風のなかで彼らは歩きながら話し、あるいは立ち止まって話す。必然的に映画の大半はミディアムの2ショット、もしくはナメの縦構図に支配される。ショットのバリエーションは少ない。この状況は登場人物たちの心象を反映すると共に、また作品の成り立ちそのものが要請した結果でもある。この限定戦のような2ショットの桎梏が解かれるのは、最後の最後になってからに過ぎない。

 周防正行の新作『終(つい)の信託』でも、同じようなことが起こっている。死期の近いことを悟った重度のぜん息患者(役所広司)が、信頼する女医(草刈民代)に安楽死を依頼する。冒頭、殺人容疑で検察庁に出頭する草刈民代の歩行ショットからはじまるが、丁々発止のスリリングな法廷闘争を期待した観客は、このあと失望を味わうだろう。
 ここでもやはり、世界の風景から隔絶された2人の人物──映画の前半では女医と患者、後半では女医と検事──の会話だけが抽出され、提示される。画面はミディアムの2ショット、もしくはナメの縦構図、あとはせいぜい円形ドリーを用いた緩慢な周回撮影ぐらいなものだ。この単調さを、阪本同様、周防も好んで選択しているのである。ダイナミックな活劇的な醍醐味を、作者みずからすっぱりと絶っている。
 にもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、『終の信託』には潜在的な活劇性が画面にべったりと貼りついている。観客に与えられる活劇ではなく、観客がさぐり当てる活劇である。そしてこの逆説はちょうど、かつてヴィム・ヴェンダースが小津安二郎について述べた、“形式主義を厳格に徹底すればするほど、不思議とドキュメンタリー的な生々しさが立ちのぼってくる” という定義をも思い出させる。


東宝系にて全国公開中
http://www.tsuino-shintaku.jp

『くろねこルーシー』 亀井亨

2012-11-08 02:16:21 | 映画
 亀井亨といえば、以前に『ねこタクシー』(2010)についての記事をアップして、「陋巷に息をひそめる気の利いたバーを見つけてから、夜な夜な通いつめる」ように摩訶不思議な武装解除的魅惑をそなえた監督、などと寝ぼけたことを書いたことがある。今年、この人はずいぶんと多作になっていて、春に『マメシバ一郎』があって、いまだ『くろねこルーシー』が公開中の折、最新作『私の奴隷になりなさい』も始まった。
 『くろねこルーシー』は『ねこタクシー』の同工異曲である。猫を助手席に同乗させて人気を得るタクシードライバーの物語が、占い師にすり替わった。
 変な映画だなと思うのは、冒頭いきなり主人公の息子の嫁が孫たちを連れて主人公の墓参りをするところから始まるのである。そして、主人公が黒猫占いをあみだしていくサクセス・ストーリーがおずおずと語られるが、映画の現在時制では主人公はとっくにこの世の人ではない。この何にも回収されない無常観はいったい何なんだろう。大工原正樹の『姉ちゃん、ホトホトさまの蠱を使う』に出てきたようなボロボロのレクリエーション・センターが主舞台(エンドクレジットによれば、こちらも木更津ロケらしい)。gojoさんのブログ記事も参照のこと。幽霊たちによって演じられる喜劇を見ている感触である。


ヒューマントラストシネマ有楽町、シネマート新宿などで11/9(金)まで上映
http://www.kuroneko-lucy.info