荻野洋一 映画等覚書ブログ

http://blog.goo.ne.jp/oginoyoichi

山田野理夫 著『柳田国男の光と影 佐々木喜善物語』

2012-11-18 09:58:11 | 
 没後50年を迎える柳田國男については、徳間書店が『柳田國男と遠野物語 日本および日本人の原風景』なるムック本(これがちゃちな表紙で笑えるが、中身は意外に充実)を出したり、「現代思想」誌が10月臨時増刊号で「『遠野物語』以前/以後」というのを出している。
 私としては、いま思いをはせざるを得ないのが、今年1月24日(テオ・アンゲロプロスと同日)に逝った作家・農学者の山田野理夫が1977年に出した『柳田国男の光と影 佐々木喜善物語』(農山漁村文化協会 刊)である。山田野理夫は、いくどとなく佐々木喜善(ささききぜん 1886-1933)について書いているが、あたかもそれは蓮實重彦にとってのマキシム・デュ・カンのごとく、滑稽にして悲愴なるラインを浮かび上がらせる。デュ・カンのほうがまだ救いがあるのではないか。『凡庸な芸術家の肖像』なる的確なタイトルが与えられているからで、もしあの本のタイトルが『ギュスターヴ・フローベールの光と影』だったとしたら、どんなに空しいことか。

 小説家もしくは詩人となることを夢見て上京した東北青年・佐々木喜善は1908年、友人の水野葉舟を介して柳田國男に知己を得、得意とする郷里の民話、怪談のたぐいを、柳田の求められるままに語って聞かせたという。柳田ははじめ、この過剰に神妙な態度でひどく聴きづらい吃音の東北青年に好印象を持たなかったようだが、彼の口からとめどなく吐き出される物語にすっかり魅了され、こいつは使えると思った。これが、日本書籍史上の最高傑作のひとつである『遠野物語』(1910)の成立過程であることはよく知られている。
 ここで注目せざるを得ないのが、民俗学の初めの一歩とされてきた同書が、言わばこのような搾取によって生まれたということだ。青年は、柳田とのコネクションが自分の出世に役立つと思ったのだろう。しかし、事はそううまく運ばず、佐々木はもっぱら口承民話の説話者としてのみ知られるに留まり、晩年にチラっと地方紙に三文小説を書いた程度(それも不評のため中途打ち切り)で、望んだような文名をはせることなく46年の長くない人生を終えざるを得なかった。
 そしてこの搾取の構造は、当の佐々木喜善と、幼少期の彼に昔話を聞かせた祖父母、あるいは村の古老たちとの関係性でも反復されている。佐々木は村の家々を、家主好物の銘柄の煙草(時には一升瓶)を手みやげに訪ね歩き、物語という物語をかたっぱしから聞き出し、何冊かの民話集成本を自著として出版しているのである。小説家として大成できずにいる佐々木は、柳田の指導されるまま、民話の収集に打ちこむよりほかに生きる術がなかった。
 今日における柳田國男の絶大な名声、そして困窮のうちに死んだ佐々木喜善のささやかな名声──。これらはいずれも、村の古老たちがもらった煙草の箱とは引き合わない。

 ともあれ、この隠れた名著を物した山田野理夫の魂に、合掌。