荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『終の信託』 周防正行

2012-11-10 00:36:48 | 映画
 阪本順治『北のカナリアたち』で元教師の吉永小百合は、20年前の教え子が犯した殺人事件の源流をたどるべく、かつての赴任地・北海道に戻り、教え子の同級生たち一人一人に順番で聞き込み捜査をはじめた。探偵・吉永小百合と彼女の面会者たちは、カフェやホテルのロビーで暖をとりながら面会したりはしない。雪で被われた凍てつく寒風のなかで彼らは歩きながら話し、あるいは立ち止まって話す。必然的に映画の大半はミディアムの2ショット、もしくはナメの縦構図に支配される。ショットのバリエーションは少ない。この状況は登場人物たちの心象を反映すると共に、また作品の成り立ちそのものが要請した結果でもある。この限定戦のような2ショットの桎梏が解かれるのは、最後の最後になってからに過ぎない。

 周防正行の新作『終(つい)の信託』でも、同じようなことが起こっている。死期の近いことを悟った重度のぜん息患者(役所広司)が、信頼する女医(草刈民代)に安楽死を依頼する。冒頭、殺人容疑で検察庁に出頭する草刈民代の歩行ショットからはじまるが、丁々発止のスリリングな法廷闘争を期待した観客は、このあと失望を味わうだろう。
 ここでもやはり、世界の風景から隔絶された2人の人物──映画の前半では女医と患者、後半では女医と検事──の会話だけが抽出され、提示される。画面はミディアムの2ショット、もしくはナメの縦構図、あとはせいぜい円形ドリーを用いた緩慢な周回撮影ぐらいなものだ。この単調さを、阪本同様、周防も好んで選択しているのである。ダイナミックな活劇的な醍醐味を、作者みずからすっぱりと絶っている。
 にもかかわらずと言うべきか、だからこそと言うべきか、『終の信託』には潜在的な活劇性が画面にべったりと貼りついている。観客に与えられる活劇ではなく、観客がさぐり当てる活劇である。そしてこの逆説はちょうど、かつてヴィム・ヴェンダースが小津安二郎について述べた、“形式主義を厳格に徹底すればするほど、不思議とドキュメンタリー的な生々しさが立ちのぼってくる” という定義をも思い出させる。


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