荻野洋一 映画等覚書ブログ

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電力館の終焉

2012-11-23 01:43:26 | 映画
 東京・渋谷ファイヤー通りの「電力館」がその歴史を完全に終え、シダックスが賃借してスポーツ&カルチャー事業を開始するというニュースが、ひっそりと出ている。東京電力のPR施設として1984年にできた同館は、原発事故の影響を受けてすでに昨年春に閉館していた。当然だろう、原子力発電のすばらしさ、安全性をど派手にPRするための施設だったのだから。まったくどうでもいいニュースで、惜しくもなんともないが、一応、まつわる記憶を少しだけ記録しておく。

 東京国際映画祭がまだ六本木ヒルズではなく、東急Bunkamuraをメイン会場に、渋東やザ・ブライム、東急文化会館など渋谷地区の各所で分散開催されていた時代、電力館も開催の一翼を担っており、同映画祭の日本映画旧作部門の会場だった。あんなまやかしの施設に嬉々としてではないにせよ、足繁く通ってしまったおのれの蒙昧さが、いまとなっては嘆かわしい。8階にあったホールは、電力会社のつくったホールのくせにひどく上映環境が拙劣で、嫌な印象が残っている。それでいて、椅子の肘掛だけがやたらと幅広く偉そうなのも、気にくわなかった。

 いまから20年前のこと。当時、日本映画旧作部門のキュレーターをつとめていたのは、山根貞男と蓮實重彦だったと記憶する。小津安二郎の無声映画『東京の女』(1933)上映の際、私がこのホールの最前列の席に陣取ると(なにしろ座席の設置構造が、最前列以外は見づらいのだ)、あとから大柄な白人カップルが私の隣にドッカリと座ってきた。新作『夢の涯てまでも』(1992)プレミア上映のために映画祭出席中のヴィム・ヴェンダースが、当時つき合っていた主演女優のソルヴェイグ・ドマルタン(この方は若くして亡くなってしまいましたね)を伴い、『東京の女』を見るために電力館へやって来たのである。
 オープニング・クレジットに「原作──エルンスト・シュワルツ『二十六時間』」と出たとき、このエルンスト・シュワルツなる耳馴れないドイツ風の人名を英字幕で確認したドイツ男は、ヒソヒソ声でうれしそうにフランス女に説明し始めた。どういう説明をしているのかは、いちいち聞き耳を立てずとも、小津ファンにはおおむね見当がつく。曰く、 “エルンスト・ルビッチの「エルンスト」、ハンス・シュワルツの「シュワルツ」。小津の尊敬するドイツ系映画人の名前をつなげただけで、ようするに小津自身のペンネームなんだよ。エロ・グロ・ナンセンスの昭和モダニズムに青春を過ごした小津がよく使った手だね……” とかなんとか、そんなところだ。
 しかしながら、いくら親日家のヴェンダースといえども、あの日『東京の女』を見た、きらびやかだが嫌な感じのするあのホールが、放射能ダダモレ事故のゲシュニンの持ち物だったとは、夢の涯てまでも気づくまい。