いきなり年令の話で失敬ではあるが、吉永小百合といえば終戦年の生まれということで覚えているから、戦後67年という年月が当然この女優の肉体にも降りかかっている。『母べえ』『おとうと』もそうだったが、今回の新作『北のカナリアたち』においてもやはり、この女優の周辺のみ、なにやら地球の自転とは少々異なる時間の流れ方がされていることが証明された。往年の日活映画をとりわけ愛好しているわけではない私のような部外者的観客をもってしてそう感じさせる何か妖しい光沢が、たしかにあるのである。
そして、阪本順治。『カメレオン』『行きずりの街』『大鹿村騒動記』と、東映の仕事がつづく阪本だが、この人はいったいどこへ行ってしまうのか。その先がジャンル映画の継承者というポジションだとしたらつまらない。が、行き先は見る側にとっても依然として暗中模索である。
本作は、打ち捨てられた故郷が心の中で再点火される映画である。言わずと知れた木下惠介『二十四の瞳』(1954)はまさに “国破れて山河あり” を地でいく映像が抜き差しならぬ地点まで達していた名作だが、『北のカナリアたち』の阪本はその逆をやっている。山河はすでに打ち捨てられてしまった。核施設の大事故によって国土が無残に汚染されたことも、それには含まれているだろう。 “あしたこの世が滅ぶとしても、僕は林檎の木を植えるだろう” という、『書を捨てよ、街へ出よう』に使われたゲオルゲ・ゲオルギウの言葉が再び援用される。
元教師の吉永小百合は、殺人事件の容疑者となった20年前の教え子(森山未來)の生きた道を遡行し、北の地へと戻り、あたかもベテラン刑事か探偵のように、森山の同級生たちに聞き込み捜査を始める。そして複雑に絡みあった暗い運命の綾を、ひとつひとつ解いていく。
阪本の内部で『二十四の瞳』が『砂の器』に出逢ったのだ。いや、『飢餓海峡』とも出逢っているのかもしれない。
全国東映系で公開中
http://www.kitanocanaria.jp
そして、阪本順治。『カメレオン』『行きずりの街』『大鹿村騒動記』と、東映の仕事がつづく阪本だが、この人はいったいどこへ行ってしまうのか。その先がジャンル映画の継承者というポジションだとしたらつまらない。が、行き先は見る側にとっても依然として暗中模索である。
本作は、打ち捨てられた故郷が心の中で再点火される映画である。言わずと知れた木下惠介『二十四の瞳』(1954)はまさに “国破れて山河あり” を地でいく映像が抜き差しならぬ地点まで達していた名作だが、『北のカナリアたち』の阪本はその逆をやっている。山河はすでに打ち捨てられてしまった。核施設の大事故によって国土が無残に汚染されたことも、それには含まれているだろう。 “あしたこの世が滅ぶとしても、僕は林檎の木を植えるだろう” という、『書を捨てよ、街へ出よう』に使われたゲオルゲ・ゲオルギウの言葉が再び援用される。
元教師の吉永小百合は、殺人事件の容疑者となった20年前の教え子(森山未來)の生きた道を遡行し、北の地へと戻り、あたかもベテラン刑事か探偵のように、森山の同級生たちに聞き込み捜査を始める。そして複雑に絡みあった暗い運命の綾を、ひとつひとつ解いていく。
阪本の内部で『二十四の瞳』が『砂の器』に出逢ったのだ。いや、『飢餓海峡』とも出逢っているのかもしれない。
全国東映系で公開中
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