荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『北のカナリアたち』 阪本順治

2012-11-06 20:26:35 | 映画
 いきなり年令の話で失敬ではあるが、吉永小百合といえば終戦年の生まれということで覚えているから、戦後67年という年月が当然この女優の肉体にも降りかかっている。『母べえ』『おとうと』もそうだったが、今回の新作『北のカナリアたち』においてもやはり、この女優の周辺のみ、なにやら地球の自転とは少々異なる時間の流れ方がされていることが証明された。往年の日活映画をとりわけ愛好しているわけではない私のような部外者的観客をもってしてそう感じさせる何か妖しい光沢が、たしかにあるのである。
 そして、阪本順治。『カメレオン』『行きずりの街』『大鹿村騒動記』と、東映の仕事がつづく阪本だが、この人はいったいどこへ行ってしまうのか。その先がジャンル映画の継承者というポジションだとしたらつまらない。が、行き先は見る側にとっても依然として暗中模索である。
 本作は、打ち捨てられた故郷が心の中で再点火される映画である。言わずと知れた木下惠介『二十四の瞳』(1954)はまさに “国破れて山河あり” を地でいく映像が抜き差しならぬ地点まで達していた名作だが、『北のカナリアたち』の阪本はその逆をやっている。山河はすでに打ち捨てられてしまった。核施設の大事故によって国土が無残に汚染されたことも、それには含まれているだろう。 “あしたこの世が滅ぶとしても、僕は林檎の木を植えるだろう” という、『書を捨てよ、街へ出よう』に使われたゲオルゲ・ゲオルギウの言葉が再び援用される。
 元教師の吉永小百合は、殺人事件の容疑者となった20年前の教え子(森山未來)の生きた道を遡行し、北の地へと戻り、あたかもベテラン刑事か探偵のように、森山の同級生たちに聞き込み捜査を始める。そして複雑に絡みあった暗い運命の綾を、ひとつひとつ解いていく。
 阪本の内部で『二十四の瞳』が『砂の器』に出逢ったのだ。いや、『飢餓海峡』とも出逢っているのかもしれない。


全国東映系で公開中
http://www.kitanocanaria.jp

ジャン=ミシェル・ブリュイエール/LFKs『たった一人の中庭』

2012-11-04 10:11:23 | 演劇
 フェスティバル/トーキョー2012、フランスからの参加作品、ジャン=ミシェル・ブリュイエール/LFKsの『たった一人の中庭』が、東京・西巣鴨のにしすがも創造舎で上演されている。いや、「上演」という演劇的な用語はあまり適切でないかもしれない。写真に見られるように、これはどちらかというとインスタレーション、パフォーミング・アートの範疇に属する。
 2001年に廃校となった豊島区立朝日中学校の校舎を再利用したにしすがも創造舎の空間的特質を最大限に活かし、廊下から教室、教室から体育館、校庭へと観客は移動し、回遊し、彼らの「上演」あるいは装置の作動ぶりを目撃して歩く。気になればいつまでもそこに留まれるし、気を引かなければさっさと立ち去ればよい。床に牛糞が敷き詰められた暗闇の更衣室には、上写真の雪男のような白い獣衣が3着ほど用意されており、試着して、姿見に映る白いバケモノに変身した自分を撮影することもできる。主催者側から目安の鑑賞時間は60分と案内されているが、夏目深雪さんのように60分もいられず「それは私が悪いのかな?」とこぼす人もいれば、私のように2時間半もしつこく滞在するヒマジンもいる(夕刻ライヴの時間帯に入場したというのもあるが)。
 一応はテーマとして、不法入国者やロマ族の収容キャンプの圧殺性、強制送還の非人道的実態が告発されてはいる。しかし教室によっては、先日逝った若松孝二へのオマージュがおこなわれ、YouTubeの若松映画が黒板に投射されていたりして、正直よくわからない。学園祭に近いが、これはこれでいい、じゅうぶんに面白いアトラクションになっていると思った。(上の写真はすべて筆者写す 撮影は許諾されています)

P.S.
 以前にも書いたけれども、にしすがも創造舎の校門脇の、ここにかつて大都映画の巣鴨撮影所があったことを説明する記念プレートを横目に見て通り過ぎるときは、寂寥感のようなものを感じる。

『桃さんのしあわせ』 許鞍華

2012-11-02 00:29:39 | 映画
 許鞍華(アン・ホイ)の劇場公開作というと、いったい何以来となるのだろうか。前作『愛に関するすべてのこと』が2010年の東京国際映画祭でかかっているが、これは未見。その前年の2009年に同映画祭で上映された「天水園」2部作のうち後編(『夜と霧』)だけを見たが、なかなかの佳作だった。「天水園」というのは香港郊外に実在する低所得者用ベッドタウンのことで、ここで起こる悲壮な事柄ばかりが描かれている。

 新作『桃(タオ)さんのしあわせ』が日本で一般公開のはこびとなったのは、ひとえにスター劉徳華(アンディ・ラウ)が主演だからだろう。今回知ってなるほどと思ったのは、許鞍華が劉徳華を売り出した恩人だということ。彼女は『望郷 ボートピープル』(1982)で、それまで子役タレントからの脱皮にしくじっていた劉を助演に起用して、香港電影金像獎の新人俳優賞ノミネートに導いている。ところでこの『望郷 ボートピープル』は、日本人を善玉の主役に設定(演じたのは林子祥だが)した中華圏としては珍しい作品だった。

 『桃さんのしあわせ』の主人公(劉徳華)がメイドの老後を人一倍面倒を見ようとするわけは、母親以上の存在として自分を育ててくれた恩があること、この女性がむかし美人であった記憶が濃いことのほかに、一観客の冷めた感想を吐かせてもらうなら、他人を手厚く保護する行為には、対外的なエラーの心配がないという精神的余裕ゆえにほかならない。そういう、いわば美談の決してきれいではない襞々から匂い立つ気配をちらつかせつつも、総体的には幸福の具現化を最期まで演じきる。化けの皮を剥がすだけが、人間劇の役割ではない。
 すでに『女人、四十。』(1995)でこの問題を取り上げた香港の女性映画作家は、もはや愛惜をこめて香港の街角にカメラを向けることに集中し、滋味あふれる時間の推移をすくい上げる。しかも、傑作であろうとムダな努力をしていないかのような力みのなさである。腹八分目、いや六分目くらいか、観客の誰もが食い足りなさを感じる作品だろう。撮影は賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の全作品を手がける余力為。
 ただし、油断してはならない。みずから老人ホーム行きを願い出る年老いたメイドを演じ、2011年ヴェネツィア国際映画祭の主演女優賞をかっさらった葉徳嫻(ディニー・イップ)は、じつはかつてアース・ウィンド&ファイアーの広東語カヴァーなんてものも軽々しくやっていたポップシンガーである。上の写真は彼女の4thアルバム『倦』(1983)のジャケット。首すじにそこはかとなく醸すエロティシズム──。今回の老婆役で初めて彼女を知った人は、めまいを覚えるはずだ。


Bunkamuraル・シネマ(東京・渋谷)ほか、全国順次公開
http://taosan.net/