荻野洋一 映画等覚書ブログ

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『桃さんのしあわせ』 許鞍華

2012-11-02 00:29:39 | 映画
 許鞍華(アン・ホイ)の劇場公開作というと、いったい何以来となるのだろうか。前作『愛に関するすべてのこと』が2010年の東京国際映画祭でかかっているが、これは未見。その前年の2009年に同映画祭で上映された「天水園」2部作のうち後編(『夜と霧』)だけを見たが、なかなかの佳作だった。「天水園」というのは香港郊外に実在する低所得者用ベッドタウンのことで、ここで起こる悲壮な事柄ばかりが描かれている。

 新作『桃(タオ)さんのしあわせ』が日本で一般公開のはこびとなったのは、ひとえにスター劉徳華(アンディ・ラウ)が主演だからだろう。今回知ってなるほどと思ったのは、許鞍華が劉徳華を売り出した恩人だということ。彼女は『望郷 ボートピープル』(1982)で、それまで子役タレントからの脱皮にしくじっていた劉を助演に起用して、香港電影金像獎の新人俳優賞ノミネートに導いている。ところでこの『望郷 ボートピープル』は、日本人を善玉の主役に設定(演じたのは林子祥だが)した中華圏としては珍しい作品だった。

 『桃さんのしあわせ』の主人公(劉徳華)がメイドの老後を人一倍面倒を見ようとするわけは、母親以上の存在として自分を育ててくれた恩があること、この女性がむかし美人であった記憶が濃いことのほかに、一観客の冷めた感想を吐かせてもらうなら、他人を手厚く保護する行為には、対外的なエラーの心配がないという精神的余裕ゆえにほかならない。そういう、いわば美談の決してきれいではない襞々から匂い立つ気配をちらつかせつつも、総体的には幸福の具現化を最期まで演じきる。化けの皮を剥がすだけが、人間劇の役割ではない。
 すでに『女人、四十。』(1995)でこの問題を取り上げた香港の女性映画作家は、もはや愛惜をこめて香港の街角にカメラを向けることに集中し、滋味あふれる時間の推移をすくい上げる。しかも、傑作であろうとムダな努力をしていないかのような力みのなさである。腹八分目、いや六分目くらいか、観客の誰もが食い足りなさを感じる作品だろう。撮影は賈樟柯(ジャ・ジャンクー)の全作品を手がける余力為。
 ただし、油断してはならない。みずから老人ホーム行きを願い出る年老いたメイドを演じ、2011年ヴェネツィア国際映画祭の主演女優賞をかっさらった葉徳嫻(ディニー・イップ)は、じつはかつてアース・ウィンド&ファイアーの広東語カヴァーなんてものも軽々しくやっていたポップシンガーである。上の写真は彼女の4thアルバム『倦』(1983)のジャケット。首すじにそこはかとなく醸すエロティシズム──。今回の老婆役で初めて彼女を知った人は、めまいを覚えるはずだ。


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