荻野洋一 映画等覚書ブログ

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中洲病院

2008-04-14 23:09:00 | 
 『en-taxi』誌(扶桑社)最新号の永井荷風特集では、複数の寄稿者が「中洲病院」(左写真)の名を俎上に上げている。『断腸亭日乗』の足跡をカメラ片手に徒歩で辿る、という企画がメインになっているから当然のことだ。『日乗』においてはいつも、中洲病院で腸の具合をまず診てもらいつつそれをアリバイにして、書き手の足取りは川向こうへと、濹東の陋巷へと分け入っていった。やや大仰に言えば、幻想的彷徨にかかるメルクマールのようなもの、それが中洲病院であった。

 在りし日の中洲病院は、非常に瀟洒な欧風建築だったと言われる。福田和也は、戦前建築界の大御所、横河民輔(美術コレクターとしても有名)らが監修し建築研究会がまとめた同病院設計時のパンフレットを、撮影取材の路上で広げて見せ、清洲橋のたもとにあるマンション「日本橋グリーンハイツ」こそ中洲病院の跡であると取材者一同に教え、感銘を与えることに成功している。同行者の一人、藤原敬之に至っては、病院の位置を知って、「ずっと自分が憧れ続けた幻想の場所であったことに快い眩暈を感じ」「白日夢に陥った」とさえ書いているほどだ。

 しかしそうしたことは、貴重な文献をわざわざ戸外に持ち出さずとも、街の古老に尋ねれば、立ちどころにわかる範囲のものでもある。私は、人形町で理髪店を営みながら郷土研究を長年なさっている有田芳男さんに、散髪してもらいつつ、往時の様子、中洲病院の場所などを、数年前に随分教えてもらった。髪結だった有田さんは、花柳界全盛期の芸者衆を撮影しており、絢爛たるアルバムを見せていただいたことがある。「○○姐さんは本当に美しい人でしたよ」と、有田さんは遠い目で語って下さるのであった。

 ところで余談だが、この旧・中洲病院、現・日本橋グリーンハイツだが、改築前のアパートが映画のロケに使用されている。ロケといえば、清洲橋通りを挟んだ隣のマンションがさんま主演の男女七人ナントカというTBSドラマに使われたのが有名なようだが、グリーンハイツは、大映のオムニバス映画『女経』(1960)中、増村保造が監督した一篇『耳を噛みたがる女』で、ヒロインの若尾文子が入り浸る左幸子のアパートとして使われていた。映画の中では、清洲橋を渡った川口浩のオープンカーが、この建物前に停車する場面が何度か現れる。

 またさらに余談を重ねると、橋から向かって日本橋グリーンハイツの右隣にあるマンション(ラピュータ日本橋中洲)の場所には、10年ほど前には料亭「中洲 三田」があった。「中洲 三田」は、『ミシュラン東京版』で三つ星を獲得して先ごろ話題を呼んだ人形町の料亭「玄冶店 濱田家」と同じ一族が経営していた料亭で、小津安二郎『秋日和』(1960)と成瀬巳喜男『流れる』(1956)でも使われたほか、清水宏『母のおもかげ』(1959)では、水上バスからの移動ショットでちらっと外景が映り込んでいる。

 中洲は全盛期には、90軒以上の料亭・待合が軒を連ねる都内有数の花街であると共に、若き日の小山内薫が修行を積んだ「真砂座」を擁し、本郷と並ぶ初期新劇の中心地でもあった。小山内薫は、この若き日々の芸者衆との恋愛遍歴をもとに、花柳小説の傑作中の傑作『大川端』(1909-11)を書いている。恋愛遍歴というより、実際の内容は失恋遍歴だが。
 『大川端』は残念ながら絶版だが、どこの図書館でも置いてある。

蘭亭序

2008-04-09 01:56:00 | アート
 春嵐の中、『八月の狂詩曲』よろしく傘をわあっと反転させつつ、人影少ない上野公園を突っ切り、『蘭亭序』を堪能する。西暦353年の暮春初め、会稽山陰の「蘭亭」という名の庭園サロンに老若の身分高き人々が集い、崇山峻嶺、茂林脩竹ある中、曲水に杯を浮かべて自分の座席に流れ着くまでに一首詠んだのである。一杯の酒に一首ずつ詩を重ねていったわけであるが(ただし詩を作れなかった人へのペナルティは3杯であった)、『蘭亭序』とは、その時に編まれることとなった詩集に、宴の主催者・王羲之が寄せた序文のこと。

 残念ながらそのオリジナルは宴の300年後、この序を愛して止まなかった唐の太宗(李世民)が崩御に際し殉葬(649年)させてしまったため、拓本と臨模しか現存していないのだが、これら拓本・臨模においてすら、傑作の残影をめぐり実に多彩なる評価が1500年以上にわたって取り交わされている。

 この名文中の名文、ラスト数節(下記)には、ただ涙を堪えつつ眺めるのみである。また1700年後の世に生きる「後之攬者」たる私もまた、この文の語るところに、なんの齟齬も抱かずに共感し、なおかつ、日本では「倭の五王」時代に当たる時期に作製されたこの『蘭亭序』が、明治大正期の文語さえ凌ぐほどの明確さ、わかりやすさ、現代性を伴って迫ってくることに感動を禁じ得ないのである。

後之視今 亦由今之視昔 悲夫   後の今を視るも、亦なお今の昔を視るがごとし 悲しいかな
故列叙時人 録其所述       故に時人を列叙し、其の述ぶる所を録し、
雖世殊事異 所以興懐       世殊なり事異なると雖も、懐を興す所以は、
其致一也 後之攬者        其の致は一なり。 後の攬る者、
亦将有感於斯文          亦まさに斯かる文に感ずる有らんとす。

(意味:後の人が今の我々を見るのも、また今の我々が昔を見るのと同じようであるとは、悲しいことである。それゆえ、今回集まっていただいた人々の名を列記し、彼らが述べたところを書き留めておこう。世の中が変わっても、思いを発する理由は、結局同じであろうから。後世の鑑賞者も、きっとまたこの文に心を動かしてくれるであろう。)


『蘭亭序』は東博東洋館第8室にて、5月6日(火・休)まで開催
http://www.tnm.go.jp/jp/

『ダージリン急行』 ウェス・アンダーソン

2008-04-08 04:37:00 | 映画
 傑作、秀作なのかと考える前に、好きになってしまう映画。条件や時機をあれこれ考える以前に始まってしまう幼年期の恋のような映画である。アーヴィング的な『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』から、決定的な『ライフ・アクアティック』を経て、ここではあの、ふさぎがちな父性は葬儀の回想に押し込まれ、冒険と稚戯の片道切符が完全に息子たちに継承された。

 物事の始めなどを飾る、〈列車の到着〉ならぬ、列車の出発をとらえるスローモーションの横移動にぞくぞくさせられない映画好きというのは、いったいいるのだろうか(いや、意外といるんだろうね)。蓮實重彦が昔『GS』誌に寄稿した有名な文章「破局的スローモーション」なんて言葉を不意に思い出したが、『ダージリン急行』は破局とは対極の、メランコリックな楽天性を纏う。乗り遅れる者もいれば、乗り遂せる者もいる。途中下車を命じられる乗客もいるが、再び模範的な乗客となって回帰してくる者もいる。要するに、人生には次の列車はない、などというストイシズムは、ウェスの映画では最も忌み嫌われるのだ。『ユリイカ』の役所広司のバスのごとく、ウェスにあっても2台目のバス、2台目の列車は必ずやって来る。だからだろう、がっつくことなく、泰然とトラブルに身を任せる主人公3人組が、とてもいい。

 また彼らが、よくもまああんなに、というほど大量で可愛らしいマーク・ジェイコブス/ルイ・ヴィトン製スーツケースをごてごてと抱え込んで運搬に手間取っているのも、簡単には身軽にはならないぞと言わんばかりで、愛おしさがある。


日比谷シャンテシネ他、全国で公開中
http://microsites2.foxinternational.com/jp/darjeeling/

nobody No.27

2008-04-08 02:45:00 | 
 雨闇を突いて、今夜久しぶりに、日本橋小網町で元料亭経営者が人知れず営む小割烹「I」にて、白魚の玉子綴じを肴に少々。貧乏暇なし、まったく読書も映画もままならぬ状態がここしばらく続いたが、「nobody」通巻27号をようやく読み始めた。いろいろと楽しみな記事がありそうであるが、まずびっくりしたのが、オリヴィエ・アサイヤス自らがしたためた楊徳昌(エドワード・ヤン)の追悼文「エドワード・ヤンとその時代」という翻訳記事の存在。出典がどこなのか明記されていないのだが、貴重な文だろう。
 テシネ作品の脚本家としてまず好きになったマジャール系フランス人の映画作家アサイヤスについては、実は『イルマ・ヴェップ』でのアジア映画への傾倒の仕方には首をかしげる部分が多かったのだが、『HHH』は素晴らしい体験だった。  (続く)


「nobody」公式サイト
http://www.nobodymag.com/

『ダージリン急行』の音楽

2008-04-06 09:15:00 | 映画
 音楽も『ダージリン急行』の魅力の1つだと思う。キンクスやローリング・ストーンズはもちろんであるが、それにも増して素晴らしいのは、サタジット・レイ映画のサントラを実に効果的に再利用していることだ(とはいえ、恥ずかしながら、『音楽ホール』『二人の娘』『象神万歳』『チャルラータ』と、使用されている作品は1本も見ていないのだが)。

 よく日本でインド映画というと、こういうサタジット・レイのような映画祭御用達の芸術的な映画作家は変に敬遠されて、歌謡映画、メロドラマ、荒唐無稽なアクション・コメディなど、〈通俗〉に走る方がかっこいい、みたいな妙な通念があるでしょう。私は、ああした通念の横行が大嫌いなのである。あれはあれで、醜くスノビッシュで教条的な風習だと思う(通俗映画自体が嫌いだと言っているのではないので、念のため)し、反権威の衣を着た途轍もない権威主義だと思う。

 その点、多少はふざけながら再利用しているにしろ、堂々とサタジット・レイの素晴らしさに敬意を表してしまうウェス・アンダーソンには、やはり品位と思慮深さがちゃんと備わっていると感服するし、変化球をこねくり回して、浅ましく自分を飾り立てたりしていないことがわかる。
 ただし、サタジット・レイ映画の中にもある通俗性については、また別の機会に。