荻野洋一 映画等覚書ブログ

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蘭亭序

2008-04-09 01:56:00 | アート
 春嵐の中、『八月の狂詩曲』よろしく傘をわあっと反転させつつ、人影少ない上野公園を突っ切り、『蘭亭序』を堪能する。西暦353年の暮春初め、会稽山陰の「蘭亭」という名の庭園サロンに老若の身分高き人々が集い、崇山峻嶺、茂林脩竹ある中、曲水に杯を浮かべて自分の座席に流れ着くまでに一首詠んだのである。一杯の酒に一首ずつ詩を重ねていったわけであるが(ただし詩を作れなかった人へのペナルティは3杯であった)、『蘭亭序』とは、その時に編まれることとなった詩集に、宴の主催者・王羲之が寄せた序文のこと。

 残念ながらそのオリジナルは宴の300年後、この序を愛して止まなかった唐の太宗(李世民)が崩御に際し殉葬(649年)させてしまったため、拓本と臨模しか現存していないのだが、これら拓本・臨模においてすら、傑作の残影をめぐり実に多彩なる評価が1500年以上にわたって取り交わされている。

 この名文中の名文、ラスト数節(下記)には、ただ涙を堪えつつ眺めるのみである。また1700年後の世に生きる「後之攬者」たる私もまた、この文の語るところに、なんの齟齬も抱かずに共感し、なおかつ、日本では「倭の五王」時代に当たる時期に作製されたこの『蘭亭序』が、明治大正期の文語さえ凌ぐほどの明確さ、わかりやすさ、現代性を伴って迫ってくることに感動を禁じ得ないのである。

後之視今 亦由今之視昔 悲夫   後の今を視るも、亦なお今の昔を視るがごとし 悲しいかな
故列叙時人 録其所述       故に時人を列叙し、其の述ぶる所を録し、
雖世殊事異 所以興懐       世殊なり事異なると雖も、懐を興す所以は、
其致一也 後之攬者        其の致は一なり。 後の攬る者、
亦将有感於斯文          亦まさに斯かる文に感ずる有らんとす。

(意味:後の人が今の我々を見るのも、また今の我々が昔を見るのと同じようであるとは、悲しいことである。それゆえ、今回集まっていただいた人々の名を列記し、彼らが述べたところを書き留めておこう。世の中が変わっても、思いを発する理由は、結局同じであろうから。後世の鑑賞者も、きっとまたこの文に心を動かしてくれるであろう。)


『蘭亭序』は東博東洋館第8室にて、5月6日(火・休)まで開催
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