青山真治のこれまでの作品とは一味も二味もちがう作品が、出来上がってきた。これは以前にどこかに書いたかもしれず、失礼な言い方でもあるかもしれないが、青山映画というのは元来、「私もそういうことを考えてたんだ!」ということを私が思ってもみないやり方で拡大させてくれる映画群であり、また、私がやりたくてもできなかったことをいとも簡単にクリアしてしまう、そういうスケールみたいなものについつい惚れてしまう、というものなのである。「ムム、これは敵わんな」と、何遍思わされてきたことか。
誰かが「青山映画には不器用なところがある」と言ったとき、それはわれわれ受け手側のぶざまな小器用さ、小利口さの方を逆証明しているに過ぎないように思うから、そういう表現に私は耳を貸す必要はないのである。地の、血の、知の極北へと、彼の映画は常に見る者を連れ去っていったのだから。
だから、今度の新作『東京公園』が示した懇切丁寧さには、題材から言って予想されたこととはいえ、やはり意表を突かれた思いだ。観客がぬくぬくと保持する小市民的な良識に対して頭上から振り下ろされるあれらのハンマーは、いったいどこへ消えたのだろう? ここには、過去の作品が濃厚に帯びていた切迫感、象徴性、さらには神話性が(すくなくとも表面上は)ない。その代わりに、非常に粋な計らいで占められ、映画を見るという時間を改めて祝福したくなる魅惑がそなわっているのである。
写真家志望の大学生(三浦春馬)を中心にトリビアルな描写が積み重ねられ、構図-逆構図のモンタージュを活用しながら、新鮮さと古風さの両方に彩られたファミリー・メロドラマが展開されてゆく。『秋日和』の岡田茉莉子のようにおきゃんな榮倉奈々が、ナイーヴな三浦春馬に説教を垂れるのを眺めながら愉快な気分にひたったり、たがいの連れ子を持った両親の再婚によって「異父母姉弟」となった姉(小西真奈美)と弟(三浦春馬)の間で演じられる水際だった圧倒的なワンシーンにわなないたりと、最高の映画体験が、この作品の観客には待っている。単に、こんなに面白い日本映画というのは、めったやたらにあるものではない。
小西真奈美から「あんた、なんか悩みあるの?」と訊ねてもらう。あるいは、ある他人と邂逅した際に無言の会釈を交わしていると、脇から榮倉奈々に「良かったじゃん」などと囁いてもらう。この主人公は、この世にあり得ないくらいの果報者だ。羨ましすぎる。もちろん、そうした主人公の周囲にあふれる親愛の情の影には、大きな喪失、癒し得ぬ不在が横たわっているにせよである。
どこかこの作品は、木陰か東屋の中で、作者たる青山自身が休憩しているような感触がある。現実はもちろんそんなことはなく、じつに4年ぶりとなる新作だけに、映画作家としても期するところはあっただろう。しかし、そういう緊張やプレッシャーの中でも保たれたこの休憩の感触が、この上なく貴重なものであるように思える。そして、そのことがこの作家のもつ獅子のスケールを再び証明し、もっと開かれた未来をも予兆しているのである。
6月18日(土)より、新宿バルト9ほか全国ロードショー
tokyo-park.jp/
誰かが「青山映画には不器用なところがある」と言ったとき、それはわれわれ受け手側のぶざまな小器用さ、小利口さの方を逆証明しているに過ぎないように思うから、そういう表現に私は耳を貸す必要はないのである。地の、血の、知の極北へと、彼の映画は常に見る者を連れ去っていったのだから。
だから、今度の新作『東京公園』が示した懇切丁寧さには、題材から言って予想されたこととはいえ、やはり意表を突かれた思いだ。観客がぬくぬくと保持する小市民的な良識に対して頭上から振り下ろされるあれらのハンマーは、いったいどこへ消えたのだろう? ここには、過去の作品が濃厚に帯びていた切迫感、象徴性、さらには神話性が(すくなくとも表面上は)ない。その代わりに、非常に粋な計らいで占められ、映画を見るという時間を改めて祝福したくなる魅惑がそなわっているのである。
写真家志望の大学生(三浦春馬)を中心にトリビアルな描写が積み重ねられ、構図-逆構図のモンタージュを活用しながら、新鮮さと古風さの両方に彩られたファミリー・メロドラマが展開されてゆく。『秋日和』の岡田茉莉子のようにおきゃんな榮倉奈々が、ナイーヴな三浦春馬に説教を垂れるのを眺めながら愉快な気分にひたったり、たがいの連れ子を持った両親の再婚によって「異父母姉弟」となった姉(小西真奈美)と弟(三浦春馬)の間で演じられる水際だった圧倒的なワンシーンにわなないたりと、最高の映画体験が、この作品の観客には待っている。単に、こんなに面白い日本映画というのは、めったやたらにあるものではない。
小西真奈美から「あんた、なんか悩みあるの?」と訊ねてもらう。あるいは、ある他人と邂逅した際に無言の会釈を交わしていると、脇から榮倉奈々に「良かったじゃん」などと囁いてもらう。この主人公は、この世にあり得ないくらいの果報者だ。羨ましすぎる。もちろん、そうした主人公の周囲にあふれる親愛の情の影には、大きな喪失、癒し得ぬ不在が横たわっているにせよである。
どこかこの作品は、木陰か東屋の中で、作者たる青山自身が休憩しているような感触がある。現実はもちろんそんなことはなく、じつに4年ぶりとなる新作だけに、映画作家としても期するところはあっただろう。しかし、そういう緊張やプレッシャーの中でも保たれたこの休憩の感触が、この上なく貴重なものであるように思える。そして、そのことがこの作家のもつ獅子のスケールを再び証明し、もっと開かれた未来をも予兆しているのである。
6月18日(土)より、新宿バルト9ほか全国ロードショー
tokyo-park.jp/
青山監督、本当におめでとうございます。記事の本文でも書きましたが、この作品は、もっと開かれた未来をも予兆しています。今後のよりいっそうの飛躍を期待してます。
P.S.
ちなみに、通常の金豹賞を受賞したアルゼンチンの女性監督ミラグロス・ムメンタレールの『Abrir puertas y ventanas(扉と窓を開けて)』というのも、ちらっと読んでいると、なんだかおもしろそうだなあ。