千葉泰樹の中期の作『生きている画像』(1948)のすばらしさは何に喩えたらいいのだろうか? 戦前の時代劇スター大河内傳次郎の戦後の現代劇というと、まず何より黒澤明の戦後第1作(にして、黒澤の最高傑作でもあると私は思っているのだが)『わが青春に悔なし』(1946)があり、清水宏の『小原庄助さん』(1949)の最後の巴投げに溜飲を下げぬ映画ファンはまずいないだろうし、盟友・伊藤大輔との『われ幻の魚を見たり』(1950)だってあるわけで、何を隠そう相当に粒ぞろいである。
『生きている画像』における大河内は、昭和洋画壇の巨匠・瓢人先生を演じる。家庭を持たず飄逸だけに生きる陽気な孤独者を、格別の威厳と玩味をもって演じる。彼の門下生を演じる藤田進、笠智衆、そして瓢人先生にすっかり惚れ込んで先生宅そばに店ごと引っ越してくる寿司屋を演じた河村黎吉が絶品である。大河内が初めて河村黎吉の「すし徳」を訪れた日、大河内はまず日本酒の一升瓶を声もなく指さし、錫器に入って渡された酒を杯に少し注いで飲み、またしても声なく首肯。錫器はすぐ小脇のお燗鍋につけられる。小皿に盛られた穴子を一口食べ、門下の幹部たちにむかって一言「このうちは、君たちのような者が来るところじゃないよ」。我が意を得た河村黎吉がそれでも相好崩さずに一言「人間の舌にもいろいろあるんでね」。このシーンの研ぎ澄まされた緊張感は百聞は一見にしかずである。
一見して芸術至上主義の青臭い映画に見えるが、そうしたつまらぬ偏見を取っ払えば、この映画がいかに物語の制約を受けずに透明に鋭さを増していくのかがわかるだろう。溝口健二『歌麿をめぐる五人の女』とジャック・ベッケル『モンパルナスの灯』を貼り合わせた冷酷なる生の一瞬のきらめき。殊に、笠智衆と花井蘭子の新婚カップルの悲運の結末、そしてそこから不死鳥のごとく甦る笠智衆の気力を目の当たりにすると、これは日本映画史上の粋をあつめた大傑作ではないかと思えてくる。
自身の原作『瓢人先生』を翻案した八田尚之の張りつめたシナリオ、それに反比例して河崎喜久三の冷酷なカメラ、画家たちの生活空間を問いつめた下河原友雄(『浮草』『小早川家の秋』といった小津の非=松竹大船作品および、大映時代の市川崑、増村保造作品を担当)の美術など、あらゆる点でハイレベルな作品だと言えるだろう。
『生きている画像』における大河内は、昭和洋画壇の巨匠・瓢人先生を演じる。家庭を持たず飄逸だけに生きる陽気な孤独者を、格別の威厳と玩味をもって演じる。彼の門下生を演じる藤田進、笠智衆、そして瓢人先生にすっかり惚れ込んで先生宅そばに店ごと引っ越してくる寿司屋を演じた河村黎吉が絶品である。大河内が初めて河村黎吉の「すし徳」を訪れた日、大河内はまず日本酒の一升瓶を声もなく指さし、錫器に入って渡された酒を杯に少し注いで飲み、またしても声なく首肯。錫器はすぐ小脇のお燗鍋につけられる。小皿に盛られた穴子を一口食べ、門下の幹部たちにむかって一言「このうちは、君たちのような者が来るところじゃないよ」。我が意を得た河村黎吉がそれでも相好崩さずに一言「人間の舌にもいろいろあるんでね」。このシーンの研ぎ澄まされた緊張感は百聞は一見にしかずである。
一見して芸術至上主義の青臭い映画に見えるが、そうしたつまらぬ偏見を取っ払えば、この映画がいかに物語の制約を受けずに透明に鋭さを増していくのかがわかるだろう。溝口健二『歌麿をめぐる五人の女』とジャック・ベッケル『モンパルナスの灯』を貼り合わせた冷酷なる生の一瞬のきらめき。殊に、笠智衆と花井蘭子の新婚カップルの悲運の結末、そしてそこから不死鳥のごとく甦る笠智衆の気力を目の当たりにすると、これは日本映画史上の粋をあつめた大傑作ではないかと思えてくる。
自身の原作『瓢人先生』を翻案した八田尚之の張りつめたシナリオ、それに反比例して河崎喜久三の冷酷なカメラ、画家たちの生活空間を問いつめた下河原友雄(『浮草』『小早川家の秋』といった小津の非=松竹大船作品および、大映時代の市川崑、増村保造作品を担当)の美術など、あらゆる点でハイレベルな作品だと言えるだろう。
私事で恐縮ですが、2月に脳梗塞で倒れてしまいまして最初1か月間は、ひょっとしたら修善寺大患の漱石もこんな感じだったのかなぁなどという幽明境を彷徨いながらやっと退院したところでこちらを拝見させていただきました。『生きている画像』は、最後の映画で本当に語られたか語られていないかも定かではないのですが「真実の美は死のうちにしか宿らない。我ら絵描きは生きたままそこに辿り着くために精進を積み重ねなければならない」という大河内傳次郎の台詞が、自分のつたない人生における「映画を見ること」のすべてを言い当てているようでもあり、全然そこに追いついていない自分の馬鹿さ加減を呪って隔靴掻痒せざるを得ないような悔しさを感じる作品でもあり、いまだに自分のいちばんラディカルな部分を浸食してくる映画です。本当はあの笠智衆や藤田進の境地の何万分の一でも味わなければ自分は死ぬことさえ覚束ないと思っていたのですけれど時間は無情にも、というか当然のごとく怠惰の罰を与えるように、自分が美とは何かに思いを巡らす前に自分の時間と記憶を奪い去ろうとしているのですから、こればっかりは何とも抗いようがありませんね。せめて自分が今まで覚えてきた記憶だけは、出来るだけ美しく、あり得ないくらいに美しく忘れ去ることが出来れば、と、それが今のせめてもの願いなのですが。
失礼しました。
お見舞い申し上げます。いまはもう大丈夫なのでしょうか。どうかご自愛下さいませ。
笠智衆や藤田進が苦行の果てに前進していくラストには、ほんとうに感動します。『生きている画像』は、「自分は、彼らのように愚直に正面切って苦しんで前進する気力があったのだろうか。または今後もその気力を持ち合わせているのだろうか」とみずからの怠惰と保身を静かに深く撃ってくる作品ですね。
またお時間ある時にコメントを寄せていただきたく思います。