荻野洋一 映画等覚書ブログ

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さらば、広尾よ (1)たべもの屋篇

2010-03-05 04:16:26 | 身辺雑記
 社員ではないものの、私が30歳のころからレギュラー的に作品をもらっている製作プロダクションが、15年近く根城とした東京・広尾を、来週にも離れることになった。プロダクション本体は原宿へ移転するが、私は北品川の別館へ移る。現代アートの「原美術館」からほど近い、御殿山の崖下のような、誠にヂミ~な地所が、当分私の根城となる。原宿行きとなった、別の作品やジャンルを手がける仲間たちとは、これからはあまり会えなくなるだろう。

 仕事に忙殺されるあまり、あまり出歩かなかったためか、広尾の街にさして思い入れはない。フランス大使館とドイツ大使館という、西欧2大国の外交施設を抱えるこの街は、わが国屈指のハイ・ソサエティな街ということになっており、家政婦事務所や高級スーパーが軒を連ねるのはさすがかなと思わせるものの、有閑マダムやヒマな芸能人が経営する訳のわからぬ「趣味」の店(服やら、テーブル小物やら、英字の絵本やらを、はなはだ極私的な価値観で並べたてたセレクトショップ)が、通りのあちこちにチャラチャラあって、じつに目ざわりな街だった。とはいえ、六本木と渋谷という汚物臭い繁華街の中間に位置しつつも我関せず、「落ちついた」というより「冷たい」といった方が適切な風情は、決して悪くはない。臨済宗の禅寺、祥雲寺あたりを夏の暑い日などに散策すると、ふと別の時間を生きることもできたことも確かだ。

 食という点では残念ながら、愛してやまない店というのは、存在しない。
 普段づかいの愛用店ということなら、鮮魚店が昼定食を供する「福田屋」、居心地のいい四川料理屋「浅野」(麻布に移転)、学生街にありそうな洋定食の「キッチンふるはし」、チャングム風の小洒落た韓国料理店「韓屋(ハノク)」、その隣のイタリア料理「松浦」、神戸発祥のパスタ屋「RyuRyu」(廃業)、繁盛しているイタリアンカフェ「Acquavino」、バー「Coredo」(乃木坂に移転)、仏ショコラティエ「Bonnat Chocolatier」(日本から撤退)、ちゃんこ鍋「玉海力」、夫婦経営の街の中華定食屋「太田軒」、ハンバーガーの「Home Works」、亀戸から出店している葛餅屋「船橋屋」、という感じだっただろうか。
 まずい店も多かった。蕎麦、とんかつ、ラーメン、お好み焼き、パスタなど、なぜこんなにまずいのかという店も(当然名は出さずにおくけれど)多い街で、自然と出前で済ますことの方が圧倒的に多くなった。とんかつなどという食べ物は、旨く作られねばならないものであり、程度の差こそあれたいてい旨いわけであるが、ここのとんかつはまずいのである。
 逆に、イタリア料理の「ACCA」やフランス料理の「Aladdin」、和菜食の「やまもと」、蕎麦屋「箱根暁庵」、天ぷら「うち津」、中華懐石の「春秋」など、普段づかいでなかった店の方が、広尾を離れてもまた訪れる機会があると思う。

*          *          *          *

 最もオマージュを捧げるべき店は、すでに廃業して久しい「かど田丸」だろう。イタリア料理の名店「ACCA」の隣に数年前まであったうなぎ屋で、用意されるうなぎがかなり限定的であり、ひどい日は午前中で売り切れ、ランチ前に閉店という場合もあったほどの、じつに使いづらい店だった。食通みたいな爺さんが昼前におずおずと暖簾を分けつつ、「きょうはまだある?」などと尋ねる場面に出くわすこともあった。

 そして私のひそかな自慢は、私がおそらくこの店の最後の客という栄誉に浴している点である。老主人が健康を害したのか、すでにほとんど廃業状態の店に入った私は、「たぶんきょうが、ここのうな重を食す最後の機会」というのを覚悟しつつ、色香あふるる浮世絵が壁に張り出された席で、うなぎの焼けるのを座して待った。
 しばらくして「さあ」と思った矢先、運ぼうとする奥様を老主人が止めた。そしてまた、新しいうなぎを焼き始めた。これで私は、覚悟を決めた。老主人はこんな若造を相手に、自分が納得のいく蒲焼きを出すために、やり直してくれているのである。「なに貴方、やり直すの?」「ああ」という短い会話が厨房から聞こえた。
 そしてずいぶん経って、奥様が供してくれた蒲焼きが口の中でほろほろと繊細に崩れるのを味わいつつ、私は一言、できるだけ元気に「うまいです!」とだけ叫んだ。頑固でならしたはずの老夫婦が、やさしく微笑んでくれた。

 ほどなくして「かど田丸」は、病気療養のため店を閉じる旨、手書きの紙を軒先に貼り出した。その後も私は何年間か、住居となっているらしい店の2階の窓がわずかに開いていたりといった生活の気配をさぐりつつ、安否を気遣いながら通り過ぎていたものだが、最近は、2階を見上げずに素通りしてしまっている。


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4 コメント

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レンフィルム未見作4本 (中洲居士)
2010-03-05 12:55:18
レンフィルム未見作4本メモ(川崎市市民ミュージアム)

3/6 愛の告白(イリヤ・アヴェルパノフ)
   魔街(りんご売りトーチカ)(エドゥアルド・ヨハンソン+フリードリッヒ・エルムレル)
3/7 ハロー・グッドバイ(ヴィターリー・メリニコフ [ヒットメイカー])
   愚者の挑戦(アルカーディ・ティガイ)
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Unknown (宇都宮徹壱)
2010-03-05 19:40:34
そうですか、E社はついに広尾を離れるのですか。離れて13年、何とも感慨深いものです。皆さんによろしくお伝えください
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おひさしぶりです (荻野洋一)
2010-03-07 09:59:20
宇都宮さんへ

お久しぶりです。サッカーライター、フォトグラファーとしてのご活躍は陰ながら応援しております。UAEでのクラブW杯の記事は、読んでいて思わず笑ってしまいました。
今回は思いがけずコメントをいただき、感激です。拙ブログを寄っていただくことがあるとは知らず、有難いことです。ご返事遅れ、すみません。

そうです。広尾ともお別れです。社長以下本体は、原宿の太田記念浮世絵美術館の近くに引っ越すそうです。私のグループはトゥインクルランド(これも宇都宮さんにはなつかしいスタジオ名じゃないでしょうか)の近所が便利だということで、北品川が選ばれました。そのトゥインクルランドも、大崎再開発にともなって、来年には移転してしまうそうです。
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かど田丸 (中洲居士)
2010-03-11 02:15:41
「かどた丸」は現在、「マウイ・コーヒー・ロースター」になっています。
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