入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

     「冬ごもり」 (65)

2020年02月14日 | 入笠牧場からの星空

   オリオン座(M42)      Photo by かんと氏

 今は地球外生命体の発見前夜だと、NHKの深夜の番組に出演した研究者が語っていた。番組では、天文学者だけでなく生物学者などの専門家を集め「宇宙生物学(Astorobiology)」という分野の研究を行う新組織が東京天文台にできたとも報じていた。地球外生命体などと言えば、高度な文明を持った存在をつい連想してしまうが、まだ実際は深海の生物を対象とするような地味な研究のようだ。

 これだけ広大な宇宙に無数に存在する星々だから、その中には知的生命体が存在すると考えるのは、それを否定するよりも自然だと思う。ただし、その可能性を探るドレイクの方程式では、高等生物は自滅するという可能性を導入すると、あまり楽観的な数字が出ていなかった記憶がある。
 ひとつはっきりしていることは、すでに100光年以上の広大な宇宙空間に、われわれ人類の行いは詳らかに発信されてしまっているということだ。恐らく、その多くは恥ずかしくて情けないものばかりだから、仮に人類並みの知性がそれを監視していたとしても、沈黙を守っていて何ら不思議ではない。ただその一方でこれだけ何の反応、兆候もなければ、この範囲の宇宙には、人類並みの知性を有するような存在はゼロである、という可能性も考えざるを得なくなる。
 46億年の地球の歴史の中で、人類らしきの誕生は750万年ぐらい前と考えられている。しかし、狩猟採集のままで終わってしまっても不思議でなかった人類に、たった20万年ばかり前にアフリカで誕生した"異種"が、その後のホモサピエンスの将来を決定づけ、今ではこの地球上の支配者として君臨している。
 億年をかけて生物が誕生し、膨大な時間をかけてわれわれはようやく生まれてきたのに、なぜか地球上には人類以外にここまで進化できた生物はいない。これだけ多様な生き物がいるのに、なぜわれわれだけなのか。2足歩行をし、言語を持ち、道具を使用するような生命体が誕生するのは、地球の例から考えれば途方もなく偶然、特殊で、例外的なことのようにも思える。それにまた、時を同じくして同等もしくはそれに近い文明が出会える可能性などは、宇宙的な時間と文明の寿命を考えたら、ゼロではないにしても確率的には相当に低いのではないかと思う。
 かんとさんの写真に寄せた妄言。あそこ入笠牧場で、星を眺めながらそんな会話も求めたい。

 ようやく風邪が治りつつある。
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     「冬ごもり」 (64)

2020年02月12日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨夜も11時ごろ、酔い覚ましと気分転換を兼ねて天竜川の堤防を歩いた。風はなく、東の夜空には満月から間もない月齢17.2の冬の月が皓々と照っていた。そのせいで中天から少し西に下がった辺りのオリオン座や、冬のダイヤモンドはいつもの主役の座を奪われたように頼り気なく見え、全天で一番明るいシリウスでさえも遠慮しているかのようだった。
 写真にある仄かな白い山並は中央アルプスの西駒ケ岳とその前衛の将棋頭で、この眺めから受ける印象は50年前から少しも変わらないと、そう、しみじみ思った。天竜川に架かる橋は数年前に新しくなって街灯も増えたが、夜のせいもあってかやはりあまり変わらない。闇の中を流れていく冷たそうな川音にしてもそうだ。
 こんなどうということのない夜景に心を奪われるのは、過ぎた日々の不出来な人生の記憶や、その時々の心情がしっかりと貼り付いていて、それらに対する濃厚な懐かしさが蘇るからだ。それも、深い喪失感とか諦念を伴い。

   白金煙るアルプスの小屋にやさしい娘一人
   その名は雪子揺れる火に夢も揺れるよお空遠く

 あやふやな歌詞を思い出しながら歌い、途中からは川の流れの音に譲った。仲宗根美樹という歌手の曲だが、この人には「川は流れる」という歌があり、その方が知られていると思う。
 何十年も前から、不思議にこんな夜の白い西山を見るとこの歌を思い出し、歌う。十代のころは雪の山とか山小屋とか、あるいはそこに暮らす雪子という娘などを勝手に思い描いて歌ったのだろうが、このころには、山への関心もすでにそれなりにあった。当時飼っていたシロという犬がいて、田に積もった凍てついた雪が体重を支えてくれたから、月明かりの中をその犬と一緒に自由に歩き、走った。そしていつも天竜川の土手に上がり、今とほぼ同じような景色を目にしながら、いつも「稚拙で混沌」としたことを考えていたはずだ。今はそういう恥ずかしくなるような時代を、ひたすらに懐かしく思う。もう一度繰り返えせと言われたら、耐えられそうもないが。

 今週早々に入笠へ行くつもりでいた。しかしまだ里にいる。仙人については、もう少し練りたい。
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     「冬ごもり」 (63)

2020年02月10日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 きょうの天気は良いことになっているが、そうでもない。青空も幾分見えてはいるものの、空の広い範囲は雪雲に覆われていて、朝は雪が舞っていた。全国の天気となると長野県の場合は、南北に細長い県域の「北信」といって北部の天気状況を指すようで、伊那谷と呼ばれる南部に属する地域には該当しない。県内を細かく地域別に分けた予報なら役に立っても、午後7時のNHKの予報であればむしろ名古屋や静岡など東海地方の天気予報の方が参考になる。昨夜は北部には大雪警報も出たようだが、もちろんこの地域には全く関係がない。県外から訪れる人たちは、その辺りのことを承知してくれているとは思うが、念のため。

 冬ごもりとはまさしくこもるわけで、偶々携帯の歩数計を見たら最近はなんと2千歩にも届いていなかった。これにはさすがに驚いた。ただ普段家の中では携帯を持ち歩かないし、昨夜の天竜土手の散歩でも夜11時を過ぎていたから家に置いていった。それでも、運動量はかなり低い。実に正しい冬ごもりの仕方を、よく守っていると言えるだろう。
 健康のことを考えて中高年が歩く姿をよく目にするが、夜遅くに天竜土手をうろつくのはあくまでも気分転換、ないしは退屈しのぎの散歩であって、運動のつもりでなどやっていない。運動、つまり健康のためということになるのだろうが、そうなると継続しなければならなくなり、日常にまた新に義務的な行動を導入するようなことなどしたくない。以前はよく自転車に乗ったりもしたが、今はクマのように冬眠ができるなら、この5か月間は眠っていてもいいと思うくらいだ。
 もう一つのこもりの特徴は、ここで呟く以外はあまり言葉が必要ないということだ。昨日も全く誰とも会っていないし、言葉を交わしていない。「閑居」とは「世俗を離れて静かに暮らすこと」という意味がある一方、「特にすることもなく、ひまに暮らすこと」とも手許の辞書「大辞林」にはあり、さらに「小人閑居して不善をなす」の例を挙げて「お前のことだゾ」と言ってくれている。
 いや、以前にも呟いたが、少々風邪を引いている以外には、これもなかなか悪くない暮らしだと思っている。いつまでも続くわけではないが、この先ヨボヨボにでもなって振り返ったら、もっとそう思うに違いないと数々の不足不満をこらえ言い聞かせている日々。これも冬ごもりにおいては実に正しい態度だと自賛している。
 里でも仙人化は進むようだが、柳田センセイによれば、仙人など大分お頭(つむ)のおかしい輩のよう。それは明日にでも。

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     「冬ごもり」 (62)

2020年02月09日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など
 また一日が暮れようとしている。いつ来たのか、柿木の梢に椋鳥が3羽いる。西の空は残光でまだ少し明るく、白いままだが、中空は薄青色の空が少しづつその濃さを増し、そのまま闇へと転じるようだ。まだ影絵のようになって見えている椋鳥のいなくなった柿木の枝も、程なくその見分けがつかなくなるだろう。こういう深い無音の一時、静寂が音になって聞こえてくるような気がする。(2月8日記)



 ここで扱う写真、言い訳になるが、努めてあまり拘らないようにしている。冬ごもりの今は違うが、ほぼ毎日のこととなると大体が仕事の合間だし、それもiPhoneを使って撮るだけだからこれで納得している。あまり力まず、拘らずにいるから続けられている、ということもあると思う。それにやはり、実景を超えるということは難しい。
 以前はあまり寄せると、ブレが目だっていけなかったが、今使っている機種はそうでもない。たまにはたっぷりと時間をかけ、場所を選び、それなりのカメラで入魂して撮ってみたいと思うこともあるが、この呟きには今のやり方が一番合っている。何よりも手軽だというのが有難い。それに、Ume氏やかんとさんなど、お馴染みの皆さんからの有難い貴重な支援もある。
 
 最近の写真はどれも1月31日に上がった時に撮ったもので、青空のない暗い写真ばかりになってしまった。そうでない写真もないことはないけれど、この日の山の雰囲気には青い空は不似合いに思え、できるだけそういう明るい空間を入れないようにした。
 と、まあ、そのくらいのことは考えるが、それでこのうそ寒そうな写真を見た人が、こんな侘し気な冬の入笠へ行ってみようという気になるかと問われれば、それは言われる通りかも知れない。ただそれでも何人かの人たちには、なぜこんな寒々とした風景ばかりをこうして載せるのか、その意図を察してくれているはずだ(あなたは分かりましたか?)。

 かんとさん、詳しい説明をありがとうございました。きょうは月齢14.2の素晴らしい満月です。先日は夜の11時ごろ天竜川の土手を歩いていたら、東の空に北斗七星が柄を下にして立ち上がるように見えていました。もうすぐ、あの牛飼座の主星アルクトゥルスも見えるようになりますね。昨年は、夜桜を眺めながら、やはり天竜川の土手から仰ぎ見ました。まだまだ先のことにしておきたいそんな季節も、またすぐに来るでしょう。

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     「冬ごもり」 (61)

2020年02月07日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 2月如月もすでに7日、日の経つのが早い。この調子で行けば梅の花が咲き、匂い、春の訪れる日もそう遠くはなさそうだ。そう呟いて、だから次に訪れる季節を心待ちにしているわけでもない、と続けたのに、またしてもその部分がPCから消えてしまっていた。
 冬ごもりの日々は単調で、昨日ときょう、きょうと明日、変わり映えのする日々ではないのだが、と言って、この暮らしに格別の不満もない。山は眠り、色彩は乏しくても、風は冷たく、行動は限られても、この季節にも味わうべき妙味はある。日溜り、風の音、古い記憶・・・。
 歳を重ねてここまで来れば、自然と前からよりかも後から数える癖がつく。まだウン年と思うよりか、ウン年しかないと思うから、残る日々も年月も貴重に感ずるわけだ。陋屋の冬の日射しが入る部屋で閑居していれば、手毬をつく子供もがいなくとも、うららかな春日でなくも「終わらずともいい」と言ったあの人の気持ちが、伝わってくる。
 
 ところで、いつでも一人の宴は、時を選ばず唐突に始まる。昼の支度を初めて、きょうも土鍋の豆腐のコトンコトンと揺れている様子を目にしていたら、熱燗が急に頭に浮かんだ。そして、焼いた喉を癒す冷えたビールまで。それでも、さすがに昼から燗酒までというのは気が引けて、とりあえず笑い飛ばして済まそうとした。が、済まなかった。
 昼酒をやると、夜の独酌が湿気たピーナツのように一段味も、気分まで格落ちする。一日の労いを込めようにも、込められない。それが分かっていながら、身体が勝手に動き出すことが稀にあって、しかしその言い訳もある。きょうは治りかけた風邪に、さらに竿を差そうということにした。そうでないと、このままではいつまでも入浴すら意のままにならない。羽毛服を着て寝るという異常な状態から脱しなければ、身体は軟弱化するばかりだろう、などなどと。まあ、今夜のことは夜にでもなってから考えよう。
 
 来週早々、また上に行くつもりでいる。ちょっと出掛けてみたい場所もできた。過ぎていく冬ごもりを惜しむように、無為なる日々、後で振り返られる記憶の種を残しておきたい。

 一応、今年度の「冬季営業」の詳細については、下線部をクリックしてご覧ください。
 
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