宮代NOW(GOOな情報)

埼玉県宮代町及び周辺のGOOな情報。

ふれあいロード(西粂原鷲宮神社)

2007年12月31日 06時40分44秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
緑陰の遊歩道が心地良い道筋。



夏でも涼しいこの付近、途中にあるベンチで、蝉時雨に浸りながら、小休止もまた楽しいものです。今は、小鳥のさえずりを聞きながら・・・。



一服したら、歩を進めましょう。しばらくすると、車の通りの激しい道と交差します。
その手前に、ふれあいロードマップが



場所は、ここになります

車の通りの激しい道。

埼玉県道65号さいたま幸手線(旧岩槻幸手線)、通称日光御成街道(日光御成道)。



車の通りが多いので、十分注意して渡りましょう。
この道を左手に進むと



鷲宮神社があります。
この付近には鷲宮神社が二社あり、先に出てきたのが東粂原鷲宮神社、こちらは西粂原鷲宮神社と呼ばれています。



この神社の前を通る道が、日光御成街道。
将軍が日光東照宮へ社参する際に利用された街道で、隣町の幸手市で日光道中(現国道4号線)と合流する。
「将軍家の日光社参は、二代秀忠を初めとして、全19回行われた。江戸~岩槻間のルートは一定していなかったが、岩槻~幸手間のルートは一貫していた。したがって、日光社参ではすべて宮代町域を将軍が通行したと推定される。第12代家慶の社参では、家慶は宝国寺から歩いて久米原の鷲宮神社に向かい、御小用(小便)をたし、軽食もとったとの記録がある」(宮代町史 概要)



現在は街道の様子をうかがわせるようなものは見当たらず、車がスピードを上げて通り過ぎる。

神社を辞して、ふれあいロードに戻る。



先の道は、田の中を進むことになる。



程なく、ふれあいロードは宮代町を離れ、白岡町へと入る。

ふれあいロード宮代町の散歩はここまで。

帰りは白岡町のJR新白岡駅に向かうか東武伊勢崎線和戸駅に出るか。

ここでは、御成街道を進んで、それらしい痕跡を探しながら和戸駅に向かう。



宮代らしい川の流れにひととき目を休めて帰路につく。



(ふれあいロード編 終わり)

ふれあいロード(農のあるまち)

2007年12月27日 17時34分06秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
現在の場所の確認をしておきましょう。
ここです



ここからはしばらく寄り道はなく、遊歩道を道なりに歩いてください。



スタートからこれまで、住宅地の中を歩くことは少なかったが、ここに来て、住宅地の脇を遊歩道が通っていることに気付かれたと思います。
農業用水路脇の遊歩道ですから、当然と言えば当然なのですが、それにしてもここまで歩いてきて高いビルにも出会わず、田や畑が続いています。

こうした宮代町の特徴を、2001年に農業土木学会農村計画研究部会で講演した榊原・宮代町長は概要次のように語っています。

「私たちの町「宮代」は、まさに都市と田舎の境界線のような町、ウオーターフロントならぬグリーンフロントともいえる町でもあります。
近隣の自治体が開発を進める中で、昭和30年の町村合併以来、7期30年近く町長をつとめた初代の町長は、まちづくりに確固たる哲学を持った人で、「赤い屋根、青い屋根が増えるのが発展ではない、身の丈にあった個性あるまちづくりこそ大切である」という考えから、特に工業団地、高層の住宅団地の誘致には反対の姿勢を貫きました。
また、「道路や団地は作ろうと思えば、いつでも出来る、しかし人づくりには時間がかかる、まちづくりで大切なのは人づくりである」ということで義務教育の充実はもちろんのこと、昭和42年(1967年)には、埼玉県内でも大学の立地はめずらしい時代に「日本工業大学」を誘致しました。
今から30年、40年前にそうした考えをもつ「首長」は私の知る限り、他におりませんでした。そうした考えを貫くためには、確固たる信念と勇気が必要であったと思います。確かな展望を持って、まちづくりを進めた初代の町長が「蒔いた種」は、そこかしこで大きな幹となり枝となり、現在の宮代町にとっては欠かせない大きな財産となっています。
そうした中で、「もう少し市街地を拡大して、高層の住宅団地や工業団地を建設すれば、人口も増え、商工業も振興し税収もあがり、もっと発展する、このままでは宮代は取り残されてしまう」という声を随分耳にしました。
だが、経済、社会の変化の中で、今さらミニ東京を目指してもかなわぬことであります。開発の波から生き残ってきた農地、農業、農村がひっそりと息づいており、都市の中での小さなオアシスとして存在感を高めたと言えるかもしれません。そうした、歴史的にも風土的にも農村であったという原点に立ち返り、「農」をまちづくりの根幹においてまちづくりを進めることとし、平成10年2月に「農のあるまちづくり基本計画」を策定し、まちづくりの基本理念とリーディングプロジェクトを全町民に示しました。この計画書はコンサルタントの入らない、職員と、「農のあるまちづくり」にかかわってきた町民の手によってつくられました」

これが、宮代町の原点となっています。

この散歩道の途中に広がる田では、「みやしろっ子(みやしろ産ブランド米。専業の米農家「稲作研究会」の皆さんが、減農薬無化学肥料栽培米をブランド化した)」の栽培




「巨峰(宮代町は巨峰の産地で、一時は県下で一番の産地であったこともあるが最近は年々減少している)」や



梨の果樹栽培などが行われている。



さらには、この散歩道沿いにもある





花卉栽培なども出始めている。

だが、さすがに、農業人口の高齢化によって、

農家総数は、昭和50年の900戸から、55年839、60年783、平成2年753、7年729、12年694、17年619と減少し、経営耕地も昭和50年の800haから平成17年には472haへと減少している。

宮代町では、農業を職業とし新規就農を目指す方を応援するためのルーキー農業塾開設したほか、新しい村を中心に積極的な施策を展開しており、今年初めには「立ち上がる農山漁村」の平成18年度選定を受けた。宮代町が町民との協働で作り上げた農のあるまちづくりによる環境共生の取り組みが評価されたもので、都市近郊の市町村としては、極めて珍しい。

(以下 次回)

ふれあいロード(鉄塔博物館?)

2007年12月24日 16時29分53秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
ちょっと寄り道が多くなりましたが、散歩道に戻りましょう。
実は、宝光寺から浄水場に向かった道をまっすぐ進むとふれあいロードに出るのですが、寄り道に向かったところに戻って進むことにしましょう。

現在位置は、ここです



こんな情景が見えていると思います。
「この鉄塔の数はなんだ」と叫びたくなるほど鉄塔だらけです。

しばらく進むと、



こんな交差点に出ます。
右手に進むと宝光寺前の交差点に出ます。
左手に進むと東武動物公園の駐車場につながります。ゴールでウイークの頃になると動物園に向かう車がこの付近まで、つながることもあります。

ですので、この交差点は特に車に注意して進みましょう。

交差点を越えると、



無論、宮代町からではなく、逆方向からの距離です。
この地点から、左手を見ると・・・。



なにやら、鉄塔が集中している場所があります。

興味のある方は、ちょっと距離がありますが、歩を進めてみてください。
場所はここです

東京電力北東京変電所。
所在地は、宮代町の隣町、白岡町になります。
建設されたのは昭和34年。

白岡町の広報誌「広報しらおか」の2004年11月号に次のような記載があります。
「「東洋一のマンモス変電所」「白岡町に“怪物”現る」と、昭和34年当時の新聞見出しには書かれています。この記事から、変電所がいかに大規模で、その心臓部でもあるトランス(変圧器)の運搬が困難を極めていたことが分かります。記事によると、総工費23億円、敷地面積15.3ヘクタールで、アジア最大規模の変電所であったと書かれています。
この工事の中心は、1基約200トンという電圧27万5千ボルトのトランス2基の据え付けでした。運搬は、世界で1台しかないという120トントレーラーを操作し、道路に鉄板や六寸角の角材を敷き、橋を3橋架け替えるなどして、約2,000万円の運搬費ををつぎ込んで行いました。」

この付近を歩くと、色々なタイプの鉄塔が見られ、まるで鉄塔の博物館といった様相です。







鉄塔を見ながら進むと、また自動車道と交差します。



右手は、宝光寺からの道ですので、ショートカットする方はここで合流してください。



交差点を越えたところの右側に間近なところに鉄塔があり、ここで、ひとまず鉄塔博物館とはお別れしましょう。

(以下 次回)

ふれあいロード(浄水場)

2007年12月22日 08時58分09秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
もう一つだけ寄り道をしましょう。
宝光寺に隣接して、高い塔が立っています。



その塔を目指して、道を入ると、こんな看板があります。



場所はここです

「宮代町水道 第二浄水場」です。



「宮代町の水道は、県水と呼ばれる水(埼玉県庄和浄水場から送られてくる江戸川の水を浄化した水)と町内に9か所ある井戸(深井戸)からくみ上げ滅菌・ろ過して安心して使える水を配水池に貯えています。これらの綺麗な水を配水池からポンプの力によって、網の目のような配管網を通じて町内へ配水しています」(小学校社会科見学資料より)
「9つある井戸のうち、1~6号井戸は第一浄水場、7~9号井戸は第二浄水場でくみ上げ処理をしています」(同上)

第二浄水場からは少し離れていますが、付近を探すと、井戸が見つかりました。







深井戸は、地下約280m付近の地下水を取水ポンプでくみ上げます。
くみ上げられた水は、着水井に送られ、水位や水量を測定します。
接触池に送られるとき、次亜塩素酸ナトリウムが注入され、滅菌消毒が行われます。
消毒された水は、急速ろ過機で、鉄分やマンガンなど不純物質が取り除かれます。
処理された水は、県水と共に配水池に貯められます。
宮代町には、配水地として、二つの浄水場のほか宮東配水場があります。

宮代町は、現在1日当たり12000立方メートルの水を使っています。
内訳は、県水が57%、深井戸からの水が43%となっています。

宮代町の水道水の使用量は、現在減少傾向にあるそうです。
理由は「人口減もあるでしょうが、節水型の洗濯機やトイレなどが普及しているのが大きいのではないでしょうか」(水道担当者)とのことでした。

(以下 次回)

ふれあいロード(宝光寺)

2007年12月21日 10時41分27秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
大聖院を辞して、信号のある交差点を渡ると、子どもたちの声が聞こえてきます。宝光寺幼稚園です。
幼稚園に隣接してある落ち着いたたたずまいの寺院が宝光寺です。

場所はここです



宗派は曹洞宗。慈眼山と称し、本尊地蔵菩薩を祀る。



「 不許葷酒入山門 (くんしゅさんもんにいるをゆるさず) 」が、修行の場であるこの寺院の性格を表している。

宝光寺は、宮代町の歴史を見るとき欠かせない。

寺内には「住持の円宅が寺子屋を開いていたことが分かる筆子塔がある」「筆子塚は、筆子が亡き師匠の遺徳を偲んで造立した墓塔で、寺子屋が実際に開設された証左となるものである。(宮代町では)宝光寺、青林寺、観音寺に筆子塚がある」(宮代町史より)。
また、宝光寺は、前掲の通り、須賀小学校の前身となる、西條学校の校舎となったところでもある。



明治22年、宮代町の前身である百間村と須賀村が誕生しているが、そのとき、須賀村の役場となったが宝光寺である。その後、須賀村役場は、明治40年には大字国納字丸屋に移転。大正3年には現在の和戸公民館の場所へ移転した。

なお、現宮代町は、旧百間村と旧須賀村が昭和30年7月20日に合併して誕生しているが、宮代町史を見ると、その経緯は興味深い。概略は次のようである。
「昭和29年2月県町村合併促進審議会は合併の試案を公表した。それは町域を『杉戸町、高野村、八代村、根郷村、田宮村、百間村、須賀村(注 ほぼ現在の宮代町と杉戸町か)』の1町6か村というものであった。が、8月、百間村議会は須賀村との合併を決議した。この方向に、試案どおり1町6か村を主張する地区の住民から『陳情書』がだされた。こうした経緯をたどりながらも、二村合併となった」



話が脇道にそれたが、宝光寺の山門を入ると右側に地蔵堂がある。



中には「ぶっさり地蔵」が祀られている。

「昔、近郷近在の若者が杉戸宿の遊郭に遊びに行ったころの話である。夜道を歩いての帰途、宝光寺の近くになると、若い娘が肩におぶさる。背負いながら、我が家も近づいたので振り向くと、地蔵尊がおぶさっている。あわてて問いただすと、宝光寺の地蔵だと答えたという」(埼玉県伝説集成より)



その後、境内に地蔵尊を祀ったところ悪さをやめ、参拝した人は子宝に恵まれるといわれ、「子授け地蔵尊」」として親しまれている。

ふれあいロード(大聖院)

2007年12月19日 09時04分59秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
また、鎌倉街道を通って、鷲宮神社に戻りましょう。
鷲宮神社を参詣したときに、隣に広がっていたグランドが、次の目的地です。



そのグランドの入り口にある大聖院。
地図ではここになります。



建物は、寺院風でもありますが、集会所風でもあります。



この「まちしるべ」と墓石がないと、見過ごしてしまいそう。





宮代町史によると、宗派は真義真言宗。名王山と称し、本尊は不動明王を祀る。
中を覗くと



合掌。

「まちしるべ」にもあるとおり、大聖院は現須賀小学校の前身である西條学校跡地でもある。

明治政府は、明治5年学制を敷いたが、宮代町では、進修学校、中島学校、西條学校、和戸学校が明治6年から9年にかけて開校した。
「西條学校は、東粂原、西粂原、須賀、国納の一部を区域として、当時廃寺であった大聖院を校舎として明治6年に開校している。明治10年、久米原学校と改称している。明治9年の生徒数は男子が95人、女子が6人、教員は男性が2人であった」(宮代町史より)
ただ、同町史の別な項には
「明治6年5月に西粂原宝光寺を校舎とし、西條学校と称した学校が須賀小学校の前身であった」とも記されている。

その疑問は、宝光寺(後掲予定)にある「まちしるべ」で明らかになる。それによると
「明治6年5月に須賀小学校の前身である西條学校が創立されたが、後に大聖院跡へ移転するまで宝光寺を校舎とした」と記されている。

ふれあいロード(鎌倉街道)

2007年12月17日 17時49分02秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
もう少しこの付近を散策してみましょう。
現在位置はここです

東粂原鷲宮神社の参道の右隣の小さな道、ここが歴史的には、注目される道です。



上の地図で黄色く引かれた道。これが鎌倉街道であったろうとといわれています。

鎌倉幕府へ通ずる道。「いざ鎌倉へ」と武士たちが向かって歩いた道。あるいは、江戸時代以前からの古道を示すとも言われる鎌倉街道。
県内には概ね5つの道筋があった事が知られ、「上道」「中道」「秩父道」の3つの幹線路があったといわれている。

その内の一つ「中道」は、鎌倉を起点として、現在の横浜、川崎、世田谷、杉並、中野、渋谷、川口、鳩ヶ谷、浦和、岩槻を経て宮代に。
さらに、杉戸、栗橋、古河公方の地「古河」を通って野木、小山、宇都宮、河内、喜連川、白河、福島、宮城、平泉へと続いていたといわれます。

この付近の「中道」は、現在の日光御成街道と重なる部分が多いのですが、宮代町の部分は少し違うようで、上の地図に示した道が鎌倉街道だったようです。



古の人も歩いたであろうこの道をゆっくり散策してみるにはいかがでしょうか。
鎌倉街道の面影を感じさせるようなものは、特にありませんが、そんな目で見るせいか、どことなく落ち着いた雰囲気が漂う家並みではあります。



この道をぶらり歩きして5分も行かないところに、銀杏の木に囲まれた仁王門が見えてきます。



長屋門形式の仁王門の中からは、今も、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神が睨みを利かす。こうした仁王門を持つ寺院は町内ではここだけです。





真蔵院は、真義真言宗。医王山大福寺と称し、本尊は不動明王。



この寺には、江戸時代前期に作られた、県内でも最も古い様式の円空仏があります。



鷲宮神社と真蔵院付近はその昔、賑わいを見せたところであったと思われます。

「平成17年11月28日から30日にかけて、大字東粂原字宿屋敷で発掘調査が行われ、鎌倉街道と推定される道路状遺構や当時の住居や工房と推定される方形竪穴遺構などが発掘された。出土遺物から室町時代(15世紀後半)の遺構と判明したので、道路状遺構は、この時代より以前に造成されたと推定される。また、平成14年度にも今回の調査地点より南側で、鎌倉街道と推定される溝状遺構が発掘されているので、東粂原字宿屋敷一体は鎌倉街道沿いの集落や宿場として交通の要所であったことが伺われる」(宮代町HPより)。
「「市場之祭文」という室町時代に書かれた文書に久米原、須賀、高岩、野田に市があったことが記されており鷲宮神社(東粂原)や真蔵院(須賀)の門前では市が開かれていた。また、現在の地名にも須賀には「宿」、東粂原には「宿屋敷」、太田新井には「宿新井」、高岩には「上宿」「下宿」などの宿地名が残り、鎌倉街道沿いの集落であったことがうかがわれる」(宮代町HPより)。


(以下 次回)

ふれあいロード(東粂原鷲宮神社)

2007年12月14日 12時12分41秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
しばらく、遊歩道を離れて、この付近を歩いてみましょう。
次に向かうのは、久米原村(東粂原村)の鎮守である鷲宮神社。
場所はここです



久米原村は、元は一つの村であったが、1800年頃に東粂原と西粂原に領地の関係で分かれたといわれる。久米原村には、二つの鷲宮神社がある所から、それぞれ東粂原鷲宮神社、西粂原鷲宮神社(後掲予定)と呼んでいる。



この東粂原鷲宮神社を土地の人は、「『わっしさま』『おわしさま』と称している」(宮代町史)。



東粂原鷲宮神社は、獅子舞の行事で有名である。

現在も7月16日に近い日曜日には、保存会の皆さんが舞を奉納している。



(獅子舞の写真は、2005年の平原演劇祭で舞われたもの。以下同)

昭和54年に刊行された「埼玉の獅子舞」(埼玉県教育委員会編)に記載されている東粂原の獅子舞の由来について宮代町史は次のように引用・記載している。
「江戸時代、新田開発が行われたが、利根川が氾濫し、作物はとれず疫病も流行した。これは、新田開発により、当地の神々の怒りを招いた故と、杉戸より習いうけ獅子舞を奉納した」



以来、獅子舞は毎年7月16日に東粂原鷲宮神社に奉納されてきたが、人出不足から昭和40年代には奉納することが出来なくなり、獅子頭を社殿に飾るだけになった。
昭和55年11月に保存会が設立され復活、昭和62年からは、7月16日に近い日曜日に奉納するようになった。



「獅子舞の上演は、獅子やひょっとこ、天狗、花笠、太鼓、笛が列をなして神社の周りを一周する村回り、神社の鳥居の前で行う門がかり、境内の末社の前で行う練り込み、鷲宮神社の本殿前での奉納の四つに分かれる」(宮代町史)



「獅子は、一人で一匹の獅子になり、三匹一組で舞う。三匹はそれぞれ、女獅子、中獅子、男獅子といわれる。中獅子と男獅子は男の獅子で、獅子頭にも角がある。女の獅子は頭上に宝珠をいただく。」(同)


ふれあいロード(天神社・三峯神社)

2007年12月13日 07時33分24秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
金剛寺山門の左手には「天神社・三峯神社」がある。



綺麗に整備されており、社の傍らには



の碑が立つ。
裏面には、この社を鎮る人々の芳名が記されている。

「宮代町史(民俗編)」(平成15年発行)を見ると
「宮代町域では村単位に鎮守を持つという基本的な形の事例は比較的少ない」「ムラの内部が『耕地』と呼ばれる小単位に地域区分され、この耕地ごとに鎮守のような神社を持つという特徴がある」「さらに、それらを包括する鎮守が存在するという、二重構造を呈することがうかがえる。宮代町域では、こうした形が多くみられる」と記されている。

この金剛寺付近も、須賀村に属し、鎮守を身代神社(宮代町の町名の基となっている神社の一つ)としている。「(須賀村は、)辰新田、須賀上、須賀下、須加島、金剛寺の五つの株と呼ばれるムラに分かれている。身代神社は、この五つの株の鎮守となっている」「金剛寺では、株の神社として天神社を祀る」(同上)と記されている。



屋敷神、株の神社、そして村の鎮守。これらの神事が、人々の生活に密接に結びつき、暮らしを彩りある豊かなものにしている様子がうかがえる。
埼玉都民、この村への移入者である私は、それらの生活にほとんどふれることなく暮らしてきた。文明という生活におぼれ、他の彩りある生活に触れないで来たことに、少し寂しさを感じる。

天神社をでて、次の妙本寺に向かう



宗派は日蓮宗。経王山と称し、本尊は十界曼荼羅。



妙本寺を辞して、村の鎮守である鷲宮神社に向かう途中。

お盆にお神酒を乗せ、田を祀っているご婦人に出会った。その姿が、違和感なく溶け込む雰囲気がこの付近にはある。

(以下 次回)

ふれあいロード(金剛寺)

2007年12月12日 13時35分58秒 | 宮代の遊歩道(水と緑のふれあいロード)
まず、現在地の確認から。
ここになります

右手には鉄塔が立っています。



見ると「河北1.2L線」となっています。

この線を進行方向にたどっていくと



沢山の鉄塔が立っているところに収まっていくようです。その話は、後にする(?)として、散歩を進めましょう。

ちょっと歩を進めると、右手奥に屋敷林に囲まれた一帯があります。



また寄り道になりますし、散歩道からは、だいぶ離れているのですが、宮代町の歴史を知るにはちょっと大事な地区、つまり、宮代町の昔の繁華街だったと思われますので、是非、寄ってみましょう。

分かりにくいですが、この道から入りましょう



道が曲がりくねっていますので、地図で確認しながら、まず、金剛寺を目指します

途中に、私が、宮代の中でのお勧めポイントの一つである、民家の塀と家並みを楽しんでください。



金剛寺。
落ち着いたたたずまいの寺である。



金剛寺は、大慈山と号する曹洞宗の寺で、室町時代後期の創立といわれ、本尊は阿弥陀如来。




この付近の字名は、この寺名を採って字金剛寺。町民体育大会でも「金剛寺」として出場している。



「字の中央を通る通称『中通』は、後に作られた道路で、かって東側は字の入り口で道路は止まり、塀に沿って迂回していたという。このような区画は中世(鎌倉時代~戦国時代)の館跡等にもよく見られ、当時の村の一端をうかがうことができるものといえよう」(宮代町が設置した「まちしるべ」より)



(以下 次回)