宮代NOW(GOOな情報)

埼玉県宮代町及び周辺のGOOな情報。

見沼代用水(8) 諏訪八幡.

2011年11月29日 21時28分07秒 | gooな場所


防草対策工事中の見沼代用水右岸を下る。

ここでトイレタイムと小休止。



大きな案内板があります。



現在地の確認。
左岸側に神社があるようです。



左岸側へは宮野橋(みやのはし)を渡る。



用水を左岸へ渡って、すぐの所にある諏訪八幡神社。



大山神社とも八幡神社とも呼ばれるという。



鳥居をくぐると、左側には神楽殿。



こしてみると、神楽殿の舞台はけっこう高さがある。



鳥居をくぐって正面には拝殿。



奉納された絵馬は、白岡町の文化財に指定されている。



さっきまで手洗いの屋根のペンキ塗りが行われていたのだが、やっと作業が終わったようだ。



屋根のペンキ塗りの前には、屋根を支える柱の修繕も行われていたようです。
近隣の人達のこうした努力があればこそ、何百年も守られてきて、さらに守られていくのでしょう。

 

(写真と文 by pokkunさん)


ポット・ホール(群馬県みどり市)

2011年11月21日 22時01分13秒 | gooな場所

渓谷にある岩石の上に何人もの人が乗っていた。

下に降りてみると、「ポット・ホール」の案内板があった。



場所は、渡良瀬川渓谷の高津戸峡。
下流に見える赤い橋は新設された高津戸橋。
渡良瀬渓谷鉄道大間々駅から歩いて15分の場所。



ポット・ホールが出来るメカニズムのご案内。



岩に書かれた矢印に沿って進むと



岩の上にポット・ホールがあり、カドが削れて丸みをおびた石が残っている。



ポット・ホールが出来た後でも、川底の侵食はどんどん進んでいき、現在の川面はポート・ホールよりも低い。



ポット・ホールは、日本語では甌穴と呼ばれる。
甌穴の甌とは、碗という意味で窪んだ場所や物を示す。
ポット・ホールは全国各地にあるそうで、天然記念物に指定されているものも数箇所あるとのこと。



碗に残っている石の大きさは、私の足と比較してほしい。
私の足は十文半(約25.5cm)である。
この石を持ち上げようと試みたが、私の力では持ち上げる事はできなかった。



すぐ上流に架かる「はねたき橋」から見下ろしたポット・ホール。(画面中央左)
この写真は10月下旬撮影のものだが、現在はトロッコ列車からの渓谷の紅葉が見頃だという。

 

(写真と文 by pokkunさん)


見沼代用水(7) 三川交差

2011年11月15日 15時57分27秒 | gooな場所


圏央道の工事現場から下ること5分。
久喜市(旧菖蒲町)と白岡町の市町境になっている柴山橋交差点に着く。
見沼代用水と平行して南北に走る県道さいたま菖蒲線と東西に走る道路(稲穂通り)との交差点である。

見沼代用水路に架かるのは柴山橋。
稲穂通りを東に(画面左)行けば白岡駅方面。



柴山橋のすぐ西側にあるのが、見沼代用水に接近してきた野通川に架かる小塚(こづか)橋。
稲穂通りを西(画面奥)へ向かえば桶川方面。



ここは三つの川が交差する地点。
西側が、隼人堀川と野通川。
東側が、隼人堀川と見沼代用水。



接近して平行に流れる野通川と見沼代用水の下を、隼人堀川が西から東へくぐって流れて行くのである。



小塚橋から見る野通川上流。



西から稲穂通りに向かって流れてくる隼人堀川。



隼人堀川は、道路(稲穂通り)の下をくぐって栢間排水機場のほうへ流れ



栢間排水機場と稲穂通りの間を東に向かって流れ



野通川に架かる小塚橋の下流側右岸の水門から野通川の川底にもぐりこみ



目には見えないが、野通川の川底の下を流れ、対岸の県道さいたま菖蒲線の下をくぐり



柴山橋の下流側で見沼代用水路の下をくぐり



見沼代用水路の左岸側へ流れてくる。
画面中央下が隼人堀川、上が見沼代用水左岸、右が柴山橋。



白岡町に入って早々、珍しい三つの川の立体交差を見た。
白岡町には川の立体交差が9箇所あるそうだ。
残りの立体交差は、後日ゆっくり見ることにして今回は見沼代用水路をさらに下流へ進む。



すぐに箕輪橋(みのわはし)に着く。



箕輪橋で一息ついて、さらに下流へと下って行く。

 

(写真と文 by pokkunさん)


桶川飛行学校(2)

2011年11月07日 20時55分31秒 | gooな場所


旧陸軍桶川飛行学校では、残っている施設の内部も公開されている。

入口から内部に入ると、まず見学者名簿への記帳を促される。



記帳を終えてまず目に入ったのがこの地図。
飛行学校から飛行場までの移動ルートが記されている。
現在の太郎右衛門橋の前の旧太郎右衛門橋や市町堺になっている古荒川などが記されている。



飛行兵が暮らした兵舎。
戦後は、引揚者が生活するアパートになったという。



飛行兵に操縦を教えた下士官室。
ここも兵舎同様、平成19年まで引揚者が暮らすアパートになっていたという。



飛行兵が操縦を練習した複翼機。
通称「赤トンボ」と呼ばれていたという。



飛行練習のフライトプランの地図。
画面左下の桶川を離陸して右の佐原まで飛び、さらに画面左上の足利を経由して桶川に戻るというコースが基本コースだったとのこと。



兵舎の部屋ごとに当時の資料が展示されている。
特攻隊として出撃した12名もここに紹介されている。



桶川から沖縄までの特攻隊の飛行ルート。
広島への原爆投下のわずか100日前のこと。



施設の見学には、「桶川飛行学校を語り継ぐ会」のメンバーが案内してくれる。
メンバーは、当時この学校に勤めていた飛行機の整備士や保健士などの関係者や、子供の頃から近くに住んでいた人たちとのこと。



どの施設もかなり傷んでおり、保存が認められたとしても修繕が必要。



施設の北に隣接する土地には、あの本田総一郎氏の別荘が今でも残っている。
ここは現在でも、本田航空で使う燃料庫のひとつとのこと。



兵舎脇の木々の間からは、飛行場手前にある現在の太郎右衛門橋が見えていた。

 

(写真と文 by pokkunさん)


桶川飛行学校(1)

2011年11月02日 17時59分48秒 | gooな場所



荒川の土手から桶川飛行場へ降りる道で、「旧陸軍熊谷飛行学校桶川分教場」の案内板を見つけた。
 


桶川に飛行学校が存在したことに驚いたが、この写真の後ろに写っている森ににも驚いた。
この森は、荒川の左岸側にある泉福寺の森である。
 


こちらは、現在の泉福寺の森。
67年が経ち、手前の景色は違っているが、後ろの泉福寺の森は昔とそれほど変わっていない。
 


この案内板を見ては、行かずにはいられない。
右岸側から太郎右衛門橋をもう一度渡って左岸側へ。
案内板によれば、橋の上流側左岸のこの森の中に学校跡があるとのこと。
 


橋を渡りきったところで、県道を北へ曲がる。
 


県道を曲がって5分ほどで突き当たりになる。
ここが旧陸軍熊谷飛行学校桶川分教場の跡である。
 


門を入ってすぐ左側に残る守衛棟。
 


守衛棟の横に残る弾薬庫。
 


門の正面に今も残る飛行学校兵舎。
 


昭和12年に出来てから74年の年月がたっている。
 


現在の本田航空の飛行場は、元々はこの飛行学校の飛行場だったという。
だから、荒川右岸の川島町側にあっても、その後の持ち主が変わっても、呼名が変わることはなく桶川飛行場ということ。
 


建物は、74年の歳月を経てかなり傷んでいる。
 


兵舎の西の端では、屋根が落ちてしまっている。
 


この飛行学校を後世に語り継ごうという運動がこの地域で起こり国に施設の保存を働きかけているとのこと。
 

(写真と文 by pokkunさん)