もう少しこの付近を散策してみましょう。
現在位置はここです。
東粂原鷲宮神社の参道の右隣の小さな道、ここが歴史的には、注目される道です。
上の地図で黄色く引かれた道。これが鎌倉街道であったろうとといわれています。
鎌倉幕府へ通ずる道。「いざ鎌倉へ」と武士たちが向かって歩いた道。あるいは、江戸時代以前からの古道を示すとも言われる鎌倉街道。
県内には概ね5つの道筋があった事が知られ、「上道」「中道」「秩父道」の3つの幹線路があったといわれている。
その内の一つ「中道」は、鎌倉を起点として、現在の横浜、川崎、世田谷、杉並、中野、渋谷、川口、鳩ヶ谷、浦和、岩槻を経て宮代に。
さらに、杉戸、栗橋、古河公方の地「古河」を通って野木、小山、宇都宮、河内、喜連川、白河、福島、宮城、平泉へと続いていたといわれます。
この付近の「中道」は、現在の日光御成街道と重なる部分が多いのですが、宮代町の部分は少し違うようで、上の地図に示した道が鎌倉街道だったようです。
古の人も歩いたであろうこの道をゆっくり散策してみるにはいかがでしょうか。
鎌倉街道の面影を感じさせるようなものは、特にありませんが、そんな目で見るせいか、どことなく落ち着いた雰囲気が漂う家並みではあります。
この道をぶらり歩きして5分も行かないところに、銀杏の木に囲まれた仁王門が見えてきます。
長屋門形式の仁王門の中からは、今も、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神が睨みを利かす。こうした仁王門を持つ寺院は町内ではここだけです。
真蔵院は、真義真言宗。医王山大福寺と称し、本尊は不動明王。
この寺には、江戸時代前期に作られた、県内でも最も古い様式の円空仏があります。
鷲宮神社と真蔵院付近はその昔、賑わいを見せたところであったと思われます。
「平成17年11月28日から30日にかけて、大字東粂原字宿屋敷で発掘調査が行われ、鎌倉街道と推定される道路状遺構や当時の住居や工房と推定される方形竪穴遺構などが発掘された。出土遺物から室町時代(15世紀後半)の遺構と判明したので、道路状遺構は、この時代より以前に造成されたと推定される。また、平成14年度にも今回の調査地点より南側で、鎌倉街道と推定される溝状遺構が発掘されているので、東粂原字宿屋敷一体は鎌倉街道沿いの集落や宿場として交通の要所であったことが伺われる」(宮代町HPより)。
「「市場之祭文」という室町時代に書かれた文書に久米原、須賀、高岩、野田に市があったことが記されており鷲宮神社(東粂原)や真蔵院(須賀)の門前では市が開かれていた。また、現在の地名にも須賀には「宿」、東粂原には「宿屋敷」、太田新井には「宿新井」、高岩には「上宿」「下宿」などの宿地名が残り、鎌倉街道沿いの集落であったことがうかがわれる」(宮代町HPより)。
(以下 次回)
現在位置はここです。
東粂原鷲宮神社の参道の右隣の小さな道、ここが歴史的には、注目される道です。
上の地図で黄色く引かれた道。これが鎌倉街道であったろうとといわれています。
鎌倉幕府へ通ずる道。「いざ鎌倉へ」と武士たちが向かって歩いた道。あるいは、江戸時代以前からの古道を示すとも言われる鎌倉街道。
県内には概ね5つの道筋があった事が知られ、「上道」「中道」「秩父道」の3つの幹線路があったといわれている。
その内の一つ「中道」は、鎌倉を起点として、現在の横浜、川崎、世田谷、杉並、中野、渋谷、川口、鳩ヶ谷、浦和、岩槻を経て宮代に。
さらに、杉戸、栗橋、古河公方の地「古河」を通って野木、小山、宇都宮、河内、喜連川、白河、福島、宮城、平泉へと続いていたといわれます。
この付近の「中道」は、現在の日光御成街道と重なる部分が多いのですが、宮代町の部分は少し違うようで、上の地図に示した道が鎌倉街道だったようです。
古の人も歩いたであろうこの道をゆっくり散策してみるにはいかがでしょうか。
鎌倉街道の面影を感じさせるようなものは、特にありませんが、そんな目で見るせいか、どことなく落ち着いた雰囲気が漂う家並みではあります。
この道をぶらり歩きして5分も行かないところに、銀杏の木に囲まれた仁王門が見えてきます。
長屋門形式の仁王門の中からは、今も、寺院内に仏敵が入り込むことを防ぐ守護神が睨みを利かす。こうした仁王門を持つ寺院は町内ではここだけです。
真蔵院は、真義真言宗。医王山大福寺と称し、本尊は不動明王。
この寺には、江戸時代前期に作られた、県内でも最も古い様式の円空仏があります。
鷲宮神社と真蔵院付近はその昔、賑わいを見せたところであったと思われます。
「平成17年11月28日から30日にかけて、大字東粂原字宿屋敷で発掘調査が行われ、鎌倉街道と推定される道路状遺構や当時の住居や工房と推定される方形竪穴遺構などが発掘された。出土遺物から室町時代(15世紀後半)の遺構と判明したので、道路状遺構は、この時代より以前に造成されたと推定される。また、平成14年度にも今回の調査地点より南側で、鎌倉街道と推定される溝状遺構が発掘されているので、東粂原字宿屋敷一体は鎌倉街道沿いの集落や宿場として交通の要所であったことが伺われる」(宮代町HPより)。
「「市場之祭文」という室町時代に書かれた文書に久米原、須賀、高岩、野田に市があったことが記されており鷲宮神社(東粂原)や真蔵院(須賀)の門前では市が開かれていた。また、現在の地名にも須賀には「宿」、東粂原には「宿屋敷」、太田新井には「宿新井」、高岩には「上宿」「下宿」などの宿地名が残り、鎌倉街道沿いの集落であったことがうかがわれる」(宮代町HPより)。
(以下 次回)