靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

モンテッソ-リ幼児教育について、まとめ

2013-07-21 03:09:16 | 子育てノート
長男が三歳になり初めて通ったプレスクールが、モンテッソーリ式の学校でした。忠実にモンテッソーリ方式に基づいた教育を行っているアンカレッジに数少ない学校の一つ、そう評判の人気のある学校でした。教室に入ると、モンテッソーリ式教具が整然と並べられ、子供達は静かにそれぞれの「ワーク」に取り組んでいます。長男も初めは家庭環境と全く違う施設的な雰囲気にとまどっていましたが、次第に慣れたようでした。

子供達は、前に立ち講義する先生を見つめながら、一斉に同じことを教えられるという伝統的な方法で学ぶのではなく、自身の興味に応じ、教室の至るところに置かれた教具を選び、各自で取り組むことで学習していきます。アルファベットの読み書き、形の学習、カレンダーを作って数や曜日を学ぶといった、全く違った「ワーク」が、教室中のあちらこちらで同時進行になされるのです。子供が新しい「ワーク」に興味を示すたびに、その教具の用い方が教えられます。三歳から五歳までを一緒
にするモンテッソリー式のクラスでは、先生だけでなく、年上の子が下の子達に教具の用い方を教える役割も担っています。

モンテッソーリ教育では、子供の興味好奇心、個性を大切にし、自発的に自由に取り組みをさせ、「自分でできる!」という体験を通し、自立心を育てることを目指しています。また子供が特定のことに興味を持つのは、その特定のことに対する「敏感期」のサインであり、その時期をうまく捉えサポートし伸ばしていくことが、教育の鍵だとされます。先生は黒子に徹し、その子の興味や学び具合を観察しつつ、子供が子供自身の可能性を伸ばしていけるよう、環境を整えるなど影でサポートします。

長男の先生は、「成功したモンテッソーリ式のクラスというのは、生徒一人一人が自分のワークに夢中となり、先生などそこにいないというような状態なんですよ」とおっしゃっていました。独自の教具は、紙に書かれたプリント問題といったものではなく、一つ一つが五感や身体感覚を通して学ぶことを大切に考えられ、制作されています。自立心や知的面の発達を促すのには、素晴らしい環境でした。


・「遊ぶ」ということにとまどった三歳の長男
ただ三歳の長男にとっては、これほどシステマティックな環境は、まだ早すぎたかなと感じています。囲まれた教具に次から次へと興味を持ち、教室にいる三時間近く、確かに一心に集中してワークを続けます。良質の教具を自分の意志で選び、一つ一つこれはこう使うのですと教えられ、一つまた一つとマスターしていき、自分のペースで学習を進めていくのですが、それでもこうした枠組みの中で、週五日間繰り返しのワークを続けることは、長男の場合はもう少し待ってからでよかったのだと思っています。

教室から出て、小川に遊びに行った時の長男の言葉に、はっとさせられことがあります。「僕はここでどんなワークをすればいいの?」大自然を前に、どう遊んだらいいのかと途方にくれる三歳児がいました。

元々モンテッソーリ氏は、二十四歳まで続くカリキュラムとして、モンテッソーリ教育法を組み立てたと言われます。日本では、幼児教育として取り入れられることの多いモンテッソーリ教育ですが、欧米ではむしろ小学校に上がってから用いる学校も多いのです。モンテッソーリ教育法は世界的に広く受け入れられ、その教育法を実践する学校は現在世界中に二万近くあるといいます。またモンテッソーリ式の学校を卒業し、創造的な仕事をし活躍する人々は、世界中に多くいます。インターネットで活躍するグーグル、ウキペディア、アマゾンの創設者などもその中の人々です。

ですから幼い時期の一年間だけでなく、より長い間モンテッソーリ式の学校に通うことで、設定のない環境では何をしたらいいのかと戸惑うのではなく、教室で「ワーク」を繰り返すことで身につける原理を、目の前の小川や様々な環境でも、創造的に生かすことができるようになっていたということもあるでしょう。三歳という幼い時期の一年間の体験だけでは、この教育法の成果を語ることなどできませんが、ここでは、その限られた体験であることを踏まえつつ、モンテッソーリ教育について、感じたことをまとめてみます。


・マリア・モンテッソーリ氏が導き出した方法
医師であり教育者であるマリア・モンテッソーリ氏は、貧困家庭の心的障害を持つ子供達を対象とした研究を始まりとして、やがて一般的な子供達も視野に入れた研究を、その生涯を通して続けました。氏は、整えられた環境という「秩序」を契機として、「ワーク」に没頭する「集中現象」を起こすことで、子供達は「正常(精神の受肉化)」に至り、心身が健全に育つと考えます。

「私たち現代の人類はひどい混乱の中で暮らしています。そこで私たちは、子どもには安定、秩序、調和、愛について語り、教育しなければなりません。子どもは、本来的に秩序を愛する資質を持っているのです」という氏の言葉は、心に響きます。氏は、子供が本来持っているはずの「秩序」を回復することこそが、将来の世界の平和に繋がるのだと言います。

 そして「雑然とした破壊的でとりとめもない雑念や妄想」「外からの画一的なイメージの注入」などの秩序を乱す要素を取り去るため、「人形遊びやごっこ遊びや童話」を否定します。「子どもは遊びを本質とせず、むしろワークを欲している」と言うのです。長男を受け持つ先生に、「動物が洋服を着て話しをしたりといった、実際にあり得ないような絵本は避けてください」と言われたことがあります。モンテッソーリ氏が導き出した方法を理解するならば、この先生の言葉も納得がいくものです。そして、整然と用意された環境ではない大自然の中で、大小長短様々な石や小枝、ぬるぬるとした泥や澄んだ水という「遊び道具」が溢れているにも関わらず、どうして遊んだらいいのかととまどった長男の反応も、また納得がいくのです。


・想像的な遊びと「子供本来が持つ秩序」
モンテッソーリ氏の考える、「人類は混乱していて秩序を戻す必要がある、子供本来が持つ秩序を回復させ、混乱した大人が邪魔をするべきでない」という立場には、とても共感します。整えられた秩序の中で、良質の教具を用い集中することが、子供の本来の秩序を育てるというモンテッソーリ氏の見出した手法は、混乱した情報の溢れる現代の子供達を取り巻く環境において、ますます必要とされるものであるだろうとも思います。

それでも私自身は、子供達が目を輝かせて童話を聞き、人形を抱きながらそっとララバイを歌い、あらゆる存在になり切ってごっこ遊びをすることは、子供の成長にとって大いにポジティブな影響を与え得ると感じています。むしろそんな想像的な遊びにこそ、未来の世界への可能性が秘められているのではないかと思うのです。確かに想像遊びには、良質なものと破壊的で秩序を乱すものがあるでしょう。それでも一切を排他してしまうことは、子供の可能性を狭めることにもなりはしないか、また想像で「破壊」を体験することで、欲望が昇華されるといった、人の心理の複雑な面もあり得るようにも思うのです。

モンテッソーリ氏は晩年、「祝祭や象徴的伝達に、精神の創造性の意義を認めるようになっていった」という研究もあるようです。ひょっとしたら、モンテッソーリ氏は、その膨大な研究の積み重ねの上に、ごっこ遊びや物語などの子供の想像性(「象徴的伝達」)にをも、「本来の秩序」の可能性を見出すような教育の形を、築くことになっていたのかもしれません。もう少し長生きして研究を続けていただきたかったと勝手なことを思いながらも、モンテッソーリ氏の提起した「子供が本来持つ秩序を育てる」ということを心に留め、子供達に向き合っていきたいと思っています。


・モンテッソーリとウォルドルフ
 整えられた環境での「ワーク」への集中、そしてごっこ遊びや良質なストーリー・テリング、そんなモンテッソーリとウォルドルフがバランスよく取り込まれた教育の形があればなあ、そんなことを思ったものです。結局、長男は一年間お世話になった学校を後に、翌年からウォルドルフ・プレスクールに通い始めました。そしてその後、下の三子ともウォルドルフのプレスクールに通うことになります。

どんな方法が合っているかどうかは、家庭環境やその子の性質に拠ります。家の中で一人でいる機会の多い長男には、独自にワークに集中し続けるモンテッソリー式よりも、自由にお友達と遊ぶ時間を大切にするウォルドルフスクールの方が必要だったのだと思っています。またごっこ遊びや物語の住人になることが大好きな娘たちにも、ウォルドルフスクールが合っていたように思います。それでも普段上の子たちに囲まれ、姉たちのごっこ遊びに浸り、一人の時間ができるとここぞとばかり目を輝かせ積み木やブロックで何かを作ることに夢中になっている五番目の子には、集中してワークのできる環境を整えてやることの方が必要なのかもしれない、そう思いもします。

ワークを通して秩序を取り戻し能力を引き伸ばしていこうとするモンテソーリ、自由な遊びやストーリテリングを通し想像性を育もうとするウォルドルフ。学校を選ぶ上で、家庭では提供できないと思われる環境や方法を選択するというのも、一つの手です。家庭とのバランスを取りつつ、その子に合った方法を選んでいきたいです。


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