靴下にはそっとオレンジを忍ばせて

南米出身の夫とアラスカで二男三女を育てる日々、書き留めておきたいこと。

夏休み、嵐の底に

2013-06-02 10:02:08 | 子育てノート
毎日目の回る日々で。夏休みの日々の流れ、ざっとみるとこういった感じなのですが:

朝五時頃起床(就寝時間により四時半になったり五時過ぎになったり。なるべく六時間半は寝るように)、書く。

七時過ぎから子供達が徐々に起き始め、朝食の用意をしたり、とろんとしている下の子達を抱っこしたり着替えさせたり(朝自分から遊び出すまでしばらくそばにいると次男の安定によし)、夏休みワークの準備(上四人のMath、Language Art、 Reading課題を整える。自分も兄姉と同じことをしたい次男はABCを書いたり足し算したりの真似事)。

九時ワーク開始。上の子達になるほど課題の量も増えるけれど、一人十五分から一時間もあれば済むくらいの量。

ワークが終わると子供達は日々の家事分担チャートを見ながら、家事。その間にワークの添削し、一人一人呼び、間違っている部分などを見直したり同じような問題をして分かるようにしたり。この朝の時間に、次女のサッカーの朝練習の送り迎え(往復三十分程を二回するので一時間ずれ込む)が週二回入る。

そうしていると十二時過ぎ。昼ごはん作り食べさせ片付け。

一時半頃から四時頃まで、日用品食料買出しやハイキングなどのアクティビティー。

四時過ぎからは水泳、ダンス、サッカーなどの送り迎えで出たり入ったりしつつ、夕飯準備食べさせ片付け。

十時頃就寝。

長男長女の水泳は交互に週三回なので毎日、次女のサッカーは週二日練習(朝夜二回)週二日試合で毎日、来週からは週四回の三女の水泳(長男長女のように降ろして迎えるだけとはいかず一時間ほどついている必要あり)が始まり、長女のダンスも週一から週三回に。何時に誰をどこに送り迎えるのか、全部をこなすのにどんな手順道順がいいのか、日によって時間が微妙に変更になったりで、何だか毎日謎々を解いているよう。誰か足りない!○○の迎え忘れてる!なんてことも。昨日は、長女の水泳練習があること自体忘れてたり・・・(あっ!と出かけ先で思い出し)。

子供達の友人からの遊びの誘いも、親同士がアレンジしてスケジュールに組み入れていく。今週は、映画館だったり、湖へ行こうだったり。こちらは自分で出かけて遊びにというわけにはなかなかいかず(上の子達は自転車で近所を走る、近所の湖へカヤックなどできますが)、ほとんどの場合、車で送り迎えが必要。また三歳から十三歳まで皆が楽しめるアクティビティーへ、というのもなかなかチャレンジングで。上の子達が目を輝かせる横で、ちびっ子たちが帰りた~いとなることも。

次男と三女と少しゆったりする時を整える(膝に抱っこして絵本読んだり)よう心がけることも思い出して。もし次男のチックの件がなかったら一日中突っ走っていたでしょう。それでも昼寝時間はなかなかとれず。できる限りの気を配り。夏休み前にサインを送ってくれ、じっくり向き合えたこと、ありがたいです。


こんな日々のスケジュールの合間に、「○○が何した何言った」のいざこざを叱り飛ばしたり、割って入り話し合いしたり(いざこざの度に、血圧かなり上昇)、打ったすりむいたと泣きべその子をなだめすかしたり、が散りばめられ。

そうして夕方近くになると、五人の名前が一発で出なくなります。長女を前に「あ、○○じゃなかった、○○、じゃなかった○○」と他の四人の名前を言って最後に本人の名前が出てきたり。ここに犬の名前が混じることも多くあり。こうなってくると、ああ、かなり疲れてきてるなと自覚。昔友人が、夏休みになると親戚皆でおばあちゃんの家に集まっていたのだけれど、おばあちゃんいつも従兄弟たちの名前こんがらがっていてね、と言っていたのを思い出します。

そんな朦朧としたところに、「ガム食べていい?キャンディー食べていい?DVD見ていい?」と三女と次女の明るい声がBGMのように流れ、ついつい肯き、しまったと我に返ると、歓声をあげ走り去る二人の背中が見えたり。

今週五人といるところを垣間見た友人達、そのノンストップ賑やかカオス振りに、しばし言葉を失い。ひっきりなしに何かが起こり続け、常に誰かが話しかけてくる(だいたい二・三人同時)状況。「顔中耳だらけにしないと間に合わないよね」と少し引きつった友人の表情が印象的でした。(笑) 電話口でも、今そこ何人いるの? 動物なんかもいっぱいいたりする? と聞かれることもしばしば。

毎年夏休みしてきましたが、大きくなるにつれ、それぞれのニーズも複雑多岐に。私自身のバージョンアップも迫られます

これ、さ、三ヶ月持つのだろうか・・・、ぼそりとつぶやく自分を、まあなんとかしようよ! と励ましつつ。




こんな夏休み始まり週。しゃれになってないと言いながらも、一緒に笑い転げ、腕を肩を組んで歩き、一つ一つの話題にも少し突っ込んだ話をして感慨深かったり、過ごす時間が多いとやっぱり互いの距離も近くなるなあと感じたり。特に上の子達は、学校へ毎日行っている時より、角がとれていくようなところが。普段気を張って頑張っているんでしょうね。

きついことも盛りだくさんだけれど、嬉し楽しいことも絶え間なく。嵐の中でもみくちゃになりながらも、底のところでは、温もりの中にありがたいなあと感じている自分がいます。

嵐は渦巻き続け、あ~れ~と吹き飛ばされることもあるわけですが、今日も溢れる喜びと共に、一歩一歩歩いていきます。


夏休みな毎日、なかなかブログにむけて頭を整理するリズムもつかめず、書きたいこともたまり気味なのですが、しばらくは日常や旅の風景を少しずつでも載せていきたいです。時間をみつけて少しずつ形にしていきます。

来週末から八日間ほど、アラスカ州の南、アンカレッジから十六時間ほど車で走ったところにあるヘインズへ旅する予定です。行き帰りキャンプに現地では知り合いのB&Bに。ブログはしばらく休むことになります。帰ってきたら、アラスカの南の風景を、報告させていただきます。ぞろぞろ大移動、楽しみです!

読んで下さる皆様に感謝を込めて。

皆様の夏が素晴らしいものでありますように!

Have a wonderful summer!



日常風景:

夏日な一週間が続きました。外に出ずっぱりで太陽満喫!

サッカーシーズン始まりのバーベキュー。列に並び、


ハンバーガーが焼けるのを待つ。


翌日のサッカー練習。

広くて気持ちいい場があると、どうしても回転したくなる長女。(笑)

デッキでランチ、


下をのぞくと、長男が友人君たちと近所の湖にカヤックへ。


ミッドタウンの池。

いつもはこの時期ヒナがいるのに、いないね、今年。

「無条件に愛する」と「利き手で抱える」

2013-06-02 10:00:36 | 子育てノート
「無条件に受け容れ愛する」とは、両手ではなく「利き手で抱える」ということ  

「無条件に受け容れ愛する」が大切と聞くと、何でもかんでも子供のやりたい放題にさせるのかと思われるかもしれません。私自身も、「ありのままを受け容れ愛そう」と、叱ることを止め、子供の好き放題にさせてみたことがあります。結果は、カオスです。想像してみて下さい、五人の子供が感情の赴くままに好き勝手に動き回り、何をしても許されるという状態を!
 
子供というのは、大人がタブーとする境界を無邪気に越えていくものです。子供のしたいようにさせ、子供の欲しがるものを与え続けるだけでは、その子自身が我慢を身につける機会を逃し、長い目で見ると、その子に可愛そうなことをしているだけでしかありません。

教育哲学者のルソーの言葉に、「子供をだめにしたかったら、欲しがるものを何でも与えることです」というのがあります。「無条件に受け容れ愛する」というのは、子供を野放しにし、やりたい放題させればいいということではなく、「条件をつけ受け容れない」といった働きかけと同時に心がけていくものです。「無条件に受け容れ愛する」とは、子育てにおいて確かに最も大切な働きかけですが、それだけでは、子供は育ちません。子供を育てるには、「条件づけ」し、それらの条件の中で、時にはその子の行為を否定し、叱り、諭し、導く必要があります。それでも同時に、「無条件」に受け容れ愛していくのです。

 それは、どんなに叱ってもどんなにそれは良くないと諭したとしても、心の底のところで、その子を受け容れ愛しているということです。その子が気に入らないことや、すぐには呑み込めないことでも踏み込んで示し、思春期にもなれば、互いにそんなこと納得できやしないと、その場は喧嘩別れのようになったとしても、しばらくして歩み寄り、再び話し合い笑い合える関係を築いていくということ。時には「ちょっといいかげんにしなさいよ!」と、感情的に怒り、それでもしばらく時間が立てば、また向き合い、笑い合い、「I love you」と言い合える絆を築いていくということです。

「無条件に受け容れ愛する」と、「条件をつけ受け容れない」とは、子育てにおいてどちらも重要な、二つで一つのセットだと言えるかもしれません。どちらか片方だけでは、子供は成長しません。相矛盾して見えるこれら二つの働きかけについて、大きなヒントをもらった出来事があります。

幼い子を四人抱えていた頃のことです。会席の場でもぞもぞし始めた子供達を連れ会場から出、ロビーをはしゃいで走り回る子供達を追い掛け回し、少し落ち着いたところ、ソファに座り赤ちゃんへの授乳を始めました。すると目の前の白髪の女性が、話しかけて下さいました。

お話を伺う内に、七人の子供さんを育てられたこと、今は五十人近くの孫と百人近いひ孫に囲まれ暮らしているということ、二十世紀半ばに、ロシアから米国へ家族で移民して来たユダヤ教徒であるということが分かりました。見ず知らずの私にも、穏やかに心を開いて話して下さり、周りを走り回る子供達を目を細め見守って下さるそのご様子に、私自身ゆったりと温かい気持ちになっていました。

ロシアでの宗教弾圧を逃れ、米国へと渡り、私などの想像もはるかに超えた大変な状況の中、子供さんを育てられてきたに違いないその子育ての大先輩。多くの荒波を越えながらも、こうして穏やかに愛情のこもった眼差しで子供達を見つめるその様子に、どうしても聞いてみたくなり尋ねてみました。

「私は日本から遠く離れ、子育てをしています。日本とアメリカとでは事情も随分と違い、とまどうことも多くあります。例えどこにいたとしても、どんな状況にあったとしても、子育てでこれは知っておくといいというようなことがありましたら、教えて下さいませんか?」

 腕の中の赤ちゃんをあやしながら、そう聞く私に、その方は静かに答えました。

「子育ての秘訣はね、右手で抱え、左手で押すのですよ」

右手とは、ここでは「利き手」を意味するのだそうです。強く力の入る利き手でしっかりと抱きつつ、少し弱いもう片方の手で時には叱りもしながら教え導いていく、この一見矛盾して見える行為を同時にすること、それが秘訣なのだと教えて下さいました。ユダヤの人々の間で、何千年にも渡り受け継がれている聖典『トラ』に記されているのですよと。

それ以来、この右手と左手のイメージは、私の子育て生活での、中心的な指針となっています。「無条件に受け容れ愛し」ながらも「条件をつけ受け容れない」、その両方が必要なのだと体験から漠然とは感じていましたが、この言葉に出会い、その両者のバランスが、ストンと整理されたように感じました。

常に「無条件に受け容れ愛する」を利き手でするということ。常にそちらにより重きをおいていくということ。例え叱り飛ばしたとしても、利き手では常に抱き続けている。このイメージを心に留めておくことで、私自身子供に接する姿勢が随分と違ってきました。ああ今は利き手がだらりと下がってしまっているな、ああさっきはちょっと強く押しすぎたかなと、バランスをとる上での大きな助けになっています。

 「無条件に受け容れ愛する」と「条件をつけ受け容れない」、頭で考えると相矛盾し相容れないように思えるのですが、実際はできます。考え込まずとも、右手と左手が「抱える」と「押す」といった、全く違った動作を同時にすることができるようにです。

その老女性からお話をお聞きしてから、何年かしたある日、台所のカウンターに積まれた郵便物の一つ一つに目を通していた時のことです。何の宗教にも属していない私を気にかけ、クリスチャンの知人が定期的に送ってくれる会報誌に、聖書から引用されたこんなフレーズを見つけました。

「あなたのみ手はその所で私を導き、あなたの右のみ手はわたしをささえられます」(詩篇139篇」

「詩篇」とは『旧約聖書』に収められ、ユダヤの聖典『トラ』とは、この『旧約聖書』のことでもあります。あの老女性がおっしゃっていた「子育ての秘訣」とは、このフレーズを指していたのだと思い当たりました。

そして驚いたことに、それは聖書に描かれる「神」が、人々を見守る姿を表した言葉だったのです。教えて下さった老女性の、「親というのは、そんな姿勢で子供に接するのですよ」という言葉が、その静かな微笑と共に、胸に残っています。

利き手で常にその子をしっかり抱いていると、イメージしてみて下さい。このイメージが、「無条件に受け容れ愛する」と心がける上で、役に立ちます。それでも私達は「神様」ではありませんから、完璧にできるわけがないのです。時に勢いよく突き放すことがあろうとも、より強く力の入る利き手では、常に抱いている、そう自らを省み自分なりに調整していく、完璧とはいかずとも、少しでも良くあろうと、自分なりの心がけや努力を続けていくことです。

常に利き手で抱いている、どんな状況にあろうとも「無条件に受け容れ愛している」、その親の利き手の温もりが、子供達の内に、安心する力を育みます。

子育てノート、手伝い過ぎず、無理させ過ぎず

2013-06-02 09:59:39 | 子育てノート
手伝い過ぎず、無理させ過ぎず 

子供が転んだとしても、様子を見て自分で立ち上がることができそうなら、自分で立ち上がらせます。持っている物を落としたのなら、すぐに取ってやるのではなく、できるようならば自分でとらせます。その際、「自分でしなさい」と言うより、「自分で立ち上がれるんだね、すごいね」「あら、自分で拾えちゃうのねえ」と、自分ですることを励ますような言い方をします。または危ない状況でないと確認できたのならば、わざと見ないふりをするという手もあります。子供は主体的にあれやこれやと工夫し思い通りにしようとする時に、大きな力をつけます。

子供は親が思う以上に、様々なことができるものです。また日々成長もしています。先週できなかったことが、今週できるようになっていて驚いたという経験は、子供達と接していると、よくあることです。それでもついつい、昨日と先週と一ヶ月前と三ヶ月前と、全く同じ状態であるように子供達を扱ってしまうことがあります。親も「この子にできるリスト」を日々アップデートしていく必要があります。「これは本当にこの子にできないのだろうか?」 そう改めて吟味してみると、ぞくぞくと新たにできることが加わるものです。

弁当箱を流し台に置く、弁当箱を洗う、車のドアを開ける、シートベルトを締める、ジャムの蓋を開ける、お菓子の包み紙を開ける、ドアの鍵を閉める、電気のスイッチをつける、洗濯物を畳む、みかんを剥く、皿洗いをする、皿を戸棚にしまう、など、実はできるけれど、ついつい手を貸していることというのは、随分とあるものだと気がつきます。

また大人一人でした方が、ぱっと早くできてしまうからとついつい自分でしてしまうということもあります。それでも「いずれ一人でできるようになるための訓練なのだから」と割り切って、時間を調整しつつ、普段から、なるべくできることは子供達にしてもらうよう心がけていきます。


こちら米国の子供達は、驚くほど大人びてしっかりしているなと思うことがあります。中学生にもなれば、もう大人と見分けがつかない程ですが、三歳児や四歳児でも、日本で言う「おませ」というか、まるで周りの大人と対等かのように振舞う子供達も多いのです。こちらで子育てをする内に、それは周りの大人達の、子供への接し方が大きく関わっているのだなと思うようになりました。

日本を含めアジアのお母さんを見ていると、子供達のすることを、本当に手取り足取りよく手伝います、話し方も子供向けの言葉を用い、かなり大きくなっても子ども扱いするようなところがあります。一方、こちらのお母さんたちは、朝もたもたしていたら助けるよりは、そのまま遅刻させ、もたもたしているとどうなるかを体験させる、忘れ物をしたならばすぐに届けることをせず、ないといかに困るかという体験をさせる、そうより突き放した育て方をしているように感じます。また話し方も、小さな子へ用いる特別な言葉遣いなどは早く卒業し、筋道を立て論理的に、大人に接するような話し方をします。

例えばバレエ教室や水泳教室での様子です。三歳四歳児でごったがえす更衣室。日本やアジアのお母さんたちは、頭を拭いてやり、身体中きれいに乾かし、逃げ回る子を追いかけパンツをはかせ、レオタードやタオルや水着をきれいにたたんで鞄にしまってやり。その隣で、こちらのお母さん達は、更衣室の扉をあけ、「できた? そう、まだなのね、じゃあ、あと五分ね」そう言ってバタンと扉を閉める。遊んでいた子供達は、はっとした顔でいそいそと着ているものを脱ぎ、髪を乾かし、シャツを着込み、レオタードや水着を鞄に入れ更衣室から急いで出て行きます。

 ところがよく観察していると、手伝い過ぎ、ほったらかし過ぎと、日本と米国とで両極端に広がりが見られる中、日本でも米国でも、その中間あたりを進んでいる親御さん方がいるのに気が付きます。彼女彼等は、子供の様子を細かく的確に読み取り、決して手伝い過ぎず、かといって無理させ過ぎず、その都度その場合に応じて、その子にぴったりのペースで、その子にぴったりの高さのハードルを置いていくのです。

 更衣室では、全てを手伝うのではなく、シャツは自分でできるけれど、湿った足にタイツを履くのはまだ難しいので手伝ってやる。手伝いながらも、よく足を乾かしておくと履きやすいわよ、タイツはこうやって持つと履きやすい、そんなヒントも散りばめ、いずれ自分で履けるよう導いていく。そして疲れていたりお腹がすいていたりと機嫌の悪いときは、臨機応変に「今日は一緒にしようか」と手伝ってやる。学校への忘れ物も、本当に大切な物や、無いことで周りに迷惑がかかりそうな場合は、結果を体験させるよりも、届けに駆けつける。

その時その場の文脈によって、手伝ったり、自分でさせたりと、うまく使い分けているのです。手伝わない手伝うといったことに画一的にとらわれることなく、その時のその子にあったハードルを、タイミングよくおいていく、そうして育てられた子供達は、してもらうのを待っているだけでもなく、大人ぶった様子でもなく、目の前の物事や課題へと、より意欲的主体的に取り組むようになるのじゃないか、そう感じています。

異性関係、こうして今、親として

2013-06-02 09:58:08 | 子育てノート
一昨日の夜11時頃、うつらうつらしていると玄関のドアをノックする音。夫が出て話している声。戻ってきた夫によると、女の子が二人立っていたとのこと。「皆寝ている。何?」と聞くと、「○○(長男)に会いに来た」と。

翌日夕方、友人達と「たらの芽」摘みに出払い、仕事から帰った夫が一人で家にいると、同じ女の子二人が。前夜、「こんな時間に!」と怒った態度で接したので、もう来るのを控えるかと思ったらば、全く気にした様子もなかったと。「今いない」「どこにいる?」「残りの家族と出かけている」「何時に戻る?」「夜も予定入っている」「何時なら空いている?」と全くひるまず。

先月日中一度、女の子が二人突然訪ねて来て長男が玄関で少し立ち話していたことがあるので、てっきりまたその子達だと思い、朝長男に真夜中近くに訪ねてくるなんてもうこれからしないようにと伝えるよう話し合い。ところが長男が朝メールでその女友達に聞くと、夜中に訪ねるなどしてないとのこと。どうも、一昨日の夕方、長男が前庭の落ち葉かきをしていたところを自転車で通りがかり、声をかけてきた見知らぬ女の子達だったよう。十五歳と十三歳、近所の中学校に通う子達らしいと。昨日は、長男の手伝いをしてくれようと思ったのか、落ち葉かきを自転車に結わえ付けて!(手がもう全然足りず、庭までなかなか回らないので、手伝ってくれるのは本当にありがたいのですが。)

ファミリーディナーを終え昨夜九時半頃、再びノック。どうやら「今夜予定がある」という夫の言葉も全く耳に入っていなかったよう。長男が出ていくと、「○○~!」と長男の名前を呼ぶ高らかな声が。「遊ぼう!」と(って夜10時近く)。「今日も明日も予定がつまっている」と伝える長男。

長男は全然「もてる」ということではないのですが、長い冬を終え芽吹き時に、手が届きそうな同じ年頃の男の子が、たまたま身近なところにいた、ということなのでしょう。

こちらの女の子の中には、本当に解放的で積極的な子がいて。周りを省みずの猛アタック、子供達の友人仲間の話を聞いていても思います。

ただ、これがもう十三歳もうすぐ十四歳となると、「遊んでらっしゃい!」と手を振って送り出し、微笑ましく見守るというわけにもいかず。

こうして夜中近くも友達とサイクリングに出かけてしまえる環境にある、まだ小学校卒業したばかりの可愛らしい子達。こんな北の果てでも、目を覆いたくなるような事件が結構頻繁にあり、こちらが心配になってしまいます。



実際の子供達の身近な友人達に起こっていることを見るとき、性教育など、体の仕組みや構造については公立小学校の高学年の時点で、学校でかなり詳しいところまで教えられているのですが、家庭でも、バリュー面から、妊娠中絶、子供を持つということの現実的な厳しさ(若い体への負担、経済的な大変さ、子育ての大変さ)などについてを伝えていく必要性を、痛感しています。クラスでも小学高学年にもなれば、スマートフォンやmy iPad、 my rap topを持っていない子を見つける方が難しいというような状況。ネットを繋げば、例え「ペアレントコントロール」などが整えてあったとしても、隙をぬって様々な情報や映像が飛び込んできます。

異性関係、親としては、あれやこれやと目移りせず、この子!と思う子にコミットし、時間をかけて愛情関係をじっくり築いてくれたらなと思うのですが。私自身は、一人にコミットするということならば、今からでも早すぎるとは全然思わず。むしろ「この子!」という関係を作っておく方が、そわそわすることもあるだろうこれからも、あれやこれや惑わされずいいだろうとさえ思ったり。

といって私自身の育った時代でさえ、そんな「一人と一生」的な世界は遥かかなたの絵空事。そして私自身、そんな時代の雰囲気にどっぷり浸った十代を過ごし。

早くから刺激の強い情報に囲まれた今の子供に、「コミットメントが大切、一生に一人くらいの心構えで」と教えても、雲をつかむような話だろうとは思いつつも、親の体験からの学びとして伝えていきたいです。

異性関係に関しては、百のお試しより、一のコミットメントの方がよほど学びがあり人を奥深くから成長させるよと。初めにコミットメントありき。その目の前の相手に、共にいい時大変なときを越え、共に暮らし、共に老いていく、そして共に次世代その次の世代を育てていくイメージを描く。そんな世界観を共有できる人と付き合っていく。

子供達も、これから色々な波を越えるのでしょうが、心の片隅に、ああ、あんなことママとパパが言ってたなあ、そんな価値観もあるんだよなあ、そう思い出してくれる時もあるだろうと、願いつつ。

「たらの芽」摘みにダム作りに

2013-06-02 09:56:51 | 風景・散歩・旅
五月後半になっても雪が降るなど、さむ~かった四月五月。普段は五月中旬には芽を出している頃なのですが、今年は今週くらいがちょうどいい感じ。

昨日は南へ30分ほど走り、「たらの芽」(正確にはハリブキ。こちらの日本人の間ではその香りの強さが似ていることから「たらの芽」と呼ばれている。英語ではDevil's Club)摘み!


あるある!

この先の部分を摘む。枝はとげとげ。

マウンテン・スピナッチ(ゆりの芽?)も、


ツクシも!


子供達は摘むより、ダム作りに忙しく。

こうした小川があると、家の場合は3歳から13歳まで、かなりの時間夢中で遊んでられます。

こんな椅子にくつろぎ。


岩へもどんどん登り、


どんどん小さくなって、

青空に吸い込まれていく。

山!岩!海!


駐車場でのボール遊びで夕方過ぎまで。



帰宅してさてさて。


外皮やトゲをとって。


てんぷらにしていただきました。さくさくと一気に完食。友人の作った「たらの芽」甘味噌和えおにぎりも最高に美味しかった。

初夏の風、初夏の味、満喫!