お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

父の事を考える歳になってきた。

2005年04月05日 | 家族
昭和3年9月(1928年)、僕の父は神戸で生まれた。最近、父の事を考える事が多い。今日は、築地の新聞社に歩いていく途中に、「踏切のランプ」だけがぽつんとあり、説明書きを読んでみると、昭和6年から昭和62年まで、国鉄汐留駅から「築地市場」までの引込み線がそこを走っていた記念に「踏切のランプ」を残してあると書いてあった。国鉄汐留駅とは、日本で一番最初に鉄道が開通した「新橋-横浜」間の新橋駅に当たる。昭和6年というと、父は3歳。何をしていたのだろうと思う。愛知万博のニュースが流れる中、僕達の心に強く刻まれたあの「大阪万博」(昭和45年)の時、父は42歳で新聞記者として、万博の取材をしていた。僕は小学校五年生で、学校から万博に行き、買ってもらったばかりの「シャープペンシル」をリックサックに穴が開いていて、落としたという、痛恨の記憶がある。当時で一本500円。高価な買い物だった。あの時の父よりも歳を取ってしまった。
西暦でいえば、1929年、父が一歳の時に「マルクスブラザーズ」が「ココナッツ」でスクリーンデビューを飾っている。チャールズ・チャップリンは確か1889年生まれのはずだから、父が生まれた年にはチャップリン40歳という事になる。
阪東妻三郎が亡くなったのが昭和28年、父は25歳だった。翌年昭和29年(1954年)、黒澤明は「七人の侍」を撮り、本多猪四郎は「ゴジラ」を撮った。東京オリンピックの昭和39年、父36歳、僕4歳。
今の僕の歳、45歳の頃、父は昭和48年「オイルショック」の真っ只中にいた。
このところ、何かをするにつけて、父はこの年齢の時、子供達とどう接していたのか・・・とか、「父の生まれた頃、昭和初期の日本」は「大正デモクラシー」から「軍国主義」へと流れていく時代で、その中でどんな風に育てられたのだろうとしきりに思う様になった。終戦の昭和20年には17歳。多感な時期に、日本は大きな転機を迎えていた。父は東京で新聞社に入社。やかて、大阪への新聞社の進出で、大阪へと移る。東京の新聞社の中を仕事で歩いていると、父の入社当時と場所は変わっているけれども、父もこの社屋に何度か訪れたんだなぁと、感慨に耽ってしまう。新聞社で出世した訳でも無く、でも家庭ではいつも笑っているか、ナイターを見ながら、ビールを飲んでいるかの父だった。タバコはハイライトからセブンスター。子供の頃、父の膝に乗ると「タバコの匂い」がしたものだ。ある日、きっぱり禁煙してしまったが。父が亡くなり、この6月で3年になる。父の事をもう少し知りたかった。そんな想いに囚われる今日この頃である。
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いつか、「石油」になる日

2005年04月05日 | エッセイ・日記・意見
「石油」は生物が何十万年堆積してできたもの、「石炭」は植物が何十万年堆積してできたもの、と僕は中学・高校で習った気がする。という事は、僕達も死んで何十万年経ったら、「石油」になるのだろうか。精製されて、「重油」や「ガソリン」になったら、何十年後かの未来の人達がドライブに行く際、「ハイオク満タン」と言って、車に充填されるガソリンに「僕」はなっているかもしれない。
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「雨」の降らない国の人が「雨」を体験したら・・・

2005年04月05日 | 旅・外国
砂漠の国に「雨」は降らない。そういう国の人が、日本に来て、初めて「雨」を見たらねどんな風に思うのだろうかと、一昨日、「雨の日」に考えた。「雨」が無害だと知ると、子供の様に、雨の中を走り回り、踊りまわるのかも。「雨に唄えば」のジーン・ケリーの様に。そして、祖国に帰って、「雨」の話をするが、きっと周りの「雨」の経験の無い人には何のことか分からないと思う。
全然、話は変わって、ケニアに行った事がある。ケニアに行くには、当時、三本の注射を打たなければならなかった。「コレラ」の注射を一週間おいて、2本、その後、時間をおいて、「黄熱病」の注射を打つ。「コレラ」の注射は大阪市内の病院で売ってくれたが、「黄熱病」は大阪空港まで行って打った。しかも一週間に一回平日の決まった時間しか打ってくれない為、仕事の合間に苦労して、空港まで往復した記憶がある。本当はこれに、「肝炎」の予防注射も打った方が万全なのだが、これは打たなくても入国できる。
ボリビアに行った時は「ビザ」が必要で、神戸のボリビア領事館まで、ビザを貰いに行った。小さな事務所だったが、とても親切で、「ボリビアを楽しんで」という様なニュアンスの事を事務の女性から言われ、気持ちがほっこりした記憶がある。
昔はアメリカに行くのにもビザが必要だったのだから、隔世の感がある。
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制作現場は常に崖っぷち

2005年04月05日 | テレビ番組
今は、番組制作現場にいないが、連続ドラマのプロデューサーをしている時は、いつも「崖っぷちを歩いている」様だった。多額の予算を使い、100名以上もいるキャスト・スタッフをまとめ、会社内の行政もする。視聴率との闘いでもある。凄く低視聴率の連続ドラマをやっていた時は、放送日の夜は「グテングテン」になるまで泥酔しなければ、寝られなかった。次の朝、視聴率という「一つの結果」が出るからだ。これが悪いと、社内では責められ、現場からは不満の声がせ上がり出す。だから、酒を飲む。悪循環だった。アルコール依存になりかけた。視聴率が程々のドラマでも、「食べる事」でストレスを発散するので、1クールやると、5キロは体重が増加した。それが積もりに積もって、入社時、78キロだった体重が今では94キロ。これでも最大98キロまでいったので、少しやせた方だ。周りから、いろいろ「言う」のは簡単。「じゃあ、お前が作ってみろよ」とあの頃は常に言いたかった。もう今は大人になったので、そんな発言は無視するが。
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レコーディング・・・ドキドキ

2005年04月05日 | 歌・CD
昨日、仕事で歌手Mさんのレコーディングに立ち会った。一昨日、アニメフェアに行く往復の車中で、Mさんのベストアルバムを聴いていた程、昔から好きだった。久しぶりに、レコーディングに立ち会ったが、Mさんとスタッフの「良いものを作ろうとする熱意、エネルギー」を頂いた気がした。笑顔のステキな人だった。もちろん、御本人に会うのは初めてだが、予想通りの人で、僕の持論だが、「顔」はその人の人生を映す鏡だなあと感心仕切りでした。現場に出るのはいろいろ心配事もあるけれど、楽しい。特にレコーディングの時はどんな「歌」になるのか、いつもドキドキ期待感で僕の心は一杯になる。
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人生は・・・

2005年04月05日 | エッセイ・日記・意見
人生が天に昇る巨大なエスカレーターだとしたら、どうだろう。じっと、左側に立って、自然の流れで上がって行く人、右側を駆け上がる人、エスカレーターから、転落する人、エスカレーターを逆行しようとする人。昇っていくと、下界が見え、雲の間を通っていく。なんで、こんなことを考えたのだろう。今日、出勤時、新宿の長いエレベーターに乗っていてふと思ったことである。「会社の出世」に置き換えても面白いかもしれない。人生は「自分が思うとおり」にはいかないものだ。そんな事を会社まで、考えていたら、会社の最寄り駅を乗り過ごしそうになった。
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