上岡 龍太郎(かみおか りゅうたろう、本名:小林 龍太郎、1942年3月20日 - )は日本の元漫才師・タレントである。旧芸名は横山パンチ、伊井パンチ。京都市出身。2000年に芸能界を引退。長男は映画監督の小林聖太郎。
人物
芸風としては、立て板に水を流したような流暢な口調と、理路整然とした語り、その一方で切れ味鋭い毒舌を吐きつつ、芸人としてバカを演じてオチをつける、というスタイルである。また、司会業に優れ、出演者のボケや主張に対してうまくツッコみつつ、ひとつの作品(仕事)を仕上げていくということができた。西条凡児以来の「知性で笑わせられる芸人」との評がある。
本人による自身の芸評
「僕は知的だといわれますが、適当なことばっかり言ってるんです。もっと知識のある人が僕を見て、『愛い(うい)やつじゃ』と嗤ってくれればいいんです」
「僕はしょうもないことはよく覚えてて、大事なところの知識がない。これを僕は『知識のドーナツ化現象』と名付けてます」
「インテリ」「知性的」「理論派」の芸風で人気があり、いわゆる上方お笑いの「コテコテ芸」からは逸脱していた。偏屈で、屁理屈をこねては鋭い毒舌を吐く印象がある一方で、言動に一貫性の無い部分もあり、それを洒落と受け止められない人もいたため、関西でも好き嫌いは分かれていた。
番組で自己紹介をする際、「『私が』上岡龍太郎です」と、常に私がを付け、更に強調していたのが特徴であった(ちなみに探偵!ナイトスクープの現局長の西田敏行もこれを踏襲して「私が局長の西田敏行です」と自己紹介している)。それ以前には、「芸は一流、人気は二流、ギャラは三流。恵まれない天才、上岡龍太郎です」と自己紹介をしていた時期もあった。この変遷は、後の東京進出によりギャラが一流になってしまったため、もう「ギャラが三流」とはいえないと本人が判断したことによる(EXテレビ内での発言)。
横山ノックは上岡より10歳年長であり、上岡の師匠だと思われがちだが、実際は師弟関係ではなく、漫画トリオ(1959年~68年)結成時からの仲間である。ただし、漫才や演芸については知識はあっても素人だったため、特にツッコミの入れ方でノックから厳しく指導された。ネタの構成等で上岡のセンスが必要でノックから声をかけられた。ノックのわがまま(参院選出馬)で解散となり、吉本にも戻れず干された時期があっただけに、ノックに対しては愛憎ともにあるといったところである。上岡曰く、ノックは自分の一番弟子(二番弟子が板東英二。もちろん、師弟関係ではない。正式な弟子は後述)。
売れ初めのころは自分のことの出た新聞・雑誌の記事をスクラップしていたが、たまたま見つけたノックが「そういうのはちゃんと残してくれる人が出てくるよ」と注意されたことに感動し、「残してもらえる芸人になろう」と発起したという。
夫人はパンチ時代のファンである。上岡に集まってきたファンの中から感ずるところがあり、「君は将来、ぼくと結婚する」と口説き続けていたと言う。当時、夫人はまだ中学生(上岡とは7歳年下)であり、それを知った笑福亭鶴瓶からは、「あんた犯罪者や」と突っ込まれた(上岡夫人に関しては、テレビ番組で一度だけ、自宅で後姿が写った写真が公開された事や横山ノックのお通夜へ上岡と一緒に参列した時に報道陣から車で去っていく写真を撮られたことがある)。
女性にはよくもてた。「囁けばみんな落ちる」と言われていた。これは、女性を左耳から囁けば右脳が反応し恋に落ちやすくなるという話を聞き、実践していたからだと言われている。黒柳徹子が徹子の部屋でやってほしい、と振ったことがあるが、これは理屈を並べて断った。
落語立川流の門下(Bコース)でもある。立川流での芸名は上岡自身が大ファンでもある市川右太衛門にちなみ立川右太衛門。また、上方お笑い大賞の大賞を受賞したときの授賞式のプレゼンターとして市川右太衛門が登場し、大感激の授賞式となった(市川右太衛門がプレゼンターでなければ断っていた、とは本人の話。もともとが賞嫌い)。
様式美を好むところがあり、前述の市川右太衛門のように、様式美の中で心躍らされるチャンバラ映画を深く愛している。そのため、リアルさを出していった黒澤明を非難し、黒澤以降の近年の時代劇映画のほとんどには否定的である。(「天国と地獄」など現代劇に関しては黒澤を認めていた。)また、松竹新喜劇にも強い敬意を払い、「変化座」構想を練り上げ、気の合う仲間たちと引退前の数年、新喜劇興行を行った(藤山寛美自身の賛同も得、寛美本人の演出も予定されていたが《演目は「愚兄愚弟」》、これは寛美の急逝のため、実現しなかった)。
九州王朝説=邪馬台国とは九州の邪馬'壱'国《小国》説の熱心な支持者としても知られる。
仕事以外では非常におとなしく、紳士然とし、後輩には優しいらしい。そのために芸人仲間や後輩の人望を集めているのだが、一方で、芸にはかなり厳しく、気に入らないことや人物に対しては本人の前だろうが、公衆の面前であろうが、カメラの前であろうが、本番中であろうが、容赦なくいじり倒した。これが「毒舌」と呼ばれ、人気も出たのだが、反面、敵が多かったのも事実である。
「某県は盗人が多い」「某県はほら吹きが多い」「(京都市の区のうち)某区は京都と認めない」など、一定の地域をステレオタイプ的に揶揄したりすることがあり(しゃれ、芸風だが)、真に受けた県議や知事らに抗議されたこともある(マスコミが煽ったきらいやこの件が引退のきっかけになったのではないのかとの説もある)。
眼鏡を掛けていないときの顔がミッキーマウスに似ており、また、眼鏡を掛けたときの風貌が横山やすしに似ていた為、「理性ある横山やすし」と比喩されたこともある。 ところで、横山やすしはノックに弟子入りし、漫画トリオの付き人としてついていたが、少年漫才の経験もあった為、年上ながら漫才では後輩に当たる上岡に対しては複雑な思いを持っていたようだ。 上岡も必要以上に「やすしは〜」「木村くん(やすしの本名)は〜」と口にすることによって、やすしを意識していたことが伺い知れる。 「上岡龍太郎かく語りき」によると、やすしは「パンチさんと漫才したい」と先輩に相談したが、その先輩に「お前らはタイプが似てるから組んだら損や」と止められたらしい。
東京進出
関西では長い間人気芸人であったが、東京を含め全国的には知名度は低かった。1990年代以前にもラジオや、テレビ番組「ラブアタック!」などの全国ネット番組に出演していたが、お笑い芸人としての人気は皆無に等しいほどであった。その時期に、ノックからの紹介で「笑っていいとも!」に出演したことがあるが、キャラをつけなければと思ったのか、テンガロンハットをかぶりカントリー&ウエスタンを歌う姿にタモリも観客も戸惑うばかりだった。上岡もずっと「東京が嫌い。東京では仕事をしません」「全国ネットでやってる笑いは程度が低い。僕がアホに合わせる必要はない」と公言していた。1987年に朝の連続ドラマ「見上げればいつも青空」に出演、甲斐智枝美扮する主人公が若いころに勤めていた美容室の店長の役柄で、おかま口調の関西弁を使って好演したことをきっかけに、東京だけではなく全国での知名度が徐々に上がっていく。そのおかま口調の演技は絶品。関西で人気深夜番組だった「鶴瓶上岡パペポTV」が1988年から東京で放送されるようになると、「鶴瓶の横にいるあの芸人はだれだ」と関心を集めるようになり、一気にブレイクした。
東京で仕事をするようになると、これまで「東京は嫌い」と言っていたことからその一貫性のない言動に反感を覚える人もいた。上岡が東京でのギャラについて、「びっくりしました。東京と大阪じゃギャランティの明細の額がゼロ3つ違うんですわ」と当時吉本興業取締役だった林裕章(後に社長・会長、故人)に言ったのは有名な話である。ギャグとして「(全国ネットの視聴者も)やっと僕の笑いが分かるようになった」とうそぶいていた。 ただ、東京進出初期には「東京は田舎もんの集まりやろう。生粋の東京人でない人が、東京人ぶってるのが腹が立つ。帰れよ〇田や山〇に」と頻繁に言っていた。上岡自身は後に、「この発言で笑ってもらえると思っていたら、笑ってもらえなかった。それから言うのを辞めた」とEXテレビで発言している。またEXテレビで、東京嫌いの事を突っ込まれると、「ひがんでたんやろうな」と自嘲気味に語っていた。
オカルト嫌いによる騒動
短気で妥協を許さない一面があり、番組出演中に納得がいかないことがあれば番組を途中で降りたり、役割を忘れることがあった。特に心霊モノや霊媒師・超能力・オカルト現象などを採り上げると、この傾向は顕著に出た。
その背景には、上岡の実体験が大きく影響している。上岡の実母が乳ガンにかかった際、霊媒師・占い師などが詰め掛けて食い物にしようとしたことを目の当たりにしたため、上岡は心霊モノを嫌うようになった。
朝日放送「探偵!ナイトスクープ」で心霊モノが取り上げられたとき、激怒して収録を途中で放棄して帰宅する。その際「テレビという科学的なものが霊媒師や霊を証明もしないのにさもあるかのように表現してはいけない。霊媒師も証明しないのだから、『「自称」霊媒師』と表現するべきだ」と語っている。
「上岡龍太郎にはダマされないぞ」では司会の役割を半ば忘れ、同じ心霊モノ否定派の大槻義彦、大竹まことと共に、織田無道と乱闘寸前になった。そのため、ゲストコメンテーターだったデーモン小暮閣下が各々の意見を冷静に取りまとめつつ番組進行としての調整を行ったほどであった。
ユリ・ゲラーの超能力にも懐疑的であった。ゲラーと共演していた際、初めは興奮を抑えつつ応対をしていたが、ゲラーが超能力について語りだすと上岡は次第に興奮し、矢継ぎ早に「今すぐこのカメラを壊してください、今すぐに!」とゲラーに激昂した。その激昂ぶりに驚いたゲラーは「こんな否定的なことに能力を使いたくない」とコメント、収録を途中で放棄した。その模様もカットされずにそのまま放送された。その番組の後半でゲラーが帰ったのは自分(上岡)が興奮したからと自らオチをつけた。
Mr.マリックがなかば超能力者的に売り出されたころ、過去のマリックの姿勢を引き合いに出して、強烈な批判を加えた。後にマリック自身が「超能力的に見えるマジックである」という姿勢に戻ったため、和気あいあいと共演するようになった。
泉アツノが白蛇占いでブレイクしたときには、「この間までお茶子やってた奴が、なぜ突然霊が見えるようになったんや」と非難した。
ラジオ番組で、共演した占い師の顔に「×」の文字を書いた。占い師なら×を書かれるのは予見できるはず、という考えからそういった行動を起こした。(後にEXテレビでも同様のことをし、このときは視聴者に顔を向ける形で謝罪をした)
ほかにもEXテレビでは「超能力選手権」という企画を語る際、「厚さ1メートルのコンクリートの壁で取り囲まれたものが何か透視で当ててもらう」という企画を出した。また、上岡に占いを信じさせるためプロの占い師にその仕組みを説明する企画が実施されたが、上岡は科学的・論理的な根拠をとことん求める姿勢に徹した。結局その占い師は「昔の人がそう決めた」という回答しかできず、最後には「あなたにではなく視聴者に説明しているんです」と激昂してしまうことになった。
政治姿勢
「政治家でない以上、青臭いくらいの立場でいい」とのことで、「左派的」かつ「判官びいき的」姿勢である。90年代前半までは平和:市民を支持していた(ただし、立川談志を深く尊敬するように右傾姿勢の者に対しても議論さえしなければ許容している)。
普段の発言と異なり、翼賛的な風潮があると判断した場合は批判的になる。横山ノックに対しても例外ではなく、ノック2期目出馬の際、ノックではなく日本共産党推薦の対立候補で哲学者の鯵坂真を支持した。その後のセクハラ事件の際も、疑惑発覚当初から現職大阪府知事でもあったノックを正面から批判した(「あれはやっとる」と発言し、府議会でもノックへの質問に取り上げられた。しゃれであった可能性もあるが、明確にはされていない)。
また横山ノックが大阪府知事時代、「大阪市の市長選挙に出馬するのでは?」という噂が流れたように、政界進出の噂もあったが、現在のところ、本人はヤル気ナシのようである(当選してから『勉強します』と言う議員が多く、見苦しいと感じていたため、『勉強してから出馬する』と言っていた時期もあったが、立川談志から『勉強したほうがだめだよ』と言われ、やる気をなくしたようだ)。
アナウンサー批判
上岡が舌鋒をアナウンサーに向けた時期がある。逸見政孝、徳光和夫などがフリーになり、自分たちのテリトリーであるバラエティ番組の司会をレギュラーとして多く持ち始めた1980年代後半である。「正確な日本語、事実やニュースを伝えるべきアナウンサーが言葉を崩して、芸人たちに向かって口を利くこと」「(司会業はプロでも)突っ込みの素人がバラエティで下手な突っ込みをやる」などについてあからさまな嫌悪を示していた。また逸見に関しては「大阪出身なのに大阪弁を捨てた」と非難した。とはいえ、若手時代に出演していた「底ぬけ脱線ゲーム」の金原二郎などには敬意を持っていたようで、矛盾があり、結局、前述のように議論さえしなければ、和気あいあいと共演した。徳光とは敬称で呼び合い、パペポTVでも徳光に関するエピソードを披露している。逸見に至っては両名の冠で番組も持った。
一方で、讀賣テレビ放送報道局局次長の辛坊治郎には嫌う素振りを見せていた。これはもともと好意が無かったのに加え、讀賣テレビの感謝祭と位置づけた特別番組の1コーナー(元番組はときめきタイムリー)でアナウンサーへの批判を加えた際、辛坊の名を挙げたところ(シャレの要素が強かったようだが)、スタッフに促されて辛坊が登場し、激論に至ってしまったことがある。このとき、辛坊が「会社の命令だから」と言ってしまい、それについて「言論のファッショ」と断じている。また、一説では辛坊がメディアで「正しい日本語」に関する話をした際、「大阪弁は正しい日本語ではない」と発言し、それが日本語の起源などに深いこだわりを持っていた上岡の耳に入ったことが原因と言われている。
これらのエピソードでも見られるように、時折、上岡はタレントという立場を離れて、マスコミへの批判を強烈に加えることが少なくなかった。特に阪神大震災の際にはマスコミの無能、低能を鋭く指摘、「テレビは最早、『道』を失い、『報道』機能を失った」とまで断じた。
引退
上岡自身は「ボクの芸は21世紀には通用しない」との言葉を残し、2000年3月をもって芸能界を引退する。
引退前は『シニアプロゴルファーになって、戸張捷よりも良い解説をする(選手や解説者であって、タレントではないから)』『ジョギングで桜前線とともに北上し、紅葉前線とともに南下する』『みんなが止めようとしないからやめざるを得ない』と発言していたため、それまでの転向癖もあって、周辺の中には「翻意するのでは」とする向きもあった。だが、現在のところ、一部の著述や発言を除いて、芸能の表舞台に現れてはいない。
また、引退を前にほとんどのレギュラー番組は終了したが、唯一継続した「探偵!ナイトスクープ」(上岡が局長<司会>役)のメインプロデューサー松本修は翻意したときを想定して約8カ月、局長役を空席にしていた(その後、2代目として西田敏行を迎える。まったく異なるカラーへの転換だった)。
ごくまれに横山ノックなど知人の芸能人のパーティーやゴルフ大会などに顔を出すこともある。特に現在でも親交のあるオール巨人のブログには、芸人仲間との宴会・イベントの写真に見切れ出演することがあり、ファンにとって上岡の近況が確認できる貴重な情報源となっている。またやしきたかじんとゴルフを打ちに行っていることも、たかじんが自身の番組などで明かしている。
2002年2月9日に行われた出版記念サイン会では、「今の関西のテレビは上沼恵美子ばかり出ているから、出る気がしない」とテレビ復帰を否定していた。
島田紳助から心の師として尊敬されており、紳助が2004年に暴力事件を起こして謹慎中だったとき真っ先に相談したのが上岡だった。紳助の「僕はこれからどうすればいいのでしょう」との言葉に、「悪いと反省しているなら誠心誠意相手の女性に謝れ。でも自分から『引退する』などとは絶対に言うな。周りのスタッフのことを考えろ」と、引退を決めようとしていた紳助を諭した(後日紳助が会見を開いた際、告白)。
紳助は上岡引退の際、「芸能界での道標を失ってしまう。引退を考え直してくれ」と言う内容の手紙を送ったが、 上岡は「ずいぶん前から君は僕の前を走っているんだよ。」と言う内容の手紙を送った。 この手紙を読んだ紳助は涙が止まらなかったという。
また、紳助が「オールスター感謝祭」の司会を行うときは、必ず一番前の席に座り紳助を見守っていたという。 紳助はその上岡の姿勢に感動し、「気持ち良く司会が出来る」と語っている。 番組が終わった後は必ず上岡から「完璧でした、見事でした」との言葉をもらっていたとの事。
そして、2007年5月3日に亡くなった横山ノックの通夜に参列するため、約7年2カ月ぶりにテレビカメラの前に姿を現わした(青芝フックや月亭八方ら現役芸人と共に会場入り、そしてマイカーで夫人とともに会場を後にするところ)。だがマスコミの質問には終始無言のまま会場を去ったが、会場で大号泣していた。同年6月7日に大阪市内のホテルで開かれた「横山ノックさんを天国に送る会」では、「横山パンチ」の名前で追悼のあいさつを行い、涙ぐみながら感謝の言葉を述べた。その時、記者からのインタビューで、「抗がん剤使ってんの?」「使ってない」「でもハゲてるやん」「もとからやがな」などと見舞いに行った際の会話の内容を吐露した。
2007年6月17日に行われた桂雀々芸能生活30周年記念『雀々十八番』(会場:シアターBRAVA!)最終日のパネルトークにサプライズゲストとして出演した。
2007年7月7日京都南座での桂ざこばの会に特別サプライズゲストとして出演。
その他
20歳頃に三代目桂米朝の弟子になろうとしたが、米朝宅で十代目桂小米(のちの二代目枝雀)を見かけ、かなわないと思い、あきらめた。(上岡は枝雀を「幻の兄弟子」として尊敬し続ける。自身が司会の「EXテレビ」にて笑いの理論「緊張の緩和」についてのインタビューを行ったこともある。)
引退後も米朝一門とは縁が深く、自身のコメントなどの管理窓口を米朝事務所に委託しているほどである。
ラブアタックで一緒に司会をしていた和田アキ子とは和田の素人時代からの知り合いである。
経歴
父親は、京都で活動を行っていた庶民派弁護士・小林(旧姓・上岡)為太郎。日本共産党公認で衆議院総選挙に出馬したこともある(落選)。母親は厳しく、上岡が10歳の頃に早世したこともあり、あまり記憶にないという。しかし、巨乳であったことだけは覚えている。父への尊敬の念が強いようで、「上岡」を芸名として名乗る。姉が一人、異母妹が一人いる。
小学校時代によく映画(特に時代劇)に触れ、友達とはよく相撲をとっていた。また、この頃から鴨川から春画集(いわゆるエロ本)を拾って、四十八手などについて解説していたらしい。
他に、美空ひばりのエピソードに倣って、百人一首を覚えたり、露天商の口上を覚えたりと、この時期に吸収したものが彼の芸に存分に発揮されている。
私立京都西高校(現:京都外大西高等学校)第一期生として卒業。入学時にOTV(現:ABCテレビ)のニュース映像に写っており、「探偵!ナイトスクープ」でも放送された。現在もABCに報道資料映像として保存されている。しかし、立命館大学の受験には失敗している。
京都でバンドボーイ、ジャズバンドの司会などを経験。
1959年 ロカビリーバンド「田川元祥&リズムワゴンボーイズ」加入。
1959年 横山ノックの誘いにより「横山パンチ」の名前で横山フック(初代。後に現在の青芝フックが2代目として加入)と共に漫画トリオを結成。
1968年 横山ノックの参議院議員選挙出馬により漫画トリオ活動停止。以後、「上岡龍太郎」に改名しピンで活動(同時期に香川登枝緒によって命名された「伊井パンチ」としても活動していた)。当初はほとんど仕事が無く「ホサれていた」時期として有名。(食いつなぐため、作詞などの仕事も請けている)
70年代、「ノックは無用」「ラブアタック」「花の新婚・カンピューター作戦」などで上岡は関西の司会者として認知される。
1987年 「鶴瓶上岡パペポTV」開始。翌年から東京圏でも放送。全国的にも注目を受け始める。88年、「探偵!ナイトスクープ」開始。
90年代には、上岡演劇祭なる小劇場系の演劇賞を主宰していた。九十九一などを見出したとのことだが、小劇団の限界を感じて、手を引いていく。※詳細データ求む。
2000年4月 惜しまれつつ芸能界を引退。
出演していたテレビ番組
毎日放送・JNN系
逸見のその時何が!(1993年)
ムーブ・上岡龍太郎の男と女ホントのところ(1992 - 1993年 TBS)
ザッツ!上岡龍太郎vs50人(1993 - 1994年 TBS)
上岡龍太郎がズバリ!(1994 - 1996年 TBS)
おサイフいっぱいクイズ! QQQのQ(1998年 TBS)
朝日放送・All-nippon News Network系
探偵!ナイトスクープ(1988 - 2000年)
ラブアタック!(1976 - 1984年)
大発見!恐怖の法則(1996 - 1997年)
龍の金印(1996 - 1997年・テレビ朝日)
超次元タイムボンバー(1996 - 1997年、テレビ朝日)
上岡龍太郎のイチャ門天(1997 - 1998年 テレビ朝日)
龍の福耳(1997年 テレビ朝日)
関西テレビ・FNS系
ノックは無用!(1975 - 1997年)
花の新婚!カンピューター作戦(1978 - 1991年)
ゴールデンタイム(フジテレビ)
以下の3番組はフジテレビ制作の番組だが、関西地区はサンテレビ・KBS京都で番組販売でネットされた。
上岡龍太郎にはダマされないぞ(1990 - 1996年 )
もうダマされないぞ!!(1988 - 1990年)
上岡・ヒロミの花も嵐も(1996 - 1997年)
ytv 読売テレビ・NNS系
クイズ新幹線
EXテレビ
鶴瓶上岡パペポTV → LIVE PAPEPO 鶴+龍
朝の連続ドラマ「見上げればいつも青空」
ときめきタイムリー(1984 - 1996年)
ミセス&ミセス(日本テレビ)
ルックルックこんにちは(出演期間不明 日本テレビ)
新装開店!SHOW by ショーバイ2(1995 - 1996年 日本テレビ)
KBS京都
タイガースフィーバー
横山ノックさんを偲ぶ会の時、公の場で喋る上岡さんを久しぶりに見た。大阪時代、僕がディレクターをしていた番組に上岡さんに出て貰っていた。正直、怖かった。でも、久しぶりに見た上岡さんはふっくらとし、優しさに溢れていた。