昭和45~46年の2年間、僕は中学受験の為、阪神電車・魚崎駅から歩いて10分足らずの受験塾「井上塾」に通っていた。先生は元・灘中学、高校の教師で、自宅の二階を教室に使っていた。小学五年生は午後5~7時、六年生が午後7~9時だった。五年生の時は、「塾の始業」に電車では間に合わないので、母か゛「浜甲子園小学校」の前で待っていて、小学校の授業が終わると車で塾に送ってくれた。帰りは電車。六年生になると、往きが電車で帰りが遅いので、魚崎の塾の前で、授業の終わりを待ってくれていて、南甲子園小学校の友達と車で一緒に帰った思い出がある。夏休みの特別講習は過酷で、阪神電車の「冷房の付いた電車」に乗るのが楽しみだった。つまり、「冷房の付いていない電車が多かった」のである。
その頃の塾生達は今、どうしているのだろう。いつも成績がトップだった浅井君は灘中学に合格したが、官僚になっているのだろうか?
「井上塾」に通った事のある人、書き込みしてね。
その頃の塾生達は今、どうしているのだろう。いつも成績がトップだった浅井君は灘中学に合格したが、官僚になっているのだろうか?
「井上塾」に通った事のある人、書き込みしてね。
私は夏講習があったことなど全然覚えていないけど、よく裏の温室で栽培している菊を見せられたのをおぼえています。賞をまたとったとか自慢してましたよね、あのじいさん。けっこう陰のある人だったのですが。
灘中高の元教師だったのですか、忘れてたのかなぁ。
よく押しピンを投げられて、それがうしろの襖にビシッとささるのが恐かった。定規とコンパスで黒板に図を描くのがうまかった。万年筆たしかに買わされました。パイロットかプラチナか選べたんですよね。
中学受験するのは算数ができる子が多いから、ほとんどの元塾生は理系に進んでいるのではないでしょうか。官僚は少なそうな気がしますが。あの塾にいた頭のよさそうな子たちは一体どこにいってしまったんだろうと、私もときどき思うことがあります。
私は南甲子園小学校から通っていましたが、案外辛くなかったですね。それよりも大学入試の方が辛かった。甲子園は帰省の際に見るだけですが、住友のグラウンドが無くなり、競輪場もなくなり、阪神パークまで無くなり、厚生年金プールもないようですね。
小学校時代の思い出がなぜか胸をふるわせる今日この頃です。