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井上塾・・・阪神・魚崎駅から歩いて通った。

2008年05月03日 | エッセイ・日記・意見
昭和45~46年の2年間、僕は中学受験の為、阪神電車・魚崎駅から歩いて10分足らずの受験塾「井上塾」に通っていた。先生は元・灘中学、高校の教師で、自宅の二階を教室に使っていた。小学五年生は午後5~7時、六年生が午後7~9時だった。五年生の時は、「塾の始業」に電車では間に合わないので、母か゛「浜甲子園小学校」の前で待っていて、小学校の授業が終わると車で塾に送ってくれた。帰りは電車。六年生になると、往きが電車で帰りが遅いので、魚崎の塾の前で、授業の終わりを待ってくれていて、南甲子園小学校の友達と車で一緒に帰った思い出がある。夏休みの特別講習は過酷で、阪神電車の「冷房の付いた電車」に乗るのが楽しみだった。つまり、「冷房の付いていない電車が多かった」のである。

その頃の塾生達は今、どうしているのだろう。いつも成績がトップだった浅井君は灘中学に合格したが、官僚になっているのだろうか?

「井上塾」に通った事のある人、書き込みしてね。

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20 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (松田)
2008-09-10 01:14:49
井上塾通っていました。1年違いかな。あの塾は数年後には廃業したから、通った経験のある人は皆われわれより上の世代だと思います。検索しても、ここくらいしかヒットしないのは、すこし寂しいですけどね。
私は夏講習があったことなど全然覚えていないけど、よく裏の温室で栽培している菊を見せられたのをおぼえています。賞をまたとったとか自慢してましたよね、あのじいさん。けっこう陰のある人だったのですが。
灘中高の元教師だったのですか、忘れてたのかなぁ。
よく押しピンを投げられて、それがうしろの襖にビシッとささるのが恐かった。定規とコンパスで黒板に図を描くのがうまかった。万年筆たしかに買わされました。パイロットかプラチナか選べたんですよね。

中学受験するのは算数ができる子が多いから、ほとんどの元塾生は理系に進んでいるのではないでしょうか。官僚は少なそうな気がしますが。あの塾にいた頭のよさそうな子たちは一体どこにいってしまったんだろうと、私もときどき思うことがあります。
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Re:井上学習所 (なつかしい)
2008-11-12 18:04:24
私が通っていたのは、昭和48-49年だったでしょうか。皆さんより少し後輩になりますね。別用で神戸の地図を調べていて、つい懐かしくて井上塾で検索をかけてたどり着きました。3分の1くらいは灘、3分の1が甲陽、他が六甲・関学・女学院といった感じだったでしょうか? 遠い記憶の彼方です。魚崎駅にはずいぶん前に新交通システムができたのですよね。井上先生はさすがに鬼籍ですかね?

私は南甲子園小学校から通っていましたが、案外辛くなかったですね。それよりも大学入試の方が辛かった。甲子園は帰省の際に見るだけですが、住友のグラウンドが無くなり、競輪場もなくなり、阪神パークまで無くなり、厚生年金プールもないようですね。

小学校時代の思い出がなぜか胸をふるわせる今日この頃です。
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井上塾 (Kobe Boy)
2011-01-22 17:52:47
僕は昭和49年中学入学ですので47年から2年間通いました。はじめは数字の書き方とか運動靴を洗濯バサミで止める、とかのしつけみたいな授業でしたね。鶴亀算に始まり旅人算とか時計算とかやりましたね。夏期講習では子どもたちだけで外食できるのが新鮮な経験でした。僕のときは月水金と火木土の2クラスでそれぞれ30人ぐらい生徒がいたから計60人で、灘に入ったのは6人でした。もう消息もあまり知らないけど官僚になった人は居なかったですね。
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井上塾 (Unknown)
2011-01-23 13:15:20
僕は1980年に卒業しました。夏期講習では、まるみやのうどん、商店街のはまなか?あこや亭にみんなでごはんを食べに行くのがたのしみでしたね。数字の練習やひらがなの練習もたくさんやりました。優、良可のハンコを押して貰ったような?テストを青字の自宅の印刷機で刷っていましたよね。インクの匂いがすごかったのも覚えています。たしか玄関のドアをあけたら、大きな声で自分の名前を言っていたような?皆勤賞で時計もらいました。今でも持ってます。約10回のテストで合計が10番以内に入れば商品ももらいました。10位まで名前が載っていましたよね。年賀状のコンテストもありました。先生プリントを投げるのがうまかったです。応用自在で問題の難しさの基準で赤点、赤丸、青点、青丸でチェック。名前入りの万年筆、8畳×2+縁側の席が教室。菊の展示会?覚えているのはこれぐらいでしょうか。受験結果は大阪星光おちました(笑)
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そうそう! (Kobe Boy)
2011-01-23 18:37:48
「応用自在」でしたね。赤鉛筆と青鉛筆で印をつけました。算数の「+」や「-」の横棒は定規で描くんですよね。分数の横棒もね。あと、正解には真円に近い形の丸をつけてくれて、それを自分でもできるように練習しました。腕全体でまず宙に円を描いてから、その勢いで万年筆でね。テストの点がいいと名前が出るんだけど、いつも上位に登場する名前があって「火木土のクラスにすごい奴がいるらしい」とか噂したり。一度朝日新聞の記事になったのと、NHKでも紹介されたと思う。1980年でもやってたんですね。いつまでやってたんでしょうか。卒業してから結局一度も挨拶にも行けなかったです。
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Unknown (Unknown)
2012-09-08 18:30:34
坂口塾に落ちて 井上塾に引っかかりました。天声人語をノートに貼り付け熟語の意味を書いていました。先日井上塾の前を通りました。もうありません。表札も井上さんじゃなかったような・・・震災前はあったのかな? 僕の時代は 赤松くんが灘に 松井さんが女学院に行ったと思う
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よく怒られた (ドリアン助川)
2014-10-09 11:30:34
ボクは昭和48年、49年に通わせてもらいました。じっと座っていられない時期で、なにかにつけ井上先生に叱られたことを覚えています。特に、庭の木々の間に潜りこんで、大切にされていた何かの苗を折ってしまった時の先生の顔はすごかったです。震災の時、お見舞いにと思ってうかがったのですが、もう「井上」の表札がある家はありませんでした。奥さんにもよく怒られたなあ。灘中、灘高ともに粉砕。かなりの自由業で暮らしています。あの頃のみんなに会いたいな。
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Re:よく怒られた (ni836000)
2014-10-10 15:17:44
プリントの印刷の仕方、プリントの返し方、入塾する時に、買わされた万年筆(正直、嬉しかったです)、思い出は尽きません。ドリアン助川さんの「あん」、最近拝読しました。ハンセン病資料館に行った後だったので、いろいろ考えさせられる内容でした。
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Re:よく怒られた (ni836000)
2014-10-10 15:26:30
井上先生は、残念な事に教え子の女の子に性的行動をしたと、聞きました。それで引っ越されたのではないでしょうか?
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ありがとうございます。 (ドリアン助川)
2014-10-17 09:42:49
ni836000さん、拙著『あん』を読んで下さり、ありがとうございます。『あん』、映画化されるんですよ。監督は河瀬直美さんです。うれしいな。もし、よろしければボクのブログかサイトを通じて、連絡を下さい。このブログを公開されている方にも感謝いたします。
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