お楽しみはこれからだ❣️

本と映画とテレビと鉄道をこよなく愛するブログ

「明日があるさ」と「逆立ちウンコ」と「尾野真千子」

2023年08月20日 | 笑い

「明日があるさ」という歌を聴いた時、僕は「吉本興業の強さ」を痛感した。当時、大崎洋社長が芸人6000人を率いる「ある種、大阪でしかあり得ない芸能事務所・吉本興業」。その特徴は、「板」、つまり「なんばグランド花月」を始めとする劇場を持っている事。テレビやラジオの仕事のとは別に「劇場のマイクの前」に立ち続けている芸人達には「連帯感」が自然と生まれる。吉本新喜劇の大ベテランで、伝説の漫才師・横山エンタツの息子・花紀京から、今の吉本興業の代表的な「漫才師」である「ダウンタウン」まで、「明日があるさ」という歌を一緒に歌える事は、そこにとても大切な「関係性」があるのである。これは、もう普通の芸能事務所では勝てない。漫才コンビの「霜降り明星」せいやがABC朝日放送テレビの「探偵!ナイトスクープ」の新探偵に決まった。彼に課された最初の依頼。「人間は『逆立ち』しても、ウンコができるか?」である。朝日放送の会議室には、青いビニールシートが敷かれ、たくさんの食べ物と飲み物が用意されている。依頼者とせいやと番組構成作家が5人くらい並んで、食べ続け、飲み続ける。ウンコが出そうになったら、「逆立ち」をし、トライ。重力に逆立っての「ウンコを出す作業」はなかなか成功しない。観ているこっちまで、緊張し、興奮してくる。やがて、やがて、せいやが強い便意を催す。「これ、いけるかもしれん!」勢い良く、壁に向かって「逆立ち」をするせいや。全裸のせいやの「ケツの穴」から、ウンコが顔を出す。そして、勢い良く、大量のウンコが青いビニールシートに飛び散る。その場にいた依頼者も構成作家も撮影しているスタッフも拍手。その興奮は最高まで高まる。僕たち夫婦もテレビ画面に向かって、拍手をする。腹を抱えて笑う。嫁と笑い転げる。関西人に生まれて来て良かったなぁーと、チョー実感する瞬間だ。関東地区で、テレビ朝日は「探偵!ナイトスクープ」を放送していない。放送しているのは、「テレビ神奈川」。偉い!関東で大々的に放送したら、クレームの嵐で、番組の存続にも関わるだろう。全員とは言わないが、「ネット民」の多くが、拒否感を示し、番組をバッシングするかも。関西人にとっては、「ほっといてくれ!」という気持ちである。僕らの密かな楽しみなんだと。誰でもウンコするやろと。コンプライアンスの問題では無い。「人間の五感」を大切にする事が今の日本にとって、必要な事なんじゃ無いかな。


奈良の山奥出身で、女優の尾野真千子は沖縄に魅せられて、今、仕事以外の時は「沖縄・今帰仁村」で、居酒屋を夫と共に経営している。


「昭和居酒屋 北山食堂」である。午後5時になると、沖縄の人々は仕事を止め、みんなで飲み始める。


飲む為に、働いている。その感覚が尾野真千子はたまらなく好きだと言う。

「人として生きている実感」を感じる事。忘れてはいけない。


そして、関西人が大好きな「いちびり」の精神が必要。間違い無く、これは大切だと。



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吉本新喜劇・桑原和男さんの死去

2023年08月11日 | 笑い


僕らの子供の頃から、そこに居た桑原和男さん。その桑原さんが天国に召された。

土日の午後、毎日放送と朝日放送で「吉本新喜劇」を毎週の様に見ていた僕。

あの桑原和男さんが亡くなるなんて。心にポッカリ穴が開いた。
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上方しゃべくり漫才

2023年05月16日 | 笑い
「しゃべくり漫才」が好きだ。

センターマイクを挟んで、二人が動く事なく、普通の静かな喋りで笑わせる漫才。地味な様だが、「喋るだけで笑わせる」には大変な技がいる。

僕の大好きな「中田ダイマル・ラケット」(以下、全て敬称略)が心斎橋のホールで三夜連続で漫才をやった。うちの局の中継が入っていた。

この時の映像を是非ともDVD化して欲しい。僕の切なる願い。

うちの局のライブラリーには在阪局でいちばん「お笑い」のVTRが残っている。

何故なら、有川寛というお笑い好きのプロデューサーがいて、「お笑いネットワーク」「上方お笑い大賞」など、お笑い番組のVTRテープをほぼ全てライブラリーに保存していたからである。

この、映像ソフトが大事な今という時代、先見の明があったとしか言いようがない。

「オール阪神・巨人」の阪神が舞台でやっていた「モノマネ」。これはプロデューサー・有川寛さんが日頃からやっていた仕草、台詞の「モノマネ」だった。

阪神から辿って行って、有川寛さんまでたどり着くという企画を「11PM」で放送した事もある。

1965年から1990年、25年間放送が続いた「11PM」(大阪イレブン)はほとんどが生放送。放送当時、まだ、VTRテープの値段が高かった為、ほとんど残っていない。

1983年に入社した僕はライブラリーに保存されているVTRテープの少なさに愕然としたものだ。 

ほとんどのお笑い芸人のVTRが残っている中、うちの局に無いのは、「かしまし娘」だった。彼女たちのVTRを使う時は、毎回ABC朝日放送から借りていた。

それで思い出したのだが、「EXテレビ」をやっていた時、MCで売れっ子だった上岡龍太郎が二階のロビーに座っていた。そこに「かしまし娘」の末っ子・正司花江が通りかかった。上岡はサッと立ち上がり、花江に向かって深々と頭を下げ丁寧に挨拶をした。

僕は芸人の厳しい序列を見た。

話を「しゃべくり漫才」に戻そう。

「大木こだま・ひかり」という漫才師がいた。現在活躍している「大木こだま・ひびき」では無い。

「大木こだま・ひかり」は日本テレビのオーディション番組「お笑いスター誕生!!」(1980〜1986)という番組に出ていた。

毎週日曜の正午過ぎからやっていた番組だ。「B&B」「とんねるず」「シティボーイズ」などを輩出している。

毎週ネタをやって、10週勝ち抜くと日本テレビが責任を持って売り出してくれる。

桜田淳子や山口百恵、ピンクレディーを生み出した伝説のオーディション番組、日本テレビの「スター誕生!」(1971〜1983)の「お笑い版」だった。

この番組で「大木こだま・ひかり」は10週勝ち抜いた。

ところがである。10週目の番組の放送直前に「ひかり」が覚醒剤所持の容疑で逮捕されたのである。

失礼な事を書く様だが、「大木こだま・ひかり」の漫才は、現在の「大木こだま・ひびき」の漫才より圧倒的に面白かった。その漫才は奇跡だった。

二人の漫才は今となっては見る事は出来ない。多分、日本テレビのライブラリーに保存されているのだろう。10週勝ち抜いた回を見たい。

もう1組、僕の印象に強く残っている女性漫才師がいる。

「メンバメイコボルスミ11」(1985〜1988活動)

本当に低いテンションで、「やっている本人たちは全く笑わない漫才」。他とは一線を画し、とっても斬新な漫才だった。

「夢路いとし・喜味こいし」「(旧)Wヤング」「海原千里(今の上沼恵美子)・万里」等、素晴らしい「しゃべくり漫才」はたくさんあった。

関西で育った僕は子供の頃から土日の午後、そんな漫才を楽しみに見ていた。

大阪という土地が生み出した「上方しゃべくり漫才」。その伝統を継承する若い漫才師が現れる事を切に願う、今日この頃。

「芸人が出まくっているバラエティー番組」ばかりでは無く、「本芸」で勝負して欲しい。
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お笑い番組の撮り方

2023年04月13日 | 笑い
僕は「歌番組」以外のジャンルの番組はほとんど全てディレクターをやった。「ワイドショー」「ロケ番組」「クイズ番組」「お笑い番組」などなど。

その中でも撮るのが難しかったのが、「お笑い番組」。

お正月特別番組として、「今年はこうなる!'88爆笑大予言」(1988年)という番組を関西地区では放送した。

「新しい年に起こる事を、新作の漫才や落語で『予言』する」という内容の番組だった。

出演はオール阪神巨人、今いくよくるよ、桂文珍、宮川大助花子、横山ノック横山やすし、桂三枝(現・文枝)だった。

MCは横山ノックさん、上岡龍太郎さん。

まずそれぞれの漫才師や落語家が構成作家や自分自身で仕上げた台本をもらい、僕は読み込む。

そして、そのネタをNGK(なんばグランド花月)でかけるのであれば、それを見に通った。

「笑いが起こるタイミング」を見ておかないと、「カメラのカット割り」が出来ないからだ。

「漫才」は笑いが頻繁に起こるからまだいいが、「落語」は「話の流れ」で笑いを取る為、ピンポイントでお客さんは笑う。

だから、「漫才」を撮るより、「落語」を撮る方が難しい。

いずれにしても、「カット割り」をするのは、編集して「放送尺」にしなければならないからだ。

NGKに通っていて、気付いた事がある。

NGKのテレビカメラは舞台からかなり遠い通路に3台が集まって並んでいるのだ。

それにお客さんの笑っている顔を撮るカメラが舞台袖近くにもう1台。

これは何故?
いろいろ考えた。

いちばんは「演者がテレビカメラを気にせず、漫才や落語を出来る様にする事」だと思う。その為に舞台から出来るだけ離れた場所にカメラは置いてあるのだ。

カメラが3台、中央に集まって並んでいる理由。これは「漫才」も「落語」も1人〜2人の少人数でやる芸。

劇場に来ている人と同じ様にテレビの視聴者がその芸を観るとすれば、「舞台を中央から観れる位置」にカメラがあるのがベスト。

中央にカメラを1台置いて、離して「ハの字」に残り2台を置くと、カメラを切り替える度に、演者を観る「角度」が変わってしまう。

特に「落語」の場合は落語家が左右を向いて、何人もの人物を演じるので、「左右のカメラが『ハの字』に撮っている」と、どの人物を演じているのかが分からなくなってくる。

「ロープに吊った大胆に動くカメラ」など、あらゆる角度から歌手を撮る映像を切り替える「音楽番組」とは撮り方が全く違う。

NGKのカメラの配置は理解したが、「爆笑!大予言」の収録は局のスタジオ。

お客さんを入れたら、カメラの引きじりはNGKと比べると全然取れなかった。

出来るのは、テレビカメラの「タリ」を消す事。「タリ」とはそのカメラが映像を撮っている時、カメラの前面に赤く光るライトのことだ。それは演者の気が散らない気遣い。

本番収録が始まる。元々もらっていた台本を舞台にかけて手応えを見て変えてみたり、アドリブを入れてみたりして大きく変えてくる演者。

ほぼ台本通りの演者。

本番中は笑いが起こったら、カメラを切り替える指示を出さなければいけないので、全く気が抜けない。

「お笑い番組」をやってみて、「笑い」は「生もの」だとつくづく思った。

だから、演者が「芸」で勝負している姿は常に美しい。

吉本興業には全国に劇場がたくさんある。どんなに売れても、その「板」の上でほとんどの芸人が毎回毎回、「芸」を磨くのである。

特に「漫才」は2人が立って、ただ喋るだけの「芸」。「横山エンタツ(花紀京さんの父親)・花菱アチャコ」の時代から綿々と続くこの「芸」は大阪だからこそ成立したのだろう。

「今年はこうなる!'88爆笑大予言」。
今でも忘れられない番組だ。
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マルセ太郎さん

2023年04月06日 | 笑い
「タモリ、ビートたけしは『文明』だ。マルセ太郎は『文化』だ」と言ったのは、落語会の重鎮・立川談志。

「マルセ太郎が売れないのは『お笑いの芥川賞』で、『直木賞』じゃないからだ」と言ったのは、芸人・書評家の内藤陳。
この言葉をマルセ太郎(以下、敬称略)自身も気に入っていた。

「芸人みんなが甲州街道をマラソンで競走している時、青梅街道を一人マラソンで走っているのが私、マルセ太郎」と言ったのは本人の弁。

なかなか売れなかったマルセ太郎を渋谷にあったライブハウス「ジャンジャン」で目にして、映画再現芸「スクリーンの無い映画館」という芸にする様、アドバイスしてくれたのが、永六輔である。

また、マルセ太郎のライブには古舘伊知郎や松たか子も駆け付けている。僕も彼らの姿を何度も目撃している。

そんな「奇跡の芸人 マルセ太郎」を「EXテレビosaka」で番組にしようと思った。僕自らの発案で企画を通す事はお恥ずかしながら珍しかった。

その数年前から梅田にあったオレンジルーム(今のHEPのある所)というライブハウスで何度か、マルセ太郎の「スクリーンの無い映画館」を観ていた。

その時、マルセが演じた映画は「アマデウス」だったり、「泥の河」だったり、山田洋次監督の「息子」だったりした。

マルセ太郎は何も無い舞台の上に「ミカン箱」一つ置いて、そこに作務衣姿で座り、喋りと顔の表情、手足を使った身振り手振りで「映画」を語っていく。

実際の映画を観ているより、マルセが切々と語る映画の方が思いっきり笑って、物凄く泣ける。

そして、マルセはそこに必ず、「社会風刺」を隠し味で入れるのである。それが押し付けがましく無い。その事も観客の胸にマルセの語りがグッと刺さる要素の一つなのだ。

「EXテレビosaka」の打ち合わせで、神戸市内で公演しているマルセ太郎の元を訪ねた。

公演終わり、マルセと二人、近くの鮨屋で呑む。

テレビ番組に出て欲しいという僕の強い思いを伝える。

「僕の芸はテレビには全く向いていないと思います。お断りします」
とマルセは言った。

マルセ太郎はかつて、「サルの生態模写」でメディアに取り上げられていた。12年に一度の「申年」の時だけに。

確かに、「スクリーンの無い映画館」をそのまま番組の中でやる事は出来ない。その再現芸の長さが映画の長さとほぼ一緒だからだ。

僕はマルセに提案した。
「マルセさんの今までの人生、そして芸を思うままに、司会の上岡龍太郎さん一人だけを観客にして喋ってもらえませんか?」と。

マルセは渋々番組への出演を承諾した。

マルセ太郎の映画再現芸「スクリーンの無い映画館」を上岡龍太郎さんや視聴者にVTRで観てもらう為、九州の日田と小倉の二公演、一泊二日、マルセに同行取材を敢行した。彼はマネージャーも連れず、一人ボストンバックを持って、日田駅に現れる。

日田でも小倉でも観客はマルセの芸で感動し、会場から出て来る人々にインタビューしようとしても、涙ぼろぼろでなかなか容易では無かった。男性もハンカチで顔を拭きながら涙ぐんでいた。

スタジオ収録当日。マルセが入って来ると、立川談志さんにマルセ太郎の凄さを聞いていたのだろう。

上岡龍太郎さんとマルセの打ち合わせというより、「芸」の話が一時間余り盛り上がった。

二人の話が終わる様子が無さそうなので、何とかタイミングを見て二人に声をかける。

本番収録。マルセ太郎を独占して、上岡龍太郎さん観客一人の贅沢な公演が始まる。

二人の話は1時間40分余り続いた。

物凄く面白い話が録れたと僕は心の中でバンザイをしていた。

収録後、帰ろうとするマルセを上岡さんは呼び止め、そこから午前3時過ぎまでの1時間半、局の2階のロビーで二人の面白い話が聞けた。この時もカメラを回しとけば良かったと後悔した。

それにしても、僕に取っても素晴らしい一日だった。

放送が終わっても、マルセ太郎と僕の交流は続いた。狛江市の御自宅に何度もお邪魔した。毎回、マルセの興味深いお話をたっぷり4時間余り聞く事が出来た。

それから、マルセの公演があると、必ず足を運んだ。公演終わりで喫茶店でお茶を飲んだ。

この頃、マルセは肝臓がんである事を宣告されているにも関わらず、その自分の病気を舞台の上でのトークに折り込み、面白おかしく話し、笑いを取っていた。

ある日の深夜、僕はタクシーに乗っていた。パソコンを開け、メールチェックをし始めた。

大量のメールをパソコンが受信し始めた。何事が起こったのか?

いちばん新しいメールから見ていく。

「マルセ太郎死去」の報だった。

次々とメールを開けていく。「ICUに運び込まれた」「病院に到着した」「救急車で搬送中」「岡山公演で倒れた」など、時系列とは真逆に情報が入って来ていた。

頭が真っ白になった。どうやってタクシーを降りたのかも憶えていない。マルセ太郎と僕の間の記憶がゆっくりと崩れ落ちていく様に感じた。

享年67歳。

全国のマルセ太郎の熱狂的ファンが「スクリーンの無い映画館」の公演を何年も待ち望んでいるのだ。

だが、その芸は二度と観る事は出来ない。

今でも、照れくさそうに喋るマルセ太郎さんの不器用で優しい笑顔が僕の中で浮かび上がって来る。
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喜劇役者「三木のり平」

2023年03月11日 | 笑い
最近、数十年前に買っておいた本を本棚で見つけて読む事が多い。

この喜劇役者「三木のり平」に関する本もそう。

「三木のり平」が小学館の編集者に自分の人生を語り尽くす。

真の「笑い」を取る方法。「三木のり平」はチャップリンではなく、「マルクス兄弟」や「バスター・キートン」「ハロルド・ロイド」を目指したと言う。

喜劇・・・コメディーが大好きな僕にとって、この本を通勤電車の中で読んでいるのが至福の時間。

聞き書きなので、「三木のり平」の喋り口が肌で伝わって来る一冊。

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横山やすしさん

2023年03月03日 | 笑い
大阪・東天満にあった局舎。一階のロビーの公衆電話、大声で怒鳴り散らす細身の男がいた。大量の唾で電話が濡れている様にも思えてしまった。

誰もその迫力に側を通れないどころか、近づく事も出来ない。

横山やすしさんである。磨き抜かれている、先の尖ったエナメルの白い靴、その服装は体型にめちゃくちゃフィットしており、すごくオシャレでもあった。

当時、やすしさんは日本テレビ、日曜よる8時からの「久米宏のTVスクランブル」(1982〜1985)にレギュラーで出演しており、その破天荒なコメントを、テレビの事を知り尽くした久米宏さんがまるで「猛獣使い」の様になんとか巧みに操っていく様子が物凄く面白く、僕は毎週楽しみに観ていた。

「TVスクランブル」は生放送。横山やすしさんは時には泥酔状態。

そして生放送中に
「ちょっと、オシッコ!」と言って、気軽にコメンテーターの席を外す事もしばしば。

でも、その姿がとてもとても可愛らしく、僕含め、視聴者に、この番組は好評だった。

ある年の暮れ、僕は「漫才番組」のディレクターをやる事になった。

当時、西川きよしさんは国会議員をやっていたのだろう。
「横山やすし・西川きよし」の漫才は出来ず、「横山ノック・横山やすし」の師弟漫才を収録する事になった。

横山ノックさんの弟子をやっていた時、やすしさんはどんな弟子だったんだろうと考えると、なんだか面白くなって来た。

師弟漫才の収録が始まる。二人の打ち合わせは、本番前、セットの裏で五分弱。

漫才はとても面白かった。でも、横山やすしさんは師匠である横山ノックさんを畏れている事がこちらにも微妙に伝わって来た。

語弊を恐れずに言えば、「モハメッド・アリの強烈なパンチを怖れて、リングに寝そべりながら、技を繰り出すアントニオ猪木」と言った感じ。

西川きよしさん相手に漫才をやる時とは違って、「ツッコミ」が寸止め。やはり、満面笑顔の師匠ノックさんの事は怖いのだろうか。

そんな横山やすしさんが「11PM」に出演する事になった。

女優・十朱幸代さんとやすしさん、二人だけの対談コーナー。

夕方、マネージャーに連絡があったきり、やすしさんとの連絡は途絶えた。カメラリハーサルにも姿を見せなかった。マネージャーと僕たちスタッフが東天満の街に出て、やすしさんを必死で探す。
生放送の本番の時間は一刻一刻と近づいて来ていた。

23:33、「11PM」の生放送のスタート時刻。そのわずか10分前、横山やすしさんは局の前に姿を現わした。お酒を飲んでベロベロだった。どうやら、夕方から今まで飲んでいたらしい。

後で聞いた話だが、やすしさんは十朱幸代さんの事が本当に好きだった。憧れだった。十朱幸代さんとの二人っきりの対談。

シャイなやすしさんは、本番までお酒を飲まずにはおられなかったのだろう。

生放送は無事には終わらなかった。CMの間に、泥酔して一人で歩く事も出来ないふらふらのやすしさんをスタッフ二人が十朱さんの前のイスに座らせる。

二人の対談が始まった。やすしさんは、イタズラを見つかった子供の様に、十朱さんに諭されていた。
十朱さんの前で、その存在はポツンと小さなものになっていた。

やすしさんは十朱さんの顔を見る事も出来なかった。呂律が回っていなかった。

そんなやすしさんを十朱さんは笑いながら、叱っていた。結果、愛らしい対談になっていたのかも知れない。

天才漫才師・横山やすし。その素顔は、愛情に飢えて、シャイで、可愛い少年だった様に僕は思う。これは本当に全く僕の私見です。

横山やすしさんの様な漫才師は今後、二度と出て来ないだろう。

1996年、横山やすしさんは51歳でその生涯を閉じた。生きていれば、今年79歳。天才漫才師はどんな漫才を僕たちに見せてくれたのだろうか?

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花紀京さん

2023年02月15日 | 笑い
「今ちゃん、カラダには十分気いつけるんやで」
花紀京さんが深夜のドラマ撮影終わり、タクシーに乗り込む時、おっしゃった言葉。今も心に刻んで忘れない。

花紀京さんと初めて御一緒した仕事は深夜のローカル番組「寛平の屋台が行く」。レギュラーが間寛平さん、島田珠代ちゃん、花紀京さんだった。

番組は、寛平さんと珠代ちゃんが屋台を引いて、お客さんを集める。そして、屋台で「関東煮き」などを食べながら、その土地その土地の人々とトークするという内容だ。

花紀京さんは別撮りで、毎回ゲストを呼んでコントをやってもらった。中でも、新喜劇、花菱アチャコの弟子・岡八朗さんと横山エンタツさんの長男・花紀京さんのコントは絶品だった。僕はこんな贅沢なものを独占して見ていいのかと思った。

ある年の年末、年始一発目の内容をどうしようかと番組の会議で話していたら、構成作家から、
「生放送、やってみませんか?」というアイデアが出た。

深夜1:10スタートの「生放送」、どうかなぁーとも思ったが、テレビマン、「生放送」の三文字には弱い。

「生放送」はエキサイティングでドキドキして、終わった時の開放感が堪らないのである。

中継場所は神戸線・垂水駅の改札前。ちょうど「生放送中」に終電が入って来るからだ。

年が明けて、本番当日。レギュラーの大ベテラン花紀京さんには改札前のコインロッカーに入ってもらう事にした。
今考えると、花紀さんがよう入ってくれたと思う。

本番が始まると、
「あー、よう寝たわ」
と言いながら、ロッカーから出て来てもらい、立ち去るだけの役。

垂水駅周辺は「予想外に庶民的な街」だった。照明が煌々と照らす中継場所に、カメリハをしている時から、たくさんの野次馬が集まって来たのだ。

深夜1時過ぎ、制作の全スタッフが手を繋いで、中継場所に野次馬が入らない様にする緊迫の状況になっていた。

「生放送」の30分の間、僕の記憶は定かでは無い。何度も人だかりが崩れて、中継出来ない状態に陥りかけた。

何とか、放送は無事終わったが、寛平さんと珠代ちゃんがどんなトークをしていたが、憶えているスタッフはほとんどいなかった。

その後、花紀京さんとは「朝の連続ドラマ」で何度か御一緒した。「大店の番頭役」が多かった。

僕が東京のドラマ班に所属している時、編成部から企画募集のお知らせが来た。

昔からやりたかった「吉本新喜劇」のキャストを使って、「ギャグ」を封印したドラマ。主演は石田靖さん。ペラ4〜5枚の簡単な企画書を出したら、その企画が通った。

そのドラマ撮影中のある朝、僕は局の前で間寛平さんを待っていた。なかなか来ない。

一台のスポーツカーが僕の前で止まった。寛平さんが運転していた。
「花紀さん、怒ってはりませんか?大丈夫ですか?」

寛平さんは間違って、NGKなんばグランド花月に入っていたのだ。吉本新喜劇の大先輩・花紀京さん。寛平さんは花紀さんを尊敬しつつ、畏れてもいた。

僕は花紀京さんに喫茶店のマスター役で出てもらっていた。気さくなマスター役が花紀さんには似合っていた。

90分の単発ドラマ。ドラマとはいえ、ローカル番組ゆえ、予算はとことん厳しい。撮影はロケとセット合わせて5日間。

一日一日の撮る分量が多いので、深夜に及ぶ。撮影期間の途中で過労の為、食べたものを全て吐いた僕は救急車で病院に運び込まれていた。点滴をしてもらい、無理矢理現場に復帰。

スタジオ撮影が3時間押して、深夜1時半を時計が指していた。

オール巨人さんをタクシーまでお見送りに行って、
「今日は押しましてすんません。こんな深夜まで有難うございました」と言うと、
「こちらこそ、ドラマの作り方勉強させてもらいました」
と笑いながら言う巨人さん。
ちょっと気持ちがホッコリする。

そして、深夜の撮影終わり。タクシーに乗り込む花紀京さんに
「お疲れ様でした。本当に今日は有難うございました」
と言って、深々と頭を下げると、
「今ちゃん、カラダには十分気いつけるんやで」
と花紀さんが親しみを込めて笑顔を見せながらおっしゃった。気遣いが心に沁みた。

この時が花紀京さんにお会いする最後になった。

「吉本新喜劇の天皇」とまで言われた花紀さん。その人柄はとっても温かかった。

本当に素晴らしい人と出会えたと僕は思っている。

ちなみにNGKなんばグランド花月に出る芸人さんがよく出前を取る「千とせ」の「肉吸い(肉うどんからうどんを抜いたメニュー)」を店の主人に頼んで作ってもらったのも花紀さんである。

あったかい「肉吸い」にも花紀京さんの人柄が出ているかも・・・

興味のある方はぜひ食べてみて下さいね。
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芸人のバイトエッセイ

2023年01月21日 | 笑い
「芸人のバイトエッセイ」。こう聞いただけでとっても読みたくなった。長年毎日本屋に通った第六感だろうか。以前、「清掃業をやりながら芸人をやっている人の本」を読んだ時、すごく感銘を受けた。やはり、10冊買って1冊。僕はこれが読書の極意だと思っている。


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なんばグランド花月、開館の日と横山やすしさん。

2023年01月18日 | 笑い
大晦日から元旦にかけて、24時間にも及ぶ一本のドキュメンタリー映画が「BSよしもと」で放送された。

100人を超える吉本芸人へのインタビュー。監督・インタビュアーは木村祐一さん。それぞれの芸人の素顔が滲み出て、めちゃくちゃ面白い番組だった。

毎日帰宅して、宝物の様に少しずつ観ている、今そんな感じ。

さて、1987年11月1日は何の日か、お分かりだろうか?

吉本興業のお笑いの殿堂「なんばグランド花月」(通称・NGK)が開館した日。

僕はこの日、「NGK」の裏手で中継車に乗っていた。開館記念特別番組生放送のディレクターをする為だ。

番組の構成はこうだ。

「NGK表からNGKホール(TVスタジオ)」の紹介が島田紳助さん。

「NGK楽屋ロビーでの鼎談」が桂三枝さん(現・桂文枝さん)、横山やすしさん、西川きよしさん。

地下にあったディスコ「デッセ・ジェニー(明石家さんまさん命名・銭でっせ!から来ている)」の紹介がダウンタウンのおふたりである。

超豪華メンバー。

生放送は紳助さんのパートから順調に始まった。

ところがところがである。「桂三枝さん、横山やすしさん、西川きよしさんの鼎談のコーナー」の準備中、思いもよらぬ事が起こった。

生本番前のリラックスして、三人の間で笑いも起こる雰囲気の中、横山やすしさんが西川きよしさんの右手に行ってしまったのである。漫才の立ち位置とは逆。

用意していたスーパーテロップ(出演者の名前の表示)は、「横山やすし 西川きよし」。

僕も現場にいるFD(フロアーディレクター・現場で出演者にディレクターの意思を伝えたり、現場を仕切るスタッフ)に、「横山やすしさんと西川きよしさんの立ち位置を左右逆に変えて!」と叫ぶが、FDも笑って機嫌の良いやすしさん本人にはより一層怖くて言えない。

当時、中継車には、「スーパーテロップ」を入れる機能は無く、本社で入れていた。生放送中に「スーパーテロップ」を作り直すのは物理的に無理だ。

本社も、横山やすしさんの立ち位置とスーパーテロップの表記が違っている事に気付いたのだろう。
中継車の僕に何度も修正を呼びかけて来た。

無情にも、生放送。
鼎談のコーナーに入ってしまった。横山やすしさん、西川きよしさんのスーパーテロップを本社がテレビ画面に出したかどうか、中継車にいた僕には記憶が無い。

「なんばグランド花月(NGK)」と聞くと、この時の事を思い出す。もうあれから36年。横山やすしさんも鬼籍に入られた。



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中田ダイマルラケット

2022年06月11日 | 笑い



「ダイラケ」の漫才は奇跡。誰にもマネ出来ない面白さ。

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メンバメイコボルスミ11の漫才

2022年06月11日 | 笑い

彼女たちの活躍期間は短かったが、その漫才は強烈だった。
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ウエスP・・・1000万人フォロワーの吉本芸人

2022年05月29日 | 笑い

「ワイドなショー」に出ていた。テレビぎりぎりの芸。凄い。
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紺野ぶるま

2022年05月27日 | 笑い




お笑い芸人は「俳優」をやったり、「小説」を書いたり、多才な人が多い。それだけ、「人を笑わせる事」は繊細な神経が必要だ。


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人生幸朗・生恵幸子、中田ダイマル・ラケット、初代Wヤング

2020年04月13日 | 笑い


人生幸朗・生恵幸子、中田ダイマル・ラケット、初代Wヤングなど、豪華ラインナップ。垂涎の漫才を次から次へと観られるのはとてもとても贅沢な瞬間!
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