あの頃は「スマホ」が無かったから誰も下を向いていなかった。
今から半世紀近く前、大学の友人と北海道に行った。彼も今で言う「乗り鉄」だったから、北海道のローカル線に乗って、旅を満喫するつもりだった。
青函トンネルは開通しておらず、4時間青函連絡船に乗って、北海道に渡った。
泊まりはもっぱら「ユースホステル」。
今の若い子は「ユースホステル」と聞いても何のことだか分からないだろう。
ドイツの小学校教師が教え子との旅行に「安価に宿泊する事は出来ないか?」かと考え、作り出した「宿泊施設」の事。今では世界60ヶ国にある。
場所によっても異なるが、男女は泊まる所が別になっていて、基本2段ベッド。
夜には宿泊者全員が集まって、「ミーティング」があった。
北海道で最初に泊まったのが、「稚内ユースホステル」。ここの夕ごはんは毎日「カレーライス」と「ミルク」。
元々、このユースホステルは「カレー屋さん」だったのだ。
だから、出て来る「カレーライス」はめちゃくちゃ美味い。
季節は冬で、稚内駅からユースホステルまでの徒歩10分間、凍える様な吹雪の中を強風に吹き飛ばされない様に慎重に一歩一歩歩いて行った。
「カレーライス」の温かさが身に沁みた。
「阿寒湖ユースホステル」。間違って予約を取り過ぎたのか、宿泊施設は満杯で僕たち2人は食堂のテーブルの下に布団を敷いて寝た。寒さを感じず、眠れただけでも良しとしよう。
オートバイでツーリングしている人たちもよく泊まった「帯広ユースホステル」。
当時、帯広駅は鉄道の要所。東西に根室本線、北に士幌線、南に「愛国駅」や「幸福駅」で有名になった広尾線が出ていた。
宿泊の翌朝、荷物をまとめてユースを出て我々が広尾線のディーゼルカーに乗り込む。
列車が発車すると、ユースホステルの人たちが建物の外に出て大声を出しながら、我々に一生懸命手を振ってくれた。
「行ってらっしゃい!」
列車に乗っているこちらも窓から身を乗り出して、それに応えた。
「行ってきまーす!」と大声で叫ぶ。ユースの人たちに。
時には列車がこの儀式の為に運転手が徐行してくれる事もあったそうだ。
これが「帯広ユースホステル」に長年伝わって来た慣習だ。短いながらも、人と人の触れ合いがとても嬉しい。国鉄時代の話。
その後、士幌線と広尾線は廃線になり、帯広駅も高架に。帯広ユース自体も無くなった。
根室本線の「白老(しらぬい)ユースホステル」。夕食後は「全くの自由時間」。「ミーティング」も無く、「就寝時間」も決まっていない。
我々は「フリースペース」で夜遅くまで話し込んだ。
何故なら、「白老」付近には観光地も少なく、「ユースホステル」内では自由に楽しく過ごして貰おうという趣旨なのだ。
北海道を巡る旅。僕たちは「時刻表」と「観光ガイドブック」を持って、毎晩明日の「旅の計画」を考えながら行動していた。
それは「寒暖」を感じ、「喜怒哀楽」をぶつけ合う「旅」でもあった。
でもひとつだけ言える事がある。
僕たちは「前を真っ直ぐ見つめて生きていた」。自分の感情に素直に。
「インターネット」の発達と「スマホ」の普及が何かそういったものを変えてしまったのかも知れない。
他人からの「イイね!」を求める「旅」では無く、自分自身が良いと思う「旅」を自然としていたあの時代。
そこには「自らの責任で生きるという事」が存在していた。
「時代」も元気だし、「人の心」も元気だった。少なくとも、下を向いてはいなかった。
インドの街を歩いていた。陽光が照りつける灼熱の大地。人もリキシャ(人力車)も自動車も砂煙を立てながら混在となって動いて行く。
突然、背中を突き刺す感触が。振り返るとそこはヒンズー教で「聖なるもの」と崇められている牛がいた。
僕はノドが乾いていた。黒い看板の出ている店が「サトウキビジュース屋」らしい。
近づいてみると、看板が黒いのでは無く、透明なアクリル板に無数のハエがびっしりタカっていたのである。
そんな事で驚いていてはインドを旅する事は出来ない。僕は勇気を出して、サトウキビジュースを買い、一気に飲み干した。甘すぎず喉ごしがとっても良かった。
「生水」を飲まない様にと「地球の歩き方」にも書いてあり、現地のガイドさんもそう言っていたが、僕はその注意を守っていたにもかかわらず、酷い下痢をした。
どうも、昨夜飲んだウィスキー水割りの中に入っていた氷がまずかった様だ。氷は現地の水を凍らせたものだったのである。
そんな時は抗生物質を飲んでホテルでじっと寝ているに限る。インドの街で公衆トイレを見つけるのは至難の業だからだ。この下痢、正露丸などは全く効かない。インドに行く時は医者に事情を話し、抗生物質を処方してもらうのが良い。
下痢が治りかけると、土産物を買いに外出する。この買い物がまた大変なのだ。
お店で欲しいものがあるとする。
「How much?」と聞く。
「1500ルピー」と店主。
「200ルピー」と僕。
店主は両手を挙げて、それはあり得ないというポーズ。
「1300ルピー」と渋々、店主が言う。
「300ルピー」と僕。
「1200ルピー。This is my last price!」と店主。
「他の店を見て来ます」と僕。
店から出て歩き出す。するとインド人の店主は僕を追いかけて来るのである。
「1100ルピー」と店主。
「さっき1200ルピーがlast price と言うたやないか」と僕。
2人で店に戻り、値段交渉を続ける。何度も店から立ち去る素振りを見せる僕。その度に追いかけて来る店主。
これを延々と続ける。
交渉結果は500ルピー。
何と最初に店主が言った値段の1/3だ。
だから、インドで買い物をする時は1つ買うのに30分以上かかる。
アフリカ・ジンバブエでの買い物も同様だった。
多分、ツアー客は店主の言い値で買っているのだろう。
関西人の僕は「値切る事」を当たり前と思っている。
関西のおばちゃんは百貨店でも値切る。値切れなければ、
「何か付けて!」と付加価値を狙う。
それにしても、インドを旅するには日々エネルギーが必要だ。
インドという国は、「とっても好きになる」か「二度と行きたくない」かに分かれる。
潔癖症で、あまりエネルギーを使いたくない方には、全てのホテル・観光地が付いたツアーに参加する事をオススメする。
今、思い出したが、インドの絨毯屋。店に入るとギンギンに冷えたコーラがツアー客全員に配られる。外は灼熱、土煙り、非常に暑いので、とても嬉しいサービスかの様に思える。
しかし、100円位の冷たいコーラを出して、
「何か買わないと申し訳ない」と日本人に思わせ、1つ何十万円もする絨毯を買わせるのである。
もう一つ。絨毯屋の店員は放っておくと、次々と絨毯を広げて見せる。際限なく。こちらも日本人の心に響くのである。
「こんなに広げさせて、直すのが大変なのでは」
こう思ってしまったら、お客の負けである。絨毯はそんなに安い物では無い。
ツアーでインドに来ているのだから、多少高くても記念に買っておこうとなる。
インド人は強かである。それに日本の旅行代理店は絨毯屋からバックマージンを貰って、観光ツアーの中に絨毯屋を組み込む。
買わなくてもいいよ、と表向きでは言いながら、日本人はついつい買ってしまう。
僕もニューデリーの絨毯屋でペルシャ絨毯を1枚買ってしまった。
それも今は旅の良き思い出となっている。
インドという国は「生きている」。「生きる目的を見失った日本人」が行く国としては最高である。
女優の中谷美紀さんが何かの本で、「インド」の事を「自分を見つめ直し、生きて行く方向性を決めてくれた国」だと書いていた。
僕は「インドを好きになった人」。機会があれば、また行きたい。
海外の街に行った時、必ずと言って良いほど立ち寄る場所。
百貨店、本屋、文房具店、動物園、駅、市場、遊園地などである。
僕は「観光地」と呼ばれる場所にはほとんど興味が無い。
東京に住んでいて、東京タワーに行かなかったり、大阪に住んでいて、大阪城に行かなかったりするのと似た様なものである。
訪ねた国の人たちが、日常生活で足繁く通う場所に行き、その国特有の雰囲気を味わいたい。
百貨店。ベトナムの百貨店、当然、日本の百貨店とはディスプレイも違うし、各階で何を売っているのかも違う。
本屋。日本の漫画「ドラえもん」や「名探偵コナン」がどれくらい並んでいるのかも知りたい。「左綴じ」と「右綴じ」の違いも確認したい。
文房具店。
香港の文房具店ではお土産に、中国語で「謝謝」(有難う)と押せるシャチハタを買って来て、会社の同僚に配った。1個、130円位。
ニューヨークの文房具店では、日本のとは形が異なる「ステイプラ(日本では『ホッチキス社製』という事で、『ホッチキス』と呼ばれている)」を買った。
アウシュビッツ捕虜収容所に行った時は、ポーランドの首都・ワルシャワまで足を伸ばして、凄い雪の降る日、ワルシャワ動物園へ。
この動物園の売りは、「真っ白なライオン」。
深い積雪で、僕以外、ほとんどお客もいない中、暑いアフリカのサバンナから来た「百獣の王」白いライオンは寒さに震えて、情けなくなって涙を流している様に僕には見えた。
雪が激しく降っていて、ワルシャワの街のど真ん中にある動物園。全く喧騒が聞こえない。深い静寂。
誰にも邪魔されず、ゆっくりライオンを見て、想像を膨らませたり、アウシュビッツの事を考えたり。
僕にとっては貴重な時間が流れていた。
駅。その街の人々の熱気が凝縮される場所。
鉄道マニアの僕は胸躍らせる。
各国の駅に行って、隣の駅までの切符を買うのが常だった。
つまり、新宿駅に行って、隣の新大久保駅までの切符を買う様なもの。
いろんな都市の切符を蒐集していた。安上がりな趣味。しかも、駅はその街の人々を人間観察出来る素敵な場所だ。
市場。
フランス統治領タヒチ、首都(?)パペーテ。
亜熱帯に位置するこの街の市場は魚で溢れていた。但し、気温が高い為、魚がすぐ腐るのか、すごく腐臭がした。でも、陳列を見ているだけで楽しい。
台湾の市場、というか、野外飲食店街。どこの店で食べていても、他の店の食べ物を持って来てもらえ、自由に飲み食いが出来る。このシステムはとても便利だった。
以前も書いたが、アマゾン川中流の街マナウス。魚市場の中にある漁師の為の食堂で食べた「アマゾン川の魚の粗を煮込んだトマトスープ」の味は絶品。世界一美味しい食べ物だと僕は思った。
南米ボリビアの首都ラパスでは遊園地に行き、ジェットコースターに一人で乗った。そんなに高くまで上らないジェットコースターだったが、そこから見えるラパスの街の風景はひとしおで、記憶に残るものになった。
そして、忘れてはならないのが、世界各地にある「日本料理店」である。
店には「サッポロビール」など、日本のビールも置かれているが、日本からはるばる運ばれて来たせいか、味が微妙に違う。この味の違いを楽しむのも一興だろう。
ニュージーランドの南に位置する街、クィーンズタウン。
日本料理店「南十字星」。
ここで、「水炊き」を頼んだら、「レタスの水炊き」が出て来た。これはなかなか不思議な味の食べ物だったが、やっぱり「白菜」の方がいいと思った。
次に「握り寿司」を頼んだ。
ニュージーランド人の板前が体に付けていたオーデコロンの香りがする「握り寿司」で嫁は強く拒否っていた。
そんなこんなもありながら、海外の「日本料理店」でお酒を飲み、アテに「茄子の田楽」とかを食べて、流れる北島三郎や石川さゆりの演歌を聴いていると、日本人に生まれて本当に良かったぁーとつくづく思う。
海外に行って見えてきたのは「日本」という国の姿だった。
僕は快調に車を跳ばしていた。ロサンゼルスからサンフランシスコまで車で約8時間。
アメリカのフリーウェイは中央分離帯では無く、上下線の間に50メートル以上の緩衝地帯が設けられている。
一人での運転。眠くなったら、その緩衝地帯に車を乗り入れて、仮眠を取る。
午後、ロサンゼルスを出発してもサンフランシスコ到着は夜。ナビ付きのレンタカーなのだが、英語の表示。道路標識を目視しても、英語表記、しかもあまりにも通り過ぎるスピードが速すぎて、どの道を選ぶかの判断ができない。
サンフランシスコ市内。今夜宿泊のホテルに行きたいのだが、一方通行が多過ぎて、なかなか辿り着けなかった。数時間を費やす。
ホテルの前に着いたら、フロントでホテルの駐車場の場所を訊き、車を廻して駐車。すべてが終わったら、午前1時過ぎになっていた。
サンフランシスコを観光後、翌々日、ロサンゼルスを経由して、グランド・キャニオンに向かう。
フリーウェイを気持ち良く走っていると、突然、後ろからサイレンの響きが。赤いランプが回っているのがバックミラー越しに見える。英語(当然)で何か言っている。
この光景、アメリカ映画でよく見るやつだ。
車を路肩に寄せ、止まる。
警察官がパトカーから降りて来て、ウィンドウをコンコン。
社外に降りて、彼の話を聞く。「スピード違反」である。時速160キロを出していたらしい。
ここで僕は気付いた。アメリカの車の速度計の表示が「マイル」である事を。
1マイル=1.6キロだから、速度計は100を指していても、160キロ出していた事になる。
反則切符を切られた。こんな事がこの後、もう一度あった。アメリカの広い大地を走っていると
知らず知らずのうちにスピードを上げてしまうのだ。車が少ない上に緩衝地帯があるので、スピードを出しても圧迫感が無い。
3回目に捕まった時は西部劇のロケ地で有名なモニュメント・バレーに向かう途中。
目的地に着くのが先か、日が暮れるのが先か、僕はかなり焦っていた。
フリーウェイの横に止まっている数台のパトカー。警察官たちが談笑している。ブレーキを踏む余裕も無い。
その横を猛烈なスピードで通り過ぎる僕の車。
またまた、サイレンが鳴り、赤色灯が回った。
僕は、
「どうしても西部劇の舞台になったモニュメント・バレーを見たかった。日が暮れてしまう」
と。
原住民の警察官が言った。
「この辺りは素晴らしい土地だ。今からではモニュメント・バレーに着くのが夜中になってしまう」
僕
「僕も素晴らしい場所だと思う。スピード違反、日が暮れる前にモニュメント・バレーを見たい一心でやった事だ。なんとか見逃してくれないか?」
彼はしばらく沈黙。考えている様子だった。
「分かった。今回は見逃してやろう。これからどうするんだ?」
僕
「モニュメント・バレーがこんなに遠いと思わなかった。今夜のホテルはサンディエゴなんだ。インターステート(州と州を結ぶフリーウェイ)はどっちに行ったらいいか教えて欲しい」
警察官
「私がパトカーで先導するから付いて来い」
3回目、僕は反則切符を切られる事無く、フリーウェイでホテルに向かって走っていた。
サンディエゴに着いたのが、夜中の2時前。予約していたホテルが暗すぎて見つからない。街の中をあっちこっちと彷徨う。
そのネオンは車のすぐ左手に突然現れた。急ハンドルを切って、泊まるホテルの駐車場に乗り入れる。
やっとホテルにたどり着きホッとしている僕。車を止めた。長時間運転した疲れがドッと出た。
ホテルの警備員が大声で叫んでいる。しかも銃口を僕に向けて。一体、何が起こっているんだ!
警備員が車から出るな!と言っている。どこかに電話している様子。
5分程して、警察官が現れた。ウィンドウを開けると、何かの検査をしている。
「酒酔い運転をしているかの検査」だった。
警察官が警備員に頷き、警備員の誤解も解けた。銃は下ろされた。
僕は無事ホテルにチェックインする事が出来た。
帰国後、スピード違反で切られた反則切符をよく読んでみると、「来年の◯月◯◯日に◯◯郡の裁判所に出頭する事。裁判によって、あなたの罰金は決められる」と書いてあった。
これをクリアにしておかなければ、二度とアメリカに入国する事は出来ないのではと思い、裁判所宛に手紙を書いたが返事が来ない。
「日本に住んでいて、裁判所に伺えないので、罰金の金額を教えてもらえれば、必ず振込みます」という内容。
長らくアメリカに住んでいた友人に手紙の文面を見せると、これではダメだという事になり、彼が改めて書面を作ってくれた。
裁判所から手紙が返って来た。二つの裁判所から日本円にして、約四万円ずつ。合計八万円。小切手で郵送する事、という内容だった。
僕は銀座の三井住友銀行に行き、小切手を作ってもらい、アメリカに送った。
それからまだアメリカに行く機会は無い。僕は入国できるのだろうか?
アメリカで交通違反をすると、手続きが大変なので、要注意!
ケニア・ナイロビ。郊外に出るとすぐにキリンの群れが僕の乗っているワゴン車と並走しているのが見え始める。
アフリカに来たんだなぁーと実感する。
舗装された道は未舗装になり、車は白い砂煙を上げて、一路アンボセリ国立公園へ。その道中でも、象を見たり、インパラを見たり。
3〜4時間走っただろうか。車はアンボセリのホテルに到着した。
部屋は丸いコテージ。シャワーとトイレにシングルベッド。
少し早めの夕食を済ませ、焚き火が燃えているスペースへ。
ここはマサイマラ国立公園のホテルと違って、ホテルの周りに「高圧電線」が張り巡らされており、動物は入って来れない。
焚き火にあたりながら、ギター奏者の演奏に耳を傾ける。アフリカの音楽だ。
お酒に酔って、音楽に酔う。酒と音楽のハーモニー。
一人旅の僕には本当に至福の時間がゆったりと過ぎていく様に思えた。
目の前には雄大なキリマンジャロ山がくっきりと見えている。この山は朝と夕方しか、その姿を現さない。
動物たちも暑い昼間は一切活動はしない。
キリマンジャロ山が雲の中から姿を見せる朝夕に彼らは動き出すのだ。
あの手塚治虫はアフリカを訪れたことはあるのだろうか?
目の前にある景色は、「ジャングル大帝」に出て来るサバンナの画そのものだった。いつ、レオが飛び出して来てもおかしくはない。
ギターの演奏も終わって、それぞれの部屋に戻る観光客。
僕も部屋に戻って、手紙を書き始めた。
その頃、足繁く通っていた大阪・京橋のエスカイアークラブ。ずっと指名していたバニーガール宛の手紙だ。
アフリカ、ケニアのアンボセリ国立公園から大阪・京橋の彼女への手紙。
帰国して店に行ったら、手紙は届いていた。その彼女とは何故か京都・河原町で一回だけデートした。その後、付き合った記憶が無い。今、彼女はどうしているのだろうか。
話が脱線したが、アンボセリ国立公園。翌朝は朝3時に起きて、「バルーンサファリ」へ。気球に乗って、空から朝活発に動いている動物たちを見るのだ。
飛行機と違って、ゆっくりと地面を離れる気球。
巨大なバーナーで空を飛ぶ。時々するバーナーの燃焼音以外は無音。まるで地上を走る様々な動物たちを追いかける様に飛んで行く。
上から俯瞰で見る動物たちは格別だ。空からでないと、こんなに近くでサバンナの動物を見る事は出来ない。
最高!「バルーンサファリ」。
しかし、「バルーンサファリ」をする事で、動物たちが驚き、ケニアから隣国タンザニアへ大移動。ケニアで見られる動物が激減しているらしい。
人間中心でものを考えてはいけない。
気球がヘナヘナヘナと縮んで地面に舞い降り、ぶら下がっているカゴが横向きに倒れる。僕らも一緒に倒れた。
僕が行った翌年、この「バルーンサファリ」に参加していた日本人が事故で亡くなった。
この気球の着陸時に事故は起きたのかも知れない。
サバンナにブルーシートが敷かれる。シートの四隅にはマサイ族の戦士が立つ。朝なので、動物が活発に動いている。ライオンなどの猛獣から僕ら観光客が襲われない為だ。
ブルーシートの上では気球のバーナーを使って、朝食の準備が手際良く進められている。
メニューは「焼いたソーセージ」と「スクランブルエッグ」。
「美味しい!」
と一口食べて絶叫してしまう程の味。
マサイ族に守られているとはいえ、いつ猛獣が襲って来るか分からないサバンナのど真ん中。一生忘れられない味となった。
そんな僕らに朝日が燦燦と照り付け、キリマンジャロが笑顔を見せてくれている様に僕には思えた。
「卒業旅行、一緒に行かへん?」
1982年正月明け。僕は大阪の大学の友人たちにこう誘われた。
彼らは4人で、大学生協主催のツアーに申し込んでいたのだが、そのうち1人が「会社の研修」が入り、行けなくなっていた。
ツアーの宿泊は全て「ツインルーム」。3人だと、誰か知らない学生と相部屋になる。
それを避けたいという事だった。
当時、就職浪人中で日々悶々と暮らしていた僕は親に相談した。ツアー料金は就職したら返済するから、ツアーに参加させてくれと。
親の承諾を得て行く事が決まった「卒業旅行」の概要は次の通り。
「エジプト・ヨーロッパ27日間の旅」。催行は「近畿日本ツーリスト」。
訪れる国は、
エジプト、
ギリシャ、
イタリア、
オーストリア、
西ドイツ(ドイツ連邦共和国)、
オランダ、
ベルギー、
ルクセンブルク、
フランス、
イギリス。
料金に入っているのは、
すべての飛行機代、大都市間移動のバス代、イタリア・ベネチアからオーストリア・ウィーンの寝台特急料金、すべての宿泊代、すべての朝食代(アメリカン・ブレックファースト・・・簡単な朝食)。
期間は2月半ばから3月半ばまでの27日間。成田から添乗員同行。
僕ら大学の同級生4人は大阪国際空港(当時)にツアーの出発日に集合した。
ここから、大阪勢は「英国航空001便」に乗って、成田へ。成田から東京勢が乗り込み、アラスカ・アンカレッジ経由(当時、共産主義の「ソ連」上空を「西側の航空機」は飛べなかった)、イギリス・ロンドン、ヒースロー国際空港へ。
ヒースローで、同じ「英国航空」のエジプト・カイロ行きに乗り換えて、ツアーは始まった。
カイロ空港で集まってみれば、22歳前後の東京・大阪の若者たちが40名弱と男性添乗員1人。
ツアーが国々を回って行くうちに分かった事が一つある。
関東の男子と関東の女子は朝食後から、「街歩き」も「買い物」も一緒。
僕たち関西の男子と女子は朝食後、夕食前の集合場所を決めて、男女で分かれる。
何故、分かれるかというと、男子と女子で行きたい場所が違うからである。
イタリアのローマでは、女子はグッチ、セリーヌ、ルイ・ビトンなどの店に行ってじっくり買い物がしたい。(1982年当時のブランド品は、日本で買うより格段に安く、日本より最新のものが買えた)
男子。僕たちは昼間はローマの駅へ行ったり、映画「ローマの休日」で出て来た「真実の口」を見たり、ローマ市内をバスに乗って駆け回っていた。
お互いを尊重し、お互いの時間ロスを避ける。この方法が関西人の僕らにとってベストだった。
関東の学生たちの行動が僕たち関西人には理解出来なかった。
夕食前に僕らは関西女子チームと合流。その日起こった事を肴に美味しいワインをグビグビと飲む。
そして、みんな大学4回生。27日も一緒に旅すれば、仲良くなる。
西ドイツ・ミュンヘン。
有名なビアホール「ホップブロイハウス」。
関西の学生みんなで出かけた。
大ジョッキが2リットルある。
500人を超えるドイツ人がひしめき合う様にテーブルに座り、ハムやソーセージを食べながら、大声で喋ったり、歌ったりしていた。
ドイツの高校生も大勢で肩を組みながら、ビールを飲んで歌っている。未成年でもビールはドイツ人にとって水代わり。だから、飲んでも許されるのだろう。
僕たちもドイツ人に負けない様に大声で歌った。
1982年、松田聖子の大ヒット曲「赤いスィートピー」。
「春色の汽車に乗って・・・」
しばらくして、僕はビールの飲み過ぎでトイレに行った。お腹をかなり下していた。トイレはかなり寒かった。
便座に座って、自分自身に語りかける様に、反戦歌「リリー・マルレーン」を小さな声で口ずさんだ。第二次世界大戦中、ドイツ軍・連合軍の両方の兵士が歌った歌。
ゆっくりと酔いがアタマに回って来ていた。僕は生きてて良かったと思った。
まだ、コロナもメタバースも無い時代の話。
アフリカに行く時、二つの選択肢があった。
一つは「エア・インディア」で、インドの首都ニューデリー経由。
もう一つが「パキスタン国際航空」で、パキスタンの首都カラチ経由だった。
そして、僕は後者を選んだ。運賃が安いから。
後に聞いた話だが、南回りで安いのは、「パキスタン国際航空」と「エジプト航空」。
成田を出ると、香港・バンコクと止まり、カラチで飛行機を乗り換える。
カラチからはドバイ経由でアフリカ・ケニアの首都ナイロビまで、トランジットを含め、20時間余り。
成田空港から機内に乗り込む。
まず、僕のシートのリクライニングが壊れていた。倒れたまま、元の位置に戻らないのである。
カラチまで、何人ものCAに「離着陸の歳、席を元に戻せ」と言われたが・・・それは不可能!
香港からは出稼ぎ帰りらしい、大きな荷物を持ったおじさん・おばさんが大挙して乗り込んで来た。機内の匂いも変わる。
運賃が安いので、「出稼ぎ列車」の様な感覚で、「パキスタン国際航空」は使われている様だ。
機内は喧騒に包まれ、僕の前で騒ぎが起きた。
座席がダブルブッキングされていた。
出発の時刻が迫る。
CAさんの席にダブルブッキングされて騒いでいた乗客たちが座り、飛行機はCAさん達が立ったまま離陸した。
この飛行機は「ボーイン737」。かつて、日本でもよく使われていた機材。多分、どこかの航空会社の「お古」なのだろう。
バンコク国際空港に着陸した時、アタマの上から非常時に使う「酸素呼吸器」がバラバラと降って来た。
パキスタンはイスラム圏の国。
「エニイ・アルコホリックドリンク?(お酒はありますか?)」
と豊かな口髭を蓄えたパーサーに僕が訊くと、
「ノー!」
と一言、冷たい返事。
もちろん、飛行機を乗り換えるカラチ国際空港にもアルコール飲料は全く無い。
カラチからドバイ。砂漠の中の空港に飛行機は砂煙を上げて着陸した。着陸の際、機体が一回バウンドして、再び滑走路から浮き上がったのがジェットコースターに乗っている様で怖かった。
ドバイ。ドアが開くと、日本人は一斉に走り出す。全力疾走!
何故?ビールが飲みたいからだ。ここドバイの空港。飛行機が給油している間に乗客が出られるスペースに「ビアスタンド」がある。
ここまでアルコールを我慢して来た僕ら日本人はスタンドに「子犬の様に」群がる。
みんな日本を出発してから久しぶりに美味しいビールが飲めて幸せそうだ。
「子犬たち」はしっぽを振っている。
少しほろ酔い気分でいると、飛行機はナイロビ国際空港に向かって、高度を下げていった。
さて、今まで乗って、いちばん良かった航空会社は?
南米ブラジル・リオデジャネイロに行った時の「ヴァリグ・ブラジル航空」。
成田を出て、ロサンゼルスで給油し、同じ飛行機が南米リオデジャネイロに向かう。所要24時間。時差12時間。「午前」と「午後」が替わるだけだから、時計の針を調整する必要の無い、遥か遠い場所。
まず、アルコールが無料で飲み放題。機内食も南米特産の中身の詰まった高級ステーキが出る。アメリカのステーキとは一味も二味も違う。これに赤ワインがすごく合うのだ。
アメニティーも充実。アイマスクにスリッパ。寝る時の「U字型空気枕」。歯磨きのセット等々。
もちろん、エコノミー席でのサービスの話。
24時間も飛行機に乗っていると、これらのサービスはとても嬉しい。
難を言えば、僕は背が高いので、前の席との距離がもう少しあれば最高だったが。
いずれにせよ、飛行機に乗った瞬間から「旅」は始まる。
僕は毎回、ワクワクドキドキしながら、機内へと入って行き、「新たな旅」を始めるのである。
いつも、席は「CAさんの前」を指定。足が伸ばせるから。
「私は近畿大学の◯◯教授の研究室で勉強していたのです」
アフリカ・ケニア、首都ナイロビの公園で僕は一人の黒人に日本語でそう話しかけられた。長閑な真昼の出来事だった。
彼は隣国からの難民で、かつて日本にいたそうだ。その話に興味を持った僕はしばらく彼の話を頷きながら聞いていた。
「私はどうしても日本の近畿大学へ戻りたい。だけど難民なので今あまりお金を持っていないのです。少しだけでいいのでお金貸してくれませんか?」
「これは怪しい」
と僕の心がつぶやいた。
半ば強引に彼との会話を止め、その場を急いで離れた。
すると、彼を始め数人の仲間が執拗に僕をつけて来る。街の角を曲がっても角を曲がっても。僕を追い詰めようとしている。
荒手の集団詐欺だと確信した。心の底から湧き上がる様な危険を感じた僕は慌ててタクシーを拾い、ホテルへ向かう。危ない危ない。ナイロビは隣国や田舎から仕事の無い人々が集まって来て、治安が非常に悪くなっていた。
猛暑のナイロビ、真っ昼間。
僕はエアコンが程良く効いたホテルの部屋で大好きな赤川次郎や西村京太郎の本を読んでいた。
はるばる20時間以上かけてやって来たアフリカ・ナイロビ。灼熱の太陽光が降り注ぐ中、ライトノベルやトラベルミステリーを読んでいるその時間が、僕にはとてもとても贅沢な時間に思えた。
夜、ナイロビのちょっと高級な日本食レストランで夕食を摂ろうと思った。途中にある昼間行った例の公園は
「夜になると木の上から強盗がいつ降って来てもおかしくない程治安が悪い」とフロントで言われ、タクシーを呼んでもらう。
レストランで食事とウィスキーの水割りを頼む。
しばらくして、水割りが来た。
僕はグラスに目を凝らした。
キューブアイスの中に「ハエ」が固まって入っていた。すぐに店長を呼ぶ。
キューブアイスを指差して、その事を猛抗議する。
「氷の中にハエが入っている」と。
店長曰く、「ハエは氷が凍った時に入ったのでしょう」。
「そんな事、訊いて無いないわい」と僕。
何故こちらが猛然と抗議しているのか、全く分からないという彼の憮然とした表情。
「郷に入れば郷に従え」
そんなことわざが僕の心の中に浮かんだ。
食事をしてお腹いっぱいになり、レストランの隣のバーで飲む事にした。バーはすし詰め状態。
白人・黒人など多国籍状態。
カウンターに「ダークダックス」の様に半身で並んでお酒を飲んでいると、一人の黒人女性が近付いて来た。
「これからホテルに行こう」
娼婦だった。彼女の話を詳しく聞くと、子供がたくさんいて彼女が養って行かなければならないとの事。
「だから娼婦をやっている」
彼女は切実な表情で僕を見上げた。彼女の黒い額が何故か照かっている様に僕には見えた。彼女は必死の目をしていた。
僕は彼女の申し出を断った。どこかで後髪引かれる思いがした。
カウンターを離れ、精算を済ませ、タクシーでホテルに帰った。
娼婦。世界最古の商売と言われる。彼女の働いたお金で育てられているたくさんの子供達。そして彼女自身。生まれて来たからには、「生き続けなければならない」。
僕には踏み入れられないものがそこにはあった。一生忘れられないナイロビの夜の出来事だった。
僕は「ナイアガラの滝」の最寄りバッファロー空港へニューヨークから向かっていた。
空港から滝まではタクシー。
「ナイアガラの滝はマリリン・モンローで有名ですよね?」
と運転手さんに話しかけるが、何度言っても「マリリン・モンロー(アクセントを付けずフラットに言っていた)」が通じない。いろいろアクセントを試していると「マリリン・モンロー」の語尾(モンロー)を上げるという事が分かり、それを機に彼と話が盛り上がった。
余談だが、アメリカ人の多くは陽気だ。ケニアのサファリに行った時、感じた事がある。
僕はフランス人のグループと一緒のサファリカーに乗っていたのだが、彼らは別のサファリカーに乗って陽気に騒いでいるアメリカ人たちの事を「地球の田舎者」と言った。長い歴史を持つヨーロッパに住むフランス人からは新大陸のアメリカ人が田舎者に見えるのだろう。僕はその時、変に納得したのを憶えている。
二時間位走っただろうか?タクシーはアメリカ側の「アメリカ滝」の袂に着いていた。芝生一面、滝の水飛沫で凍った氷柱がたくさん立ち並んでいた。年越しのタイミングで行ったので極寒だ。
アメリカ滝はエレベーターに乗って、滝が落ちて来る滝壺の真横まで行く事が出来る。但し、風向きによっては派手に水飛沫を被ってびしょびしょに濡れてしまう場合もある。展望台でも観光に来ているアメリカ人からは笑い声が起こり、とても賑やかだった。
徒歩で国境を越え、カナダ滝の展望台へ。膨大な量の水が果てしなく、滝壺へと吸い込まれる様に落ちて行く。明らかにアメリカ滝より規模は大きい。
世界三大瀑布と言えば、「ナイアガラの滝」「イグアスの滝(ブラジル・アルゼンチンの国境)」「ビクトリアの滝(ザンビアとジンバブエの国境)」。後に、僕は三つの滝を訪れたが、「イグアスの滝」が飛び抜けて壮大で迫力があった。オススメです。ぜひ。
大きな滝を見ていると、大自然に強く抱かれている感じがする。
人間としての自分の悩みなどいかに小さなものかを痛感させられる。だから、僕は観光地を訪れるより、常に大自然に会いに行きたくなるのだろう。
ナイアガラからニューヨークへの帰路は「鉄道の旅」。「乗り鉄」の僕は鉄道に乗れるのを今回の旅でいちばん楽しみにしていた。
カナダ滝から三時間以上歩いただろうか。冬というのに、僕は汗だくになっていた。疲労困憊。目的地は「ナイアガラ駅」。いくら歩き続けても、駅が見つからない。ニューヨーク行き列車の発車時刻も迫って来ている。
すると、三時間歩いて何も無かった道端に一軒のカフェを見つけた。急いで店に入り、タクシーを呼んでもらう。
「これで列車に間に合う」と僕の心は踊った。
タクシーに乗り込み、「ナイアガラ駅」に行って欲しい旨を運転手さんに伝える。ホッとして、座席に身体全身を委ねた。
「ナイアガラの町に駅はないよ」と運転手さん。「地球の歩き方」の小さな地図を見せて、「ナイアガラ駅」の場所を説明。
僕と彼との間で押し問答が続く。
「駅なんて、誰に聞いてもわからない」と彼。
僕はなんとなく頭の中で理解した。アメリカは車社会で列車を使う事が無いので、ナイアガラの町の人たちは「駅の場所」を知らないんだと。
「バッファロー空港へ向かって下さい」
僕は諦めて運転手さんにそう告げた。ニューヨークまでの鉄道運賃が無駄になってしまったがしょうがない。空路でニューヨーク。
この日から、一緒にニューヨークへ来ていた友人と四夜連続でブロードウェイ・ミュージカルを観た。
「Cats」「コーラスライン」「ラカージュオフォーレ」「42nd street」。
正確に言うと、僕はどのミュージカルもイビキをかいて熟睡。昼間歩き回った昼間の疲れがたっぷり溜まっていたのだ。
座席を取ってくれた友人は大学時代、オーケストラの指揮者をやっていて、ミュージカルを物凄く楽しみにしていた。僕は毎晩彼の横で爆睡。
終演後、毎晩激怒され、キレられた。
旅の最終日、有名なジャズクラブ「ビレッジ・バンガード」へ。超満員でラッシュ時の電車の中にいる様だった。人が多すぎて、周りに身を委ねても倒れない。二時間あまりの公演。ここでも僕は熟睡。
友人は僕に言った。
「お前とは二度と旅には来ない!」と。
音楽にほとんど興味が無い僕は他の事を考えていた。
「いつか、アメリカ横断鉄道に乗ってやる」と。
忘れられない年越しだった。
南米ペルーの首都リマ。
この街を走るタクシーにはメーターが付いていない。では、どうやって料金を決めるか・・・
僕はリマ郊外にある「黄金博物館」に行きたくて、タクシーを拾おうかどうしようか迷っていた。
その時、視野に入ってきたのが、交差点の真ん中で忙しそうに交通整理をしているお巡りさん。信号の代わりなのだから、大切な仕事。
激しい車の往来を縫う様にして、僕は彼に近づいて行った。
「タクシーの料金交渉をして欲しいのですが・・・」と身振り手振りで頼んだ。すると、彼は立っていた交通整理の台からサッと降りて、道をすたすたと渡って行く。
次々とタクシーを止めて、交渉を始めてくれた。
「黄金博物館までいくらで行ってくれる?」
彼は何台かのタクシー運転手に声をかけ、金額を訊いて首を横に振る。
4〜5台、タクシーを見送っただろうか、1台のタクシーに乗れと彼は言う。メモに「黄金博物館までの交渉が成立した金額」を書いてくれた。
僕がお巡りさんに何度もアタマを下げ、感謝すると、彼は少しはにかんだ表情を見せた後、にこやかに笑ってくれた。
タクシーの助手席に乗り込む。ニュージーランドなどでもそうだが、運転手とお客は対等な関係という事で、客は助手席に座る。
足の下から強い風が吹いて来る。床を見たら、「動く地面」が迫力いっぱいで見えている。床に体がすっぽり入りそうな大きな穴が開いていた。僕は恐怖感から残った床に両足を拡げ、手すりをを掴んでいた。
車は日産の初代「サニー」。日本で使い尽くされた中古車がリマの街でタクシーとして、現役で走っている。半世紀以上走っていて、車検など無いのだろう。これだけ使えば、ある意味「倹約家」だ。
さて、話は変わって、インド・ムンバイのタクシー。
こちらはメーターがちゃんと付いている。問題はメーターが付いている位置。運転手とは反対側のボンネットの上なのである。
つまり、こういう事になる。客がタクシーに乗り込む。運転手はドアを開け、車の前を回って、反対側に行き、メーターを倒し戻って来る。そして、運転。
目的地に着いたら、再びドアを開けて、車の前を回って、金額を確認。運転席に戻って来て、客にお金をもらう。何故、メーターの位置がそうなったかは僕たち観光客には謎だった。
最後に、日本のタクシーの謎。
海外いろんな所に行ってタクシーに乗ったが、「日本のタクシーにしか無いもの」がある。手を挙げて、タクシーを止めると開く「自動ドア」である。
過保護な「日本社会」は「便利」で成り立っている。その産物の1つがこの「自動ドア」なのかもしれない。
果たしてタクシーの「自動ドア」は必要か?「不要不急」なものではないのだろうか。海外を旅して見えてきた「日本」という国の価値観。
僕が海外のいろんな国々に行きたい理由。それは「日本という国」の本当の姿が見えてくるからである。
世界中の国の人々がマスクをしていない今、何故日本人はこれだけ「マスクをする事」にこだわるのだろうか?
南米ペルーの首都リマ。朝、旅行社の車がホテルの前で待っていた。僕が後部座席に乗り込むと、民族衣裳に身を包んだおばさんがすでに座っていた。
「僕のおばさんです!ナスカに行く途中の町まで乗せて行きます」
助手席に座った陽気な添乗員がそう言った。まるで何事でも無い様に。
今日はかの有名な「ナスカの地上絵」を観る日。リマから遊覧飛行機が飛ぶ町イカまで車で5時間南下する。
しばらく走ると、車は突然ドライブインに入った。おばさんが朝食を食べるとの事。お腹の調子が少し悪かった僕は店主にトイレの場所を訊く。
店の裏手にトイレの入口があった。中を覗き込む。高さ2メートルの糞の山がそびえ立っていた。四畳半位の広さに立ったその山からくさい臭いは全くしない。リマからナスカにかけては乾燥地帯が続くので、大便が完璧に固まっているからだ。元々はトイレの真ん中に便器があったのだろう。それが詰まって、その上に人々が次々に排便した結果がここにあった。
さすがに僕には糞の山に登る勇気は無かった。トイレの向かいの畑で野糞をしようかとも考えたが、道から見える事もあり、恥ずかしさが込み上げて来て、ツアーの目的地イカまで我慢する事に。腰を浮かせて、車に乗った。
イカの空港のトイレに駆け込んだ。個室のドアを開け、ホッとしたのも束の間、便座が無かった。足が攣りそうになりながら、ギリギリまで腰を屈めてなんとか用を足した。お尻を拭いた紙を備え付けのカゴにいれる。南米ではトイレに紙を流してはいけない。水洗トイレの水の流れが弱く、紙が詰まってしまうからだ。
セスナに乗って、「ナスカの地上絵」を観た。壮大な景色だった。
帰りも5時間かかって首都リマへ。車のエンジンから変な音が聞こえて、車は広大な砂漠のど真ん中で止まった。オゾン層が破壊された南米の空から灼熱の太陽光が僕たちに降り注ぐ。
ほとんど車の往来も無い一本道。車が動かなければアウト。添乗員と僕が車の後ろに回り、全力で車を押す。運転手が何度もエンジンをかけようとするが、ウンともスンとも言わない。リマへの道のりを考えると、めまいがした。僕らは汗だくになっていた。
1時間くらい車を押していただろうか。その時は突然訪れた。エンジンがかかったのだ。急いで車に乗り込み、一路リマへ。
散々な目にあったが、記憶に残る「ナスカ観光」だった。
僕はタンゴの名曲「ラ・カンパルシータ」を口ずさんでいた。
南米・アルゼンチンの首都、ブエノスアイレス。ホテルから「タンゴバー」に行くタクシーの車内。外は土砂降り。タクシー運転手さんが「オー、ラ・カンパルシータ❣️」と叫び意気投合した。
「タンゴバー」の座席は最後方。ツアーグループが優先的に前方の座席に案内され、僕の様な「一人旅」は舞台からいちばん離れた場所に座らされる。
開演直前、一人の東洋人が駆け込んで来て、僕の隣に座った。
ショーが始まる。アコーディオン演奏者が四人出て来て競って演奏したり、男女のカップルがタンゴに合わせて踊ったり、「コンドルが飛んでいく」の熱唱があったり。
午後十時半から始まったショーは二時間あまり。その時間はアッという間で、地球の反対側のこの地で僕はショーを堪能していた。
ショーがすべて終わり、観光客が次々と席を立つ中、隣のおじさんが叫ぶ様に「女買いに行こうぜ!」と右手に100ドル札を大量に握りしめ、日本語でいきなり声をかけて来た。
よくよく訊くと、大阪・淡路に住んでいた事があり、今はニューヨークに住んでいる韓国人。ビジネスマンとして、アルゼンチン・ブエノスアイレスには仕事でよく来ているそうだ。スペイン語もペラペラ。
僕は、「おじさんの言った事」には全く興味が無かったが、「このおじさんと土砂降りのブエノスアイレスで一夜を過ごすのはそれはそれで楽しそうだ」と思った。好奇心。とりあえず彼に付いて行く事にした。
一軒目。彼は店内で白人の娼婦を口説いていたが、こちらが黄色人種ゆえ拒否されたらしい。
二軒目の交渉も上手くいかず、三軒目のキャバレークラブに向かう。移動のタクシー代もすべて彼が支払ってくれる。
ブエノスアイレスのキャバレークラブは日本のそれと違って、中央に舞台があり、そこで女の子がショーをやる。店内はタバコの煙で少しモヤっていた。
僕の横に付いた女の子は、彼によると、ウルグアイから出稼ぎに来ている子。彼女はスペイン語しか話せないし、僕は英語しか話せない。コミュニケーションを取る術も無く、時間ばかりが過ぎていった。
彼からの説明。気に入った女の子がいたら、泊まっているホテル名と部屋番号を伝えると、閉店後、来てくれるとの事。一泊100ドル(日本円で15000円位か)。
午前三時過ぎ、彼は女の子と一緒にタクシーに乗り込み、ホテルへ向かった。飲み代も全て彼が払ってくれた。
僕はというと、かなり泥酔ひていた。彼と一緒にブエノスアイレスの街をあっちこっち動きまわったので、自分が今どこにいるのかさえ分からない。雨は上がっていて、少し湿気を含んだ風が吹いて来る。寒い。
日本のように流しのタクシーがたくさん走っている訳もなく、30分近く道路の端で酔っ払ってよろよろ佇んでいた。
やっと来たタクシーに乗り、ホテルの名前が「ランカスターホテル」というのを憶えていたので、運転手に告げ、座席にへたり込む。
ホテルの前に着いたが、ホテルの大きな扉が閉まっている。「開けてくれ!」と日本語で叫ぶ。こちらも必死。何度も扉を叩いていると、やっと扉を開けてくれた。
まだ、酔いが抜けていない。なのに、「スクランブルエッグ」とか「ソーセージ」とか「コーヒー」とか「持って来てもらう時間」を半分無意識で「ルームサービス」の用紙に書き込み、ドアの外ノブに吊るして置いた。
翌日が日本への帰国の日。僕は「ルームサービス」に起こしてもらい、飛行機に間に合った。
ブエノスアイレスからブラジルのリオデジャネイロまで6時間。リオからアメリカ・ロサンゼルスを経由して、成田国際空港まで24時間。
忘れられないブエノスアイレスの夜になった。
日本からは南回り、ぱの首都カラチで飛行機を乗り換え、パキスタン国際航空で18時間。アフリカ・ケニアに到着する。
僕が行った当時、ケニア入国にはコレラの注射を二回、黄熱病の注射を一回接種する必要があった。
首都ナイロビからセスナ機に乗って二時間、マサイ・マラ国立公園。サファリの真ん中にあるホテルに到着。
客室はしっかりした大きなテントの中の清潔なダブルの部屋。そして、その「寝室テント」から30センチくらい開けて、「シャワーとトイレがある小さいテント」が建っていた。トイレも普通の洋式水洗トイレ。
二つのテントに分かれているのは、シャワーを浴びた時の湿気が寝室に入って来ない様にする為。
たくさんのテント状の客室から観光客はホテルの中心に位置する野外レストランへ歩いて昼食を摂りに行く。昼食はビュッフェスタイル。
ケニアは元々イギリスの植民地だった事、ヨーロッパからの移動距離が短い事などで、欧米からのツアー客が多い。
昼食はそれぞれのグループに分かれて食べる。僕はツアーでは無く、一人で行ったので、一人用のテーブル。
まずはビュッフェから骨付きの肉を取って来て食べる。食べ終わって、次の料理を取りにビュッフェに行く為に僕は席を立った。
その時、上空で旋回していたハゲタカが突然急降下。皿に触れる事無く、僕が食べ残した骨付き肉を咥えて急上昇した。それを見ていたレストラン中の外国人観光客たちから大きな拍手が湧き起こる。
何故、ハゲタカが僕のテーブルから肉を持って行ったか?他のテーブルはグループで、誰かがビュッフェ料理を取りに行っても、一人はテーブルに残っている。僕のテーブルだけが誰もいない瞬間があったのだ。それを遥か上空から見ていて、肉をせしめたハゲタカはとても賢かった。
夕食。同じレストランで食べる。昼食と違うのは、各テントにマサイ族の戦士が銃を持って迎えに来るのだ。
このホテルは、ケニアのサファリにある一般的なホテルと違うところがある。強い電気を流して、獰猛な野生動物をホテル内に入れない「有刺鉄線」が無いのだ。
客室からレストランの間で、観光客が猛獣に襲われるかも知れない。それゆえ、マサイ族の戦士が往復付いて来てくれる。彼らはちょっとした音にも反応し、音のした方向に銃口を素早く向ける。その度に僕は冷や汗をかきながらレストランへと向かった。
お腹もいっぱいになり、寝ていると、深夜トイレに行きたくなった。寝室側のテントのファスナーを開け、外に出てファスナーを閉める。そして、トイレ側のテントのファスナーを開け、中に入ってファスナーを閉める。
用を済ませ、トイレを出ようとした時、テントの外側を大きなものが擦る音がした。実際は小さな音だったかも知れないが、僕の想像は膨らんでいた。僕は立ち上がった便座に再び腰を下ろした。
「ライオン」「チーター」「象」「サイ」「カバ」。その得体の知れない大きな物体。しかもゆっくりテントの周りを動いている。
「寝室のテント」と「トイレのテント」の間は30センチ。僕は凍てつくアフリカの夜、一時間以上、冷たい便座に座っていた。「その音」が聞こえなくなるまで待とうと思った。
身体は凍え、息は白かった。日本から遠く離れたアフリカの地でライオンに襲われて死ぬ訳にはいかなかった。
どれくらいの時間が経ったことだろう。その音は聞こえなくなっていた。
それに気付いてから五分ほど待ち、二つのファスナーを素早く開閉し、寝室のテントにアタマから転がり込んだ。ベッドに横たわったが、いつまでも興奮は収まらなかった。
遠くで鳥の鳴き声がした。アフリカの大地に朝が訪れようとしていた。
翌朝、辺りが明るくなって、ホテルのフロントで訊くと、その音は「カバ」か「サイ」だと言われた。
僕は自然の中での「人間の存在の小ささ」を知った。僕たち人間が動物を観に来ているのではなく、動物が生きている場所に僕たち人間がお邪魔している事を。
「It,s swimming time!(さあ、泳ごうぜ〜!)」
船長がラジカセで陽気な音楽をかけて叫んだ。
遊覧船の上で観光客が一斉に服を脱ぐ。男も女も。服の下に着込んだ水着姿になって、次々と川に飛び込む。
普通の川ではない。川幅四キロ以上あるアマゾン川のど真ん中。みんなグイグイ泳ぐ。水着を用意していない僕(クルーズを手配してくれた旅行代理店の人は水着着用とは言ってなかった)は飛び込めない。泳いでる人たちがピラニアに襲われないか、ヒヤヒヤするばかり。これがアマゾン川8時間クルーズ最後のイベント。
アマゾン川中流の町マナウスは、リオやサンパウロと違って、治安はすこぶる良い。
クルーズを終え、マナウスの港に帰還。
港のすぐ横には「魚市場」。少し魚の腐った臭いがする。マナウスは暖かい町。その中に地元漁師たちが利用するカウンターだけの小さな食堂があった。好奇心に突き動かれて、勇気を出してカウンターに座る。メニューはポルトガル語。指でメニューを指しながら、当たり外れの無いスープをオーダー。
出て来たトマトスープ。アマゾン川で獲れた魚の殼を大量にたっぷり煮込んで出汁を取る。それをトマトで味付けしたスープは今まで生きてきた中で、予想も出来ない最高の味がした。
その夜、無性に日本食が食べたくなり、マナウスの日本食レストランへ。
北島三郎、島倉千代子、石川さゆり、アマゾンの空の下、スピーカーから演歌が次々と流れて来る。茄子の田楽などをおつまみにしながら酒を飲む。
僕は海外を旅する時、必ず一回は日本食レストランに立ち寄る。
水だき鍋の白菜がレタスだった事もあるし、握り寿司から外国人板前のオーデコロンの匂いがした事もあった。でも、必ず行く。
異国の地で酔いしれていると、日本で生活している時とはまた違い、演歌が心に沁みる。自分が日本人だという事を実感する。日本と、地球の真反対にあるブラジル。そこで飲む酒、流れてくる演歌はとても相性がいい。日本からも同じ星が見えているのかなぁーと思いながら、かなり酔うまで酒を飲み続ける。一人酒も良いものだ。
どこの国へ行っても、夜、僕は酔っ払っている。よく誰かに襲われなかったものだ。背が高くて身体が大きい僕が酔って暴れたら怖いなぁーと思われていたのかも。
そんな僕も2015年に断酒した。不思議な事に、それ以来酒を飲もうという気持ちにならない。体重も20キロ以上痩せたから、健康の事を考えると結果として良かったのかも知れない。