内容(「BOOK」データベースより)
「銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに」―詩才を惜しまれながらわずか19歳で世を去った知里幸恵。このアイヌの一少女が、アイヌ民族のあいだで口伝えに謡い継がれてきたユーカラの中から神謡13篇を選び、ローマ字で音を起し、それに平易で洗練された日本語訳を付して編んだのが本書である。
内容(「MARC」データベースより)
金田一京助の招請に応えて上京し、金田一邸の人となった知里幸惠。東京到着4日後から書いた遺作となる神謡「ケソラプの神」「丹頂鶴の神」と英雄叙事詩「この砂赤い赤い」の本文、日本語訳、注釈などを収録。
著者略歴 (「BOOK著者紹介情報」より)
北道 邦彦
1935年北海道生まれ。1994年埼玉県立高等学校教諭退職。1997年~2001年早稲田大学語学教育研究所で受講・研鑚(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
知里 幸恵(ちり ゆきえ、1903年(明治36年)6月8日 - 1922年(大正11年)9月18日)は北海道登別市出身のアイヌで『アイヌ神謡集』の著者である。弟に言語学者の知里真志保がいる。
生涯
知里幸恵は、1903年(明治36年)6月8日にアイヌのごく普通の家庭に生まれた。
幸恵の祖母はユーカラクル、すなわちカムイユカラを謡(うた)う人だった。カムイユカラは、アイヌにとって身近な動物の神々がアイヌの日々の幸せを願って物語るアイヌ伝統の口承の叙事詩である。文字を持たないアイヌにとって、その道徳観・倫理観・自然との共生の大切さ・伝統文化を子孫に伝えていく上でカムイユカラは非常に大切なものだった。
幸恵は、祖母の謡うカムイユカラを常に身近に聞くことができる環境で育った。このことが後に彼女が精神的経済的に明治に入り衰退していたアイヌ民族に復権の機会をもたらし、知里幸恵の名が永く人々の記憶に留まることになる。
幸恵は小学校では、幸恵にとって外国語である日本語の読み書きを必死に学ぶなどまじめな生徒であったが、明治政府の政策により本格的に北海道に入って来た日本人によるアイヌへの差別に日々悩んでいた。しかし、夜、囲炉裏(いろり)を囲み、祖母から謡ってもらうカムイユカラを聞き、明治以前のアイヌの歴史と伝統に触れるこの時ばかりは嫌なことを忘れることができた。
この幸恵の家を、言語学者の金田一京助が訪れたのは、幸恵が15歳の夏であった。金田一が幸恵の自宅を訪れた目的は、アイヌの伝統文化を記録して後世に残すためであった。
幸恵は、金田一が幸恵の祖母たちからアイヌ伝統のカムイユカラを熱心に聞き記録に取っていく姿を見て、金田一のアイヌ伝統文化への尊敬の念そしてカムイユカラ研究への熱意を感じた。金田一と出会うまでの幸恵は、日本人から日々差別を受けアイヌであることへの劣等感を抱いていた。学校教育では明治政府の政策で、日本人教師たちにより「アイヌは劣った民族である、賎しい民族である」と繰り返し教えられ、幼い幸恵は疑うことなくそのまま信じ込んでいた。しかし、金田一から、「アイヌ・アイヌ文化は偉大なものであり自慢でき誇りに思うべき」と、直接さとされて、幸恵は生まれて初めて、独自の言語・歴史・文化・風習を持つアイヌ・アイヌ民族としての強い自信と誇りに目覚めた。
その後、カムイユカラを「文字」にして後世に残そうという金田一からの本の出版の誘いを受け、幸恵はアイヌの文化・伝統・言語を多くの人たちに知ってもらいたいとの一心から金田一の誘いを受諾し、東京の金田一宅に身を寄せた。
金田一の家で、幸恵は以前より行っていたカムイユカラをアイヌ語から日本語に翻訳する作業をさらにおし進めた。その成果を『アイヌ神謡集』として世に出すべく、幸恵は時おり襲われる心臓発作に医者から絶対安静にと静止されたが、床(とこ)から起き翻訳・編集・推敲作業を続けた。そして1922年(大正11年)9月18日、『アイヌ神謡集』を完成させた。
しかし、幸恵は、自らのその役割を終えたかのように、まさに編集を完了したその日の夜、心臓発作のため死去。重度の心臓病であった。翌1923年(大正12年)8月10日、幸恵が、その命と引き換えに完成させた『アイヌ神謡集』は出版された。
時代背景
明治時代以前、アイヌは狩猟・漁業・農業で平和な生活を享受していた。そして川でとれたサケなどアイヌの特産物で、樺太を通じてロシアと、そして東は千島列島を通ってカムチャツカ半島の先住民イテリメン人たちと広範囲に交易・貿易も行っていた。アイヌは文字を持たない民族ながらも一大文化圏を築いていた。しかし19世紀に入り、アイヌの平和を脅かす存在となったのがロシアと日本だった。南下して領土を拡張をしたいロシア、それに危機感を覚え、樺太・北海道・千島など北方の島を一刻も早く自国領土にしたい日本。極東における「国境線の概念」を、両者が強く意識せざるを得なくなった19世紀後半に入っても、樺太・千島のみならず、北海道はロシアと日本のどちらの領土にもまだなっていなかった。
明治政府によるアイヌへの植民地政策(土地の没収、収入源である漁業・狩猟の禁止、アイヌ固有の習慣風習の禁止、日本語使用の命令、日本風氏名への改名による戸籍への編入等々)により、アイヌの生活は明治時代以前の平和で穏やかな生活から一変し、悲惨なものへと変わっていた。とりわけ、アイヌにとって外からやって来た明治政府に自らの土地を没収され、その没収されたアイヌの土地が日本人開拓民に平然と払い下げられる様子は経済的に致命傷となったばかりか精神的にアイヌを絶望させた。
明治政府に土地や漁業権・狩猟権など生活の基盤である収入源を政策的に収奪されたことで、アイヌは経済的に止めを刺され極貧へと追い込まれた。座して死を待つばかりとなっていたアイヌ民族とアイヌの伝統文化は消滅の危機に瀕していた。
後世への影響
『アイヌ神謡集』によって、アイヌにとって身近な動物の神々がアイヌの日々の幸せを願って物語るカムイユカラが文字として遂に後世に残された。かつて幸恵が祖母から謡ってもらったように、母親が読み聞かせ子供が容易に理解できる程に平易な文章でつづられた13編からなる物語。アイヌ語から日本語に翻訳されたその文章には、幸恵のアイヌ語・日本語双方を深く自在に操る非凡な才能が遺憾なく発揮されている。また、文字を持たないアイヌ語の原文を、日本人が誰でも気軽に口にだして読めるようにその音をローマ字で表し、日本語訳と併記している。アイヌ語の原文を、意味はわからなくとも気軽に口に出して読めるこの工夫は、文字を持たないアイヌ語のハンディをカバーしている。
このことは当時新聞にも大きく取り上げられ、多くの人が知里幸恵を、そしてアイヌの伝統・文化・言語・風習を知ることとなった。また幸恵が以前、金田一から諭され目覚めたように多くのアイヌに自信と誇りを与えた。幸恵の弟、知里真志保(ちり ましほ)は言語学・アイヌ語学の分野で業績を上げ、アイヌ初の北海道大学教授となった。また歌人として活躍した3人のアイヌ、森竹竹市・違星北斗・バチェラー八重子も知里真志保と同様、公にアイヌの社会的地位向上を訴えるようになった。幸恵はまさに事態を改善する重要なきっかけをもたらした。
1990年、幸恵の文学碑は幸恵が伯母の金成マツ、祖母のモナシノウクとともに過ごした旭川・チカプニ(近文)の北門中学校の構内に荒井和子を中心とした市民の募金により建てられ、毎年幸恵の戸籍上の誕生日である6月8日にチカプニのアイヌの人々の主催で生誕祭がおこなわれている。
生誕地の登別では2000年より毎年、幸恵の命日である9月18日の前の連休ごろに知里むつみ(幸恵の姪)を中心とする特定非営利活動法人「知里森舎」によって、幸恵や幸恵が命をかけて残した「カムイユカラ」を中心とするアイヌ文化などについて考えるイベントが開かれている。
2003年の生誕100年をきっかけに幸恵の生地である、ヌプルペッ(登別)に幸恵の記念館(仮称・銀のしずく記念館)を建設しようという強い動きとなり建設募金運動が続いている。
2006年1月には2008年度のノーベル文学賞を受賞したフランスの作家ジャン=マリ・ギュスターヴ・ル・クレジオがル・クレジオとともに『アイヌ神謡集』のフランス語訳の出版(ガリマール社)を実現した作家の津島佑子と幸恵の墓参に訪れている。
2008年10月15日にはNHKの『その時歴史が動いた』で幸恵が取り上げられた。
人類の御先祖様は、凄い偉業を成し遂げている事を今回初めて知った。