「朝の連続ドラマ」が終わり、僕は「制作部」内で異動する事になった。
いろんな番組を作っていたが、「EXテレビ」(日本テレビ・読売テレビ制作、日本テレビ系1990〜1994年)だけは行きたく無かった。
「EXテレビosaka」(火曜・木曜、読売テレビ制作)。
番組のコンセプトは、「今までの『テレビ』を壊す事」。何事にも妥協しない敏腕のUさんがプロデューサーをやっていた。
テレビのプロデューサーやディレクターには「俺が俺が」と前に出て、自分の個性を全面に押し出す人が多い様に思うが、僕の性格は真反対。
他人の意見に耳を傾けながら、番組をまとめていくタイプ。
実際に「EXテレビ」のディレクターをやり始めて、何度も何度もUさんには罵倒され続けた。
それゆえ、4週に1回、ディレクターが回って来るのが怖かった。
休みの日、「次にやるテーマ」を思いつかないと、妻と幼い娘を車に乗せて、500キロも600キロも当てど無く走り回った事もあった。自分の抱えている不安を消す為に。家族には本当に迷惑をかけた。
時が経ち、「自分はこの企画をやりたい」と痛切に思うテーマと少しずつ巡り合う様になった。
それが「孤高の芸人・マルセ太郎さんにドキュメンタリー的に迫った企画」であったり、上岡龍太郎さん始め、出演者の皆さんに「棺桶」に入ってもらい、「死」に関して議論する「棺桶トーク」だったりした。
上岡龍太郎さんが亡くなられた直後、ある夕刊紙のコラムに載っていた記事。
その記事によると、上岡さんは3回棺桶に入った。
1度目は「棺桶トーク」の企画の元になった「上岡さんが棺桶に入った写真が表紙の『上岡龍太郎カレンダー』の写真撮影時、2回目は「EXテレビ」の「棺桶トーク」の収録時、そして3回目がご自身が亡くなって、本当に「棺桶」に入った時。
「EXテレビosaka」の最終回のディレクターは僕だった。
企画は「何も無いスタジオに畳敷きの掘り炬燵を作って、上岡龍太郎さんと親しい方々と共に美味しいお酒とご馳走を食べながら、宴会するだけ」。
参加者は20人位いただろうか。
番組の最後、スタジオの出口にあるカメラに向かって、出演者が一言ずつ。最後は上岡さんだった。
「次の番組が無惨に失敗します様に」
そう言って、上岡龍太郎さんはすまして、画面からフレームアウトした。
なんかその言葉が僕には上岡さん一流の「テレ」の様に聞こえた。
1994年3月の事である。
ちなみに、1965年に始まり、1990年に最終回を迎えた「11PM」。
第1回から25年、司会を続けた藤本義一さんは「大阪イレブン」の最終回・いちばん最後で、「大阪イレブン」は「時代の排泄物」だと表現した。
確かに世の中に「裏表」があった時代、「大阪イレブン」は「裏文化」をテレビという「表文化」で垂れ流し続けた「排泄物」だったのかも知れない。
テレビの前の人々は「裏文化」を見たかったのだ。こっそりと、深夜に。
「たかじんnoばぁ〜」(読売テレビ・関西ローカル・1992〜1996年)という深夜番組があった。最高視聴率は25%を超える番組だった。
「やしきたかじんさんが実際に本物のお酒を飲みながらバーでゲストを『本音トーク』でもてなすというコンセプト」の番組。
スタジオに「本物のバー」と見間違える様な「バーのセット」が多額の費用を使って建てられた。
二本録りだったので、たかじんさんは二本目はヘベレケになっていた。
そのゲストに「ビートたけしさん」が来てくれた事があった。当然、東京のゴールデンタイムの番組と同じ様なギャラは払えない。
番組関係者の話では、「東京の1/10のギャラ」と「北新地での接待」で話がついたと聞いた事がある。真偽の程は分からない。
当時、たかじんさんは「読売テレビの社長」とよく北新地で飲んでいた。
「数々の珍しいワイン」をたかじんさんは蒐集しており、ワインを飲むのが大好きだった。ウチの社長が「ビールしか飲まない人」だったので、「自分のワインに手をつけられない事」を非常に喜んでいたと聞いた。
この番組に出演した「ビートたけしさん」。
深夜番組「新橋ミュージックホール」(読売テレビ制作・日本テレビ系全国ネット・1997〜1999年)でトータス松本さん、ユースケサンタマリアさんと共に番組にレギュラー出演した。
僕は一視聴者として、この番組を観ていただけだが、「横山ホットブラザーズ」がゲストの回、ビートたけしさんがその「芸」を見ながら、抱腹絶倒していたのである。
あの「曲がるノコギリを使って、音楽を奏でる芸」。
それは当時、関西では観る機会が多い「芸」ではあるが、東京で観る機会は圧倒的に少ない。
想像でしか無いが、「ビートたけしさん」も「横山ホットブラザーズ」の「芸」を観たのは初めてでは無いだろう。
しかし、僕は画面を通して、たけしさんの彼らへの「リスペクト」を垣間見た気がした。
この番組に「夢路いとし・喜味こいし師匠」がゲストで来た時、たけしさんは言っている。
「オイラにとって、お二人はいつまでも『雲の上の存在』だ」。
「芸」は「愛情」だと。「芸」は「礼儀」だと。「芸」は「気遣い」だと。
朝ドラを本社スタジオで録っている時、「かしまし娘」の「正司花江さん」さんにレギュラー出演してもらった。僕を含め、スタッフには気さくで腰の低い優しい花江さん。
読売テレビ2階にある喫茶コーナーで、1人上岡龍太郎さんが所在無く座っていた。
そこを花江さんが通りがかる。上岡さんは花江さんに気付くと、サッと立ち、花江さんの方に向き直って、深々と首を垂れて挨拶をした。花江さんは上岡さんにとって、「芸人の世界の大先輩」だった。
僕はそのシーンを偶然見ていて、これが「芸人」やなぁーと思った。
「なんばグランド花月」を始めとする劇場、在阪各テレビ・ラジオ局がかつての「映画の撮影所」の様に「芸人」を育てる場所となっている。それはとっても良い事だと思う。
それにしても、「横山ホットブラザーズ」のあの演奏、久しぶりに聞きたいなぁー
僕が大阪本社の「制作部」にいた時代、先輩ディレクターが関西ローカルで、「オールナイト紳助」(読売テレビ・1984年頃)という番組をやった。深夜の3時間くらいの生放送。
四畳半くらいの広さの「ニューススタジオ」を借りて、島田紳助さんが1人MC。カメラはカメラマン無しの無人カメラが1台あるだけ。
カメラの映る範囲を変える為に、紳助さん本人が一度OA画面から外れて、カメラを操作しに行く。
企画として、僕が未だに憶えているのは、紳助さんの前に「毎日放送」「朝日放送」「関西テレビ」「テレビ大阪」のモニターがあって、「各局の放送終了の様子」を紳助さんが実況する事。
もちろん、各局の画面は紳助さんの方を向いていて、「読売テレビ」の放送画面には映らない。各局の「著作権」があるからだ。
後は「紳助さんがハガキを読むだけ」というラジオ的な番組だった。
この番組は視聴率も良く、内容的にも好評で、若手ディレクターの企画として成功を収めた。
次に一つ上の、別の先輩ディレクターが企画したのが大平サブロー・シローさんをMCにした深夜生放送番組「アイ・ラブ・サブローシロー」(1984年頃)
僕はこの番組で「フロアディレクター」を務めた。
長時間の生放送、番組の事前会議に僕も参加した。ディレクターに対して、いろんな企画を提案した。
「ハガキを読むだけ」とか、「◯◯するだけ」という番組作りは「ディレクターにとって、勇気がいる事」である。
それゆえ、「アイ・ラブ・サブローシロー」の放送内容は「制作側の企画」で埋め尽くされた。
自由に喋れての「長時間の深夜番組」。
生放送が始まると、「番組の進行」はギクシャクし始めた。
サブローシローさんの話がノリ始めると突然「制作の企画」入る。
こんな状態が続いた。MCのお二人も困惑している。
多分、放送前にお二人とディレクターが綿密な打ち合わせをしていたら、こんな事にはならなかったのだろうが、「サブローシローさん、聞いて無いよ!」の世界である。
スタジオのフロアディレクターをやっている僕にも彼ら二人の気持ちが痛い程伝わって来る。
そんな折、居酒屋で飲んで来たらしい「制作部」の先輩が酔っ払って、生放送中のスタジオに乱入。
1台しか無いカメラをいじり始めた!(40年前、黎明期の「テレビ局」の雰囲気が濃厚に残っていた時の話です。今では絶対許されない事が起こってしまう時代だったのです)
必死で止める僕。番組の進行もしなければならない。
結局、大平シローさんが生放送中にキレた。翌日のスポーツ紙にもその事が載った。
僕はこの番組をやって、「MCとディレクターの意思の疎通がいかに大切か」を学んだ。
「ディレクターの思い」だけを「一方通行」で押し付けてはいけないと。
40年前の「深夜の生放送」の事を僕は一生忘れない。
大平シローさんは2012年、55歳の若さで永眠した。
「生放送」には「確定」と言う用語がある。
いちばん、多くの人が知っている「確定」は、「24時間テレビ」の「大エンディング」。
あの名曲「サライ」がスタートする時間は「番組のエンド」から逆算して、「◯◯時◯◯分◯◯秒」まで「確定」で時間が決まっている。
たとえ、まだ「チャリティーマラソンランナー」がゴールしていなくても。強制的に「サライ」は定刻に流れ始め、そのイントロで、羽鳥アナウンサーが「募金総額」を発表する。
「確定」では無いが、ZARDの「負けないで」を放送する時間もほぼ決まっているはず。チャリティーマラソンランナーの走る映像と共に。
「11PM」。「エンディング」でゲスト歌手の歌が入る事もあった。
やしきたかじんさんが「歌のゲスト」で来た時、幾つかの「確定」が存在した。
MCの藤本義一さんと吉田由紀さんがお別れの挨拶をして、画面からフレームアウト。
その瞬間に、やしきたかじんさんの「やっぱ好きやねん」のイントロが流れ始め、たかじんさんが画面に入って来る。「音楽」のスタートは「確定」である。
歌が始まる。
1番を歌い終わった。
画面の右側を空け、そこにスタッフの「エンドロール」が流れる。やしきたかじんさんの顔にかぶらない様に。
ちなみにこの「エンドロール」が出る時間も「確定」。
たかじんさんが2番を歌い終わるまでに「エンドロール」は流れ切り、そして2番終わりで「ダバダバダバダバ」という「11PM」の「エンディングアニメーション」と「音楽」に「やっぱ好きやねん」から「確定」で乗り替わる。
※この模様はYouTubeで、「11PM やしきたかじん」で検索すると出て来ます。
僕はTK(タイムキーパー・番組の進行に合わせて、時間読みをしたり、VTRをスタートさせたりする人の事。基本、女性が多い)をやっている時、この「確定」が大好きだった。
幾つもの「確定」が重なると、同時に複数の「秒読み」をしなければならないので、几帳面な僕の性格に合っていた様だ。
「24時間テレビ」に話を戻すと、ある年、僕はTKをやっていた。番組は「関西エリア」の差し替え部分。
その番組のど真ん中に「ネットCM」が入っていた。日本テレビが全国ネットで放送している「24時間テレビ」。その中で、「ローカル番組差し替え推奨枠」というゾーンがある。
そこで系列各局が「それぞれの地域に根ざした番組」を放送する仕組み。
僕がやった「関西ローカル番組」もそうした成り立ちの番組だった。
それゆえ、番組のど真ん中に「確定」で日本テレビ発の「ネットCM」が入っていたのである。
司会は羽川英樹アナウンサー。このCMには羽川さんも緊張の面持ちだった。
どんなにトークが弾んでいても、このCMだけは決まった時間に行かないと、番組が途切れた様になり、視聴者から見れば、放送事故になりかねない。
この時は羽川さんの見事な仕切りで、番組はつつがなく終わったが。
僕は「編成」というセクションに行った事が無いので、分からない部分もあるが、「24時間テレビ」の「大エンディング」。札幌テレビから沖縄テレビまで全国31局のリレー中継があるが、各局の待ち時間は30秒と決まっている。
日本テレビへの「ネット回線」は確か2本。「終わったら次、終わったら次、状態」で系列局の映像・音声が日本テレビの「サブ(副調整室・ディレクターが指示を出す部屋)」に入って来る。それを30秒毎に切り替える。否応無しである。これも一種の「確定」と言えるかも知れない。
「確定」と言えば、「番組のエンディング」。エンドロールが流れるが、TKはもう一つ準備をしなければならない。
もし、万が一、エンドロールが流れない場合の為、普通のテロップで「制作著作 よみうりテレビ」を出す用意。
放送している番組の「著作権」がどこにあるかを示す事はとっても重要なのである。
「生放送」の「確定」。テレビマンたちはこの言葉に緊張しつつ、日々放送に勤しんでいる。
僕が入社した1983年、「制作部」の管理部署で事務をしていたTさん(女性)。
その後、妊娠して出産。いつのまにかシングルマザーになっていた。
大阪府の南部、土建業を営む一家で育ったTさんは稀に見る豪快な人だった。
自分の思った事ははっきり言わないと気がすまない。生半可な男より男っぽい「竹を割った様な性格の女性」。
彼女には大阪の「制作部」時代、大変お世話になった。
「高校生クイズ 近畿大会」(1992〜1994年)のディレクターを僕がやった時、同じ管理部署のMさん(男性)と「高校生のケア」を担当してくれた。
真夏にやる「高校生クイズ 近畿大会」。「熱中症」に高校生がなる危険性も多い。何せ、当時の「近畿大会」だけで、一万人以上の高校生が集まっていたからだ。
「熱中症」ほか、倒れたり気分が悪くなったりした高校生を待機している医師や看護師に診てもらったり、場合によっては救急車を呼んだり。TさんとMさんは1万人の高校生の熱気でムンムンした会場を走り回っていた。
「高校生クイズ 近畿大会」の収録は1日で決勝戦までやる。
「勝者の高校生」の弁当の手配、水やお茶の供給、全てTさんやMさんが中心になってやってくれた。お二人は自分達の昼食を食べる時間も無かったと思う。
そんなTさんに
「昨日の放送、面白かったよ!」と褒められた時は本当に嬉しかったし、感謝の念でいっぱいになった。
そのTさんが「宣伝部」に異動になったのである。
僕がプロデュースした連続ドラマが彼女の「ドラマ宣伝」デビュー。北海道・浦河町のロケだった。
東京・大阪から「記者誘導」(「宣伝部」が交通費や宿泊費を払って、記者の皆さんに撮影現場に見てもらい、取材してもらう事)でたくさんの記者がロケに来ていた。
プロデューサーの僕が「宣伝部」のTさんと連絡を取り合い、ロケの進行具合をみて、記者を撮影現場に誘導する。そこで、俳優さんの写真撮影。
1日のロケが終わり、ホテルに俳優さん達が戻って来る。
ホテルのロビーにはイスが並べられ、記者さんの「囲み取材」が行われる。
主演は佐藤浩市さん。
佐藤さんがホテルに到着すると、少し休憩時間を取って、ロビーに降りて来てもらった。「囲み取材」の司会はTさん。
記者が質問し、佐藤さんがそれに答える一問一答形式。
この時の「囲み取材」ではあまり質問が出ず、取材時間が余ってしまった。
そしたら突然Tさんが佐藤浩市さんに向かって言った。
「あんたも何か喋る事あるやろ!ちゃっちゃと喋り!」
僕は肝を冷やして佐藤さんの方を見た。佐藤さんは苦笑いしながらも、記者に向かって冷静に話をしてくれた。「大人の対応」だった。
Tさんの伝説。
Tさんは「近鉄百貨店外商部」の「上得意様」。ある時、「外商部」に電話してこう言った。
「赤いベンツ一台、持って来てくれるか!」
「外商部」も困った事だろう。いくら「外商部」でも車は売っていない。かと言って、「上得意様」だから無碍には出来ないし。
多分、ベンツを売っているのは「近鉄関連の外車販売会社」。「外商部」はどうやって対処したのか?結末は闇の中。
そのTさん、60歳で定年になった。ウチの会社は「シニアスタッフ」として、65歳まで働けるのだが、Tさんは「私、年下の上司に命令されるのは嫌や」と潔く退職された。
Tさんも「制作部のプロデューサーやディレクター」同様、昭和のテレビの「野武士」だったのかも知れない。
何か僕たちが「無茶なお願い」をしても、「しゃないなぁー」と呆れて笑いながらも、何でも聞き入れてやってくれた「根はホンマに優しい」Tさん。そこには「無償の愛」があった。
Tさんの様な「ある種尖った人柄」の社員も優しく包み込んでくれる「どこか長閑な社風」。
最近、その「社風」がどんどん無くなっていっている様な気がするのは僕だけだろうか?とても悲しい事である。
「11PM」のMC藤本義一さんは言った。
「よみうりテレビは商店街である」。他の在阪局は「企業」。
「商店街」は他の店の人の「足を引っ張り合い」する事無く、それぞれの個性を尊重する。そして、「個人商店」が集まって、みんなの力を結集して闘う。
「企業」は「利益」を追求する為に「プロデューサー・ディレクター同士」が足を引っ張り合うと。
そんな「商店街」の一員になれた事に僕は今でも誇りを持っている。
「11PM」風俗最前線。
「触れてはいけない裏文化」があった時代の話。
新宿歌舞伎町・ノーパン喫茶「USA」のイヴ。在籍は1年。
目がクリクリとして可愛い女の子だった。
「ノーパン喫茶」はウェイトレスが歩く通路に「鏡」が張り巡らされ、客はその「鏡」を通して、女の子の「ノーパンのスカートの中」を見られるのが「売り」。
イヴを目当てに「USA」の前には男性たちのどこまでも続く長蛇の列が出来た程の人気を誇った。
後に歌舞伎町には「ノーパンしゃぶしゃぶ」も出来たっけ。ドラマのプロデューサーから行った時の話を聞いた事がある。
コタツに入って、「ノーパンの女の子のスカートの中」を見るものだったと記憶する。
この当時の「風俗」は「法の眼」を掻い潜って、あの手この手でアイデアを出し、工夫、努力をしていた様に思う。
1983年、イヴは歌舞伎町の風俗情報誌「ナイトタイム紙」に紹介されて、人気がさらに爆発。
この記事が「週刊宝石」にそのまま転載されて、「親バレ」「地元バレ」した。
イヴは開き直って・・・
日活ロマンポルノ「イヴちゃんの花びら」(1984年)で主演デビュー。同時にAV、グラビア、写真集。2000年代初頭まで活躍。
「11PM」にもイヴに出演してもらった。確かにその時代の「ポルノ女優」や「AV女優」には無い「普通の女の子の可愛さ」を持っていた。
現在の「AV」には「こんな普通の女の子」「こんな可愛い女の子」「こんな美しい女性」が出るのかと目を疑いたくなるものが有るが、それは「社会に『裏表』が無くなった事」と強い関係があるのだろう。それは良いのか悪いのか?
「11PM」に話を戻そう。当時のイレブンは「女性の裸」を出していれば、視聴率はグングン上がった。
スタジオで「(乳首を出して)生ストリップ」をやった回なんか、30分押しのスタート(24:00〜)にも関わらず、高視聴率を叩き出した。
その「エロさ」ゆえ、富山の系列局「北日本放送」は、月・水・金の「東京イレブン」のみ放送し、「大阪イレブン」は放送しなかった。
僕がディレクターをやった回。テーマは「測る」。
まずは京都の女性下着メーカー「ワコール」にロケに行った。
現地には「スイカの様な巨乳を持つセクシー女優」を連れて行き、ワコールにある「乳首がどう動くか計測出来る装置」で、彼女の「乳首の動き」を測って貰い、それを撮影した。
それもこれも「巨乳女優」の裸を見せたいが為だけである。
取材の途中で「巨乳女優」を連れて来た事を見て、立ち会って下さったワコールの広報の女性もこの取材は「エロ」が目的だなと察知している様だったが、お互い寡黙なうちに取材は終わった。
この回のスタジオ冒頭。笑福亭鶴光が笛を吹いて、画面に登場。その上に「巨乳女優」が「両胸の部分だけくり抜いたアクリル板」に横たわって、フレームイン。
「アクリル板」が下がって来ると、「満杯に水を張った2つのビーカー」にその巨大な胸が沈み、「ビーカー」から溢れ出た水が「そのまた下の2つのビーカー」に溜まる装置を作った。
つまり、「巨乳の容積を測る」という事である。
この様子をハンディーカメラで下からあおる様に撮った。やはり、男性にとって、このアングルがいちばん興奮するのだ。「11PM」をテレビの前で楽しみにしている男性視聴者の為に。
別の回では、新宿歌舞伎町にロケに行った。ロケ場所は「ファッションヘルス」である。
この風俗はお店に入ったら、「マジックミラー」がある部屋に案内される。そこで客の男性は好みの女の子を選ぶ。客の男性には「マジックミラー」と説明されていた。
しかし、女の子側の部屋に入れてもらい、男性側を見ると、「普通のガラス」だった。女性側から男性客も見えていたのだ。
指名された女の子と客は2階の3畳も無い個室に上がる。
そして、2人は「『ソフトなプレイ』の風俗」を楽しむのである。
今回の取材は次の様なものである。
許諾を頂いた男性客の目に「その男性の視線が今どこを見ているか、計測する機械」を付ける。
そして、全裸の女の子と相対する。その様子を別の取材カメラでも撮影。つまり、「男性客の目線の映像」と「男性客と女の子を客観的に撮った映像」の2つを同時収録するのである。
「目線を測る機械」と「撮影機材」、幅も重さも相当有り、狭い「ファッションヘルス」の階段を2階に上げるのに、どんなに苦労した事か。
知らない人から見れば、何をやっているのかと思われるのは必至。
結果、「男性客の目線」は「パンティー以外は全裸の女の子」の「胸」「顔」「下の大事な部分」を頻繁に往き来した。
ただそれだけの話であるが、僕たち「大阪イレブン」のスタッフは「女性の裸を合法的に、テレビコード(現在の『コンプライアンス』)に引っかからない様に見せる為、努力を惜しまなかった。30年以上前の話である。
僕がいた時代には無かったが、生放送、スタジオで「女性の裸」を見せている時、下着が外れた。全てのスタジオカメラはとっさに天井に向けられたが、「女性の大事な部分」が全国に生放送されてしまった。
プロデューサーは近くの警察に呼ばれ、始末書を書かされたという話である。
その様な事が結構頻繁に起こった「大阪イレブン」。作り手として、「女性の裸」を見せる為に日々努力を惜しまなかった。
それこそが隠さなければならない「裏文化」があった時代の事だった。その事は日本にとって「幸福」であったのかも知れない。
僕が「ダウンタウンDX」(読売テレビ制作日本テレビ系・1993年〜)の「宣伝」をやっている時代、「TMC」にはよく通った。
「TMC」とは「東京メディアシティ」というスタジオの事。場所は小田急線の「祖師ヶ谷大蔵駅」から歩いて10分位の場所にある。
元々、戦後、「戦車以外は何でも来た」と言われた「東宝争議」(東宝経営者と労働組合の争い)の際、争議に嫌気が差した俳優・監督などのスタッフが「東宝」を辞めて作ったのが、「新東宝」と言われている。
今は「日大商学部」の敷地になっているが、その敷地は「新東宝」が売却したものであり、全盛期には「オープンセット」もあり、現在の「東宝撮影所」と隣り合わせであったらしい。
僕が「TMC」に通い始めた時には「オープンセット」の残骸がまだ残っていた。
「新東宝」が作った映画は累計数百本とも言われている。自社の映画配給網が弱かった「新東宝」は1962年、事実上倒産。
数年後、「阪急グループ」(今の「阪急阪神グループ」)「TBS」「フジテレビ」を母体とする「国際放映」という会社になり、主に「テレビドラマ」(フィルム撮影)の製作を目的としてスタジオが機能する事に。
ここで撮影されていたのが、「太陽にほえろ」(日本テレビ系)、「ケンちゃんシリーズ」(TBS系)、「コメットさん・九重佑三子版、大場久美子版共)」(TBS系)などなど。
凄い時は、朝ロケバスが20台以上も「国際放映」の前に並んだそうである。
その後、VTR収録用に改装されて、「フジテレビA1・A2スタジオ」「レモンスタジオL1・L2(関西テレビ)」「TBS K1・K2スタジオ」そして、「東海テレビ」が「昼の帯ドラマ」で使っていた「TMC-1スタジオ」、7つのスタジオになった。
僕が「TMC」に通っていた頃、10年前の話である。
ちなみに初期の「警部補 古畑任三郎」(フジテレビ系)もここで撮影されている。
「TMC」の一階には「今昔庵」という喫茶店が有り、そこのマスター福田さんが「名物おじさん」だった。
福田さんの許可無しに席に座ろうものなら、激怒された。少し変わった人だった。
彼は「TMC」で撮影される各局のドラマや番組にも多数出演していた。
ここの「ミックスジュース」が美味しくて、あの味は忘れられない。
「今昔庵」で「宣伝リリースの原稿打合せ」を何度やった事だろう。
ある日、「ダウンタウンDX」を撮っている時、隣のスタジオでは、「ドリフ大爆笑」(フジテレビ系)の「オープニング」と「エンディング」を撮っており、ダウンタウンの浜田雅功さんが「ザ・ドリフターズ」の志村けんさんと話す光景も見られた。
また、木村拓哉さんが楽しそうに浜田さんと「今昔庵」で話し込むシーンもあった。二人はTBSの遊川和彦さん脚本「人生は上々だ」という連続ドラマで共演した仲である。
現在、「K1・K2スタジオ」が「TBS」(赤坂に新たにスタジオを建設)から「NHK」に、「A1・A2スタジオ」が「フジテレビ」(「湾岸スタジオ」を新設)から「国際放映」に管理が移っている。
「秘密のケンミンSHOW 極」(読売テレビ制作日本テレビ系全国ネット・2007年〜)も現在は「TMC」で録られている。
それでも、芸能人が多く住む世田谷区のど真ん中にある「TMC」(「砧スタジオ」とも呼ぶ・世田谷区砧)では「関西テレビのドラマ」「在京・在阪局のバラエティー番組」の収録が日々行われている。
旧知の俳優さんやドラマの監督、一緒にドラマをやったスタッフに会えるので、2週間に1回、「TMC」に行くのを僕は楽しみにしていた。
もちろん、一般の人は「夢の工場」である「TMC」には入れない。
「今昔庵」のマスター福田さん、心臓が悪くて入院していた事もある。お元気にされているか、心配だ。今でもどこかで喫茶店をやられているのだろうか?
東京と大阪の「バラエティー番組」の台本の違い。
東京の方は「MCの台本には『ゲストや観客を笑わせる内容』まで書かれていて、東京のタレントさんは「台本通り」に忠実になぞって進行していく事が多い。
大阪の台本。書かれているのは「必要な情報」だけ。あとは「スタジオ大爆笑のうちにCMへ」という一言のみ。
台本を事細かく書くと、関西の芸人さんやタレントさんには失礼にあたる。
「笑いにうるさい関西人」にとって、「笑いは『芸人・タレントの喋りの才能』によって突発的に起こるもの」。「予定調和」は考えられない。
そういう意味で、最近感じているのが、関西のテレビ番組は「とってもラジオ的」だと。昔から。
伝説のトーク番組「鶴瓶・上岡のパペポTV」(読売テレビ・1987〜1998年)。この番組はラジオ番組「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」(ラジオ大阪・1978〜1989年)をテレビ化したものだ。
「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」は、笑福亭鶴瓶さんと放送作家の新野新さんが2人で喋るだけのラジオ番組。番組タイトルは「鶴瓶と新野の『喋りのぬかるみ』に視聴者がハマる事」から来ている。
鶴瓶さんで言えば、「突然ガバチョ!」(MBSテレビ・1982〜1985年・基本、関西ローカル)も映像無しで聴いているだけでも楽しい。
この番組もラジオ番組「MBSヤングタウン(通称・ヤンタン1967年〜)の影響を強く受けている。
同じMBSテレビの「夜はクネクネ」(1983〜1986年・関西ローカル)。原田伸郎、角淳一アナウンサー、トミーズ雅の3人が街を延々歩くだけの番組。偶然出会った一般の人とトークを繰り広げる。この番組も耳だけで聴いても楽しい「ラジオ的」な番組だ。
少し古くなるが、「プリン&キャッシーのテレビ!テレビ!!」(読売テレビ・関西ローカル・1973〜1975年)も「ハガキを読むだけ」というコンセプトで作られた番組。
それは非常に「ラジオ的」。司会の横山プリンが視聴者から来たハガキを足で踏みにじるなど、ほかの番組に無い過激さが中学生だった僕を強く惹きつけた。
「ハガキを読むだけ」というコンセプトは後に森脇健児・山田雅人司会の「ざまぁKANKAN!」(読売テレビ・関西ローカル・1988〜1990年)に受け継がれている。
東京のテレビ局と違って、予算規模も小さい大阪のテレビ局。
「セット」などにお金をかけず、「笑い」を取る事に全力を賭ける。
大阪のスタジオから毎日放送している「情報ライブミヤネ屋」(読売テレビ制作・日本テレビ系全国ネット・2006年〜)。宮根誠司さんの喋りもどこか「ラジオ的」だと思う。
そのトークの根底に流れるものは「大阪のおばちゃんトーク」。
何でも「笑い」に変え、人間関係をスムーズに進める。
それが「商人の街」、大阪に脈々と受け継がれているのかも知れない。
東京と大阪の「バラエティー番組」の台本の違い。
東京の方は「MCの台本には『ゲストや観客を笑わせる内容』まで書かれていて、東京のタレントさんは「台本通り」に忠実になぞって進行していく事が多い。
大阪の台本。書かれているのは「必要な情報」だけ。あとは「スタジオ大爆笑のうちにCMへ」という一言のみ。
台本を事細かく書くと、関西の芸人さんやタレントさんには失礼にあたる。
「笑いにうるさい関西人」にとって、「笑いは『芸人・タレントの喋りの才能』によって突発的に起こるもの」。「予定調和」は考えられない。
そういう意味で、最近感じているのが、関西のテレビ番組は「とってもラジオ的」だと。昔から。
伝説のトーク番組「鶴瓶・上岡のパペポTV」(読売テレビ・1987〜1998年)。この番組はラジオ番組「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」(ラジオ大阪・1978〜1989年)をテレビ化したものだ。
「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」は、笑福亭鶴瓶さんと放送作家の新野新さんが2人で喋るだけのラジオ番組。番組タイトルは「鶴瓶と新野の『喋りのぬかるみ』に視聴者がハマる事」から来ている。
鶴瓶さんで言えば、「突然ガバチョ!」(MBSテレビ・1982〜1985年・基本、関西ローカル)も映像無しで聴いているだけでも楽しい。
この番組もラジオ番組「MBSヤングタウン(通称・ヤンタン1967年〜)の影響を強く受けている。
同じMBSテレビの「夜はクネクネ」(1983〜1986年・関西ローカル)。原田伸郎、角淳一アナウンサー、トミーズ雅の3人が街を延々歩くだけの番組。偶然出会った一般の人とトークを繰り広げる。この番組も耳だけで聴いても楽しい「ラジオ的」な番組だ。
少し古くなるが、「プリン&キャッシーのテレビ!テレビ!!」(読売テレビ・関西ローカル・1973〜1975年)も「ハガキを読むだけ」というコンセプトで作られた番組。
それは非常に「ラジオ的」。司会の横山プリンが視聴者から来たハガキを足で踏みにじるなど、ほかの番組に無い過激さが中学生だった僕を強く惹きつけた。
「ハガキを読むだけ」というコンセプトは後に森脇健児・山田雅人司会の「ざまぁKANKAN!」(読売テレビ・関西ローカル・1988〜1990年)に受け継がれている。
東京のテレビ局と違って、予算規模も小さい大阪のテレビ局。
「セット」などにお金をかけず、「笑い」を取る事に全力を賭ける。
大阪のスタジオから毎日放送している「情報ライブミヤネ屋」(読売テレビ制作・日本テレビ系全国ネット・2006年〜)。宮根誠司さんの喋りもどこか「ラジオ的」だと思う。
そのトークの根底に流れるものは「大阪のおばちゃんトーク」。
何でも「笑い」に変え、人間関係をスムーズに進める。
それが「商人の街」、大阪に脈々と受け継がれているのかも知れない。
芸人・間寛平さんと深夜のレギュラー番組をやっていた事がある。
「寛平の屋台が行く」(1984〜1985年頃・読売テレビ 関西ローカル)。
僕はプロデューサー。吉本興業の谷良一さんと共に。
寛平さんと島田珠代さんが色んな街に行き、屋台を引く。その街で知り合った一般の人々と止めた屋台で「おでん」などを突きながら、トークをする番組である。
別撮りの「花紀京さんのコント」がトークの間に入って来る。
「間寛平さんのトーク」は実はそんなに面白く無い。理由は二年近く番組をやっていて、分かった。
寛平さんが「優しい」からだ。
寛平さんは屋台に座った人に平等に話を振る。話を振る人が「面白いキャラ」かどうかで区別をしない。
それが「踊る!さんま御殿」(日本テレビ)の「明石家さんまさん」と対照的な点。さんまさんは「ゲストとトークしながら、頭の中でトークの編集」をしている。
つまり、さんまさんは「ゲストの面白いコメント」「個性的なキャラクター」を瞬時に感じ取り、見分けて、その人を「深掘り」する。
だから、「面白い所だけ集めたトーク」は当然、「視聴者が笑える面白エピソード」でいっぱいになるのである。
そういう意味では、さんまさんは「冷たい」。「トークが面白く無いゲスト」には二度と話を振らないからである。
「寛平の屋台が行く」の間寛平さんの場合は「トーク」を長めに録り、ディレクターが「編集」で「面白いトーク」の部分だけを切り取り、番組を完成させていた。
引退した島田紳助さん。2時間の特番で9時間話していた事があった。全盛期の紳助さんのトークを止められる人はどこにもいなかった。
あまりの収録の長さに、ゲストたちはかなりお怒りの様子だった事は忘れられない。
明石家さんまさんは「面白いトーク」を引き出す能力に長け、島田紳助さんは「彼自身のトーク」が面白かった。
だから、まだ売れる前の「ダウンタウン」は「島田紳助・松本竜介」の漫才が録音されたテープを繰り返し聞き、独自の漫才を編み出していったのだろう。
「明石家さんまさん」「島田紳助さん」、それぞれ違う「類い稀なきトーク」の才能を持っている。
しかし、僕は「温かい間寛平さんのトーク」が好きである。「一般の人と同じ目線の高さに立ったトーク」が。
間寛平さんとは「寛平の屋台が行く」で長期間、番組作りを御一緒したが、「怒ったり」「キレたり」する事は一度も無かった。
そんな寛平さんを芸人の先輩・後輩も愛している。
「寛平さんの不器用さ・温かさ」が周りの人達を惹きつけて離さないのかも知れない。
藤本義一さん(1933〜2012年・79歳没)。深夜のワイドショー「11PM」(1965〜1990年)の司会者。作家。脚本家。
僕はAD時代を含め、2年半ほど、「11PM」で一緒に御仕事を御一緒したが、「キレたり」「怒ったり」する姿を一度も見た事が無かった。
「木曜イレブン」は冬の時期、隔週で「地方の系列局」を回る。「地方局のディレクター」が作る「個性豊かな番組」にも上手くコメントをしておられた。
藤本さんのコメントはいつも「作家目線」だ。VTRからスタジオに降りて、藤本さんが30秒も喋れば、VTRの内容は巧みに咀嚼されて、「藤本さんの想像力」と共に、視聴者に伝わりやすくなっている。
早くスタジオ入りされた時は「メイク室」で「原稿用紙」を斜めに置き、モンブランの万年筆を使って、原稿を書いておられた。とても静かな佇まい。
藤本さんやゲストも加わって行なう「タレント打ち合わせ」の後は、局の隣にあるステーキハウス「ティジャ」でチーフ・プロデューサーと水割りを飲みながら待機。
吸われる煙草は「缶ピース」。かなり強い煙草だ。
「11PM」は生放送。24:30頃に番組が終わると、局の1階のロビーで「制作スタッフ」が藤本さんを囲んで「雑談」をする。
「今日の番組の感想」「来週以降の番組ラインナップの説明」、そして、「本当の雑談」。
藤本義一さんの中には、プロデューサー、ディレクター、ADの区別は無い。
AD時代の僕らも多少緊張しながらも、意見を言う事もあった。そんな時には素直に御自身の考えを忌憚無く言ってくれた。
先輩ディレクターが「藤本義一を解剖する」というテーマで番組を作った時、僕はADで「藤本義一さんの御自宅の取材」に同行した。
御自宅には、「東京の定宿にしている『ホテルオークラ』の部屋」と全く同じ部屋があった。同じ環境の方が原稿を書きやすいとの事だった。
芦屋の山奥には「全て木で出来たオシャレな別荘」をお持ちで、年に一回、「11PM」に関わる「系列局のディレクターとウチの局の制作スタッフ」が泊まり込み、藤本さんを囲んで「11PM」に付いて熱い議論を繰り広げた。
当時は、テレビの良き時代だったと思う。
藤本義一さんが亡くなって、西宮市で告別式に参列した時、僕には「藤本さんに対しての特別な想い」があった。
AD時代、リハーサルの対談コーナーでゲストの代わりに藤本義一さんと相対し、言った言葉。
「僕は将来、直木賞作家になりたいんです!」
僕は子供の頃から「作家」になりたかった。
この言葉を藤本さんは憶えていて、僕をとっても可愛がってくれた。
告別式で、藤本義一さんのダンディーな遺影を見ながら、降り頻る雨の中、僕は深々と祭壇に頭を下げていた。
未だに僕は「直木賞作家」に成れていない。