雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のいちびり俳句「涼しいトイレ」

2016-08-24 | 日記
   ◇夕立や 気温下げずに 湿度上げ

 歳を取ればこの暑さは、食欲はおろか生きる気力さえも減退してしまう。

   ◇つくつく法師 試しに一度 かぎり鳴き

   「うわ、暑い、まだ時季じゃなかった。俺としたことが‥ 」


 それは(/・ω・)/おいといて


 銅メダルを取ったアスリートが、感想を訊かれて‥ 「甘酸っぱい」を連発していた。なるほど、伝わってくる。銅をとった嬉しさを「甘い」、金を取れなかった悔しさを「酸っぱい」とその心の内を表現したものであろう。あまり取沙汰されるような表現ではないかも知れないが、素直で清々しい表現だと猫爺は思った。

 だが、昭和初期爺としては、「甘酸っぱい」で心を表現するのは青春であった。恋をする甘美さと苦悩を味覚で表現したものだ。昭和初期の詞人は、初恋の味を「カ〇ピス」と表現した。流行した歌なので、氏の銀行口座にはたんまりと、氏の邸宅には「カ〇ピス」五年分くらいは送られてきただろうと關係ないが卑しい猫爺は想像する。

 ネットを散歩していると、この「甘酸っぱい青春」という表現に反発意見が述べられていた。「私は青春期を甘酸っぱいと感じたことなど一度もない」みたいな少々ヒステリックな意見だった。
 そりゃあそうだろう、恋をしてもそのまま結婚へとゴールインして、素晴らしいご家庭のまま維持しているなら、「酸っぱい」知らずであろう。反面、猫爺みたいな奴は、苦悩ばかりで「甘さ」知らずである。

 この「甘い」「酸っぱい」というのは、当たり前のことながら比喩表現であって、青春真っ只中の若者のどこを舐めても「甘酸っぱい」体の部分はない。精々「しょっぱい」部分があるくらいだろう。「え、それはどこ?」ご想像に任せるとして、「甘酸っぱい」のは、心である。舐めてみたいのなら、若者の心を舐めさせてもらうといい。平成の若者なら、ピリ辛いかも知れないが。(特に意味なし)

 本日の脱線談義、これにて‥

   ◇我が家では トイレが一番 涼しいぞ◇  (季語「涼し」)

 29.4度なり。