雑文の旅

猫爺の長編小説、短編小説、掌編小説、随筆、日記の投稿用ブログ

猫爺のいちびり俳句「朝顔や」

2016-08-02 | 日記
   ◇朝顔や 初一輪の 威張り咲き◇

 葉は猫爺の掌より大きいのだが、花は小さくて浜昼顔の如し。 考えてみると、この紫色のチビ朝顔は生命力が強く、ほったらかしでも毎年花を咲かせ、毎年種を零している。草叢で果敢に花を咲かせる野生化した朝顔と言えるのだろう。

 浜昼顔を引き合いに出しているが、子供の頃は、須磨浦の砂浜に普通に咲き乱れていたのだが、もう本物を猫爺は何十年も見ていない。
 
 
   (/・ω・)/話は変わるが‥‥

 砂浜には、猫爺たちは「ヘコキムシ」と呼んでいた昆虫が居た。ネットで「屁こき虫」で検索すると、「カメムシ」がヒットするのだが、これは間違いである。「ヘコキムシ」とは、手塚治虫氏が子供の頃に愛していた?オサムシ(オサムシは屁をこかない)の仲間で、猫爺が探したところ、どうやら「ミイデラゴミムシ」がそれにあたるようである。
 
 この虫は、襲われるると「ブッ」と音が聞こえるくらい勢いよく「屁」をブッかます。この屁は、猛烈に臭いうえに高温である。蜘蛛くらいの虫であれば、気絶させる程の威力を持っているのだ。恐らく、蜥蜴でも手が付けられないだろう。

   (/・ω・)/脱線ついでに‥‥

 大阪泉佐野の金魚の放流が物議をかもしている。「金魚の虐待だ」というのが論点のようだ。虐待と言えばそうであるかも知れないが、縁日や夜店の金魚掬いもおなじこと。容器のなかで掬えば虐待ではなく、川で行えば虐待だと騒ぐのはどのような論議からくるものであろうか。
 食用の養殖魚を掬って食べるのは、虐待とは言わないのだろうか。活け造りの、まだ身がピクピク動いている魚を食うのは、虐待ではないのか。白魚の踊り食いはどうなのか。
 猫爺なんか、生きているアサリやシジミを熱湯にほり込んで殺しているが、これは虐待にはならないのか。虐待の定義とは、人間の都合によるものと心得たり。