
近年、アメリカ映画は『ホールドオーバーズ』『パストライブス』といったオスカー候補作から、『チャレンジャーズ』『ツイスターズ』といったボックスオフィスの人気作まで、3人1組のスリーサムを多く描いてきた。1対1の関係にもう1人が加われば、それは自ずと社会を映すことになる。ハリウッドはアイデンティティポリティクスの時代において社会を啓蒙しようとしたが、そこには個人への眼差しが欠けていたように思う。弱く、不完全で、曖昧な個人の存在なくして人間を描くことはできない。僕はそう器用に自分の周りを見回すことなんてできない。究極的には眼の前の大切な誰かと、1対1でぶつかっていくことしかできないのだ。
バリー・ジェンキンス監督『地下鉄道』で知られるコルソン・ホワイトヘッドの小説を新鋭ラメル・ロスが監督した本作は、徹底されたメソッドにより原作の叙情とメッセージを再現する映像詩である。舞台は1960年代、黒人少年エルウッドは無実の罪で少年院へ送られ、そこで生涯の友になるターナーと出会う。ラメル・ロスは全てのシーンをエルウッド、またはターナーの主観で撮影し、画面には2人のうちのどちらかしか映らない。主観撮影は彼らが相対する世界の実感そのものだ。最愛の祖母(至宝のようなアーンジャニュー・エリス)に育てられた幼少期には、見上げる世界の全てが輝く。物心が付けば、ジム・クロウ法下の南部に蔓延る差別の実態を私たちは幼い少年の目を通して体感することになる。そんな現実において、エルウッドとターナーは互いをこの世の全てと認め合う。自分がいるからこそ世界は在り、生き延びるためには目の前の人を救わなくはならない。主観撮影メソッドの意味が明かされる終盤、観客の胸は引き裂かれることだろう。
サブテキストには同年、オスカーの長編ドキュメンタリー賞候補に挙がったドキュメンタリー『シュガーケイン』が良いかも知れない。先住民族の子どもたちが白人社会システムによって公然と犠牲にされた歴史を暴き、私たちはこの国の血と暴力による成り立ちを痛感するのである。
『ニッケル・ボーイズ』24・米
監督 ラメル・ロス
出演 イーサン・ヘリス、ブランドン・ウィルソン、ハミッシュ・リンクレイター、フレッド・ヘッキンジャー、アーンジャニュー・エリス