全世界で社会現象級の大ヒットを記録した『ジョーカー』待望の続編、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』がまたしても大論争を巻き起こしている。ワールドプレミアとなったヴェネチア映画祭での賛否両論は北米公開と共に否へと振り切れ、歴史的な興行成績を収めた前作から一転、アメコミ映画史上ワーストとなる収益下降率を記録(あの『マーベルズ』や『ザ・フラッシュ』すら下回っている)。いったい何が起こっているのか?トッド・ヘインズ監督の新作を撮入直前にドタキャンし、映画そのものを潰してしまったホアキン・フェニックスの奇行だけでは説明にならないだろう。ファンダムに媚びたジャンル映画が跋扈し、スタジオも作家も観客を挑発するような野心を捨てた現在のハリウッドでは、『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』が戸惑いを持って迎えられたのは無理もない。筆者は公開初日に都心のIMAXシアターで鑑賞したが、満席の観客が戸惑い気味にスクリーンを注視する2時間強は近年にない体験だった。見るに耐えない失敗作なのか?まさか。前作から続投する撮影ローレンス・シャー、音楽ヒドゥル・グドナドッティルらによる一級の映画技術と、前作でオスカーを獲得したホアキン・フェニックスの再演は最高クラスだ。
しかし、奇妙な事にこの映画には観客を高揚させるようなカタルシスは一切存在しないのである。映画はアーカム精神病院に収監されたジョーカー=アーサーが世紀の裁判へ臨む姿が描かれるが、彼の目から見た世界はなんとミュージカルだ。殺人、裁判とミュージカルを掛け合わせる手法はボブ・フォッシーの『シカゴ』、ラース・フォン・トリアーの『ダンサー・イン・ザ・ダーク』など珍しくないが、トッド・フィリップスはハーレー・クイン役にレディ・ガガを招聘し、多くのスタンダードナンバーを歌わせながら映画史の前例に倣おうともしない。
前作『ジョーカー』は虐げられてきた者の怒りと蜂起がインセルを助長させると一部で批判を招き、ここ日本でもジョーカーの扮装をした男による無差別犯罪が起こった。『〜フォリ・ア・ドゥ』はアーサーの神格化はおろか観客の感情移入すら拒絶し、道化は道化、聴衆は聴衆に過ぎないと突き放す。意図的に娯楽映画としての面白さが排除された本作の後では、誰1人としてジョーカーについて口を開く者はいないだろう。誰も存在しなかったと描く巨大なインスタレーションアートなのだ。ホアキンが前作同様の肉体改造をしながら、絶妙なグラデーションで演技的テンションを落として見えるのも気のせいではないだろう。
ではこの映画の何処に創り手はいるのか?それは証言台に立ち、涙ながらアーサーがかつて心優しい男であったことを訴える道化ゲイリー(リー・ギル)かもしれない。前作公開時、トッド・フィリップスは映画のテーマを「思いやりの欠如についてだ」と語っていた。狂気に落ちたアーサーとの“Folie a Deux”=共狂いによって暗く荒んだゴッサムシティには、もはや何処にも思いやりなど残っていないのである。
『ジョーカー:フォリ・ア・ドゥ』24・米
監督 トッド・フィリップス
出演 ホアキン・フェニックス、レディ・ガガ、ブレンダン・グリーソン、キャサリン・キーナー、ザジー・ビーツ、リー・ギル