1986年の“チェルノブイリ原発事故”を迫真のホラー演出で描いたHBO作品『チェルノブイリ』でエミー賞をはじめ、賞レースを席巻した監督ヨハン・レンク。『ブレイキング・バッド』など数々の作品に携わってきたベテラン職人監督がついに大輪の花を咲かせたが、その後『チェルノブイリ』のショーランナー、クレイグ・メイジンと再タッグを組むとされていた『THE LAST OF US』から離脱、去就が注目されていた。最新のインタビューによれば精も根も尽き果てた彼は家族との時間を優先するため、半ば引退を決意していたという。そんな折、彼の手元に届けられたのがチェコの作家Jaroslav Kalfarの小説を元にした本作『スペースマン』の脚本だった。
地球の上空から遥か彼方に輝く星雲が出現し、調査のためアダム・サンドラー扮するヤコブ船長ただ1人を乗せた宇宙船が星々を航行している。もちろん『スペースマン』はコメディじゃない。Netflixと専属契約を結んで以後、サンドラーは近年、最も精力的にキャリアを進化させてきた俳優の1人だ。なかなか劇場に足を運べなくなった中高年のファンに向けてお気楽なコメディを量産しつつ、サフディ兄弟の血気盛んな大傑作『アンカット・ダイヤモンド』、スポ根モノの定番に驚くほど魅力的な人物造形を施した『HUSTLE』に出演し、それらは全てNetflixで観ることができる。ヤコブは極度の神経衰弱で痩せ衰え、声は弱々しい。地球から交信する子供が尋ねる「船長は孤独なの?」。
数々の作品のため世界を渡り歩いてきたであろうヨハン・レンクが本作に自身の姿を見出したことは想像に難くない。地球でヤコブの帰還を待つ身重の妻レンカ(キャリー・マリガン)からの交信は途絶えた。彼女は離婚を決意している。かつて「あなたは私についてきて。私はあなたについていく」と誓い合った2人は、互いの引力の法則を見失っている。所謂“耐え忍ぶ妻”役にタイプキャストされているようにも見えるマリガンだが、近年の彼女はフェミニズム闘士とも言うべき『プロミシング・ヤング・ウーマン』『SHE SAID』の連投からもわかるように、あえて類似の作品・役柄を選ぶことで補完するようなフィルモグラフィを形成している。『スペースマン』もまた夫婦関係をテーマとする『マエストロ』と同じインスピレーションの元にある対の1本で、ここでは恒星のようなバーンスタインの影に隠れたのとは異なり、サンドラーと共に引き合う美しい軌道を描いている。
レンクは遠い地球に愛する者を残したヤコブの心の反響に耳を澄ます。まるで無重力空間に手放されたかのようにカメラは浮遊を続け、触感的な編集と共に私たちの平衡感覚を奪う。本来なら映画館の闇に身を沈めて鑑賞したいところだが、自宅では出来る限り周囲の音を遮断し、部屋の照明を落として観てもらいたい。レンクもまた多くの優れた映画監督同様、素晴らしい耳の持ち主であり、マックス・リヒターの音楽と宇宙蜘蛛に知性を与えたポール・ダノの囁きが私たちを瞑想に誘う。SFとは自身の内なる声との対話であり、『スペースマン』は『2001年宇宙の旅』や『コンタクト』『インターステラー』ら多くの星々と共に、宇宙の彼方で静かに輝くのである。
『スペースマン』24・米
監督 ヨハン・レンク
出演 アダム・サンドラー、キャリー・マリガン、ポール・ダノ