長年、スピルバーグの次回作と目されてきたレナード・バーンスタインの伝記映画がついに実現した。御大はプロデュースに回り、監督を務めるのは『アリー スター誕生』でイーストウッドからバトンを引き継いだブラッドリー・クーパー。本作にはマーティン・スコセッシもプロデューサーとして名を連ね、類まれな才能を持った俳優監督クーパーへのハリウッドの期待の高さが伺える。
上映時間129分の約半分がモノクロで、後半からようやくカラーとなる。画面比は変動があれ、その大半がアスペクト1.33。前作『アリー スター誕生』では人物に肉薄したマシュー・リバティークのカメラは一転、引きが多く、モノクロームはため息が出るほど美しい。近年、再評価されているシャンタル・アケルマンを思わせるクラシックなヨーロピアンテイストは生真面目すぎるきらいがあるものの、懐古主義とも言われかねないタイミングで大胆にシーンを転換するところに、映画作家として歩みだしたクーパーの興奮がある。
物語はバーンスタインの創作行為よりも、彼を支えた最愛の妻フェリシアとの関係に焦点が当てられている。話題沸騰の気鋭指揮者バーンスタインと、新進の舞台女優フェリシアは瞬く間に意気投合。2人は結婚し、3人の子供に恵まれる。しかし同性愛者でもあったバーンスタインは若い音楽家たちとの関係を半ば公然とし、家族に対して悪びれる素振りも見せない。筆者の頭を過ったのがトッド・フィールド監督の挑発的な傑作『TAR』だ。バーンスタインに師事したと自称するリディア・ターもまた劣らぬ天才音楽家で、堂々たるレズビアン。楽団の若いチェリストに目をつけ、パートナーを省みない。バーンスタインとターはネガとポジとも言える性格だが、共に自身の権力性には無自覚である。ターの妻がそそくさと去っていったのとは対象的に、フェリシアは博愛主義とも言える寛容さでバーンスタインの奔放さに耐え、彼のセクシャリティを尊重し、暗黙の了解のもとに家庭を維持する。バーンスタインその人を指す言葉をタイトルに冠しながら、本作のクレジットはフェリシア役キャリー・マリガンが上だ。『プロミシング・ヤング・ウーマン』を経た彼女がハリウッド製伝記映画の“耐える妻”を演じるのは役不足にも思えるが、クーパーをリードする貫禄と優美さはもはや大女優の風格である。バーンスタインが新作ミサ曲の完成を喜ぶ場面の彼女には特に心揺さぶられるものがある。報せを聞いたフェリシアは一目散にプールサイドへ駆け寄ると、服を着たまま飛び込み、水の底で膝を抱えて泣くのだ。あぁ、この人はその才能がためにさらに遠くへ行ってしまうのだ、と。
クーパーが師匠イーストウッドをはじめ、これまでの俳優監督と大きく異なるのは、彼自身がアクターズスタジをで学んだメソッドアクティングの名優であることだろう。本作ではバーンスタインの天賦の才能、周囲を惹きつけずにはいられない真正の人たらしであるチャーム、そして常にアイデンティティに苦しんでいた底知れぬ孤独を体現し、またしても俳優としてのキャリアを更新している。これほど緻密な演出と集中力を要する演技を共存させるクーパーもまた、比類なき天才と言う他ない。長年に及ぶ企画開発によって時宜を逃した感はあるものの(少なくとも『TAR』より早く公開されていれば光り方はまた違ったハズだ)、監督ブラッドリー・クーパーのキャリアを前進させた注目作である。
『マエストロ:その音楽と愛と』23・米
監督 ブラッドリー・クーパー
出演 キャリー・マリガン、ブラッドリー・クーパー、マット・ボマー、マヤ・ホーク、サラ・シルバーマン
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