「あつい」には「熱い」系統と「厚い」系統がある。「熱い」は「暑い」と親戚関係にあり、「厚い」は「篤い」と親戚関係にある。「信仰」は「厚い」と「篤い」の両方の表記があるが、病は「厚い」の表記は無く,「篤い」だけになる。それにはきちんとした理由がある。
「篤」は古くから「てあつい」の意味に使われ、「篤学=学業につとめる」「篤行=誠実に行う」「篤実=誠実で親切」のような熟語がある。文字の形は「竹」と「馬」の組み合わせだが、「竹」は恐らくは「竺(じく)」の省略形だろうと『常用字解』は説明する。「竺」には毒の意味があり、「馬+竹→馬+竺」で馬が苦しむ意味になると言う。そこから、「てあつい」の意味だったのが、「篤疾=重病」や「危篤=重病で死にそうな状態」のようにも使われるようになり、そちらの意味の方が強くなったようだ。
だから「信仰が篤い」とは書きにくいのかも知れない。それなら「信仰が厚い」と書けば良いだろうと思うのだが、なぜかそうはならない。多分、「厚い」の意味をよく知らないのだろう。物体のあつみ(二つの表面の間の隔たりが大きい)意味にばかり気を取られ、もう一つの意味を忘れているに違いない。
「厚」は「厂+日+子」から成り、「厂」は霊廟の屋根の形、「日+子」はお供えを意味している。つまり「厚」は手厚く祖先の霊を祀る意味を表し、相手に対しての思いやりが「手厚い・丁寧」の意味にも使われていた。それが物体の厚みにも使われるようになった。
言うならば、「厚み」は「手厚い」よりずっと新参者なのだ。その新参者の方ばかりに気を取られているから、「手厚い」の意味がすっかり遠のいてしまった。だから「厚意」と言う言葉があるにも拘らず、「信仰が厚い」とは書けないのだ。これが「信仰があつい」との仮名書きになる。
一方、「病が篤い」は「篤い」が常用漢字ではないので、やはり仮名書きになる。
そこで、病と信仰は仲良く手をつないで「あつい」と言う事になる。
もっとも、私はある種の宗教は「信仰が熱い」と書く方がずっと実体に合っていると思っているけれど。
「篤」は古くから「てあつい」の意味に使われ、「篤学=学業につとめる」「篤行=誠実に行う」「篤実=誠実で親切」のような熟語がある。文字の形は「竹」と「馬」の組み合わせだが、「竹」は恐らくは「竺(じく)」の省略形だろうと『常用字解』は説明する。「竺」には毒の意味があり、「馬+竹→馬+竺」で馬が苦しむ意味になると言う。そこから、「てあつい」の意味だったのが、「篤疾=重病」や「危篤=重病で死にそうな状態」のようにも使われるようになり、そちらの意味の方が強くなったようだ。
だから「信仰が篤い」とは書きにくいのかも知れない。それなら「信仰が厚い」と書けば良いだろうと思うのだが、なぜかそうはならない。多分、「厚い」の意味をよく知らないのだろう。物体のあつみ(二つの表面の間の隔たりが大きい)意味にばかり気を取られ、もう一つの意味を忘れているに違いない。
「厚」は「厂+日+子」から成り、「厂」は霊廟の屋根の形、「日+子」はお供えを意味している。つまり「厚」は手厚く祖先の霊を祀る意味を表し、相手に対しての思いやりが「手厚い・丁寧」の意味にも使われていた。それが物体の厚みにも使われるようになった。
言うならば、「厚み」は「手厚い」よりずっと新参者なのだ。その新参者の方ばかりに気を取られているから、「手厚い」の意味がすっかり遠のいてしまった。だから「厚意」と言う言葉があるにも拘らず、「信仰が厚い」とは書けないのだ。これが「信仰があつい」との仮名書きになる。
一方、「病が篤い」は「篤い」が常用漢字ではないので、やはり仮名書きになる。
そこで、病と信仰は仲良く手をつないで「あつい」と言う事になる。
もっとも、私はある種の宗教は「信仰が熱い」と書く方がずっと実体に合っていると思っているけれど。
「信仰に厚い~」か「信仰の厚い~」と続く場合が多いと思いますが。
むしろ「信仰があつい」とあついを平仮名で書くことはあまり無いのではないでしょうか。
篤については大変参考になりました。
マスコミがこぞって「信仰心があつい」だと言い、表記していれば、影響されてしまうのは間違いありません。