夏木広介の日本語ワールド

駄目な日本語を斬る。いい加減な発言も斬る。文化、科学、芸能、政治、暮しと、目にした物は何でも。文句は過激なくらいがいい。

光市母子殺害事件での死刑判決は妥当だ

2008年04月23日 | Weblog
 この事件で、放送倫理・番組向上委員会(BPO)が乗り出して、マスコミを批判したが、その効果はすぐに現れた。23日のフジテレビでは元少年の父親のコメントを紹介した。父親の言い分はそれなりにもっともである。
 考えてみれば、誰の言う事ももっともなのである。それぞれの立場で発言している以上、それなりにもっともであるのは当然の事である。そして東京新聞によれば、BPOが乗り出したのは、弁護団からの要求があったからだと言う。何ともだらしの無い委員会である。何の主体性も無い。委員の何人かは知っている顔ぶれだからこそ、余計に情けなくなる。私はもっと芯(真)の有る人達だと思っていた。
 一つだけ、誰もが何も言わないが、まさに公平を欠いている事が有る。BPOも、そんなに公平公正と言うならば、是非とも被害者の声も紹介するようマスコミも弁護団も説得して頂きたい。
 何ゆえに被害者の声が聞こえては来ないのか。
 当たり前である。殺されてしまっているのである。それがどんなに物凄い事なのかを、本当に彼等は身に染みて感じているのだろうか。被害者の声を聞く事が出来ない以上、弁護士が何を言おうとも、殺人鬼の声だけ聞いて何の公平か。正義か。
 元少年には心理的に未熟な所があると弁護団は指摘する。罪を感じ取れない異常さ(彼等はそうは言わず、性格的欠陥のような言い方をするが)がある。それをどのように厚生させて真人間に出来るのか、自信があるのだろうか。
 性格的な欠陥は矯正する事は難しいはずだ。強姦をして服役した男が、真実を語った被害者を逆恨みして、復讐の心をずっと持ち続け、出所後に、執拗に女性の居所を探し出し、遂にその女性を殺してしまった事件がある。私の住んでいるすぐ近くの団地で起こった事件であり、その長い詳細な判決文を私は読んだから、よく覚えている。
 罪を犯した人間が社会に戻れるのは、改心する事が当然に前提になっているはずだ。そうした期待を見事に裏切る犯罪者がどれほど存在しているか。
 例えば、情状酌量をして罪を軽減し、社会に戻った人間が、再び同じような罪を犯した場合に、誰も責任が取れない。情状酌量をした裁判官が、自分は間違っていたと反省した話など、聞いた事も無い。
 元少年の話す、どらえもんの救いや死者復活の儀式などは、荒唐無稽だと誰もが思う。弁護団長は、教戒師にも以前に語っていた事実なのだから、虚偽だと言うのは不等だと息巻くが、そう言う事を言うから、それを正当だと信じてしまう人々が居る。少年だったからそうした空想の世界を信じるのは仕方が無いとしても、成年に達しても、なおその空想にこだわるのは卑怯な逃げにしか過ぎない。真に反省をしているなら、あれは未熟な自分だったのだ、と思うはずである。大人になっても変わらないのなら、その更正の成果を私は信じる事が出来ない。
 少年であっても、死んだ人が生き返らないのは知っている。知っていなければならない。知らないのは単に精神的な発達が遅れているだけに過ぎない。そうした少年を真に導くのが社会の役目ではないのか。そしてそれは果たして出来るのか。
 藤原正彦氏が著書の『国家の品格』で言っているが、人を殺してはならないのは、駄目だから駄目なのだ。そこには理由など存在しない。そうした当然の事が分からない人間の心理状態を探る事がどのようにその人間に役に立つのか。探って、その人間を真人間に出来るなら、どうぞおやり下さい。いえいえ、どうかおやりになって下さいませ。「ませ」を付けるのは嫌味でしているのではない。ある国語辞典は「して下さい」の丁寧な言い方は「して下さいませ」だと説明しているから、それに従ったまでの事である。でも、変な国語辞典だ。

 繰り返す。様々な人々の意見を公平に伝えるのがマスコミの任務だと言うなら、是非是非、被害者の意見をも伝えて下さい。それが出来ないのは分かっている。つまり、もう既に公平など無視されているではないか。それを仕方の無い事だなどとごまかしてはいけない。残された公平さを尊重するのだ、と言うのかも知れないが、そんな中途半端な公平さを、果たして「公平だ」と胸を張って言って良いのだろうか。その不公平さを何とか是正する方法は無いのかと知恵を絞るのが、司法と検察と弁護士の仕事ではないのか。
 思い上がってはいけない。我々人間が出来る事など、たかが知れている。その昔イエス・キリストは言った。あなたがたの内、自分の意志で誰が身の丈を一寸でも伸ばす事が出来ようかと。うろ覚えなので、間違っていたら御勘弁を。でも本質は間違っていないつもりです。
 生まれて来て、死んで行くのも自然の摂理である。その摂理を冒涜しても、理由があれば許されるのだと言う。そんな理由が人間その物を冒涜している事は明らかである。人間には理性がある。その理性を存分に生かしてこうした事件に判定を下そうとしているのは分かるが、その理性が、うっかりすると、何か得体の知れない物に打負かされているのではないかと、私は心配をしている。得体の知れない物とは、理性こそが最上の物だとの考えである。
 理性とは人間が考え出した道理だろう。だからそれは、宇宙の真理には遥かに及ばないと私は考えている。難しい事を言うつもりは無い。単に、もっと謙虚に物事を考えるべきだろう、と言っているだけである。だから、本当は死刑だってあってはならない事なのかも知れない。人間が人間に対して死を与える事が出来るのか。被害者の立場から言えば、終身刑など軽過ぎると思えるかも知れないが、残念ながら、我々生きている者にとっては、死に代わる物としては終身刑くらいしか無いだろう。

 極端な考え方であるのは百も承知。私のブログはそれしか無いのです。あまり大した事は言ってはいないのです。