なんくるのひとりごと

日々の想いを言葉にしてみたい

聞こえないということを理解するには

2006-06-01 14:21:34 | 日記
わが園に聴覚障害の保育士が勤めている。今年で2年めを迎える。

去年の3月にハローワークを経由して本人が直接面接にやってきた。

「わたしは耳が聞こえません」とたどたどしいことばで、彼女は自分のことを語った。
一瞬わたしは「どうしよう・・・」と迷った。

明瞭な発音ではないが、彼女の話す内容はすべてわたしまで届いた。
ちゃんと話せるのである。
わたしの話をどうやって彼女に届けたら、と
思案するまでもなく「口を見れば話が聞こえます」と彼女は言うのであった。

それはそれはとわたしは大きな口を明けて、彼女に色々な質問をした。
緊張しながらも彼女は、丁寧に私の質問に向き合ってくれた。
30年もの永い間、わたしたちは障害児保育を実践してきた。

彼女を前に、わたしは自分の生き方が試され様としていることを
なんとなく感じていた。もちろん彼女に試される訳ではない。
私自身のこれまでの発言や、生き方が「本物」だったかどうかの自問自答である。

「とにかくやってみる?」
と彼女を受け入れる約束をして入園式の日を迎えた。
もちろん彼女は保育士の資格は有していた。

保護者に他の職員と同様に彼女を紹介した。
一瞬のどよめきの後保護者の拍手がぱらぱらと聞こえてきた。
緊張していた彼女には拍手の音は聞こえないにしても、場の雰囲気で自分が受け入れてもらったことは理解したようだった。

式の後「希望が持てます」とわたしに耳打ちしてくれたのは、やはり耳に障害を持っている孫の引率できていた祖母だった。

あれから一年2か月。

昨夜の園内の研究会でこれまでの保育を振り返り手記に認めてあった。

全職員が彼女の声で彼女の心情や考えを聞いた。
書いてあるのを自分の声でみんなに伝えている。

子どもが泣いていても気づかない。子どもの要求や欲求が聞こえない。
子どもの声が聞きたい。わらいごえも聞きたい。
でもわたしには何も聞こえないのです。

「聴覚に障害はありますが、わたしだって子どもの心の想いを聞きたい、知りたい、一緒に考えたい」とつづられている。

当たり前に聞こえている私たちなのに、これまで、彼女の心の叫び声を聞き取れていなかったのだ。

わたしは事務所にいても、遠くの部屋から聞こえる声や色々な物音で
雰囲気をイメージして、どんな保育が営まれているかを理解する。

雨が降ってもその雨音で、そして風が吹いたらその風の音で、その時の雰囲気を察知する。

「わたしは聞こえません」でもこれからも「自分にできる保育観を焦らず、
ゆっくり見つけていきたい」子どもとの距離を縮めるよう努力します。
と結んでいる。
子どものことを理解するために努力します。みなさんありがとう、、と。

このなってごろは、背中をトントンを叩いて要求したり、自分の気持を伝えようとしたり、甘える子も出てきた。
それがとても嬉しい。励みになるとも書いてある。

ついつい彼女が聞こえていないことを忘れてしまう。昨夜の勉強会は、大きな学びを与えてくれた。

やはり自分の気持を正直に伝えてもらえたことで、ぐっとかの上の存在が大きくなったことを感じた。