◆派遣される弟子たち
今日は、この短い聖書の箇所をテキストとして区切った。もとのギリシャ語の聖書では、節もなく、単語と単語もつながっていた。どこからどこまでが、ひとつの物語かということは、とても難しい問題であった。今日の箇所は、6章6節の後半から読んでいくと、ひとつの物語としてとても面白く、分かりやすい。弟子たちとイエス様の心のすれ違いという視点から、御言葉を聞いていくと、とても面白い。少なくともイエス様と弟子たちの間には、心のすれ違いが存在した。それを描くことによって、主が弟子たちに何を伝えようとしていたのか。のちのち、この物語から御言葉を聞く信仰の後輩たちに、何を伝えようとしたのか。マルコが私たちに伝えたかったメッセージを、よくよく聞いたらよいと思う。その物語の最初は、12人の派遣からであった。そして、12人を呼び出すというところから始まる。イエス様が弟子たちを集められる。その弟子たちを、それぞれの持ち場に遣わしていく。
私は、この七尾教会に来てからずっと言っていることがある。みなさんは、この礼拝に集められているということを、心に留めたい。礼拝の最初は招詞である。そして、礼拝をして、この礼拝堂から押し出されていく。6節から13節までは、弟子たちが集められ、押し出されていくという形をみることができる。集められ、派遣される。キリストの弟子が、集められ、派遣されている。12人は出掛けていって、悔い改めさせるために宣教した。私たち一人ひとりの役割は違う。しかし、この12人の役割は、悔い改めさせるために御言葉を宣べ伝えるという職務を与えられた。多くの悪霊を追い出し、病を治す。これが、与えられた権能であった。目的は、悔い改めさせるためである。悔い改めの福音が、彼らの福音であった。
福音と力はとても重要である。説教題にしようかどうか迷ったが、今日は「主イエスの期待」とした。迷っていたのは「力なき愛は無力である」と言う言葉である。「愛無き力は、暴力である」
「力なき愛は無力である。愛無き力は、暴力である」こういう言葉がある。知っている人が聞くと、誰が言ったか知っている。これは、少林寺の言葉である。似た言葉で、「力なき正義は無力である。愛無き正義は、暴力である」という言葉がある。これは、パンセが言っている。
12人の弟子は、悪霊を追い出し、病を治す力が与えられた。力を伴う愛そのままである。神の力を持って望んだ。彼らは、福音を堂々と宣べ伝えることが許された。
◆弟子より群集を優先される主
そして、彼らは力を持って役目を果たしたことを報告した。主イエスは、礼を言い、ねぎらった。私たちはどうだろうか。神様の権能をいただいて、それぞれのところに遣わされ、それぞれのところで働き、神様の前で報告をして、「ご苦労。あなたたちだけで、人里はなれたところへ行き、休みなさい。」といわれたら、嬉しいと思う。このように、休もうとしたら、人々が集まってきた。弟子たちは、我慢してつきあった。食事をする暇もないくらいに忙しく働き、休めといわれたのに、イエス様はしゃべりつづけたのである。
食べ物もなかったから、弟子たちは食べることもできずに働いていたのに、あなたがたが彼らに食事を与えなさいと言われる。
ここでイエス様の奇跡を目の前で知っていたのは、弟子たちだけである。大部分の人たちは、そのことを知らない。「あ、パンがあたった」と思っている。食事をする暇もないくらいに仕事をして、弟子たちに食事を与えるのではなく、弟子たちを使って人々に食事を与えた。
その後も、舟に乗って向こう岸へ行こうとしたら嵐に遭って寝られなかった。休む暇が与えられない。休みなさいといわれたのは、イエス様である。しかし、弟子たちは働き詰めなのである。
皆さんが、キリストの弟子であることは知っている。呼び出されていって、押し出されていて、主と共にあって嵐はなくなっていただろうか。食べ物が、豊かに与えられて休みの中にあっただろうか。抜き打ちテストのように、人々から聖書とは何かと問われたことはないか。主イエスが共に居てくださったからといって、順風満帆はない。マルコの重要なメッセージである。
弟子たちに食事を与えるためにパンを与えたのではない。弟子たちをさておいて、群集のためにパンをお与えになった。弟子たちのために嵐を静めようとはなさらなかった。いよいよ休めると思ったら、病人を運び始めたら、その群集を癒された。弟子のことを第一に考えていたのであろうか。群集のことを第一に考えておられたのであろうか。
私たちの主イエスキリストは、この弟子を通して、群集に福音を宣べ伝えておられる。
◆キリストを着る私たち
船橋教会に行ってきた。日本式の礼拝堂で有名なところである。クーラーがない。本間先生は、黒尽くめのスーツ。会堂改修工事で、長老会でクーラーを入れるかどうかでもめていたらしい。そこで、私は「キリストさん」の話をした。宗教連盟にいくと、キリストさんと呼ばれる話である。ペテロが、私の中にキリストが生きているのだ、という言葉を思い起こしながら、キリストさんと呼ばれる。私たちは、キリストとして生きている。主イエスキリストを着て、この世を生きている。主イエスキリストを着るというのは、このときの主イエスのように振舞えということである。イエス様の立場にたってみよう。弟子の報告にずっと耳を傾けていた。群集の前で話をしていたのはイエス様である。5つのパンと2匹の魚を増やしていてくださったのは、主イエスキリストである。沖に出て嵐に遭うが、弟子のために祈っておられたのは、主イエスキリストである。夜も寝ないで、祈っていた。主は休んでおられない。
自分がキリストの弟子になったからには、主がこの群集のために働いておられるように、自分もこの群集のために働かなければならない。先週の船橋教会での聖書箇所は、ヨハネ3:16とした。聖書の全巻が、この1節に集約されている。
神が愛しておられるのは、キリスト者だと思っている。神は、その一人子をお与えになったほどに、「世」を愛された、と書いてある。キリスト者を愛されたとは書いていない。
一人子を信じるものは、永遠の命を与えられる。永遠の命を与えられた者だけを愛されているのではない。この世を愛された。
◆この「世」を愛すものとして
主イエスが、弟子たちと一緒にやっていたのは、神はこの世を愛されていることを伝えることであった。群集は、力ある奇跡には群がったが、悔い改めの福音には群がらなかった。主の愛しておられるこの世の人々が、悔い改めの福音には集まらず、力のある奇跡に群がったことを知っておきたい。私たちキリスト者は、奇跡にではなく、悔い改めの福音によって集められ、奇跡を起こす力を与えられている。
弟子の心に、心を沿わせて、この世を愛するものになりなさい、と言われている。弟子のことはひとつも触れられない。主の心をひとつとなって、同じ奇跡を起こすものとして、地上を歩んでいきたい。
(2006年7月2日 釜土達雄牧師)
今日は、この短い聖書の箇所をテキストとして区切った。もとのギリシャ語の聖書では、節もなく、単語と単語もつながっていた。どこからどこまでが、ひとつの物語かということは、とても難しい問題であった。今日の箇所は、6章6節の後半から読んでいくと、ひとつの物語としてとても面白く、分かりやすい。弟子たちとイエス様の心のすれ違いという視点から、御言葉を聞いていくと、とても面白い。少なくともイエス様と弟子たちの間には、心のすれ違いが存在した。それを描くことによって、主が弟子たちに何を伝えようとしていたのか。のちのち、この物語から御言葉を聞く信仰の後輩たちに、何を伝えようとしたのか。マルコが私たちに伝えたかったメッセージを、よくよく聞いたらよいと思う。その物語の最初は、12人の派遣からであった。そして、12人を呼び出すというところから始まる。イエス様が弟子たちを集められる。その弟子たちを、それぞれの持ち場に遣わしていく。
私は、この七尾教会に来てからずっと言っていることがある。みなさんは、この礼拝に集められているということを、心に留めたい。礼拝の最初は招詞である。そして、礼拝をして、この礼拝堂から押し出されていく。6節から13節までは、弟子たちが集められ、押し出されていくという形をみることができる。集められ、派遣される。キリストの弟子が、集められ、派遣されている。12人は出掛けていって、悔い改めさせるために宣教した。私たち一人ひとりの役割は違う。しかし、この12人の役割は、悔い改めさせるために御言葉を宣べ伝えるという職務を与えられた。多くの悪霊を追い出し、病を治す。これが、与えられた権能であった。目的は、悔い改めさせるためである。悔い改めの福音が、彼らの福音であった。
福音と力はとても重要である。説教題にしようかどうか迷ったが、今日は「主イエスの期待」とした。迷っていたのは「力なき愛は無力である」と言う言葉である。「愛無き力は、暴力である」
「力なき愛は無力である。愛無き力は、暴力である」こういう言葉がある。知っている人が聞くと、誰が言ったか知っている。これは、少林寺の言葉である。似た言葉で、「力なき正義は無力である。愛無き正義は、暴力である」という言葉がある。これは、パンセが言っている。
12人の弟子は、悪霊を追い出し、病を治す力が与えられた。力を伴う愛そのままである。神の力を持って望んだ。彼らは、福音を堂々と宣べ伝えることが許された。
◆弟子より群集を優先される主
そして、彼らは力を持って役目を果たしたことを報告した。主イエスは、礼を言い、ねぎらった。私たちはどうだろうか。神様の権能をいただいて、それぞれのところに遣わされ、それぞれのところで働き、神様の前で報告をして、「ご苦労。あなたたちだけで、人里はなれたところへ行き、休みなさい。」といわれたら、嬉しいと思う。このように、休もうとしたら、人々が集まってきた。弟子たちは、我慢してつきあった。食事をする暇もないくらいに忙しく働き、休めといわれたのに、イエス様はしゃべりつづけたのである。
食べ物もなかったから、弟子たちは食べることもできずに働いていたのに、あなたがたが彼らに食事を与えなさいと言われる。
ここでイエス様の奇跡を目の前で知っていたのは、弟子たちだけである。大部分の人たちは、そのことを知らない。「あ、パンがあたった」と思っている。食事をする暇もないくらいに仕事をして、弟子たちに食事を与えるのではなく、弟子たちを使って人々に食事を与えた。
その後も、舟に乗って向こう岸へ行こうとしたら嵐に遭って寝られなかった。休む暇が与えられない。休みなさいといわれたのは、イエス様である。しかし、弟子たちは働き詰めなのである。
皆さんが、キリストの弟子であることは知っている。呼び出されていって、押し出されていて、主と共にあって嵐はなくなっていただろうか。食べ物が、豊かに与えられて休みの中にあっただろうか。抜き打ちテストのように、人々から聖書とは何かと問われたことはないか。主イエスが共に居てくださったからといって、順風満帆はない。マルコの重要なメッセージである。
弟子たちに食事を与えるためにパンを与えたのではない。弟子たちをさておいて、群集のためにパンをお与えになった。弟子たちのために嵐を静めようとはなさらなかった。いよいよ休めると思ったら、病人を運び始めたら、その群集を癒された。弟子のことを第一に考えていたのであろうか。群集のことを第一に考えておられたのであろうか。
私たちの主イエスキリストは、この弟子を通して、群集に福音を宣べ伝えておられる。
◆キリストを着る私たち
船橋教会に行ってきた。日本式の礼拝堂で有名なところである。クーラーがない。本間先生は、黒尽くめのスーツ。会堂改修工事で、長老会でクーラーを入れるかどうかでもめていたらしい。そこで、私は「キリストさん」の話をした。宗教連盟にいくと、キリストさんと呼ばれる話である。ペテロが、私の中にキリストが生きているのだ、という言葉を思い起こしながら、キリストさんと呼ばれる。私たちは、キリストとして生きている。主イエスキリストを着て、この世を生きている。主イエスキリストを着るというのは、このときの主イエスのように振舞えということである。イエス様の立場にたってみよう。弟子の報告にずっと耳を傾けていた。群集の前で話をしていたのはイエス様である。5つのパンと2匹の魚を増やしていてくださったのは、主イエスキリストである。沖に出て嵐に遭うが、弟子のために祈っておられたのは、主イエスキリストである。夜も寝ないで、祈っていた。主は休んでおられない。
自分がキリストの弟子になったからには、主がこの群集のために働いておられるように、自分もこの群集のために働かなければならない。先週の船橋教会での聖書箇所は、ヨハネ3:16とした。聖書の全巻が、この1節に集約されている。
神が愛しておられるのは、キリスト者だと思っている。神は、その一人子をお与えになったほどに、「世」を愛された、と書いてある。キリスト者を愛されたとは書いていない。
一人子を信じるものは、永遠の命を与えられる。永遠の命を与えられた者だけを愛されているのではない。この世を愛された。
◆この「世」を愛すものとして
主イエスが、弟子たちと一緒にやっていたのは、神はこの世を愛されていることを伝えることであった。群集は、力ある奇跡には群がったが、悔い改めの福音には群がらなかった。主の愛しておられるこの世の人々が、悔い改めの福音には集まらず、力のある奇跡に群がったことを知っておきたい。私たちキリスト者は、奇跡にではなく、悔い改めの福音によって集められ、奇跡を起こす力を与えられている。
弟子の心に、心を沿わせて、この世を愛するものになりなさい、と言われている。弟子のことはひとつも触れられない。主の心をひとつとなって、同じ奇跡を起こすものとして、地上を歩んでいきたい。
(2006年7月2日 釜土達雄牧師)
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