スバス・チャンドラ・ボースは、1897年にインド(当時は、イギリス領インド帝国)のベンガル州(現在のオリッサ州)で生まれた。父親は、弁護士であった。1919年イギリスのケンブリッジ大学に留学し、近代ヨーロッパの国際関係における軍事力の役割について研究した。帰国後の1920年には、インド高等文官試験に合格しながら、マハトマ・ガンディー指導の反英非協力運動に、身を投じるために資格を返上した。
「イギリスが武力でインドを支配している以上、インドの独立は武力によってのみ達成される」という強い信念を抱いており、インド会議派内の左派としてガンディーの非協力・非暴力運動に強く反対した。1939年、会議派主流と対立、ついに会議派から除名された。彼は、常に、インドの解放は、帝国主義者間の対立戦争を利用すべきであると考えていた。第二次世界大戦勃発後、猛烈な反英運動を展開し、逮捕された。獄中で病気にかかり、釈放された。太平洋戦争が始まると日本は、その後ドイツにいたボースを日本によこすよう何度も要求した。
アジアの解放のために、マライ戦線において多くのセポイの捕虜(英軍の傭兵として戦ったインド兵の捕虜)を得た日本軍は、インドには軍隊がなかったために、藤原少佐は、シンガポールでこの捕虜をインドが独立するために、その中核となる軍隊として再編成し、インド国民軍[1万5000人 志願兵部隊]を結成し、インド侵攻のときに備えて訓練していたのである。
1943年10月21日、シンガポールで自由インド仮政府樹立。スバス・チャンドラ・ボースが首班に就任した。
ここでのボースの演説(要約)。
「他国から与えられた独立は、他国により簡単に奪われる。我々が血を流し勝ち取らねばインドの真の独立は得られない。何人が生き残れるか解らない。しかし 我らの任務はデリーで、勝利の行進をするまで終わらない。」
ボースの演説は、アジアの民衆の独立を高らかにうたい、大東亜宣言五原則 インド独立支援を訴えたのである。まさに強い信念の婆沙羅首班であった。 翌11月東京で、ボースの主催する大東亜会議が東京の国会議事堂で開催された。
アジアで初めてのアジアサミットのメンバーは、
スバス・チャンドラ・ボース(自由インド仮政府首班)
ホセ・ラウエル(フィリッピン大統領)
ワンワイタヤコーン親王(タイ王国)
東条英機総理大臣(日本)
汪兆銘中華民国行政院院長(中華民国)
張景恵国務院総理(満州帝国)
パー・モウ内閣総理大臣(ビルマ)である。
その後、日本軍85,000人とインド国民軍15,000人は、共同でインドのデリーへのインパール作戦。死者3万人負傷者5万人の悲惨な大敗北する。インド国民軍が日本軍と一緒に血を流したという それが日本の敗戦後インドの独立戦争において大きな力になった。インド国民軍はその後,主にビルマで連合軍と戦う。日本の降伏にへこたれず、インドの戦いはまだ終わっていない。敵の敵は味方 戦後の世界戦略を見据えソ連に期待するボース さらに 日本へ しかし当時の台湾から乗った飛行機が墜落で事故死(1945年8月18日午後11時41分) インド独立を夢見て後を同志に託した。
戦後、インド国民軍は、イギリスの捕虜となった。1945年9月にインド国民軍指導者を「反逆罪」で全員死刑に裁いたイギリス軍の裁判が独立前夜のインドにおいて英印軍(セポイの傭兵のインド兵)はじめインド人の反乱を巻き起こしたため裁判は中止され,全将校が釈放された。さらに、ガンジーの指導の下に立ちあがった国民会議・学生・労働者・インド全土に反英闘争が広がり、イギリスは、どうすることもできず、二年後にインドは独立を繋がるのである。ボースは死してインドを独立に導きました。
インド国家議事堂に飾られる三人の肖像は、
左にインドの初代首相ネール、
右にインド独立のガンディー、
そして中央には指導者のスバス・チャンドラ・ボース。
戦後のアジア・アフリカの独立が雨後の竹の子のようになされたのは、この大東亜戦争が一大転機であったのです。なぜか、ボースのお墓は、東京都杉並区の日蓮宗・蓮光寺にあります。終戦後、ボースの遺骨を引き取りに蓮光寺の住職が引き受けられ、それ以来法要されておられます
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*セポイ・・・インドでは、イギリス東インド会社が雇ったインド人兵士の呼び名。インド人傭兵。
*ローラット法(1919年3月18日制定)
インドの反英運動を弾圧するために、令状なしに逮捕、裁判抜きの投獄が認められた。
*サティアグラハ運動(非暴力運動)(1919年4月6日)
サティアグラハとは真理をつかまえるという意味であり、危険にさいしても決して暴力を用いない非暴力の戦いをさすのである。
ヒンドゥー教本来の精神は「非暴力」であり、絶対に自己を抑制することを原則とする。
ガンディーは、ヒンズゥーの教えから「サティアグラハの運動」を編み出し、自らその先頭に立った。
*ハルタル(1919年4月6日)
「闘争にあっては忠実に真理に従い、生命、人格、財産に対する暴力を慎む」という規律を守りながらインド政庁の悪法に従うことを拒否する、という運動です。つまり、あらゆる仕事をやめることを意味する。
◆アムリツァール虐殺事件(1919年4月13日)
パンジャブ州で、三方を壁で囲まれた広場に集まった約1万の群衆の大集会対し、イギリス軍側は、装甲車を用意し、前触れもなしに射撃を命じた。弾丸は、1605発発射され、死者374名、負傷者千名以上におよんだ。ただちにパンジャブは、戒厳令下におかれ、飛行機による農村群衆に対する銃撃、爆撃が行われ、無差別の逮捕が始まった。この惨劇について、パンジャブ以外の地方でも何カ月にもわたって報道はされず、イギリス本国へすら半年以上も記事が差し止められたのである。
■□■西洋の植民地になるとこうなる■□■
https://www.youtube.com/watch?v=cT-3DE6nSZs
■□■大東亜戦争の名言集■□■
https://www.youtube.com/watch?v=Gz8s23-SQG4