長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

15章 その4

2014-12-30 17:43:18 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

【検討編】

(4)ヨハネ3:5について

第15章では、特にヨハネ3:5に対する検討が行われました。著者は、この箇所の検討を特に礼典主義者を意識しながら議論を進めているように思われます。しかし、私自身の関心はどちらかと言えば、聖霊論にありますので、その視点から私なりの検討を加えたいと思います。

この節の「υδωρ και πνευμαによる誕生」について、ダンはかなり綿密な吟味をしています。その議論は複雑で、単純化しにくいと言えます。たとえば、ヨハネによる福音書での「水」の用法には、二つの区別される用法、すなわち、対照と同一視とがあることを指摘します(186頁)。しかし、3:5は、そのいずれでもないことを指摘します。「3:5を単に他の水ー御霊の箇所の線でリストに挙げることはできない。というのは、3:5において、水と御霊は対照されているのでもなければ同一視されているのでもなく、むしろ互いに調和的に作用すると位置づけられている。」(190頁)結果として、ダンは、二つの可能性を提示します。「それは密接な関連性の内に水の(クリスチャン)バプテスマと御霊の賜物とから成っているか、あるいは御霊によるきよめ、すなわちヨハネの水のバプテスマによって象徴されるきよめから成っているか、いずれかである。」(190頁)

そのいずれが妥当な解釈であるのか結論づけるために、ダンは更に詳しく文脈を確認た後、こう指摘します。「そのフレーズは二詞一意であり、両方の言葉を一つの前置詞が支配していることは、υδωρ και πνευμαが一つの概念(水―霊)を形づくっていることを示唆する。」(192頁)そして、再度、二つの解釈の可能性を指摘します。「このことは、クリスチャンの回心ー入信式が水のバプテスマと御霊のバプテスマの両方が統合的部分となっている(神学的)単一性であることを示唆するか(その場合、この節はそれらがどのように関わっているかを語ってはいない)、あるいは、水が4:14や7:38のように、命を与える御霊の力の象徴であることを示唆しているかである。」(192頁)

ダンはここで、後者の解釈をより妥当なものとして支持します。「旧約聖書では水が人々に命をもたらす神のみわざについてのふさわしい象徴であり(参照聖句省略)、ユダヤ思想では水は御霊が与えられることによる終末論的再創造と更新にしばしば関連付けられているという事実からすると、後者がよりありえるものであろう」(192頁)。特に、クムラン共同体における「水と霊」の用法に注目しながら、以下のようにダンは結論づけます。「霊的な礼拝を可能にするのは『真理の御霊』(πνευμα και αληθεια)であるように(4:23、24)、上からの誕生をもたらすのは、『御霊の水』(υδωρ και πνευμα)である。

複雑なダンの議論をあえて単純化してみると、A και Bを「AとB」(対照)とも「AすなわちB」(同一視)とも訳さず、「BのA」と訳すことの提案と言えそうです。そして、ここで、A=「水」=「きよめ」であり、B=「御霊」と考えられており、υδωρ και πνευμα=「御霊のきよめ」と解釈していることになるようです。

ところで、ダンは、3:5における可能な解釈のうち、上記解釈についての説明を詳細に行っているのに対して、もう一方については、不思議なほどにほとんど説明を加えていません。実は、ヨハネの手紙を扱う次章において、ヨハネの福音書の検討を振り返りながら、ダンはこう書いています。「第4福音書の著者は、(中略)上からの誕生に水のバプテスマがカギの役割を果たすと信じていたかもしれない。」(195頁)従って、ダン自身はあまり触れていない解釈が正しい可能性を相当意識しているようにも思えます。そこで、私としては、こちらの解釈についても、踏み込んで検討してみたいと思います。

ダンが3:5の解釈としてもう一つの可能性として示唆しているのは、以下のようなものです。「それは密接な関連性の内に水の(クリスチャン)バプテスマと御霊の賜物とから成っている」(190頁)、「クリスチャンの回心ー入信式が水のバプテスマと御霊のバプテスマの両方が統合的部分となっている(神学的)単一性であることを示唆する」(192頁)。このような解釈について著者が付記している説明は、引用の後者につけられた以下のようなもののみです。「その場合、この節はそれらがどのように関わっているかを語ってはいない」(192頁)。

この解釈は、「水と霊」を「水のバプテスマ」と「霊のバプテスマ」として理解します。すなわち、3:5を、「人は、水のバプテスマと霊のバプテスマとによって生まれなければ、神の国にはいることができません。」と言い換える理解です。但し、前置詞が"υδωρ και πνευμα"の前に一つだけですので、

この解釈によれば、3:5は、1:33で洗礼者ヨハネが水のバプテスマと聖霊のバプテスマを対照させて語っていることを背景としていることになります。そこでは、水のバプテスマと聖霊のバプテスマとは、明らかに対照的な位置にあるものとして提示されています。しかし、3:5においては、両者が共に回心―入信式において本質的な役割を果たすことが語られていることになります。これは、必ずしも二つの箇所において相矛盾することが語られているというわけではないと思います。

たとえば、ダンは使徒行伝について検討した際、特に回心―入信式についての詳細な検討を加えました。特に、使徒2:38についての検討の最後に、(水の)バプテスマと聖霊との関係について検討し、その結論を次のようにまとめています。「ルカによれば、水のバプテスマは回心―入信式において本質的な役割を果たすこと、また水のバプテスマが表現している信仰を通して霊のバプテスマと(通常は密接に)関連していることを認めつつも、霊のバプテスマと水のバプテスマが別個の実体であり、クリスチャンの回心―入信式の焦点、神経中枢は御霊の賜物であることを認めなければならない。」(101、102頁)すなわち、ダンによれば、回心―入信式において、水のバプテスマと霊のバプテスマとの両方が本質的な役割を果たし、かつ両者は密接に関連しています。但し、ダンにとっては、両者は別個の実体であると共に、回心―入信式の焦点は霊のバプテスマのほうにあるのだということになります。そのような意味で、「水のバプテスマ」と「霊のバプテスマ」との双方が密接に関わりながら、回心―入信式に至ることを「神の国にはいる」ことの条件としている・・・そんな受け取り方が可能となります。

もちろん、ダンが指摘するように、ヨハネによる福音書自体において、「この節はそれらがどのように関わっているかを語ってはいない」ことはよく踏まえる必要があります。「水のバプテスマ」と「霊のバプテスマ」とが相互にどのような関係にあるかについて、ヨハネによる福音書自体は何も語っていません。ですから、受け取りようによっては、たとえば、「水のバプテスマ」と「霊のバプテスマ」の両方が必須であるという機械的な理解も可能になります。ただ、そのような理解については、この章でダンが詳しく指摘しているように、ヨハネによる福音書全体の記述から、またこの箇所の文脈からは逸脱しているように見えます。特に、直後の文脈(3:6~8)においては御霊の働きにのみ言及されていることを十分考慮する必要があります。

要約すれば、ヨハネ3:5においては、二つの解釈が可能です。一方の解釈によれば、υδωρ και πνευμα=「御霊のきよめ」と解釈することになります。もう一方の解釈によれば、υδωρ και πνευμα=「水のバプテスマと霊のバプテスマ」ですが、両者は一つの前置詞に支配されているので、神学的単一性を認めなければならないことになります。その上で両者の関わり方については明確にされていませんが、文脈からは「霊のバプテスマ」に焦点が当てられていることを踏まえる必要があります。いずれにしても、新しく(上から)生まれることについて、御霊の働きの中心性が語られていることになります。

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