長田家の明石便り

皆様、お元気ですか。私たちは、明石市(大久保町大窪)で、神様の守りを頂きながら元気にしております。

8章 その1

2014-02-15 07:31:36 | Dunn "Baptism in the Holy Spirit"

第8章は、エペソの12人の「弟子たち」を扱います。著者は、使徒19:1-7が、ペンテコステ派の聖霊のバプテスマの神学において、もう一つの基本的箇所であると指摘します。ここには、三つの要素があると言います。

(a)12人のエペソのクリスチャンは、パウロが彼らに出会う前にクリスチャンだった(μαθηται, πιστυσαντεσ)が、聖霊を受けていなかった。
(b)19:2でのパウロの質問は、パウロにとってある人がクリスチャンでありながら聖霊を持たない(受けていない)ことがありうるということを示唆しているように見える。
(c)エペソ人のバプテスマとパウロの按手との間の時間的間隔は回心(バプテスマに先立つ)と聖霊がくだること(按手に続く)との間に時間的間隔があることを意味する。

(a)について

パウロに出会う前に12人のエペソ人たちはすでにクリスチャンであったとルカはみなしていたのでしょうか。著者はまず聖霊とイエスについての無知、また、パウロが彼らの以前のバプテスマを十分と考えないで主イエスの名によるバプテスマを施したことを取り上げ、そうではなかったことを意味すると指摘します。

著者はここで、μαθηται(弟子)という表現について検討します。著者は、「弟子」という表現が使徒行伝では通常クリスチャンを意味することを認めます。しかし、19:1の用法は、ユニークであると言います。まず、οι μαθηταιという定冠詞付きの表現は、ある都市や地域のクリスチャン共同体全体を表すことを指摘します。群れ全体よりも小さなグループを表現したい場合には、οι μαθηταιという表現を正確に限定するか(9:25)、「(その)弟子たちの何人か」(και των μαθητων、21:16)について語ると言います。したがって、τινεσ μαθηταιという表現は、12人がエペソの「(その)弟子たち」に属していなかったことを示唆すると言います。

πιστυσαντεσ(信じた)という表現については、一方でパウロが間違った前提を持ったこと(クリスチャンではない12名をクリスチャンだと考えた)を意味するのではなく、他方では彼らを単に「バプテスマのヨハネの弟子」と称したのでもないと指摘します。この後、著者は、「バプテスマのヨハネの弟子」と「クリスチャン」との間に位置づけられるであろう無限に多様な人々がいることを(かなり詳しく)論じます。そして、パウロの質問は、そのような背景に対してのみ理解可能になると言います。すなわち、彼らは「弟子たち」であったが、「その弟子たち」ではなかった、すなわち、彼らはいまだクリスチャンではなかったと、著者は結論づけます。

(b)について

著者はまず、この議論が間違った仮定をしていると指摘します。すなわち、パウロは自分がクリスチャンを扱っており、クリスチャンにふさわしい質問をしたという仮定です。しかし、この仮定は固く基礎づけられているわけではないと著者は言います。ここで著者は、ローマ8:9を引用し、手紙の中のパウロにとっては、聖霊を受けることなしには人がクリスチャンとなることが不可能であると指摘します。そして、使徒行伝の中のパウロも同様であるはずだと言います。

ここで、著者は、パウロの第二の質問以降の成り行きに目を向けます。パウロの第二の質問は、人がバプテスマと共に聖霊を受けることを示唆している。彼にとっては、主イエスの名によるバプテスマにおいて主イエスに対し自分をコミットした人、すなわちクリスチャンが聖霊なしにいるということはありえない。これが、12人が十分な入信手順に進まなければならなかった理由である。パウロは不十分な経験をしたクリスチャンを扱ったのではなく、彼らは全くクリスチャンではなかったのだ。御霊を持つ人々だけがクリスチャンであると信じるパウロが、クリスチャンに対して聖霊を受けたかどうか尋ねて回るはずがない。

このような議論を踏まえ、著者は、最初の質問が疑いと驚きの質問であったであろうと指摘します。そして、そのことは、12人に対するルカの表現(τινεσ μαθηται)によって、また、質問そのものの形によって支持される。パウロは、その地のクリスチャン共同体から外れたクリスチャンを知らなかったので、戸惑った。彼らはどんな種類の信仰者なのか?そこで、パウロは彼らがクリスチャンであるかどうかを示すであろう質問を直接的に尋ねた。彼らの信仰の行為は、聖霊の賜物をもたらすものだったのか?彼らの答えは速やかに彼の疑惑を確証した。彼らはクリスチャンではなかった。すなわち、19:2は、パウロがクリスチャンたちに聖霊を受けたかどうか(必要であるが付加的なものとして)を尋ねたものではない。むしろ、信仰を表明する12人の「弟子たち」がクリスチャンであるかどうかを尋ねたのだ。

(c)について

この議論に対して、著者は、バプテスマとここでの按手が一つに儀式であったという事実を見落としていると指摘します。パウロは第一の質問によって彼らが聖霊を受けていなかったことを知り、ただちに彼らのバプテスマについて尋ねた。3節は、バプテスマと聖霊を受けることとの密接な関係を示している。6節の按手は、単一の儀式のクライマックスであり、その儀式のもっとも重要な要素はバプテスマであり、その目的は聖霊を受けることである。5、6節は、「・・・彼らは主イエスの名によってバプテスマを受けた。そして、(パウロhじゃ彼らに按手し)聖霊が彼らの上にくだった」と訳せる。すなわち、按手はほとんど挿入的であり、一連の出来事は「聖霊・・・(を結果するところの)バプテスマ」である。すなわち、一つの行為(バプテスマ)は見分けられる間隙なしにもう一つの結果(聖霊)に導き至る。

(a)(b)(c)についての議論を踏まえ、著者はここでの一連の流れを確認するとともに、アポロの事例に注目します(18:24-28)。彼もまた、「ヨハネのバプテスマしか知らなかった」し、「神の道」についてより十分な指導を必要とした。しかし、12名の「弟子たち」と違って、彼は再洗礼を受けなかった。というのは、彼は一つの決定的点において彼らと違っていた。彼はすでに御霊を持っていた(18:25)が(この点についての議論を著者は加えています)、彼らは持っていなかった。

ペンテコステの日における弟子たち同様、アポロのヨハネのバプテスマの約束は、聖霊の賜物によって成就された。それゆえ彼はクリスチャンの水のバプテスマを必要としなかった。しかし、12名の弟子たちのヨハネのバプテスマは、彼らが聖霊を受けなかったので、無に等しいとみなされた。それで、彼らは完全なクリスチャンの入信儀式を受けなければならなかった。ルカはこれらの二つの物語を並置し、ポイントを明確にしようとしている。すなわち、「最初のキリスト教において、聖霊は決定的要素であった」。この単一のポイントにおいて、両方の物語は回っている。彼らがより十分な指導を必要とするクリスチャンであるか、新しい求道者として扱われなければならないノンクリスチャンであるか、この単一の問題(聖霊を受けたかどうか)が決定している。

以上の著者の議論もまた、大変緻密で説得力を持つものです。ただ、この聖書の箇所を、前後と合わせて何度か読んでみると、なお疑問が残ります。この点についての検討を次回行ないたいと思います。

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