第3章では、「ヨルダンでのイエスの経験」についての検討がなされます。ここで検討されるのは、主に、ペンテコステ派及び礼典主義者による以下のような2種類の主張についてです。
(1)ペンテコステ派:もしイエスがヨルダン川で聖霊によるバプテスマ受けたことが、聖霊による超自然的な誕生の約30年後、自らの使命のために力を授かる付加的恵みであったとすれば、なおさらクリスチャンは上からの誕生後、奉仕のために力を授かるために聖霊のバプテスマを受けるべきではないか。
(2)礼典主義者:ヨハネによるイエスのバプテスマには、ヨハネのバプテスマとクリスチャンのバプテスマをつなぐ結合がある。すなわち、ヨハネの水のバプテスマを約束された聖霊のバプテスマと一つにし、水と聖霊によるクリスチャンのバプテスマを形づくったのは、イエスのバプテスマである。
今回は、まずペンテコステ派による(1)の主張についての著者の検討についてご紹介します(23-32頁)。
この点についてのペンテコステ派の主張は、イエスが(誕生後)生涯のどの部分もヨハネほどには聖霊に満たされていたであろうこと(ルカ1:15)、知恵と恵みにおけるイエスの成長は、聖霊を所有することによっていたであろうこと(ルカ2:40、52)、聖霊と神の子であること(またはその意識)とのつながりもまたこの方向へのヒントとなるであろうこと(ルカ1:35、2:49、3:22)などに基づくようです。ヨルダンでイエスに聖霊がくだったことは、確かに聖霊のバプテスマと呼ばれてよいものであったし、続く使命のための力と権威をイエスに与えたのはこの聖霊の注ぎであった事を否定はできないと著者は認めます。ペンテコステ派の主張は、このようなイエス様の経験をそのままクリスチャンの生涯に当てはめようとするもの、ということになります。
このようなペンテコステ派の主張に対する著者の反論のポイントは、私たちが扱っているヨルダンでの出来事の重要性が救済の歴史における役割にあるという事実を彼らが把握し損ねているのではないかというものです。ヨルダンでの出来事は、救済の歴史において数少ない枢要な出来事の一つであり、この出来事において救済の歴史全体が新しい新路に向かって回転しているのだと言います。言いかえれば、救済の歴史において同じ時代区分に属するイエスの生涯の諸段階を扱っているというよりも、救済の歴史そのものにおける諸段階を扱っているということになります。ヨルダンにおけるイエスの経験は、単に個人的なものではなく、歴史においてユニークな瞬間であり、救済の歴史における新しい時代の始まりであり、「終りの時」、メシヤの時代、新しい契約の始まりであるということです。従って、イエスの聖霊の注ぎはイエスにとって聖霊の第二の経験として表現されることは可能であるかもしれないが、それは新しい契約の中でのイエスの第二の経験ではない、ということになります。イエスにとっての新しい契約を始めるのは事実この出来事であり、この出来事がメシヤの時代を始め、イエスをメシヤの時代に入れるものであると言います。著者は、このことを以下のようなステップで論証します。
(a)ヨハネとイエス―救済の歴史の転換は、ヨルダンでイエスが聖霊の注ぎを受けたことにより起こった。
ヨハネにとって終りの時はなお将来に属するものであり、ヨハネは先駆者、道備えをする者、来たるべきお方の到来を告げるため先を進む者でしかなかった。しかし、イエスにおいては、成就の様相がある。終りの時は少なくともある意味では到来した(マタイ11:4-6、ルカ10:23、24)。王国は彼らの中にある(マタイ12:28、ルカ17:20、21)。サタンは既に縛られ、彼の所有は略奪されている(マルコ3:27)。要するに、時代のシフトが起こったのである。どの時点でか?ヨルダンにおいて、イエスが聖霊の注ぎを受けた時である(マルコ1:12、15、ルカ4:18、19、マタイ12:28)。
(b)旧約聖書からの議論―イエスの聖霊の注ぎの物語にはいくつかの終末論的特徴がある。
天が開かれたということは黙示文学における共通の特徴である。聖霊の注ぎを受けたメシヤについての預言者の終末論的希望がこの瞬間成就した(イザヤ11:2、61:1)。鳩もまた、終末論的な重要性を与えられうる(創世記1:2、洪水後の鳩)。更に天からの声が詩篇2:7とイザヤ42:1の結合として意図されているとするなら、福音書記者たちはこれをイエスがメシヤとして聖霊の注ぎを受けた瞬間とみなしていると言わなければならない。イエスがメシヤ(油注がれた者)と呼ばれうるようになったのはこの瞬間であり、この時、イエスはメシヤとしての働きを受け取り、この時、メシヤの時代が始まったと言える。
(c)イエスのメシヤ意識について―ヨルダンの出来事におけるポイントはイエスの本質や個人的意識の変化でなく救済の歴史の転換にある。
「聖霊がくだった時はイエスが神の子とされメシヤとして任命された瞬間ではなく、単に子またメシヤとしての自覚が増してきたことのクライマックスに過ぎなかったのではないか」という論点がしばしば提示される。しかし、この議論は、ポイントをイエスの本質や個人的自覚に置いている点で間違っている。ポイントは贖いの歴史に置かれるべきである。聖霊がイエスに注がれたことにより、イエスご自身やその本質、立場が変わったのではなく、救済の歴史の新たな段階が始まったのである。
(d)イエスの新たな役割とは何か―イスラエルの代表、新しいアダム
聖霊の注ぎによりイエスにもたらされた新しい役割とは何か。共観福音書記者は、「イスラエルの代表、新しいアダム」と答える。(マルコ:鳩…イスラエルの象徴、聖霊の授与…シナイ山での律法授与、最初のアダムへの誘惑…新しいアダムへの誘惑。マタイ:イスラエルは40年間荒野に…イエスは聖霊の注ぎ直後荒野に。ルカ:イエスへの聖霊の注ぎと荒野での試みの間にアダムに至る系図。)
これらの議論を受けて、著者は、ヨルダンでのイエスの経験をもとにペンテコステ派が自説を打ち立てることができないと指摘します。聖霊の注ぎは、本質的に始める経験である。それは終りの時代を始め、イエスを終りの時代に導き入れた。イエスの超自然的誕生とクリスチャンの誕生を比較しようとしても無駄である。イエスの誕生は全く古い契約に属するからである、と言います。
聖霊の注ぎにおいて新しい時代が始まり、イエスご自身、イスラエル及び人類の代表として新しい時代に入られる。この最初の聖霊のバプテスマは後のすべての聖霊のバプテスマの代表としてみなされうる。
確かに、イエスへの聖霊の注ぎは、癒し教える彼の働きのために彼を備えるものであったと言えるかもしれない。しかし、「奉仕のための力」は、油注ぎの主要な目的ではなく、その自然の結果に過ぎない。言いかえれば、聖霊のバプテスマの主要な働きは、クリスチャンを奉仕のために備えることにあるのではなく、彼に油を注いで(キリスト)、個人を新しい時代と契約に入れること、それにより、彼を新しい時代と契約における生涯と奉仕に備えることにある。ここにおいて、イエスの新しい時代と契約に入られたことは、すべての入信者が新しい時代と契約に入ることの型である、と言います。
ここでの著者の議論全体を振り返ってみると、ヨルダンでのイエスへの聖霊の注ぎを、救済の歴史における転換点として見ることがカギになっています。これは、ヨルダンの出来事が「唯一の」転換点だったというわけではありません。復活と昇天もまたその大きな転換点として指摘されています(28、29頁)。それでも、ヨルダンにおける出来事の中に、これほど大きな役割を見出すことは、かなり斬新な見解と言えるかと思います。ただ、この時の出来事がイエス様の公生涯の始まりともなるわけですから、それ位に重要な役割を持っていたとしても不思議ではないかとも思えます。
ただ、ここでの議論は、ペンテコステ派の議論の論拠を崩すものではありますが、必ずしもその主張自体を否定するものになっていないかもしれない、と思います。ヨルダンにおいてイエス様が聖霊の注ぎを受けられたことによって、救済の歴史の中に新しい時代が始まったとして、その新しい時代に、聖霊のバプテスマがクリスチャン経験の中でどのように位置付けられるようになるかということについて、ヨルダンでの出来事だけからは明確に結論づけることができないのではないでしょうか。
前章についての検討の中でも、「オルド・サルティスの細部に至るまで結論づけてしまうのは、少し性急なようにも思えます」と書きました(その6)。ここでも、同じことが言えるような気がします。
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