イオンに屈したダイエー 飢餓地獄から小売業日本一、没落の歴史を覆う中内功の呪縛
Business Journal 2014/9/26 06:01ーーーーー
ダイエー創業者の中内功元会長は、1970~80年代には同社を日本最大の小売業にまで成長させ、流通業界のリーダー的存在として君臨したが、中内氏の 原点は飢餓地獄の中から奇跡的に生還したフィリピン・ルソン島での戦争体験にある。かつて日本経済新聞社刊の著書『私の履歴書』で「アブラ虫、みみず、山 ヒル…。食べられそうなものは何でも食う」「死ぬ前にもう一度すき焼きを腹いっぱい食べたいと、来る日も来る日も願った。その執念がこの世に私を呼び戻し た」と語っているが、戦争とそれに続くマニラでの俘虜体験がエネルギーの源泉になった。
「神戸から2つの大企業が生まれた。ダイエーと山口組だ。どちらも焼け跡から這い上がってナショナルチェーンになった」。これは中内氏の有名なセリフだ が、山口組3代目組長の田岡一雄氏も、欲望が渦巻く神戸の闇市から巣立った。焼け跡から出発して流通王にまで駆け上がった中内氏だったが、90年代後半か ら経営危機が表面化し、産業再生法の適用および産業再生機構からの支援を受けるに至り、その後は筆頭株主となった丸紅に経営権を握られた。
ダイエーはなんとか経営破綻は免れたものの、中内氏は芦屋市六麓荘町、東京・田園調布の邸宅、ダイエーの株式など数百億円といわれた財産は、ことごとく 大手銀行に借金のカタとして取られてしまった。最晩年の唯一の収入といえば、自ら創設した流通科学大学の理事長として月々支給される30万円程度の給料だ けだった。そして2005年9月19日、中内氏は入院先の神戸の病院で83歳の生涯を閉じた。六麓荘町の家は半年前に人手に渡っていたため、一度も亡骸を 自宅に戻すことができず、大阪市此花区の正蓮寺にそのまま搬送され、近親者だけで密葬を済ませた。当時産業再生機構の支援の下で“脱中内”を進めていたダ イエーは、社葬を催せる状況になかったが、イトーヨーカ堂の伊藤雅俊氏、イオンの岡田卓也氏、西友の堤清二氏など、戦後の流通業界の黎明期を築いた人たち が発起人となり、流通関連11団体が合同で同年12月5日、東京・千代田区のホテルニューオータニで「お別れ会」を開いた。ちなみに六麓荘町の家の現在の 持ち主は、パチンコ大手のマルハンである。
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私事ながら、中内功著「わが、安売り哲学」に魅せられてダイエーに中途入社ではいった。
商売に科学を持ち込む合理性に新鮮さを感じた。
フィリピン・ルソン島での戦争体験で語られた、何時同僚に襲われるかわからない
飢餓状況の中でも、人を信じて眠らなければ、生きていけなかったとも書いていた。
彼の原点は、人を信じる事、正直であると言う事だと思う。
晩年は、息子の中内 潤氏に引き継ごうとして「阪神大震災」。
街の灯を消すなの大号令でローソン、ダイエーは、店を開けていった。
震災で何時つぶれるかわからないハーバーランドの建物にやってきて
危険な場所にもどんどんはいっていって、裂けて空が見えていた
建物に雨が降り出すと、商品が濡れないようブルーシートで
覆えと指示をだした。
ダイエーの基礎を築いた「三宮村」が壊滅、晩年の彼には
このできごとの衝撃が大きかったに違いないと、私は思う。
マークの変わったダイエーには、あまり感情はないが、
中内CEOのつくられた「ダイエー」がなくなり、「ローソン」が本来の
姿を見失い、彷徨うのがさみしい。