那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

高橋新吉を紹介します

2012年11月29日 | 愛媛自慢
以下、wikiから引用
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高橋 新吉(たかはし しんきち、1901年(明治34年)1月28日 - 1987年(昭和62年)6月5日)は、日本のダダイスト詩人。
愛媛県伊方町出身。八幡浜商業学校(現・愛媛県立八幡浜高等学校)を中退し、以後、放浪がちの生涯を送った。1920年(大正9年)「萬朝報」の懸賞短編小説に『焔をかゝぐ』で入選、小説家としてデビュー。その後詩作に転ずる。
1923年(大正12年)、詩集「ダダイスト新吉の詩」は「DADAは一切を断言し否定する」で始まり、「皿」は、食堂の皿洗いをしていた時の心境を「皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿/倦怠」と表現した(本来縦書きで、皿が積み重なるさまを示している)。
1928年(昭和3年)、郷里で禅僧の話を聞いてから禅に傾倒し、禅-超越-形而上学の詩という特異な世界を作る。
若い頃の性急なダダから、次第に、仏教・禅に興味を向け、独自の詩的境地を開いて「ダダの新吉」と呼ばれた。
新吉の詩の中で知られているものは、『るす』などがある。詩の中で、5億年とは、弥勒菩薩が地上に現れるまでの期間をさす。仏教に心酔した新吉が、ダダの形式にこだわらない方法を使って表現した名詩であろう。
戦後、1951年(昭和26年)には結婚して子供もでき、生活も安定し、「超越の詩人」となる。禅の研究も進め、1971年(昭和46年)に禅に関する詩が英訳され、「禅ポエムの詩人」として欧米でも高い評価を受けた。
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以下、余りに有名だが「皿」と「るす」を紹介する。皿の部分は上記の通り本来縦書きで、まさに皿が重なっているイメージをそのまま表現している。

皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿皿
  倦怠
  額に蚯蚓(ミミズ)這ふ情熱
 白米色のエプロンで
 皿を拭くな
鼻の巣の黒い女
 其処にも諧謔が燻すぶつてゐる
  人生を水に溶かせ
  冷めたシチューの鍋に
 退屈が浮く
  皿を割れ
  皿を割れば
倦怠の響が出る。


「るす」

留守と言へ
ここには誰も居らぬと言へ
五億年経つたら帰つて来る


続いて以下のブログから引用する。どうも禅者のブログのようですね。

http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/hpohta/fl-siika2/takahashi2.htm

《死》
 私は死ぬことは絶対に無い
 一度死んだからである
 
 二度も三度も死ぬことは
 頭の悪い証拠だ
    (一九五二年、『高橋新吉詩集』)


 この詩集には、「観念的傾向の異常に強いものが現われはじめる」(平居謙氏、E186)と、いわれるが、新吉の精神状況から見れば、この詩は大変力強いものである。「一度死んだ」とは、悟ったことを言う。悟りの体験は、「自己を忘れる」、つまり、自我の死を体験したのである。禅の悟りを「大死一番、大活現成」という。自我の自分がない(無我)ことを体験し、死ぬことのない仏性と一如の自己(本来の面目)が、真の自分だと悟る。そうなると、新吉の生涯の後半の「雀」は、永遠の仏性、または、永遠の仏性にめざめた自由自在の自分、になるであろう。新吉の後半生の詩集では、そんな「雀」が、ピチピチを飛びはねる。
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以前書いたように私の郷里も愛媛なので高橋新吉には感慨深いものがある。
 新吉は若い頃統合失調症に罹り、父親が自殺した、と上記のブログには書いてある。こういう苦悩を乗り越えるために座禅の修行をして悟りを開き、86歳の長寿を全うして世界的に評価された。
 私もたまたま鬱病を禅で治したので新吉の生き方に共鳴する部分が多く、禅を学ぶ過程で彼の本も何冊か持っている。

ちなみに江戸時代は「伊予八藩」と言われて愛媛は多くの藩に別れていた。いま検索したら見当たらなかったが、愛媛はその影響で「三予文化」と言われ、大阪文化圏に属する新浜や今治あたりを東予といい、松山周辺を中予といい、新吉の生まれた伊方、八幡浜や宇和島辺りを南予という。私も南予出身である。
 それで面白い例え話がある。高校生の頃に聞いたのでうろ覚えだが「もし宝くじで100万当たったらどうする?」という質問に、東予人は「事業に投資する」、中予人は「貯金する」、南予人は「もう100万足して仲間を集め一晩で飲む」、というものだ。

だから、南予人は縄文人の気風を残し、酒、狩猟、釣りなどを好む傾向が非常に強く、私も酒と釣りは徹底的にやった。一方、詩人、俳人、法学者の有名どころも多数排出してる。穂積陳重や大津事件で司法を政治から独立させ「司法の神様」と言われた児島惟謙も共に宇和島出身である。
 穂積は「死後、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前の穂積の言葉から遺族はそれを固く辞退した。それでは改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにしてはという市の申し入れに対して遺族も了承し、現在も宇和島市内の辰野川に掛かる橋の名前としてその名が残っている」という感動的な実話があり、私の母は若い頃この穂積橋の近くに住んでいた。

私の直感に過ぎないが、例えば福岡や大阪の人間は「花の都大東京」に対する憧れや対抗心を持つ対他的存在である一方、愛媛人は東京に対して特別な感覚が無く、一気に世界的なことをやってのける傾向があるようだ。この辺りは高知とよく似ているが、話が長くなるので後日に回す。
 高橋新吉の紹介が愛媛や南予の紹介になったが、風土が人を作る、というのは事実だと再認識した。高橋新吉には誰かがまた影響を与えているはずだが、切が無いのでこの辺で失礼します。

ロータス文化学院について

2012年11月29日 | ロータス文化学院
http://w01.tp1.jp/~a920031141/bunkagakuin.html

これが「ロータス文化学院」のURL.左下のブックマークからでも入れます。

以前、私の書いた論文「荻野茂二の絶対映画?」http://w01.tp1.jp/~a920031141/oginoshigeji.html
をご覧になった読者(多分研究者)からコメントを頂いた。簡潔に言えば、魅力的な講師が揃っているのだから、もっと敷居を低くして受講者が集まるように工夫して欲しい、という内容だった。
 そのコメントには簡単にコメントで返したが、このことが気がかりなのでコメントで答えた以外の部分をもう少し詳細に書き添える。複雑なので以下箇条書きにします。

①これは松本俊夫、牧野守という世界的に名前を知られている大先生が、様々な仕事をされてきた中で遣り残されたことを人生の集大成としてこの学院で講義してもらうために立案した。学院といっても講師の住まいの近くにある公共施設を借りたり、自分の家で講義する、形のない増殖するネットワークが「ロータス文化学院」である。

②当初は協力者も多く集まり、私も出来る範囲の自腹を切って出来るだけの宣伝をしたが、確率論的にあり得ない反応の少なさだった。ネットやバスチラシ、バスポスターなどで数万人もが目にした筈だし、松本先生のmixiのコミュニティ(約700名が参加している)、その他、映画に関連したコミュニティーに何度か宣伝を入れたが、オリエンテーションに来たい、と連絡をしてきたのは二人のみ。しかもその後連絡が取れなくなった。

③二人の先生と私以外に3人が講師として名前を連ねていたが内部分裂が起こり絶縁した。芸術や宗教に関わっている人間は変人が多く唯我独尊の世界に陥りやすいし、私もある程度我慢すると爆発するほうだから、これは仕方ない。何かを始めるときはこういう意見の対立はよくあることだと思う。しかし仲間と思っていた人物から突如、言い掛かりや中傷、思いもよらぬ言動が次々と起こり、実に奇妙な現象が続いた。が、私から因縁をつけたわけでもなく、また結局価値観の違う相手とナァナァでやっていても、いつかは分裂するのだから、この決断は正しかったと思う。

④その他にも、私はカルト宗教批判、愛国運動などをやってきたために、違法な中傷サイトが複数立っている。中にはSEもいるから様々な手口で妨害しているのだろう。私のHPはメールのリンク切りをはじめおかしな現象が日常的にある。
 しかも、とっくに絶交した相手で学問や芸術には門外漢の人物が「ロータス文化学院」の名前を出して私に粘着する批判専門のブログまで立ち上げている。私怨なのかそれが商売なのか分からないが、面白い人間がいるものですね。

⑤「ロータス文化学院」に関する悪口の主眼は、私が金儲けのために企画したもの、と読者を誘導しているようなので簡単に事情を説明する。
 講義は週に一度で月4回、4ヶ月16回で一区切りをつける。牧野、松本先生には月30万ぐらいは出さないと失礼だと思っているし、牧野先生にはその他のギャランティーを約束しているから、仮に受講者が5万円の受講料を払ったとして30人揃った場合、公共施設を借りる料金などを含めて、どうにかこの企画が軌道に乗る。
 だからお二人以外の講師がギャラの一部を出して補完し、また無名でも能力のある講師を増やし、徐々にネットワークを広げていく計画を立てている。
 つまり教えられる側、教える側の両方を育てていくという意味で「人づくり」の構想である。

⑥そういう事情で、宣伝はし尽くし、事務作業からなにから全部自分で引き受けているうちに私自身が大病(要介護1)を患い、現在色々なアイデアを模索しながら体調の回復を待っている状態です。

まだまだありますが、ざっとこんなところです。
 本来は私はプランナー兼講師で、事務方や広報、渉外担当などが揃っていないと出来ない構想でしょう。しかし内部分裂と妨害の連続があり一人で全てを抱える状況になって、この構想が頓挫し、松本・牧野先生もご高齢ですから非常な責任を感じています。
 おそらく、非常に有能で憂国の志のある受講生が一人現れたときに、この構想は大きなうねりとなって実現していくでしょう。
 
「ロータス文化学院」の設立趣意書などをお読み頂き、賛同された方からのコメントをお待ちしています。人事を尽くして天命を待つ、と言いますが、逆に天命を動かすだけのエネルギーが必要で、構想した以上はやり遂げねばなりません。

大空に そびえて見ゆる高嶺にも 登ればのぼる道はありけり

 




詩歌の話

2012年11月27日 | 芸術・表現

高校から大学生時代、好きだった詩人は中原中也、金子光晴、ボードレール辺りだった。
金子光晴は骨太で、おぼろげな記憶だがパリで不良グループの親分になったり反骨精神の塊だったが、いずれにせよこの種の詩人は破滅型の側面があり、中原中也は子供を失い狂死、ボードレールも梅毒で「酒とハシッシュの比較」などという文章を書いて詩集も発禁、などなど、凄まじい生活をしている。

朝の歌 中原中也


天井に 朱(あか)きいろいで
  戸の隙を 洩れ入る光、
鄙(ひな)びたる 軍楽の憶(おも)ひ
  手にてなす なにごともなし。

小鳥らの うたはきこえず
  空は今日 はなだ色らし、
倦(う)んじてし 人のこころを
  諫(いさ)めする なにものもなし。

樹脂(じゆし)の香に 朝は悩まし
  うしなひし さまざまのゆめ、
森竝[もりなみ]は 風に鳴るかな

ひろごりて たひらかの空、
  土手づたひ きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢。


______________________
これは当時は丸暗記して、朝、天井を見ながら心で呟いていた。詩心という面で中也は凄まじいものがあり、この詩など、アンニュイを通り越して、末期の目というか、自殺代わりにどうにか詩を作ることで生きている感じがする。他の歌も同様で、余りにも痛切なので私はある時期から中也の詩を読まないことにした。
 が、当時はのめり込み、彼の詩の魅力を探るためにローマ字に直したりして、音の響きの分析したこともある。単純な例を挙げれば、「犬が走っていく」と「犬が走ってゆく」では後者のほうがyuの音感が柔らかい。ア行やカ行やタ行などは音が硬く冷たい一方、サ行やハ行やマ行などは柔らかくて暖かいなど、意味やイメージ意外の部分に詩歌の魅力の秘密がある。後日記号論関係の本を読み始めたときに、誰かが同じような詩の分析方法を論文にしていた。意味やイメージと、音の感覚が相補的関係になると詩歌の磁力のようなものが強くなる、といった内容だったと思う。文学部の教授の引退記念講義でもそういうことを聴いた記憶があるが、誰だったか覚えていない。
 ちなみに、中原中也の評伝を書いた大岡昇平は「彼の実生活を知らずに詩だけを読んで感動できる人たちは幸せだ」といった意味のことを書いている。

              
 洗 面 器 金子光晴

( 僕は長いあひだ、洗面器といふうつはは、僕たちが顔や手を洗ふのに湯、水を入れるものとばかり思つてゐた。ところが爪硅(ジャワ)人たちはそれに羊(カンピン) や魚(イカン)や、鶏や果実などを煮込んだカレー汁をなみなみとたたえて、花咲く合歓木の木陰でお客を待ってゐるし、その同じ洗面器にまたがって広東の女たちは、嫖客の目の前で不浄をきよめ しゃぼりしゃぼりとさびしい音をたてて尿をする。 )

洗面器のなかの
さびしい音よ。

くれてゆく岬タンジョン の
雨の碇泊とまり。

ゆれて、
傾いて、
疲れたこころに
いつまでもはなれぬひびきよ。

人の生のつづくかぎり
耳よ。おぬしは聴くべし。

洗面器のなかの
音のさびしさを。

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光晴は「おっとせい」などが有名だが、ああいう骨太さとこういう繊細さが同居していて面白い。
 私の郷里愛媛の八幡浜からはダダイスト高橋新吉が出ており、この人は禅でも悟りを開いて公案の解説書なども書いている。中原中也にも強い影響を与えた。郷里の詩人なので感慨深いものがあり、これは後日新たに書きたいと思う。

宗教随感

2012年11月26日 | 宗教
この数日いつも以上にあわただしく過ごしているので、ごく簡単に。

私が「微笑禅の会」も「正蓮花寺」もともに宗教ではないと注意書きしているのは理由がある。

信仰は心の問題で、多分信仰がない文化圏はないと思うが、人数が増え巨大化し組織になると宗教で生計を立てる「プロ信者」が増え、純粋な信仰心が消えていくことが一つ。

それから、いかなる宗教でも他人への思いやり、愛、慈悲が当然のはずだが、実際には敵対する宗教への嫌がらせ、殺人、戦争まで起こっている現実を嫌というほど見てきた事実がある。特に原理主義の宗教は他の宗派を絶対に許さない。

次いで、現在の憲法にある宗教=性善説は、相対的に神道=天皇制を弱めようとするGHQの政策から生まれたもので、戦時中の反日戦意高揚映画を見ても、日本軍の強さは神道の最高の祭司である天皇の赤子として日本人は平気で死を選ぶ、と考えられた。つまり大和魂を骨抜きにするための戦略として、宗教は良いものであり、優遇税制を受ける、という憲法が作られ、その結果怪しげな宗教が乱立した。

また明治維新の志士たちの多くは、武士道、禅、陽明学を身につけ他国の植民地にならずに革命を果たした。これは士族自らが士族の特権を壊して四民平等になる、という非常に稀な革命だった(言わば公務員が自分たちで公務員制度を解体して民営化したようなもの)。だから、心の保ち方が最重要であり、その訓練が出来ていれば敢えて宗教である必要はない。

何と言えばいいのか、戦前の右翼の大物たちは、極左アナキストと個人的には友情関係を持っていたように、大切なのは人徳的な部分であり、それを鍛える手段、稽古の違いが信仰や道徳、思想等々だと思っている。

最後に明治天皇御製から(明治天皇の短歌10万首弱には全く駄作がないように思えます。天才ですね。これはア行から3首拾ったものです)。

おのが身は かへりみずして ともすれば 人のうへのみ いふ世なりけり
(注:人のうへ=人の悪口、中傷)
あやまちを 諌めかはして 親しむが まことの友の こゝろなるらむ

鬼神も なかするものは 世の中の 人のこゝろの まことなりけり



禅とスポーツ:榎本喜八

2012年11月25日 | 
さすがに2日もブログを休むとアクセスがグンと落ちますね。
このところ余りに忙しくフラフラしているので休みがちですが、アクセス解析を見ているとどうも宗教の話をしたときに人が増えています。
 堅い話なので私自身は、こんなこと書いていいのかなぁ、と思っていましたが、こういう時代のせいでしょうか。占いなど大流行してますし未来が見えない状況特有の傾向と思います。

そこで、丹田呼吸と腹式呼吸の違いについて書こうと思い、いろんなサイトをくぐりました。「むしろ腹は引っ込める感じで臍下丹田を膨らませる」、と前に解説しましたが、やはり医学では丹田呼吸を「逆腹式呼吸」と呼ぶようです。長年やっていると臍下がラグビーボールのように膨らむそうで、事実そこは筋肉のつきにくい場所ですが徐々に膨らんできます。
 調べた限り呼吸は自然に任せ、と書いてありますが、なるべく細い呼気を全身の毛穴から漏らすイメージで1分以上続ける訓練を続けるべきと思います。その内に本当に細い呼吸になり、吸っているのか吐いているのか分からなくなり(それを同時に行っているのでしょう)、鼻の頭に細くちぎったティッシュペーパーをぶら下げても揺れなくなります。

その関連で調べていくうちに、禅や合気道を取り入れたプロ野球の打撃の神様がいたことを知りました。私が物心付く前の世代の人なので全く記憶にありませんが紹介します。
以下、wikiより思い切り抜粋して引用しました。特に解説はつけません。
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榎本 喜八(えのもと きはち、1936年(昭和11年)12月5日 - 2012年(平成24年)3月14日)は、東京都中野区上鷺宮出身のプロ野球選手(一塁手)。現役時代はオリオンズの中心選手として長きに渡って活躍し、「ミスターオリオンズ」と呼ばれた。

現役時代は武道を取り入れたトレーニングをおこない、その求道的なスタイルも相まって数々の逸話を残した。荒川博らとともに藤平光一や剣道家の羽賀準一の道場に通って合気道や居合を習得し、打撃が開眼。そのためか、トレーニングのことを「稽古」、バッティングフォームのことを「形」と言っていた。試合前に座禅を組むこともあったという。

“神の域”に到達した時のことについては、後年に詳細に語っており、「臍下丹田に、自分のバッティングフォームが映るようになったんです。ちょうどタライに張った水に、お月さんがきれいに映る感じ。寸分の狂いもなく、自分の姿が映って、どんなふうに動いているのかまでよくわかった。ボールがバットに当たった瞬間から、バットに乗っていくところもよくわかった」、「すると、どんなボールに対しても、自分の思い通りに打てちゃう。それまでは、タイミングは合った、狂ったと一喜一憂してたけど、この時期は相手とのタイミングがなくなったんですよ。最初からタイミングがないから、タイミングも狂わない。だから、打席で迷うこともなくなったんです」、「本当に夢を見てる状態で周りの動きがスローになった。プロに入ってから、バッティングの事ばかりでテレビを見ても心から笑った事がなかったんですが、初めて心から笑えたんですね」と述べている。

また、「それまでは、いくら自然体をつくり、そこへ魂を吹き込んでバッターボックスに立っても、結局『バッティングでいちばん大切なのはタイミングだ』という思いを捨てきれなかったんです。だから、ヒットを打ったり打ち損じたりするたびに、タイミングが合った、狂ったと一喜一憂してた。しかし、臍下丹田に自分のバッティングフォームが映るようになると、ピッチャーとのタイミングがなくなってしまった」、「ピッチャーの投げたボールが、指先から離れた瞬間からはっきりわかる。こっちは余裕を持ってボールを待ち、余裕を持ってジャストミートすることが出来た。だからタイミングなんてなくなっちゃったんです。最初からないから、タイミングが狂わなくなったんですね」、「自分の脳裡に自分のバッティングの姿がよく映るんです。 目でボールを見るんじゃなくて、臍下丹田でボールを捉えているから、どんな速い球でもゆるい球でも精神的にゆっくりバットを振っても間に合うんです。ちょうど夢を見ている状態で打ち終わる。その姿ははっきり脳裡に映っていながら、打ち終わるとスッと夢から覚めて我にかえって走りだす、そのようなところまでいかせていただきました」とも語っている。

阿部定事件:追記

2012年11月23日 | 医療、健康法
昨日、阿部定について触れたが、ちょっと気になった部分があるので追記する。

早い話が女が刺身を好かなくとも、亭主が好けば、自然と好く様になり、亭主の留守に枕を抱えて寝たりする事はよくある事と思います。自分の好きな男の丹前の臭をかいで気持ちを悪くする様な女がありましょうか。好きな男が飲み残した湯呑の湯を呑んでも美味しいし、好きな男が噛んだものを口移しにして食べても美味しがる事もよく世間にあります。

この感覚が私にはほとんど理解できない。
いくら好きでも所詮は他人なのだから、そこまでのめり込まれると怖い気がする。

思い出すと、学生時代付き合った韓国の留学生の部屋に逗留というか一時期同棲していたとき、反日教育を受けているのでアンチ日本だったが、私は梅干が好きだったので、彼女が食材に梅干を買って一緒に食べたところ、途中で泣き出して「貴方と出会わなかったら梅干なんて一生食べなかった」と言っていた。へぇ、そんなものかなぁと思ったものだ。(ちなみに彼女は50歳で癌で死に、公職的な仕事をしていた関係で写真付きで朝日新聞に詳しい記事が載っていた。よく読むと、3歳年下だったはずが、実は同い年だった。見事に騙されましたwww)

また数年前のことだが、あるホステスさんと仲良くなって店外デートなどした折に「貴方と同じ空気を吸っているだけで幸せ」と言われた。
 その話を元妻にして、女はこういう気分になるのか?と尋ねたら「ああ気持ち悪い。そんなの営業トークに決まってる。真に受けてバカみたい」と言っていたが、元妻は一方で洗濯前の私の靴下の匂いなどを嗅いで喜んでいたから、臭いフェチか、と変な気分だった。

分かるとすれば、自分の子供達が小学生の頃までは、抱きしめたり添い寝したりすると、実際にお菓子のような甘くていい匂いがするので、ぎゅっと抱きしめた記憶はある。特に長女は霊感や癒しの力が凄くて、小学校低学年の頃に膝枕をして目を閉じると一発でストレスが消えたものだ。

男にもフェティシズムがあり、女性の下着を盗んで逮捕、などという事件がよくあるが、私はいくら好きな相手でも下着に興味はない。パンティなんて汚らわしいと思うだけで、藤あや子のパンティがもし手に入ったとしても捨ててしまうだろう。

恋は幻想、結婚は忍耐と思っている私は、阿部定やこれまで付き合った女性の恋心は不気味でとても付いていけない面がある。激烈な恋愛よりも、空気のような存在で、心が和む、程度の距離の保ち方が一番楽だろう。私は愛媛生まれなので子供の頃にミカンや伊予カンをダンボールで買って食べ過ぎたためか、酸っぱい果物全般が嫌いになった。リンゴも苺もダメだ。いくら好きな相手が出来たとしても、レモンスライスを一緒に食べようとは全く思わない。

阿部定のような一途さは、遠目には可愛いが、近づくと危険極まりない。何しろ大事な部分を切り落とされますから。ニアミス程度でとどめておくのがいいでしょう。
 もっとも、以前このブログにも書いたように、八百屋お七のような、恋人に逢いたい為に火事を起こすような女性を主人公にした「狂恋もの」というジャンルが映画にあり、どうせ恋をするならこれごらいしろ、という文化が日本にはある。そういう燃え上がる恋心が一生続くのなら幸せだろうが、私が体験した範囲では、恋と憎悪・嫉妬は裏表で、爆発的に始まり爆発して崩壊する。
 人生そのものが苦労の連続なのだから、せめて恋愛はのんびりマッタリいきたいと思う昨今です。


阿部定事件

2012年11月22日 | 歴史
このところ、忙しくてブログの手抜きが多くなった。
ネタが切れたわけではないが、腱鞘炎もあり、中身の濃いものを書くまでの下準備に時間がかかりすぎている。
 
今日はちょっとだけ面白い話をしよう。1936年、2.26事件の起こった年だから、なんとも言えぬ暗い危機感のある時代に有名な阿部定事件が起こった。ご存知の通り、愛人の局部を切り取った愛欲の果ての猟奇殺人事件である。ちなみに、法定で阿部定は「おちんちん」という言葉を連発しているので、報道機関はこれ以来、「局部」「下腹部」という用語を使うようになり現在に至っている。そういう世相の中で阿部定事件は非常に好意的に迎えられ、時代のヒロインとなる。

私は時々「小説を書いてみたらどうか」と言われるので、何年か前にこの事件について資料を集めたことがある。が、この手の話は数多くの出版、芝居、映画化がされており、とりわけ新たな事実は見当たらなかったので諦めた。

さきほど調べたら法廷記録が収録されているサイトがあったので、阿部定の証言の一番面白いところを引用する。

http://www.namaste.sakura.ne.jp/abesada/styled/index.html
ところが石田だけは非点の打ちどころがなく、強いて云えば品がありませんが、却ってその粋なところを私が好いたので、全く身も心も惚れ込んでしまったのです。女として好きな男を好くのは当り前です。私の事は世間に判ったから可笑く騒がれるのですが、女が男のものを酷く好く様子をするのは世間にざらにあると思います。

 早い話が女が刺身を好かなくとも、亭主が好けば、自然と好く様になり、亭主の留守に枕を抱えて寝たりする事はよくある事と思います。自分の好きな男の丹前の臭をかいで気持ちを悪くする様な女がありましょうか。好きな男が飲み残した湯呑の湯を呑んでも美味しいし、好きな男が噛んだものを口移しにして食べても美味しがる事もよく世間にあります。
 
 芸者を落籍するのも、結局、自分の独占にしようとするからで、男に惚れた余り、今度の私がやった程度の事を思う女は世間にあるに違いないのですが、ただしないだけのものだと思います。もっとも女だって色々あり、恋愛本位では御飯が食べられないと思って物質本位の人もありますが、恋愛のため止むに止まれず、今度私のした様な事件になるのも色気違いばかりではありません。


結局、阿部定は「先天性淫乱症(インフォマニア)」と診断された。

そこで、私なりの考察を加えたい。
①この当時、中流以上の社会では、女性は結婚する相手に処女を与えるのが常識で「貞操観念」という道徳が生きていた。だから、阿部定は娼婦だったので別だが、この発言は今読むのと違い、非常なインパクトを与えた。
②今現在、女性が性に語るのは普通になり、自分の性体験を語るのがむしろ流行している時代、阿部定の言葉にはインパクトはない。
③女性のエクスタシーは俗に「男の100倍」などと言われるが、私の記憶では割合最近それを研究発表した暇な学者(イギリス人だったような?)がいて、約7倍前後だったように思う。それにしても気絶するのほどの快感なのだから、こういう事件は日常的にあっていいと思うが非常に少ない。
④その理由の一つは、拝金主義で打算的な恋愛関係、夫婦関係が阿部定の言うとおり普通になっているからと思われる。
⑤かと言って、恋愛と性欲一元論が美談かと言えば、これも依存症の一つであり、阿部定のように殺人事件に発展すると社会性を失ってしまう。
⑥動物と比較すれば一目瞭然だが、年中サカリが付いているのは人間のみだから、恋愛は「自然」と対立する「文化」である。が性欲は種の保存のためにごく自然な現象であるにも関わらず種の保存ではなく逆に殺人にまで及んだわけだから、「先天性淫乱症(インフォマニア)」と診断されるのは当たり前といえる。
⑦「石田だけは非点の打ちどころがなく、強いて云えば品がありませんが、却ってその粋なところを私が好いたので」は文章とし一見ておかしいが、「粋の構造」ではないが、下品と上品の中間的なところに粋は存在するので、石田は遊びなれ砕けた江戸っ子的な性格を持っていたと考えられる。(ちなみに石田は決して美男ではない。むしろブ男の部類である。阿部定は写真にもよるがなかなかの美人)。

結論:阿部定が時代のヒロインとなったのは、大東亜戦争と第二次世界大戦を直前に控えた世界最終戦争の予感の中で、冷静に見れば狂気だとしても、愛欲の究極の姿を見せた彼女の恋愛=性欲至上主義が、時代の閉塞感を打ち破る一種の救いだった。簡潔に言えば緊張の連続の中の緩和剤だった。同時に、当時の恋愛道徳の中で阿部定の率直な本音の暴露は「お上品な階級」に対するアンチテーゼだった。
 今現在も同じような時代の閉塞感の中にあるが、恋愛道徳はほぼ崩壊しているので、当時の阿部定のような役割を担うには「私は本当に尊敬できる男性が現れるまでは恋愛もセックスも一切する気がありません」と言って本当に実践すれば、相当のインパクトがあるだろう。
 以上、半分真面目で半分は息抜きに歴史の一コマを振り返ってみました。では。
 

本当の雑談です

2012年11月21日 | 雑談
昨日は「洗脳の解き方」について書こうと思い、色々調べているうちに、その記事にのめり込んでしまい、時間を食ったため、ブログ本文を書きかけて、途中で疲れ「明日にしよう」と全文削除してしまった。

ところが、今日は今日で色々と用事が重なり、また腱鞘炎も続いているので、まとまった話は書けそうにない。

尾崎豊の死因について昔片っ端から調べたことがあり、私は他殺説を確信している。そういうわけでさっきまで実はこの話題についてネット検索していた。そうするとやはり同じ考え方の人がいて、持論を展開し、コメントとのヤリトリが延々と続き、最後まで読み終えた。

で、結局昨日と同じで、読み続けているうちに、疲れて書く意欲を失ってしまった。尾崎の死因に関しても、尾崎の歌にしても、接近すると鬱病のような気分になる。だから話題を変えることにする。

愛媛出身の私が学生になり東京に来て、一番行きたかったところは泉岳寺と末広亭と歌舞伎座だった。
 末広亭に通ったおかげで故林家三平をライブで見ることが出来た。確か会員になるといろんな特典が付いてきたと思う。三平の落語は邪道中の邪道だが、とにかく笑わせる技術については超一流で、大体、出囃子に乗って登場する段階で滑りこけるのだから念が入っている。それで謎賭けや駄洒落が得意なのだが、常連の客は大抵オチを知っているので、笑わせる前にオチが客席から飛ぶ。

で、三平は隠しネタを一つぐらい用意していてそれで客を笑わせる。記憶に残っているのは、美濃部都知事と座頭市が出くわしたときに、座頭市がなんと言ったか?と観客に聞いておいて、皆が考えている瞬間に「嫌なトセイだなぁ」と落とすのが、が新ネタだった。

都知事選挙、衆院選がまもない。いやな都政、国政はもうこれでキッパリ止めてもらいたいものだ。










宗教に絡んだ雑談です

2012年11月19日 | 宗教

私の使っているGOOブログがこの1週間アクセス解析の無料キャンペーンをやっているので使ってみた。
 面白いことにこのブログを入れているHPから入る人が一番多い。HPのアクセスカウンターは時々0になったり、20から40の間を行き来しているので壊れているのは間違いないと思ってはいたが、同じブログの中で見ている人が一番多いのかと思ったが、意外だった。

アクセスカウンターはフリーソフトが普通で、気に入ったものはHPに取り込めないなどの不安定さがあるから面倒なのでそのままにしているが、今度時間があるときに別のものに取り替えようと思う。

ところで昨日のブログに難病に禅の呼吸法が効果があると書いたので、今日は暫く座禅を組んでみたが、確かに心地よい。数呼吸で鳥肌立つ歓喜が訪れてきた。

禅が面白いのは、ただ何も考えずに姿勢、呼吸、心を整えて数息観や隋息観を行うことで、微笑禅の会の方法では途中で体を動かしていいことになっている。

それで思ったのだが、禅は一切祈らない。ところが人間はどうしても自分の力では解決できないことが多いから、祈祷系の信仰が尊ばれる。私の場合は法華経の一節を目覚めの一時に唱えたりして使い分けているし、微笑禅の会は「宗教ではないので他の宗派でも入会可能」と謳っている。

そこで自力と他力、祈りの効果などの問題が出てくる。
禅の場合は、自力のようだが、実は宇宙と一枚続きになり自他の差別感を無くすので、普通の自力ではなくなっている。つまり自他というのが二項対立にならず調和している。だったら根性の腐った敵対者に対しても敵対という観念が消えるかというと、そうでもない。山本玄峰師は「悪党の2~3人は睨み殺す」と言って、要人テロのハシリだった血盟団事件を擁護している。「国家のためにならないものは、たとえ善人でも殺していい、と仏は言っている」と断言している(そんなこと釈迦は言っていないと思うが、これが山本玄峰師の気合いというものだろう)。

一方祈祷や呪術の効果については、以前「多元宇宙論」で解決するしかない、と書いた記憶がある。そんなものが通じるか、と思う人には通じないだろうし、祈りとして適わざるなし、という信念で祈れば適う、という考え方だ。それにプラスして医師を含めて色んな識者に聞いたところ、送り手の力と受け手の感受性に拠るところも大きいらしい。ラジオの感度みたいなものだろうか。ちなみに釈迦本人は祈祷はしなかった。この辺りは全くのグレーゾーンで、何というか、もし1万の謎があるとすれば、化学的に証明可能なものはまだ10ぐらいではないかと思う。

言葉とイメージは非常に便利な道具だが、こんな不完全なものはなく、むしろ人間はこの道具を使っているために真理から遠ざかっているとも言える。あるモヤモヤっとした感情を言葉やイメージで表現するとどこかが欠けてしまう。意識の流れ、ではないが、一日の間に感じたこと、起こったことなどをより正確に緻密に書いていったら、大長編小説のようになり何年もかかるに違いない。

夏芽漱石は「菫程な小さき人に生れたし」と詠んだが、本当に子供はいいなぁ、動物はいいなぁ、植物はいいなぁ、と思う。

疲れてきました。さて、もう一座組んでみます。



線維筋痛症について

2012年11月18日 | 医療、健康法
以前、私の病気は正確には原因不明で、一つは線維筋痛症の可能性もある、と書いた。あまり知られて無い病気なので今日のテーマはこれにする。以下、「線維筋痛症友の会」のHPから拾ってみた。

 とりあえず、症状を紹介する。

http://www.jfsa.or.jp/page0101.html

症 状

全身や広範囲が痛み、またある部分だけが痛むことがあります。
その痛みは軽度のものから激痛まであり、耐え難い痛みであることが多いです。痛みの部位が移動したり、天候によって痛みの強さが変わったりすることもあります。痛みが強いと日常生活に支障をきたすことが多く、重症化すると、軽微の刺激(爪や髪への刺激、温度・湿度の変化、音など)で激痛がはしり、自力での生活は困難になりますが、重症化する前に早めに受診して対策することが必要です。
随伴症状として、こわばり感、倦怠感、疲労感、睡眠障害、抑うつ、自律神経失調、頭痛、過敏性腸炎、微熱、ドライアイ、記憶障害、集中力欠如、レストレスレッグス症候群などが伴う事もあり、症状は個人差があります。
中には、リウマチや他の膠原病を併発している場合もあります。
痛みによって不眠となりストレスが溜まり、それがまた痛みを増強させる場合もあると考えられています。
死に至る病ではありません。
線維筋痛症は男性よりも女性に多く、中高年の方に多い病気です。そのため自律神経失調症や更年期障害、不定愁訴などど他の病気と診断されることも少なくありません。
現在人口の1.66%、約200万人の患者がいるのではないかと疫学的に発表されています。

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それで、こんな厄介な病気を治すのに専門医などに掛かっている暇もないし、入院になったら大変なことになる、どうにでもなれ、と放っておいたが、薬や注射(痛み止めのブロック療法)に変わる代替療法として以下の記事を見つけた。

深呼吸(腹式)

胃および腹部が拡大することを確かめて、10の数までゆっくり深く息を吸ってください。鼻から息を吸って、10を数えてから、ゆっくり完全に吐き出してください。心を静めることを助けるためには、各サイクルを通じ、「呼吸し数えること」に完全に専念してください。5~10回繰り返して、そのような気分になれない場合でも、毎日深呼吸運動を数回行う習慣を作ってください

革新的な筋肉弛緩

四肢を交差させずに、快適な位置で横たわった後に、頭の先から始めて、身体中のすべての筋肉に意識を集中して下向きに進めて、身体の各部分に集中していきます。額、両耳、両目、口、首、両肩、両腕、指、胸、腹部、大腿、ふくらはぎおよび足首から足の指までを含めること。

この運動をしている間はゆっくりとした深呼吸を続けてください。

5~10と数える間、各筋肉をできるだけしっかりと緊張させて、次に、それを完全に解放してください。

完全にくつろいだ、そして鉛の様に重かった筋肉を経験してください。足首からつま先に達するまで、継続してください。

最初に、腕を上げたり、下げたりすることで緊張の度合いをチェックする友達またはパートナーを得ることは有用です。腕は自由に下げられるようにします。筋肉弛緩の訓練は運動をより有効にし、リラックスを非常に急速に生み出します。

瞑想

東洋文化の中で長年使われている瞑想は、有効な弛緩技術として米国で現在広く認められます。例えば、気功(東洋の技術)を実行した患者が8週後に痛みが減少し、疲労および不眠が改善され、気分、一般的な健康状況が改善されたとある研究が報道しました。熟練の瞑想にふける人は、瞑想中に心拍数、血圧、アドレナリンレベルおよび皮膚温度の減少を達成することができます。

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一読して、禅の稽古ととても似ているのに驚いた。
 ちなみに腹式呼吸が健康にいいと色んな人が言っているが、私は丹田呼吸しかやったことが無いし、その効果は充分に知っている。丹田呼吸の場合は、むしろ腹部は凹むぐらいになり、臍の下10センチぐらいに息をスッと下ろし、なるべく長く細い息を体全体から漏らしていく。息を吐く、という意識を捨てて、自然に任せていき1分以上出来るようになると、不思議なことに次の息を吸わなくても構わない、という状態になる。ざっと3分に一度息を丹田に落とす程度がいいと思う。

次いで革新的な筋肉弛緩、というのは軟酥の法の別バージョンに思える。「微笑禅の会」のほうでこれについても語りつくしているので省略するが、要するに各部位が暖かくなる、というイメージが、この方法では一時緊張させて脱力するわけだ。

この病気は、私自身が要介護でなりながら母の介護をしているため「介護 病気」で検索して見つけたのだが、電磁波過敏症にしても昔は無かった病気が増えている。花粉症やアルツハイマーも昔は無かった。

選挙の話に飽きてきたので、もしかしたら原因不明の痛みで困っている人がいるかもしれない、と思い紹介した次第です。もちろん食事と運動のバランスが一番重要ですが、酷くなると食欲も湧かず、運動も不可能になるので、この方法をまずお奨めします。


石原さんの不思議な決断

2012年11月17日 | 世直しのためにどうすべきか
アレアレ、太陽の党が日本維新の会に吸収されたって???
石原さん、理屈が合わないんじゃないの?と思いながらネットのニュース速報を片っ端から見た。詳しいのは下の記事。
http://headlines.yahoo.co.jp/videonews/jnn?a=20121117-00000046-jnn-pol
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石原前東京都知事が共同代表を務める太陽の党と橋下大阪市長が代表の日本維新の会が合併することになりました。新たな日本維新の会の代表には、石原氏が就任します。

 小異を捨てて第三極の大同団結を訴え続けた石原氏。ついに、その思いどおりに太陽の党と日本維新の会が合併することになりました。

 「第三極じゃ困るんです。第二極にならないと。自民と公明の政権が続いたら、また同じことです」(日本維新の会 石原慎太郎 新代表)

 太陽の党を解党し、日本維新の会が吸収する形となった今回の合流ですが、代表には石原氏が就き、橋下氏は代表代行に就任します。

 政策についてですが、地方交付税は廃止。TPPについては交渉に参加した上で、国益が損なわれるような状況になれば、はっきりとノーと言っていくとしています。結局、太陽の党は維新側の政策を丸のみした形で、ギリギリのところで合併が成立しました。

 「石原総大将が我々のリーダーになったんですから、この大阪維新の会、オリジナルのメンバー、もう1回魂を込めて、日本の根っこを変えるために、あと1か月、死にものぐるいで戦って。何も議席を得るためだけではありません。根本を変えるんです」(日本維新の会 橋下徹代表代行)

 現在、当初の予定より少ない46人の第一次公認の発表が続いています。第三極のうち、まずは太陽の党との合流を成し遂げた維新の会。次は渡辺代表のみんなの党と、どういった連携ができるのかが焦点になります。(17日17:32)
最終更新:11月17日(土)18時7分

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石原氏が維新の会の代表になったのだから、「TPPは参加しても拒否可能」と信じても、維新の会は公明党と連携しているのだから自公政権にノーと言っている石原氏の一番大事な部分が切れたことになるよね。
 このあたりが葡萄糖が慢性的に欠如している私の頭では分かりません。

若い人は知らないでしょうが、公明党は最初アンチ自民、アンチ自衛隊が党是だったのに、言論弾圧事件で田中角栄幹事長に擦り寄ったあたりから、自民党にべったりとくっつき始めました。
 自民党も単独過半数を取れないから、公明党の票を利用し始めた。こんな流れで腐れ縁が出来てしまったわけです。

石原氏も都知事のときに自公に支持されていたが、下手な大臣クラスより権力を持っている都知事を辞めてまで「最後のご奉公」として国会議員選挙に打って出たのは、公明党に対しての反発と、前回書いたように霊友会信者としての創価学会に対する根本的な批判があったからと推察します。大嫌いな相手に頭を下げながら都知事を続けた自己嫌悪が爆発した、という感じがしてなりません。

だから石原、平沼という重みのある人物の揃った太陽の党が公明党抜きの連立政権の要石になれば、クーデター並みの破壊力になったのに、維新の党に取り込まれたら意味ないだろうと考えるのが普通ですね。それだったら自民党と組んで、自民党良識派を中心に連立政権を構想したほうがよほど筋が通っているし、国民も喜んだでしょう。

石原氏から見れば橋下は子供みたいなものだから、どうにでもなる、と思ったのかもしれないけど、日本維新の会そのものが実績もなく支持率も低い。庇を借りて母屋を取ろうと考えたのかもしれないけれど、母屋がいかんせん軽すぎます。

色んなニュース速報を見ると、現在自公は楽勝ムードを引き締めるのに必死とか。でも、農村部の多い地方では自民党に対する怨念は深いので楽観視はできないでしょう。

真冬の選挙で、本当は誰も投票したくない。こういうときに浮動票は取れないが固定票は動かない公明党は強い。ネット世代からは徹底的に嫌われている公明党ですから先細りは見えていますが、最後のご奉公になるのかなぁ、石原さん、と言いたいです。
 もしかして投票率が史上最低になるんじゃないかな?

そうそう、私の交友範囲では、大抵の人が政治に期待していませんが、一つの極論として「一回共産党に政権の一角を担わせてみたらどうだろう」という意見をしばしば聞きます。HPの表紙を変えるようにネーミングを変えたら支持率は大幅にアップする可能性は確かにあるでしょう。つまり既成政党には期待していない国民がそれだけ増えているわけです。

ちなみに私の父は一貫して自民支持でした。父は戦前に活躍した人間で私は父が63歳のときに再婚して出来た子供です。戦時中は公職についていて大尉相当官でした。私の記憶の中でも吉田茂(相当曖昧)、池田隼人、大平、田中、福田、三木など、非常に印象の強い総理の顔が浮かんできます。私は雑民党を支持したりして好き放題やってきましたがwww.

ともかく男は政治談議が大好きな生き物です。衆院選、都知事選ですから色んな変人奇人が現れるでしょう。これらも楽しみながら、日本の行く末も真面目に考える時期が迫ってきました。投票まであと1ヶ月ほど。この間にまだまだ色んな策略やどんでん返しがあるかもしれません。それを期待しましょう。




選挙談義再び

2012年11月16日 | 医療、健康法
以下、ヤフーニュースより(10月22日のアンケート)
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「日本維新の会」の政党支持率は、朝日新聞調べでは前回と横ばいの2%で、NNNでは0.8ポイント減の2.3%。朝日調査の2%という数字は、公明党、共産党と同じ水準で、「みんなの党」より1ポイント高い。NNNでは、自民、民主、公明に続いて、「みんな」と横並びだ。

■3か月前の夕刊紙・週刊誌は100~200議席獲得を予想していた

 「維新の会」が国政進出は発表する1か月半ほど前の7月下旬の時点では、週刊誌や夕刊紙は、「維新」が圧倒的多数の議席を予想していた。具体的には、週刊現代が203議席、夕刊フジが110議席を予想していた。だが3か月が経過した現時点では、合流してくる国会議員のメンバーの顔ぶれなどから失望感が広がり、他の中小政党と同水準の「ドングリの背比べ」状態に陥っている。

 なお、二大政党の支持率は、朝日調べでは民主党が3ポイント減の11%、自民党が5ポイント増の26%。NNNでは、民主党が3.6ポイント減の14.0%、自民党が4.1ポイント減の29.3%だった。

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昨日「太陽の党」は面白い、と書いたが明日日本維新の会との連携を最終決断するというので、維新の会がそれほど重要なのか調べたら、思ったとおり泡沫政党に転落していた。政治の世界が不可解なのは、アンチ公明を宣言している石原氏がなぜ公明と連携している維新の会と手を結びたがっているか、という問題。それから橋下はTPP賛成だったり、竹島、尖閣諸島の問題にしても明言せずに、歴史を学んだほうがいい等々、え?と思う発言をしている。私は領土問題に関しては昔徹底的に調べたので「自分が学べば?」と言いたい。

TPPに関しても、国防の第一「食料自給率」をとことん低下させ、車やハイテク方面のみで日本の経済を活性化させる悪政がさらに進む結末になる。
 私は以前、公務員は農業と自営業を数年やって黒字を出した人間から採用させたらいい、と故郷の市役所に提言したことがある。私は高知と愛媛の県境の山村に生まれたので、アメリカの脅しに屈して、自動車を中心とした機械類を輸出する取引材料に農産物輸入の自由化を決めたため、農家と地方の商店街が原爆が落ちたかのような廃墟になった様子を肌で知っている。
 その上、辛うじて残った商店街を第三セクターで大きなビルに閉じ込めてテナント代を巻き上げ、さらに売り上げに応じて上納金まで取る、という試みが、例の天下り法人を使って日本中で実施され、ほとんどが失敗して赤字を出してきたこともこの目で見ている。そのときに初めて私は政治に関わる反対運動をした。長くなるから詳細は後日に回すが、色んな統計を取った上で商店街は歴史が残した「文化遺産」ということを強く主張した。(案の定「おはなはん」の舞台の大洲市はその政策を実施して観光地としての価値をゼロにしてしまった)

話が余談に飛んだので元に戻そう。食料の自給率も上げながら、テクノロジー関係も発展させる、というが当たり前の思考で片方を潰して片方だけに力を入れる、という発想を政治家ともあろうものがなぜ持てないのか不思議で仕方ない。

橋下は時々変なことをいうが、それは腹芸で、最後にあっと驚く改革をするのではないか、とギリギリまで批判をしないでいたが、もう何も期待しない。
 今ごろ居酒屋では総選挙とサッカーのワールドカップの話題で持ちきりだろう。しかし12月の投票とは・・・寒風の中、マフラーと手袋をして真面目に投票する人がどれぐらいいることやら。立候補者は日本を立て直す最後のチャンスと思って綺麗ごとではなく思い切った爆弾発言を連発して欲しいものだ。


言うまでもなく総選挙情報

2012年11月15日 | 世直しのためにどうすべきか
突然の解散総選挙で驚いた。
色んな党があり、これからどことどこがくっつくやら分からないが、『太陽の党』に関心をもったので些細な情報を提供する。以下mns産経ニュース速報から。石原氏の発言を引用する。

http://sankei.jp.msn.com/politics/news/121113/stt12111322270018-n1.htm

石原慎太郎前東京都知事とたちあがれ日本は13日、石原氏とたちあがれの平沼赳夫代表を「共同代表」とする新党「太陽の党」を結成した。石原氏は同日夕、都内のホテルで記者会見を開き、次期衆院選前に日本維新の会やみんなの党と合併することを視野に入れた「大同団結」を急ぐ考えを改めて示し、「既存政党と新たな『関ケ原の戦い』に挑む」と表明した。

 石原氏は「かねがね国政に大きな不満を抱いていたが、このまま衆院選になると、自民、公明両党が過半数を取りかねない。許せない」と発言。「太陽の党はほんの一過程にしかすぎない。必ず衆院選の前に大同団結する。太陽の党が吸収され、消えても構わない」とも述べた。自身の芥川賞受賞作「太陽の季節」に似た新党名については、「たちあがれの園田博之幹事長の発案だ」と強調した。

 綱領には、自主憲法の制定や国の危機管理体制の立て直し、教育基本法に基づく「国民の育成」を目的とした教育の振興などを盛り込んだ。 記者会見に先立ち、たちあがれは、政党名を太陽の党に、党の代表を平沼氏から石原氏に変更すると総務相に届け出た。
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ついで平沼氏の略歴をwikiから抜粋引用する。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B9%B3%E6%B2%BC%E8%B5%B3%E5%A4%AB

ポスト小泉(小泉退陣後の後継総理)の有力候補として注目されていたが、小泉内閣後期では拉致問題や政治手法の違いから徐々に溝が生じ、2005年(平成17年)7月5日、郵政民営化法案の衆議院本会議採決で反対票を投じた。このため同年9月11日の第44回衆議院議員総選挙では自民党の公認を得られず、無所属で出馬。自民党公認の阿部俊子を破り、9回目の当選を果たした。特別国会の首班指名選挙では、小泉純一郎に投票したが、郵政法案の衆議院再採決では反対票を投じた。解散総選挙で自民党を非公認になり、無所属で当選した13人のうち再び反対票を投じたのは平沼一人であった。

タカ派と評されることが多く、渡辺喜美からは「国家主義的タカ派」と評されている[32]。
新宗教・生長の家の聖典のひとつである、『生命の実相』を愛読書とする。「私は母から薦められた谷口雅春先生の『生命の実相』によって唯物思想から脱却した」と述べており、生長の家系列の過激な団体であるときみつる会の支持を受けた。なお、ときみつる会はその過激さから生長の家より分離してできた団体である。[33]

2004年(平成16年)11月、タカ派であり、復古主義色の強い政策、主張から左派からは右翼と罵倒されることもままあるが通産大臣在任中には日本共産党系議員の陳情も受けるなど、共産党系の経営者からも一目置かれたと筆坂秀世が述べている。
2006年(平成18年)からインターネットTV超人大陸にレギュラー出演し、「警鐘塾」というコーナーを担当している。11月29日には同サイトで復党問題への告白をしている。
自民党所属の参議院議員である山本一太によれば、自身の自由民主党への復党に反対されたと思い込んだ平沼が山本に対し、テレビ番組の収録現場で「あんまり調子に乗るなよ。お前、抹殺するぞ」と発言し、批判された[34]。
小渕恵三内閣時代(2000年(平成12年)3月)にアメリカの企業再生ファンド・リップルウッドに日本長期信用銀行が売却された経緯や、小泉政権下でおこなわれた郵政民営化、建築基準法改正、司法制度改革について、「アメリカからの年次改革要望書に沿ったもの」と主張している[35][36]。
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私は太陽の党を正面から応援するわけではないが、この2人の人物に興味を持った理由が二つある。

一つは、タカ派とタカ派のタッグであること。
二つ目は、石原氏は有名な霊友会の会員であり、平沼氏は成長の家の過激派に影響を受けている。つまり、日蓮宗系新興宗教の信者・支持者という点で共通点があること。

この取り合わせが実に興味深い。タカでもハトでも、日本の政治家である限り愛国心を基盤にするのは当然のことで、このところアメリカのいいなり、特アのスパイのような言動が目立ちすぎる政治家が多かった。愛国心が基本にないと国際協調すら出来ないはずだ。グローバリズムでなくグローカリズムは当然のことだろう。
 あと、私は霊友会や生長の家との人脈はゼロだが、日蓮聖人は尊敬しているし、体調の関係で熱心ではないが、地元八王子の日蓮宗の檀徒でもある。人生の指針や世界観が共通しているこの二人は、カリスマ性もあり、今度の選挙の要石になるだろう。

日本維新の会は一時期台風の目になっていたが、風が吹く前に熱帯低気圧になって消えたと感じる。太陽の党が中心になって自民、民主その他の良識派が結集し現在の政治経済の閉塞感を打ち破ってくれると面白い。再度断っておくが、太陽の党を全面支援するわけではない。既成政党ではもうダメで、残っているのはクーデターぐらいと思っている私にとって、この党にクーデターが起こったぐらいのインパクトのある大鉈をふるって欲しいと、と願っている、あるいは空想している段階、というのがより正確な表現だ。

バカな頭がこれ以上バカにならないようにテレビは一切見ていないが、今度部屋を大規模に片付けて選挙速報でも見ようか、という気になった。
 こういう政治問題はランキングの上位にあるブログのどこかが既に論評しているのではないかと一巡したが、まだ情報収集中なのか、なるほど、と頷けるものが無かったのでここで取り上げた次第です。




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8年前に見た霊夢

2012年11月14日 | 
このところ多忙過ぎてブログを時々休んでいる。今日もフラフラだが面白い記事を見つけたので引用する。
 以下は私が8年前に見た夢を昔のHPから拾ってきたもの。とりあえずご覧下さい。
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このところ毎日鮮烈な夢を見て目が覚めるが、今朝見た夢は特別だった。

夢の中で私はいくつもの寺をまわって修行している。どうしても納得できず、最後は下は奈落の断崖絶壁の淵に座り、ここから飛び降りて死んでもいいという覚悟で座っていた。前方には霊山らしき山がそびえ、その山の手前の尖った岳の山頂に紫色の衣服を着た人物が座っている。そこに雲の切れ目から日が射して、彼を煌々と照らしている。

やがてその紫色の衣服を着た男が空中を飛んで私の前に現れた。身長は私の倍もあり、その紫の衣服は中国の皇帝が着るもののように高貴で、なおかつその男は三国志に出てくる関羽のような豪傑で殺気に満ちているので、私はとっさに「殺される」と思った。

ところが、その巨人が私に顔を近づけると微笑して「お前は48歳だな。志を立てるのがやや遅かったから、そうだなあ、56歳になれば私よりも上の位になれるぞ」といった。この神々しく、また猛々しい人物、いや神仏というべきだろう、よりももっと上のレベルになれるのか、と思うと私はもったいなさとありがたさで胸が一杯になった。それで彼の足に口付けをした。すると、足袋が泥だらけだ。私は念を送ってその足袋を真っ白に変えた。またその紫の男の付き人として横にひかえていた2人の男の足も汚れていたので、同じように念力を使ってきれいな足にしてやると、2人の男はたいそう喜んでくれた。

その夢を見て目覚めたのが午前6時だった。
紫の衣をまとった巨人の崇高さと猛々しさは、私がこれまでに味わったことのなかったもので、その迫力に気おされて私は眠気が吹っ飛んでいた。
と同時に、あと8年頑張れば(おそらく坐禅の修行を続けるという意味であろう)、あの神々しい存在よりさらに上のレベルになれるのか、と思うと、嬉しさと、同時に、気の長い話だな、と思った。

実は、私は子供の頃から、自分は56歳に死ぬのではないか、という固定概念にとらわれて生きてきた。実際、私は慢性アルコール性肝炎でガンマGTPが1300あり、同時に糖尿の数値も相当に高いから、このままの生活を続けると50代で肝臓癌や糖尿病の合併症で死ぬ可能性も高い。

が、禁酒、禁煙をして、摂生に努めれば、それを避けることは可能だ。そしてあと8年坐禅を続けたときには、虎の背に乗って山を巡り、龍の背に乗って水の中を泳ぎ回るような自由自在の心境になれる、とこの夢は暗示しているようだ。

禅というのは本来の自己を見つける修行である。あの紫の衣服を着た神は、まず間違いなく私の「真の自己」が具現化したものだろう。
 私は毎日坐禅を組むたびに「無」になることを意識してきたが、真の自己のイメージを掴むことはできずにいた。しかし、今朝の夢で把握できた。想像していたよりもはるかに高貴で猛々しい存在だった。ああなりたい、と心から思った。
悟るというこは、もっと枯淡な世界に入るものだと思っていたが、逆であった。誰もがその殺気に怖気づくような、怖い、畏怖させるような威圧感のある存在であった。と同時に限りなく優しい、慈愛に満ちた存在だった。そのような自己が私の中に眠っているようだ。本当にそうならどんなに勇気付けられることだろう。ああ、あれが本来の自己(自性)だったのだ。
 「十牛図」でいうところの「尋牛」「見跡」の位から、やっと「見牛」の位に達したのだと思う。1年半の坐禅の結果である。なお、「見牛」の絵は大抵、牛の尻尾がちらりと見える図案が描かれているが、中には川の向こうに牛を見つけるというデザインもあるらしい。私の夢もそれに近い。「見牛」の位というのは、最初の見性である。夢の中で見性する場合があるとは本で知っていたが、私の場合も夢で自性を見ることができた。嬉しいことである。

サボりたい日もあるが、とにかくあと8年は坐禅を続けてみよう。
今日の夢は、おそらく「霊夢」と呼ばれるものだろう。さてどうなることやら。
結果は8年後にこのHPで報告いたします。
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(上の夢は座禅の修行を始めたばかりでこの4年ほどあとに1度目の強烈な見性体験が待っていた。だから、真の自己、といった誤解を招きやすい言葉は今は使わない、と断っておく)

ともかくざっとこのような夢だ。私は56歳になった。57歳の誕生日は来年の1月11日だからあと二ヶ月しか残っていない。
 実はこのブログのどこかにも書いているが、あるホームレスの易者が「貴方は56歳で夢が全て実現する」と占った。夢と一致している。それでこの霊夢の報告の時期が来た。

まず3年前の夏に妻子が突然失踪し結局離婚して未成年の長男は妻の姓に変わり、人生の予定が大きく変わった。この間、一度だけ長女から不思議な電話が掛かってきただけで全くの没交渉である。
 
古くからの読者はご存知の通り、これを含めてその前後から様々な不可解な出来事(本当はその構図は実に分かりやすい)が続き私は現在病苦と闘っている。酒はかなり節制してほぼ禁酒みたいなものだから肝臓や糖尿で死ぬほどの数値ではないが、とにかく足首から下の麻痺と痛みのために思い通りの活動が出来ないことと、山のような重要書類を少しずつ片付け、更に色々な予定を組み込んでいるために心身が悲鳴を上げてレッドゾーンが続いている状態だ。
 禅に関しては、体調のいいときは座禅を組み、寝る前、起きる前は寝禅が習慣になっている。

それで、恐らく次の2つのうちどちらかが起きるだろうと予想している。
一つは、見性体験を繰り返したので、残されたのは悟後の修行と思っていたが、さらに大悟徹底の体験をして次々と心配の種が解消していく可能性。
もう一つは死による涅槃という意味での夢の実現。

私はいつ死んでも悔いはない。むしろ生きていることのほうが苦痛だ。しかし、「ロータス文化学院」「微笑禅の会」「八王子五行歌会」など今の状態のまま責任放棄してあの世に逃げるわけにも行かない。
 高々夢と占いに基づいた話だから、両方とも外れていた、なんてオチがあるかも知れないが、私は夢や占いがピタリピタリと当たった経験も多いのでとりあえずブログに残しておく次第です。では。

久しぶりの飲み会と歴史の話

2012年11月12日 | 歴史
ここ二日連続してブログを休んでしまった。
というのは10日土曜日に、浪人時代の仲間が数年ぶりに集まり夜中まで飲んだからだ。
わざわざ和歌山から八王子まで来てくれた仲間もいて、私も久しぶりに夜の八王子の繁華街を歩いた。それで先ず気づいたことを一言。

①八王子の多くの飲食店が中国人経営になっている。
②「お兄さんマッサージいかがですが?本番1万円ですよ」が相変わらず跋扈して、一時期より増えている。早い話、夜の八王子は中国の植民地のようになっている。
③以前はキャバクラなどの客引きは確か店の看板の1メートル以内に限定されていて、それを破ったために多額の罰金を食らった、という話も聞いたが、これもいつの間にか無視されていた。
④昔は若い女の子はキャバクラ、30過ぎるとオバクラ、と分かれていたが、その中間の美熟キャバ?みたいなのが生まれている。

話を元に戻すと、私以外は会社のお偉いさんたちばかりで一見幸せそうな人生に見えるが、それぞれ夫婦問題や健康問題など悩み事を抱えており、たまには気分転換になるから逢おう、ということで皆無理して私の地元に集まってくれた。
 以前は京都の旅館に一泊して夕食をとり、祇園あたりで飲んだり舞妓さんを呼んだり豪勢な散財をしたものだが、私ともう一人が足が悪く、当分はその長旅は無理だろう。

浪人時代は精神的に不安定で辛い時期だから、その頃に知り合った友人は一番長続きするようだ。早速昨日このブログが入っている私のHPの五行歌掲示板に

男同士でも
浪人仲間の語らいが
とても楽しかった
早稲田鶴巻町
3畳下宿の青春

と詠んでみた。

それで色んな話のついでに「明治天皇すり替え説」は本当か、という話題になり、早速帰ったあとでネット検索してみたが、見事に賛否両論分かれていた。孝明天皇暗殺説も根強くあるし、維新の立役者の一人が「絶対に人に言えない秘密がある」と漏らしているぐらいだから様々な陰謀があったのだろう。

肯定説で説得力があるのは竜馬の子分にあたる土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が友人にその経緯を語った、というもので、

「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』

と記録があり、かなりの説得力がある。幼少の頃の写真とよく知られている明治天皇の写真はかなり相違があるのも事実だ。生涯に93000の和歌を詠まれたが、59歳で崩御されているので20歳から40年間と計算すると毎日ほぼ7首ずつ作られた計算になる。

飲み会の話と歴史の話がごっちゃになったが、ともかくこの閉塞感に満ちた時代を乗り切り、現在抱えているトラブルを解決し、楽隠居の身分になって日本中一緒に旅をしたいものだ。