那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

久しぶりの飲み会と歴史の話

2012年11月12日 | 歴史
ここ二日連続してブログを休んでしまった。
というのは10日土曜日に、浪人時代の仲間が数年ぶりに集まり夜中まで飲んだからだ。
わざわざ和歌山から八王子まで来てくれた仲間もいて、私も久しぶりに夜の八王子の繁華街を歩いた。それで先ず気づいたことを一言。

①八王子の多くの飲食店が中国人経営になっている。
②「お兄さんマッサージいかがですが?本番1万円ですよ」が相変わらず跋扈して、一時期より増えている。早い話、夜の八王子は中国の植民地のようになっている。
③以前はキャバクラなどの客引きは確か店の看板の1メートル以内に限定されていて、それを破ったために多額の罰金を食らった、という話も聞いたが、これもいつの間にか無視されていた。
④昔は若い女の子はキャバクラ、30過ぎるとオバクラ、と分かれていたが、その中間の美熟キャバ?みたいなのが生まれている。

話を元に戻すと、私以外は会社のお偉いさんたちばかりで一見幸せそうな人生に見えるが、それぞれ夫婦問題や健康問題など悩み事を抱えており、たまには気分転換になるから逢おう、ということで皆無理して私の地元に集まってくれた。
 以前は京都の旅館に一泊して夕食をとり、祇園あたりで飲んだり舞妓さんを呼んだり豪勢な散財をしたものだが、私ともう一人が足が悪く、当分はその長旅は無理だろう。

浪人時代は精神的に不安定で辛い時期だから、その頃に知り合った友人は一番長続きするようだ。早速昨日このブログが入っている私のHPの五行歌掲示板に

男同士でも
浪人仲間の語らいが
とても楽しかった
早稲田鶴巻町
3畳下宿の青春

と詠んでみた。

それで色んな話のついでに「明治天皇すり替え説」は本当か、という話題になり、早速帰ったあとでネット検索してみたが、見事に賛否両論分かれていた。孝明天皇暗殺説も根強くあるし、維新の立役者の一人が「絶対に人に言えない秘密がある」と漏らしているぐらいだから様々な陰謀があったのだろう。

肯定説で説得力があるのは竜馬の子分にあたる土佐藩出身の田中光顕元宮内大臣が友人にその経緯を語った、というもので、

「斯様申し上げた時に、田中光顕伯爵は顔色蒼然となられ、暫く無言のままであられましたが、やがて、『私は60年来曾って一度も何人にも語らなかったことを、今あなたにお話し申し上げましょう。現在此の事を知っている者は、私の外には、西園寺公望公爵只御一人が生存していられるのみで、皆故人となりました』
と前置きされて、
『実は明治天皇は孝明天皇の皇子ではない。孝明天皇はいよいよ大政奉還、明治維新と云う時に急に崩御になり、明治天皇は孝明天皇の皇子であらせられ、御母は中山大納言の娘中山慶子様で、御生れになって以来、中山大納言邸でお育ちになっていたと云う事にして天下に公表し、御名を睦仁親王と申し上げ、孝明天皇崩御と同時に直ちに大統をお継ぎ遊ばされたとなっているが、実は明治天皇は、後醍醐天皇第十一番目の皇子満良親王の御王孫で、毛利家の御先祖、即ち大江氏がこれを匿って、大内氏を頼って長州へ落ち、やがて大内氏が滅びて、大江氏の子孫毛利氏が長州を領し、 代々長州の萩に於て、この御王孫を御守護申し上げて来た。これが即ち吉田松陰以下、長州の王政復古維新を志した勤皇の運動である。
吉田松陰亡き後、此の勤皇の志士を統率したのが明治維新の元老木戸孝允即ち桂小五郎である。元来長州藩と薩摩藩とは犬猿の間柄であったが、此の桂小五郎と西郷南洲とを引合せて遂に薩長を連合せしめたのは、吾が先輩の土佐の坂本龍馬と中岡慎太郎である。
薩長連合に導いた根本の原因は、桂小五郎から西郷南洲に、『我々はこの南朝の御正系をお立てして王政復古するのだ』と云う事を打ち明けた時に、西郷南洲は南朝の大忠臣菊池氏の子孫だったから、衷心より深く感銘して之に賛同し、遂に薩摩藩を尊皇討幕に一致せしめ、薩長連合が成功した。之が大政奉還、明治維新の原動力となった。』

と記録があり、かなりの説得力がある。幼少の頃の写真とよく知られている明治天皇の写真はかなり相違があるのも事実だ。生涯に93000の和歌を詠まれたが、59歳で崩御されているので20歳から40年間と計算すると毎日ほぼ7首ずつ作られた計算になる。

飲み会の話と歴史の話がごっちゃになったが、ともかくこの閉塞感に満ちた時代を乗り切り、現在抱えているトラブルを解決し、楽隠居の身分になって日本中一緒に旅をしたいものだ。