那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

日蓮遺文をよむ(大分前に書いたエッセーです)

2011年02月28日 | 宗教
                           日蓮遺文を読む


このところ種々の理由が重なり、日蓮の究極の教義とはなにか、つまり一念三千とはなにか、という問題に対して、日蓮遺文はもとより、唯識論、心理学、脳科学、量子力学の文献を片っ端から読み漁って一月を越えた。
 その理論面に関しては時を変えて記したいが、その合間合間に日蓮が信者に当てた書簡を読むと、実に心が洗われた。恐らく「書簡文学」という分野では日蓮はその質も量も、圧倒的に日本一の業績を残していると思う。
 私は、時系列を逆に遡り、晩年の書簡から読んでみたが、特にこの二つの文章は、その美文といい、心根の優しさといい、非常に感動したので、まず原文を写し、そのあとに私なりに現代語に訳し、私なりの感想を書きたいと思う。古典は高校時代は好きだったとはいえ、この数十年読んでいない。もし間違いがあれば指摘していただきたい。

{原文}

◆ 上野殿母尼御前御返事 〔弘安四年一二月八日・南条時光母尼〕/ 
乃米一だ・聖人一つつ〈二十ひさげか〉、かんかう(乾薑)ひとかうぶくろ(一紙袋)おくり給び候ひ了んぬ。/ このところのやうせんぜんに申しふり候ひぬ。さては去ぬる文永十一年六月十七日この山に入り候ひて今年十二月八日にいたるまで、この山出づる事一歩も候はず。ただし八年が間やせやまいと申し、とし(齢)と申し、としどしに身ゆわく、心をぼれ候ひつるほどに、今年は春よりこのやまいをこりて、秋すぎ冬にいたるまで、日々にをとろへ、夜々にまさり候ひつるが、この十余日はすでに食もほとをどとどまりて候上、ゆき(雪)はかさなり、かん(寒)はせめ候。身のひゆる事石のごとし、胸のつめたき事氷のごとし。しかるにこのさけ(酒)はたたかにさしわかして、かんかうをはたとくい切りて、一度のみて候へば、火を胸にたくがごとし、ゆに入るににたり。あせ (汗)にあかあらい、しづくに足をすすぐ。此の御志ざしはいかんがせんとうれしくをもひ候ところに、両眼よりひとつのなんだをうかべて候。/ まことやまことや、去年の九月五日こ五郎殿のかくれにしはいかになりけると、胸うちさわぎて、ゆびををりかずへ候へば、すでに二ケ年十六月四百余日にすぎ候か。それには母なれば御をとづれや候らむ。いかにきかせ給はぬやらむ。ふりし雪も又ふれり。ちりし花も又さきて候ひき。無常ばかりまたもかへりきこへ候はざりけるか。あらうらめし、あらうらめし。余所にてもよきくわんざ(冠者)かな、よきくわんざかな、玉のやうなる男かな男かな。いくせをやのうれしくをぼすらむとみ候ひしに、満月に雲のかかれるがはれずして山へ入り、さかんなる花のあやなくかぜのちらかせるがごとしと、あさましくこそをぼへ候へ。/ 日蓮は所らうのゆへに人々の御文の御返事も申さず候ひつるが、この事はあまりになげかしく候へば、ふでをとりて候ぞ。これもよもひさしくもこのよに候はじ。一定五郎殿にいきあいぬとをぼへ候。母よりさきにげざんし候わば、母のなげき申しつたへ候はん。事々又々申すべし。恐々謹言。/ 十二月八日  日蓮(花押)/ 上野殿母御前御返事

{現代語}

お米とお酒、ショウガの乾燥したものを一袋、お贈りいただきました。
 最近の病状は前にも申しました。文永11年6月17日に身延山に入り、今年の12月8日まで、この山を一歩も出ませんでした。その8年の間、痩せ病(下痢を伴う病気・癌とも言われる)といい、加齢といい、年々に身体が弱くなり、心ももろくなっていた上に、今年は春から痩せ病がひどくなって、秋から冬になるまでの間、日々に衰弱し、一夜寝るごとに症状が悪化し、この十数日は食も喉を通らず、その上雪は降り積もり、寒さはこれでもかと厳しくなるばかりです。体は石のように冷たく、胸は氷のように寒くてたまりません。
 そのような時に頂いたお酒を熱燗にして、乾燥ショウガをガリっと食切ってひと飲みしたところ、胸は火をつけたように暖かく、まるで風呂に入っているかのようです。汗が流れて体を洗い、汗の滴に足まですっきりしました。あなたのお志に思いを馳せると、嬉しさのあまり両目から涙がこぼれました。
 実に実に、去年の9月5日には、お子様の五郎殿が亡くなられたことを思い出し、心乱れながらも指を折って年を数えれは、もう二年以上も前のことになりますね。母親のあなたにはあの世からの何かの知らせが何かあったことでしょう。どのような知らせがありましたか。
 雪は降って解けてもまた降ります。花は散ってもまた咲きます。ただ人の死のみ、消えたかぎり二度と帰ってはきません。なんと悲しいことでしょう。なんと悲しいことでしょう。
 傍目でみていても、優れた若者よ、優れた若者よ、玉のように美しい男の子よ、さぞかし親はこのような子供をもって嬉しいだろう、と思っていましたのに、まるで満月に雲がかかってそのまま山の端に消え入ったかのように、満開の桜が風に散ってしまったかのように、寂しさに耐えません。
 私は病気のためにいろんな人の書状にも返事を書かずにおりましたが、このことが余りに悲しくてこの度は筆を執りました。私も余生は長くないでしょう。きっとあの世では五郎殿に会うでしょう。あなたより先に会った時には、母の悲しみをお伝えいたしましょう。


{鑑賞}

日蓮の死の前年60歳のときに南条時光の母(尼)へ当てた返事である。
なんと人間味に溢れた文章だろう。国家を諌め、神仏を諌め、伊東へ佐渡へと流罪になりながらも、我こそは上行菩薩の生まれ変わりと確信し、題目を唱えればこの身は仏と断言した、獅子王のような日蓮の姿はここには全く見受けられない。
 ただ年を取り、病にかかり、心も弱くなったままの、人としての人間日蓮がそのまま放りっぱなしで晒されている。
 時光の母は息子を亡くした。その息子にあの世で会って、あなたの悲しさをお伝えしましょう、とあるのだから、ここに日蓮の浄土観がよく現れている。
 また酒好きにとっては、この一文は有難い免罪符になる。日蓮はお酒が大好きだったようだ。
乾燥ショウガというものを私は食べたことはないが、恐らく口の中が熱くなり、体がポカポカするのだろう。それを熱燗で一杯やると、汗がタラタラと流れ、心地いい気持ちになったことだろう。しかも日蓮は有難さの余り泣いている。泣いた、などと男は言うものではないが、日蓮は隠さずその事実を伝えている。
 これらの言葉を「死を目の前に迎えた老僧の気弱さ」と取るべきではないだろう。一念三千の根底に空・化・中の三諦を置いて悟った日蓮のことだ。悲しいときは悲しみ、泣きたいときは泣き、従容として自分の死を迎えようとしているのである。
 記憶力のいい人は、この一文、丸覚えしていただきたいものだ。
 

{原文)
  
◆ 伯耆公御房御消息 〔弘安五年二月二五日・日興〕/
 御布施御馬一疋鹿毛御見参に入らしめ候ひ了んぬ。/ 兼ねて又此の経文は二十八字、法華経の七の巻薬王品の文にて候。然るに聖人の御乳母の、ひととせ (一年)御所労御大事にならせ給い候ひて、やがて死なせ給いて候ひし時、此の経文をあそばし候ひて、浄水をもってまいらせさせ給いて候ひしかば、時をかへずいきかへらせ給いて候経文なり。なんでうの七郎次郎時光は身はちいさきものなれども、日蓮に御こころざしふかきものなり。たとい定業なりとも今度ばかりえんまわう(閻魔王)たすけさせ給へと御せいぐわん候。明日寅卯辰の刻にしやうじがは(精進河)の水とりよせさせ給い候ひて、このきやうもんをはい(灰) にやきて、水一合に入れまいらせ候ひてまいらせさせ給ふべく候。恐々謹言。/ 二月二十五日  日朗花押/ 謹上 はわき公御房

{現代語訳}

お布施として頂いた栗毛の馬一頭、確かにこの目で見ました。
 それから、(お送りする)この経文28文字は法華経の第7巻の「薬王品」の文章です。
実は私の母が一年の間病気を患い、危篤になり、息を引き取った時に、この経文を燃やして清らかな水に溶かして飲ませたところ、たちどころに生き返ったといういわくのある経文です。
 南条時光殿は、体は小さいけれど、日蓮への信心は実に深いお方です。たとえこの病が死病であるとしても、今度だけは閻魔大王よ、助けてやってください、と誓願しています。
 明日の寅卯辰の刻に精進河の水を汲んで、この28文字の経文を燃やして灰にし、一合の水に溶かして、南条殿に飲ませてあげてください。

{鑑賞}

この文章は、日蓮の死より8ヶ月前、61歳のときの手紙。前出の手紙の相手であった尼母の子供である南条時光の病気治癒の方法を伝えるために、日蓮の弟子・日興に出した手紙である。
 またよほど日蓮は病が重かったのだろう。この手紙は弟子・日朗が口述筆記をしたものであり、そのために「私の母」というべきところを日朗の立場で「聖人の母」と、遠慮して書いてある。
 私は日蓮宗の祈祷主義がどうも気になっていた。現代科学の合理主義に染まった立場から見れば、祈祷など迷信と一緒で古臭い非科学的なものだ、と感じてしまうのだ。
 しかしこの文章を読むと、日蓮が明らかに密教的な祈祷をしていた事実が分かる。
薬王品の中の28文字とは「この経は全世界の人々の良薬である。もしこの経を聞けばたちどころに病は治り、不老不死を得る」と書いてある部分であり、これを燃やして灰にし、清らかな水とともに飲ませれば病は治る、というのである。事実、日蓮の母は、一度死んだのに生き返った、と書いてある。
 実に不思議な話であるが、書いてある以上、またこれが日朗の真筆として残っている以上は、それを信じるしかない。(大石寺所蔵)
 閻魔大王といえば地獄の裁判官、とイメージしがちだが、法華経の守護神でもある。だから閻魔に今度だけは助けてくれ、と誓願しているのである。
 このような文章や「祈祷抄」といった文書も残しているので、現在の日蓮宗は祈祷主義を信奉しているわけだ。
「日蓮密教」と言われるように、日蓮は様々な奇跡を体験している。例えば日蓮が初学の折に、智恵の神様といわれる虚空蔵菩薩を信仰し、「日本第一の智者にしてください」と祈っていたところ、智恵の宝珠が現れ飛んできて日蓮の袖に入った、と伝えられる。そのほか星が降ってきて庭の木にぶら下がった逸話など、日蓮に纏わる神秘は数多い。
 保守的科学はこれらを無視するだろうが、ユング派やトランスパーソナル心理学はこういった神秘を認めている。また素粒子論の世界にはいると、マッハの原理や、非局所論、不確定性原理など、「因果律」を超えた現象が存在することがいくらでも出てくる。
 結論だけを言えば、個と全体が統一しているのが「存在」というものであり、例えば私がこの場で誰かを思ったとすれば、その想いは相手に伝わる。石ころの気持ちも私に伝わるのだ。仏教ではそれを同時と呼び、ユングはシンクロニシティと呼ぶ。


いずれにせよ、ここに日蓮の手紙二つを残した。一つは人情に溢れる日蓮像であり、もう一つは祈祷者としての日蓮像である。「徒然草」が読める人なら、日蓮の遺文は簡単に読める(仏教用語以外)ので、ぜひ原文にあたってほしい。


 
 


山本玄峰 無門関提唱

2011年02月04日 | 書評、映像批評



どうか写真をよく見てほしい。これが山本玄峰の晩年の顔。本当に悟った人間の顔である。実に麗しい。

私はこの本を三度読んだ。、一度通読し、二度目は岩波文庫の「無門関」を参照にしながら、感動的な文句には赤ペンを入れて読み直し、3度目は、赤ペンだけを読み直した。
 約五百ページにわたる難解な本だけに、以上の読書をするのに約3ヶ月かかった。

無門関、というのは、禅宗のうち特に臨済宗・黄檗宗で使う「公案」の問題集であり、提唱というのは、その講義解説である。これは、13世紀、中国の宋時代の禅僧無門が収集したものである。
公案とは、いわばナゾナゾのようなものだ。
 以下、岩波文庫の「無門関」の口語訳をもとに、さらに徹底的に簡略化して、無門関に示されている48の公案のうち、はじめの20を示す。
 無門関は、本文と、それに対する無門和尚の感想と、詩の部分があるが、ここでは本文のみを挙げる。
固有名詞はなるべく廃する。それぞれの問答やエピソードがあるが、そのあとに「さて、この意味をなんと理解するかな?」という言葉が隠れている。
 禅の常識を知っていないと解けない公案もあるので、最低限の註を( )の中に入れることとする。

第1.ある僧が和尚に「犬にも仏性がありますか」と聞いた。和尚は「無」と答えた(註:仏教では一切の存在に仏性があると説く)

第2.ある和尚の説法のときにいつも聞いている老人がいた。その老人が和尚に言った。「実は私は仏陀の生まれる前から法を説いていましたが、仏道を完成したものは因果の支配から脱する、と説いたために、五百年の間、野狐になって現在に至りました。どうかこの身を救ってください」。和尚は「因果の支配からは逃れられない」と言ったので、野狐は狐の身から脱することができた。
 この話を僧たちの前で話したところ、弟子の一人が「彼が正しい答えを出していたら、いったい何になっていたでしょうか」と問うたので、和尚が「こっちへこい。教えてやろう」というと、その弟子はいきなり和尚の顔をぶん殴った。和尚は「ここに達磨さんがいたぞ」と喜んだ。

第3.ある和尚は、問答に対して常に指を一本立てるだけであった。その和尚のところにいる童子が、和尚の真似をして一本指を立てた。和尚はその指を切ってしまった。童子が泣きながら逃げようとすると、和尚が童子を呼び止めた。童子が振り返ってみると、和尚がすっと指を一本立てた。その瞬間に童子は悟った。

第4.ある和尚がいった。「いったい何故達磨さんには髭がないのか」(註:どの絵を見ても達磨には髭がある)

第5.ある和尚が言った。「人が木に登って、枝を口でくわえ、両手両足は使えず、口だけでぶら下がっているとしよう。そのとき、木の下に人がいて、禅とはいったい何ですが?と質問したとしたら、どうする」

第6.釈迦が説法したとき、一本の花を持ち上げ大衆の前に示した。そのとき迦葉のみが微笑んだ。そこで釈迦は、この言葉にできない法をお前に付属する、と言われた。

第7.ある僧が和尚に聞いた。「どうか尊い言葉をください」。和尚は「朝飯は食ったか?」とたずねた。僧は「食べました」と答えた。和尚は「それでは茶碗を洗っておきなさい」と言った。僧はその瞬間に悟った。

第8.ある僧が和尚に尋ねた。「ある人が百台の車を作り、しかも車の両輪も車軸も外した、といいます。彼はそれによって、どんな真理を示したのでしょうか」

第9.ある僧が和尚に聞いた「大通智勝仏は、非常に長い間座禅を続けたのに仏道を完成し得ないのは何故ですか」。和尚は答えた「そもそも彼は仏になれないからだ」

第10.ある僧が和尚に言った「私は貧乏です。なにかお恵みをください」。和尚が答えた「あんなに美味しい酒を三杯も飲んでいながら、何も飲んでおらんとはなにごとか」

第11.ある和尚がある庵主のところに行って「おい元気か」と聞いた。彼は拳を上げた。和尚は「こんな浅いところには船は泊められない」といって去っていった。そして別の庵主に「おい元気か」と聞いた。彼も拳を上げた。和尚は「なんと自由に生きていることよ」と言って頭を下げた。

第12.ある和尚は毎日自分に向かって「おい主人公」と呼びかけ、自分で「はい」と答えておられた。(註:主人公とは仏性のこと)

第13.ある和尚が食事の時間でもないのに食堂にやってきた。弟子が注意すると黙って引き上げた。この話を別の高弟に話すと、高弟は「和尚ともあろう人が」と嘆いた。それを聞いた和尚が高弟を呼び「お前は俺を馬鹿にしとるな」というと、高弟はなにやら耳打ちした。翌日の和尚の説法はいつもになく素晴らしかった。高弟は大笑いして「これで世の中は和尚に手が出せなくなったぞ」と言った。

第14.弟子たちが猫をめぐって口論しているところに和尚が来られた。和尚は猫を持ち上げて「お前たち、なにか言ってみよ。言えなければこの猫を切るぞ」と言われた。誰も答えられなかったので、和尚はその猫を両断した。高弟が戻ってきたので、和尚はこの話をした。すると高弟は履いていた草履を頭に載せて部屋から出て行った。和尚は「お前がいたらあの猫を救えたのに」と言った。

第15.ある和尚のところに僧がやってきた。和尚は「お前はどこから来たか。この夏はどこですごしたか。いつそこを出てきたか」と聞いた。僧がそれに答えると「お前を棒で60回殴りたいところだ」と言った。翌朝、僧が何故そのようなことをいわれたのか和尚に聞きただすと、和尚は「いったいお前はどこをうろついていたのだ」と言った。その瞬間、僧は悟った。

第16.ある和尚が言われた。「この世界はこれほど果てしなく広いのに、お前たちはどうして鐘が鳴るとそのように行儀よく袈裟などを身に着けるのか」

第17.ある和尚が僧を三度呼んだ。そのつど僧は「はい」と返事をした。和尚は言われた「私のせいでお前は悟れないと思っていたら、お前がもともと私に背いていたから悟れなかったのだ」

第18.ある僧が和尚に聞いた「仏とはどんなものですか」。和尚は言われた「麻三斤」(註:斤とは重さ。麻三斤は一掴みぐらいの麻である)

第19.和尚に高弟が「道とはどういうものですか」と聞いた。和尚は「平常心」と答えた。高弟が「努力すべきですか」と聞くと和尚は「むしろ努力すると逸れてしまう」と答えた。高弟が「何もしないなら、何故それが道といえるのですか」と尋ねると、和尚は「道とは知る、知らないを超えている。もし本当にこだわりなく生きていたら、大空のようにカラリとしたものだ。どうしてああだこうだと詮索することがあろうか」と言った。高弟はいっぺんに悟った。

第20.ある和尚が言った「修行で優れた力を発揮できる人が、なぜ座禅から立たないのか。どうして舌を使って話さないのか」


以上、48まで書くのは大変だから一部を要約して書いた。興味をもたれた方は、無門関の解説本は多数あるので読んでいただきたい。
 一部、なんとなくわかる公案もあるが、ほとんどは理解しがたい。普通の合理的精神では解けない話ばかりである。これらの公案は、一つを解くのに人によっては数年、あるいは10年以上もかけると聞く。
そしてすべて説き終え、悟りが徹底したと認可されると「師家」と呼ばれるようになる。
 臨済宗と黄檗宗ではこの公案を用いるが、曹洞宗では座禅をもっぱらにして公案はほとんど使わない。
いずれにしても見性(悟り)にいたるための手段である。
 ちなみに、提唱(解説)だから、公案の答えが書いてあるかというと、この本にはほとんど解答は書かれていない。解答を書いた本もあるが(例えば安谷白雲著の「禅の真髄 無門関」(春秋社)。この本は非常に優れているので一読をお勧めする)、山本師は、語句の解釈をしてさまざまなエピソードを紹介するのみだ。決して解答は教えない。禅宗ではこれらの解答は、独参入室して、師家に何度もダメ出しされ、やっと許されるものらしい。そしてそのときに語った内容は決して口外してはならない、という規則がある。
 私の興味はこれらの公案の答えではない。
山本師の訓話が実に面白いのである。
 私は、背骨を震わせながらこの本を読んだ。古本屋で1500円で買った本だが、この本は人生を変えてくれるどえらい本だと実感した。

禅の目的は見性(悟り)を繰り返し、徹底大悟に至ることである。さらに言えば、その悟りすら忘れて自由自在の境地になることである。
 悟るとどうなるか?山本師が話しているなかで、私が記憶している限りを説明する。
まず、両脇腹がビリビリふるえて、玉の汗がトロリトロリと流れ出る。その状態が3日続く(人によっては一週間、あるいは一ヶ月続く)
そして「天地と我と同根、万物と我と同一」ということが(実感)としてわかる。釈迦も蛆虫も、全宇宙も素粒子もすべてが、キラキラと輝く仏性を持っていることを(実感)する。
 また、天眼通、天耳通、宿命通などの超能力が備わる。言い換えれば、足音を聞いただけでその人の心の内容がわかるし、鳥の声を聞けば鳥の気持ちが分かるようになる。
 人によっては自分の前世をはっきりと思い出す。また来世のことも、はっきりと自分の思ったところに生まれるという確信を得られる。
 これらの「神秘体験」がもとで禅宗は成り立っている。この体験に裏打ちされていない本はどれほどの学者が書いた本でも面白くない。
 例えば、有名な鈴木大拙の「禅とは何か」(角川ソフィア文庫)や、「十牛図 自己の現象学」(上田閑照・柳田聖山、筑摩書房)などは、観念的でちっとも面白くなかった。学者の書いたものはダメである。これらの解説書を読むぐらいなら、徹底的な唯心哲学の理論書「大乗起信論 仏典講座22」(平川彰、大蔵出版)と首っ引きで取り組むか、それとも非常によくできたハウツー本「図解 禅のすべて」(花山勝友監修、光文社・知恵の森文庫)を読んだほうがずっといい。
 
さて、この本を読んで、私は、どうしても見性したいものだ、と思い始めた。どうせ人間として生まれたからには悟った人生を送りたい、煩悩に悩まされ右往左往する人生よりも、ガラーっと悟ってみたい。
 そう思いながら歩いていたら、自宅の近くに禅寺があり、土曜日には座禅会を開いている、と書いてあった。なんとなく宿命じみたものを感じた。
 さっそく、土曜に門を叩いてみた。参加者は5名程度。座禅を組むのは辛いものだと思い込んでいたが、集中力を保つために、普通、座禅は40~50分で終わる。そして、呼吸を数えて(数息観という)、心を真っ白にして座っていたら、あっという間に終わる。(この数息観が非常に難しい。なるべくゆっくりと呼吸をするのがいいとされる。山本玄峰師ぐらいの達人になると3分に一度の呼吸で済むという)
 座禅の後は、法話や質問で、最後に、ものすごく美味しい手打ちウドンを振舞われる。
なんのことはない、実に楽しい時間なのだ。
 初めての座禅体験は、本当に心がスーッとして気持ちがいい、温泉に入って涼しい空気に当たったときのような感覚だった。

それで、週に一度の座禅ではもったいない、毎日やろうと決心して、家でも座禅を組むことにした。
座布団を折って座ってもいいのだが、仏具屋にいって座布という座禅専用の座布団を4千5百円出して買ってきた。高いなあ、女房に作らせたら原材料は千円で済む、と思ったが、これで悟れるなら、と思い奮発した。
 そういうわけで、週に1度は寺で、残りの六日は家で座禅を組む生活が始まって、今日で10日目になる。
かなりの心境の変化があった。まず、私の鬱病の症状で一番苦しんでいた「原稿を書く前に逃避行動をする」癖がなくなった。まず、心が空白になるから苦痛が消えるし、体は「この世の借り物」という気が起きるから、正しいと思う方向へスッスと持っていける。これは大いに助かった。おかげでこの10日で40枚の論文を書いて恩師にメールで見せたら、「大変面白く読んだ」と、普段は絶対に褒めない恩師に生まれて初めて褒めてもらった。
 次に、これは、いいことでもあり、悪いことでもあるのだが、自分の心境が高くなったために、キャバクラ嬢や他人が「動物のように見える」という現象が起こってきた。
 キャバクラに行くと、ホステスたちや客たちが、鳥獣戯画のように動物に見えるのである。女はたいてい鳥のような顔をしている、男は堕落したタヌキのような顔をしている。気持ち悪くて仕方がない。ホステスと話していても、馬鹿馬鹿しくて喋るのも嫌になる。英語に夢中になっているホステスに「まず日本文化を勉強しなさい。馬鹿が英語が喋れるようになっても、英語の喋れる馬鹿でしかないよ」と本当のことを言ってしまって、嫌な沈黙が続いたりした。とにかく、馬鹿馬鹿しくて、話題がなくなるのだ。
 それから、知り合いの女でNPOやらフェミニズムに打ち込んでいるオバサンがたまにメールをくれるのだが、そのメールを読むと心境の低さにげんなりしてしまう。文章の奥に潜む相手の心に、ブリキの洗面器に腐った水がたまっていて、ボウフラがその中に湧いている、というイメージが浮かぶのである。
 そうそう、芸能人なども見ていられない。叶姉妹はもちろん、お笑い芸人やらタレントたちが「人間の顔をした亡者」に見えるのだ。田島陽子なんて女は絶対に悟れないだろうね。小泉首相も竹中も終わっている。
 だから、この10日は、ほとんどキャバクラにも行かず、テレビも見ず、原稿執筆のための研究と、禅関係の本を読むことに集中している。
 もっとも、こういう心境はいいようであり、実は、悟りの世界から見ると悪いのである。というのは、我は清く、人は穢れている、という差別観が生じているからで、本当に悟れば、一切衆生悉有仏性(どんな奴でも仏様)という心境になるのだ。だから、私の現在の心境は、昨日までの私よりはよほど上昇したが、悟りの立場から言えば、まだまだ低いものである。地獄に入ったら地獄の中で遊戯三昧、という心境でなければならないらしい。(でも、やっぱり馬鹿は馬鹿だね、と思うのだが・・・・・・)

それから、非常に重要な夢を一晩に二つ見た。一つは、私が池田大作になって講演している夢である。私は池田大作は国賊、仏敵だと思っていて、いつかは首を切り落としたいと祈っているほどに嫌いな人間だ。この夢はユングの言うところの究極の「影」の夢である。あの池田と調和したのだから、無意識の領域においては自己実現は完了したのではないか、と思う。
 次いで、家が新築になり、庭の池の水が泥水から清流に一挙に変化している夢を見た。さらに、トイレで小便をしようとすると、トイレが消えて布団の上や居間に小便が流れてしまう。その度に小便を止めてトイレを探すという夢である。これまでの夢解釈の経験から、私の夢の中では、家は心の象徴だ。これまで無数の家の夢を見たが、いつも古く、ガタが来ていて、トイレの床などは今にも踏み抜きそうに腐っていた。また家の地下に秘密のクラブがあって、そこには酒をついでくれる不思議な顔をした女性たちがいる・・・・など、私の家は壊れかけていて、隠微だった。今度の夢は、生まれて初めて見た新築の頑丈な家である。心が生まれ変わったのだろう。さらに、トイレがない、というのも面白い。あまりに清浄な心になると、小便=性的排泄もできなくなるよ、家の中にトイレは残しておきなさい、とセルフがアドバイスしているのだろう。私はそう解釈した。いずれにしても劇的な変化である。

そういうわけで、この本は私の人生を変えた一冊である。
本当に全力を尽くして、私は毎日座禅を組んでいる。いつか「見性体験記」が書けるようになりたいものだ。
心に悩みのある人、死ぬのが怖い人、大きな目標を達成したい人には是非読んでもらいたい。

最後に、山田耕雲禅師が悟ったときの様子を自身が書いている文章(手紙)があるので、それを引用してこの書評を閉じる。見性とは以下のような劇的神秘体験を伴うもののようである。

今日、小生自身の体験を御報告することになろうとは思いませんでした。 貴山へ伺った翌二十四日、ちょうど所用で東京へ出て来た家内と帰りが一緒になりましたので、夕方五時頃二人で横須賀行の電車に乗りました。小生は読みかけの『損翁禅話』という書物を開きました。御承知かも知れませんが、損翁というお方は元禄時代、仙台に居られた曹洞宗の尊宿なる由。

  丁度大船より少し手前のあたりで書中「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり」(付記『正法眼蔵即心是仏』の巻にありと)の句に逢着致しました。この文字は決して初めてお目にかかった訳ではないのですが、何かしらハッと固唾を呑む思いでした。謂えらく「自分も禅に参じて七、八年。ようやくこの一句がわかるようになったか」と。そう思うと急に涙のこみ上げてくるのをおさえることが出来ません。人中なのできまりがわるく、ソッとハンカチで眼を拭って居りました。鎌倉へ着き、裏道を帰る途々、何となくすっきりした気分です。

「今日はなんだか大変すがすがしいよ。」
「それはようございましたね。」
「何となく、僕はえらくなれそうな気がする。」と二度ほど同じようなことを申しますと、
「困りますわね、お父様ばかりえらくおなりになって、距離が出来すぎて。」
「いや、大丈夫だ、どんなにえらくなっても心はいつもすぐ側に居るんだから」と、
子供みたいなことを言い合いながら家へ着いたのですが、その間幾度となく、  
「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」と、
繰り返し繰り返し心でとなえていたことを覚えています。

 丁度その日は、弟夫婦が泊まって居りましたので、一緒にお茶などを飲みながら、龍沢寺へお詣りした話、そこから黒衣姿のアメリカの青年が居て、只見性のみを求めて両度渡日したその物語を、貴兄から伺ったまま話してきかせました。お風呂へ入って寝に就いたのは十二時近かったと思います。

  夜中にフッと眼がさめました。初めは何か意識がはっきりしないようでしたが、フト、 「あきらかに知りぬ、心とは山河大地なり、日月星辰なり。」 の句が浮かんできました。それをもう一度繰り返したとたん、一瞬電撃を受けたようなピリッとしたものを全身に感じたと思うが否や、天地崩壊す。間髪を入れず怒涛の如くワッと湧き上がって来た大歓喜、大津波のように次から次と湧きあがり押し寄せる歓喜の嵐。あとは只口いっぱい、声いっぱいに哄笑する。哄笑の連続。  

 ワッハッハッ ワッハッハッ  
 ワッハッハッハッハッハッハッ

なあんにも理屈はないんだ。なあんにも理屈はないんだ。とこれも二度ほど叫びました。

 ワッハッハッ ワッハッハッ   
 ワッハッハッハッハッハッハッ

虚空が真二つに割れて大口を開き、ワッハッハッハッハッ ワッハッハッハッハッ ワッハッハッハッハッと、腹一っぱいに笑ってるいるのです。家の者の話では人間の笑い声ではなかった由。

  最初は寝ていたのですが、途中から起き上がるなり、両腕の折れるほど力いっぱい布団をたたきつけ、たたきつけ、両膝で床を破れるばかりに踏みならしながら、  

 ワッハッハッハッ ワッハッハッハッ   
 ワッハッハッハッハッハッハッハッ

果ては立ち上がって天にのけぞり、地に伏し、   

 ワッハッハッハッ ワッハッハッハッ   
 ワッハッハッハッハッハッハッハッ です。

  側には妻と末の男の子が寝て居りましたが、この青天の霹靂にビックリギョウ天し、妻は私の口を両手で押えつけながら、「どうなさいました。どうなさいました。」と連呼したそうです。子供は気違いになったと思ってゾッーとしたそうです。妻の呼ぶ声はたしかに聞いたように思いますが、口を押さえられたことは全く記憶なし。

   「見性したんだ。見性したんだ。ああ、仏祖我をあざむかず。」

と叫んだのはしばらくたってからでしょう。その間どの位の時間だったでしょうか。自分では二十分位の感じがしているのですが、妻の話では、二、三分位だろうと申します。 やや落ち着きました。何事かと驚いて下りてきた二階の人達に、どうもお騒がせしてと言う位のゆとりも出て来ました。

   ややあって私は、貴兄より頂いたあの観音様の御写真と、原田老師の御写真と無我相山の老師から頂いた金剛経と安谷白雲老師の御著書(御写真がないので)の前にお線香を立てました。そして只無心に礼拝致しました。それからそのまま端坐致しました。線香一本、二、三分位の感じでした。

   その後は全身の皮膚がピリピリ動くような感じがいつまでも続き、実はこうして、ペンを操っている今でも、その余震がつづいています。  

   朝になると私は、練馬関町の道場に安谷老師をお訪ねしました。うかがってみますと、明日から真光寺に接心があるため、一足違いでお出かけになった後でしたので、私はまた、そのお寺のある埼玉県の小川町まで足を延ばしました。

   入室をお願いしまして、天地崩壊の一瞬を述べんとするに至って

   「うれしくてうれしくて。」  

  と言ったままこぶしをあげて膝を連打し、身もだえしながら大声に慟哭致しました。(付記、五日を経た今、この時打った膝が内出血で大きな黒いあざとなっています。子供が見て気持ちが悪いと申します)止めようと思っても止まらないのです。一所懸命体験の有り様をお話ししようとするのですが、口がもつれて殆ど言葉にならず、ついには老師の膝に額を伏せて泣きむせびました。老師は静かに背をなでて下さいました。そして

  「ウンそれでよい、それでよい。そこまで痛快にいく事は珍しいことなのだ。これを心空及第という。よかった。よかった。」

と言われました。

   小生はただ、

「お蔭様で、お蔭様で。」

と言いながら、またうれし泣きに泣きむせびました。そしてしっかりやらなければ、しっかりやらねばと繰り返しつつ申しました。  

  その後で諄々と御懇篤な御注意と御垂示がありました。そして最後に平伏した私の耳許で、お目出とうございました、という静かな老師のお言葉を聞きました。

  暗い道を老師が懐中電灯を持って山のふもとまで送って下さいました。

   それが丁度昨日の今頃です。それから一昼夜たちましたが、今もって余震絶えず、からだ中がピリピリ動いています。独りで笑ったり泣いたりしながら一日を過ごしました。


中村天風

2011年02月03日 | 雑談
中村天風が何時死ぬか分からない結核になり、世界中を巡って、当時の医学では治せないと分かり、日本に帰って死のうと帰国しかけたときに、ある行者と出会ってヒマラヤで修行をします。

それで、空の声を聞け、などなど、対機説法の果てに「なにが辛いんだ。生きているだけで幸せじゃないか」と言われ、悟ります。あとの業績は調べてください。皇族から東郷平八郎まで弟子になります。

で、逆に言えばこれは「生きていることの馬鹿らしさ」でもあるんです。これは同じことです。

四苦八苦と言いますね。生、老、病、死です。
 最初の苦痛は生まれてしまったことです。
物心付いて自我が芽生えるとき、なんて寂しい暗闇に放り出されたのか辛くて堪らなかった。だから赤ちゃんは泣くんです。

私は母におんぶしてもらったり、オムツを代えて貰ったとき、寂しくて寂しくて仕方なかった。

生まれてしまった苦痛。生きている喜び。
私の場合は前者のほうが強い。涅槃の中でゆっくりと休みたいものですね。

しかし、この悲しさに耐えて、菩薩行いたしましょう。生きている限りは。