那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

原爆について

2013年03月17日 | 世直しのためにどうすべきか
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%81%B8%E3%81%AE%E5%8E%9F%E5%AD%90%E7%88%86%E5%BC%BE%E6%8A%95%E4%B8%8Bより抜粋引用(この後に私の意見を述べます)

極東国際軍事裁判において連合国側はニュルンベルク裁判と東京裁判との統一性を求めていたが、ラダ・ビノード・パール判事は、日本軍による残虐な行為の事例が「ヨーロッパ枢軸の重大な戦争犯罪人の裁判において、証拠によりて立証されたと判決されたところのそれとは、まったく異なった立脚点に立っている[31]」と、戦争犯罪人がそれぞれの司令を下したとニュルンベルク裁判で認定されたナチス・ドイツの事例との重要な違いを指摘したうえで、「(米国の)原爆使用を決定した政策こそがホロコーストに唯一比例する行為」と論じ、米国による原爆投下こそが、国家による非戦闘員の生命財産の無差別破壊としてナチスによるホロコーストに比せる唯一のものであるとした。(略)

またパールは1952年11月、広島市を訪問し、講演「世界に告ぐ」では「広島、長崎に原爆が投ぜられたとき、どのようないいわけがされたか、何のために投ぜられなければならなかったか」[34]など、原爆投下を強く非難した[35]講演では、「いったいあの場合、アメリカは原子爆弾を投ずべき何の理由があっただろうか。日本はすでに降伏すべき用意ができておった」「これを投下したところの国(アメリカ)から、真実味のある、心からの懺悔の言葉をいまだに聞いたことがない」、連合国側の「幾千人かの白人の軍隊を犠牲にしないため」という言い分に対しては「その代償として、罪のないところの老人や、子供や、婦人を、あるいは一般の平和的生活をいとなむ市民を、幾万人、幾十万人、殺してもいいというのだろうか」「われわれはこうした手合と、ふたたび人道や平和について語り合いたくはない」として、極めて強く原爆投下を批判した。(略)

原爆投下当初にはアメリカ側にも原爆投下を批判する意見があった。また強引に原爆投下を命令したトルーマンへの厳しい批判もある。

「いかなる詭弁を用いようと、原爆投下の主目的が、戦闘員ではなく女子供老人などの非戦闘員の殺傷であったことを否定することはできない。そもそもアメリカは日本を挑発しなければ決して真珠湾を攻撃されることはなかっただろう。」―ハーバート・フーバー 第31代アメリカ合衆国大統領

「原爆投下は、米国兵士の命を救うためには全く必要のないものだった。我々は日本に原爆を投下する必要はなかった。」―ドワイト・アイゼンハワー 米第34代大統領 連合国軍総司令官

「日本がソ連に和平仲介を頼んだと知った1945年6月、私は参謀達に、戦争は終わりだ、と告げた。ところがワシントンのトルーマン政権は突如日本に原爆を投下した。私は投下のニュースを聞いたとき激怒した。」―連合国軍総司令官 ダグラス・マッカーサー

「ドイツがアメリカに原爆を落としたとしましょう。その後ドイツが戦争に負けたとします。その場合我々アメリカ国民の誰が”原爆投下を戦争犯罪とし、首謀者を極刑に処す”ことに異議を唱えるでしょうか?原爆投下は外交的にも人道的にも人類史上最悪の失敗だったのです。」―マンハッタン計画参画の科学者 レオ・シラード

「アメリカはこの戦争を外交的手段で終了させられた。原爆投下は不要だった。日本の犠牲はあまりにも不必要に巨大すぎた。私は東京大空襲において、同僚達と、いかにして日本の民間人を効率的に殺傷できるか計画した。その結果一晩で女子供などの非戦闘員を10万人焼き殺したのである。もし戦争に負けていれば私は間違いなく戦争犯罪人となっていただろう。では、アメリカが勝ったから、それらの行為は正当化されるのか?? 我々は戦争犯罪を行ったんだ。一体全体どうして、日本の67の主要都市を爆撃し、広島・長崎まで原爆で、アメリカが破滅させ虐殺する必要があったというのか。」―ロバート・マクナマラ ケネディ政権国務長官 元世界銀行総裁

「日本上空の偵察で米軍は、日本に戦争継続能力がないことを知っていた。また天皇の地位保全さえ認めれば、実際原爆投下後もアメリカはそれを認めたのだが、日本は降伏する用意があることも知っていた。だがトルーマン大統領はそれを知っていながら無視した。ソ連に和平仲介を日本が依頼したことも彼は無視した。この野蛮な爆弾を日本に投下したことは、なんの意味を持たなかった。海上封鎖は十分な効果を挙げていた。この新兵器を爆弾、と呼ぶことは誤りである。これは爆弾でもなければ爆発物でもない。これは”毒物”である。恐ろしい放射能による被害が、爆発による殺傷力をはるかに超えたものなのだ。アメリカは原爆を投下したことで、中世の虐殺にまみれた暗黒時代の倫理基準を採用したことになる。私はこのような戦い方を訓練されていないし、女子供を虐殺して戦争に勝ったということはできない!」―ウイリアム・ダニエル・リーヒ 米海軍提督・大統領主席補佐官

「私はトルーマンに、広島の破壊を示す写真を示した。大統領は、それを見て、我々が負わなければならない恐るべき責任について、私に吐露した。」―ヘンリー・スティムソン 米陸軍長官

「軍人として命令を受けた以上、任務を遂行するのは当然」[83] ―ポール・ティベッツ(エノラゲイ号機長)

「多くの人々が死んでいるのはわかっていた。喜びはなかった」[84][85]―モリス・ジェプソン(エノラゲイ号技術者)
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この他、都市空襲は50万人以上の非戦闘員を殺戮している。

既に日本に勝ち目が無いを分かった段階での無差別攻撃であり、瀕死の重傷者にトドメを刺す戦略で、残酷なことこの上ない。上記のほかにJ・レノンも「日本人が黄色人種でなければ原爆投下は無かった」旨の発言を残している。

原爆投下以来、人類の思想が一変し、大義名分や善悪の問題はどうでもよくなり「どんな卑怯な手を使っても勝てばいい」「勝者が常に正しい」時代になった。

そのアメリカの核の傘の下で日本は形式的には独立国家として、実質的にはアメリカの51番目の州どころか、アメリカの属国になっている。

言うまでもなく現在の日本の条件(憲法、非核三原則など)では万一核攻撃の標的になった場合
1.万歳降参
2.憲法改正核武装(標的になった後では遅いが)
3.アメリカとの軍事同盟に頼る
のほかに見当たらない。
(ちなみに私は核ミサイルを発射地点にUターンさせる究極の専守防衛兵器の可能性について以前書いたことがある。今調べてhttp://allabout.co.jp/gm/gc/292478/ でドクター中松が全く同じ公約をしていたことを知った。可能ならばぜひ開発してもらいたい)
 愛国運動の最大の難問の一つはここにあり、「親米」を主張する人々でも非常に戦略的な親米論であることを忘れてはならない。
 
吉田茂元首相のようにしたたかな人物なら、アメリカが作った平和憲法を盾にとって日本の経済成長を成し遂げることができたが、民主党でも自公連立政権でもそういう芸当が出来ず、アメリカの言うがままに動いているとしか思えない。この歯がゆさは日本人の誰もが感じているに違いない。

それにしても、余りにも無残な敗戦だった。あれは戦争ではなく殺戮実験である。
 日本の女性が米軍基地をたむろして黒人にわざとレイプされるのを好む現象をとりあげ、「性的唯幻論序説」で岸田秀が、原爆による圧倒的な敗戦とその後の政治家の隷属的外交が原因と断定していた記憶がある。私なりに解釈すれば、アメリカ人はマレビト(人知を超える強烈な力を持つ存在)、つまり一種の宗教的なカリスマになってしまったわけだ。レイプされて喜ぶというのは尋常ではないし、そういう人間を作った日本という国家も当然尋常ではない。

天皇制の保全という「条件付き降伏」に拘る鈴木貫太郎首相に対して「日本は勝つときも負けるときも潔く」と諭して無条件降伏を受け入れさせ、玉音放送の原稿に朱を入れ、現在の象徴天皇制を発案したのが禅者として私が最も尊敬する山本玄峰師だった。
 当時の日本としては最善の決断だったと思うが、とうとう日本がここまで来るとは、山本玄峰師がご存命ならどんな言葉を発せられるだろう。

高畠華宵

2013年03月15日 | 愛媛自慢
腱鞘炎治療のため、なるべく引用だけで済むタイトルを選んでいます。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E7%95%A0%E8%8F%AF%E5%AE%B5より
高畠 華宵(たかばたけ かしょう、1888年4月6日 - 1966年7月31日)は愛媛県宇和島市裡町生まれの大正から昭和初期に活躍した、日本の画家である。本名は、高畠幸吉。京都市立美術工芸学校日本画科卒業。宇和島市長・衆議院議員を務めた高畠亀太郎は、実兄。

栄光の日々 [編集]

上京して生活苦の中、1911年に「華宵」の名で描いた津村順天堂の「中将湯」広告画が一躍有名になる。アール・ヌーボーやユーゲントシュティール、特にオーブリー・ビアズリーの影響を受けたとされるシャープなペン画はそれまでの広告イラストとは一線を画したもので[1]、そのモダンさは時代の注目を集めた。
その後『少女画報』(東京社)『少女倶楽部』『少年倶楽部』(いずれも講談社)『日本少年』『婦人世界』(いずれも実業之日本社)などの少女向け雑誌や少年雑誌、婦人雑誌などに挿絵として描いた独特の美少年・美少女の絵や美人画は一世を風靡し、たちまち竹久夢二らと並ぶスター画家となった。1926年には華宵便箋・封筒を発売するなど、現代でいうメディアミックス風のプロモーションも行うことによりさらに名声は高まり「銀座行進曲」(正岡容作詞、1928年)中で「華宵好みの君も行く」と歌われるほどになった。鎌倉・稲村ヶ崎一の谷(いちのやと)に建てた異国情緒あふれる豪邸は「華宵御殿」と呼ばれ、華宵の趣味が凝縮したものとして注目を集めた。華宵御殿には、全国の女性(とくに女学生)からのファンレターが殺到した。極端な例では、地方の令嬢が華宵御殿見たさに家出するという事件も起こった。
しかし戦争色が色濃くなってきたこともあり、絶頂の1937年ごろから雑誌などの活動を停止。一般大衆の間ではその爆発的人気は永続せず、戦後華々しいカムバックとはいかなかった。近年に再評価を受ける(後述)まではやや歴史の中に埋もれた存在となっていた。それでも完全に忘れ去られることはなく、昭和中後期における少年少女、婦人雑誌の人物の挿絵は華宵の影響を受けたものが多い。漫画家の丸尾末広も華宵の画風に影響を受けていることがよく知られている。

画風 [編集]

人物画が中心。連載小説の挿絵・雑誌口絵・レターセットなどの小物の意匠などに使われた。独特の三白眼を有する、無国籍風な表情と中性的な雰囲気をもつ人物を描く。妖艶さと清楚さを併せ持つ少女画・美人画と、凛々しく潔い、しかしやはりどこか色香を漂わせる少年画はいずれも一目で彼の作品とわかるほどの個性を放っている。また、明治から昭和初期にかけての和装・洋装を含むありとあらゆる服装・髪型・アクセサリが画題となっていることも注目される。描かれるファッションのレパートリーは幅広く、たとえば和服については生涯にわたって同じ柄の着物を二度以上描いたことがないと豪語したとも伝えられるほど衣服デザインは多彩だった。実際、彼は浴衣や洋服のデザインを行いそれが雑誌口絵に鳴り物入りで掲載されるなど、時代のファッションをリードするデザイナーとしても活躍した(雑誌口絵にはそのデザイン服は「華宵好み」という名を冠して掲載された)。そのレパートリーの広さを存分に生かした渾身の大作が「移り行く姿」(昭和初期、現在は個人蔵)である。これは明治から昭和初期にかけての女性ファッションの移り変わりを、六曲一双の屏風の中に配された60人以上の女性の姿として描きあげた作品である。暑い季節に寝食を忘れてこの絵を描き挙げた華宵はそのためすっかりやせ衰えてしまったという弟子の証言があるほどの、一世一代の力作であった。
幾多の美女・美少女・美少年を描き続けたが、特定のモデルはいなかったとされている。また自身はまったく浮いた話がなく、実際生涯独身であった。縁談を勧められたとき「私には絵の中の女たちがいますから」といった切り返しで答えた話は有名である。

失意の戦後と幸せな晩年 [編集]

戦後しばらくは夢を抱いて渡米するも経済的・健康的にうまくいかず帰国するなど失意の日々を過ごし、子供向けの怪盗ルパンシリーズや童話などの挿絵仕事を細々と続けながらも全盛期とは比べ物にならないほど注目されない人生を送っていた。晩年はかつて絶縁した実家の兄を頼るほど生活に困窮し、神戸の老人福祉施設に入っている。しかし幼少の頃華宵の絵(とくに「さらば故郷!」)に感動した弁護士・鹿野琢見が華宵の現在を伝える記事を偶然雑誌で読み、本人と文通を開始した(その後華宵は「新・さらば故郷!」と題した水彩画を新たに描き、鹿野に贈っている)。鹿野らの奮闘やかつて華宵の絵に熱狂した世代の要望により首都圏で回顧展が開催され、人気が爆発的に再燃した。その人気の隆盛を見届けた直後の1966年7月31日に、東京にて鹿野と加藤謙一(元「少年倶楽部」編集長)に見守られて生涯を閉じた。同日付けで挿絵画家としては初となる勲五等双光旭日章を受けた[2]。墓所は神奈川県鎌倉市の鎌倉霊園であり、養子の華晃ものちに同じ墓に葬られている。鹿野らは1984年に東京都文京区に「弥生美術館」を開き、華宵の作品の常設展示を始めた(後述)。

展示施設 [編集]

現在、生まれ故郷に近い愛媛県東温市下林に「高畠華宵大正ロマン館」があり自筆を含む多くの作品、書簡写真などが展示されている。また華宵の故郷である愛媛県宇和島市には高畠華宵作品の常設展示室「華宵の部屋」(宇和島市歴史資料館)が開設され、3ヶ月毎に展示替えが行われている。首都圏では「竹久夢二美術館」に併設される挿絵美術館である「弥生美術館」の3階にて鹿野らが集めた多くの作品が常設展示されている。これらの美術館では華宵作品を中心として当時の風俗・ファッション・イラスト・少年少女の生活などを対象とする研究が積極的に行われている。
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上記、青色の部分には秘密がある。私が宇和島の展示会に行ったときの記憶だが、彼は同性愛者で、晩年は美青年と暮していた。養子がその相手だったかどうかは定かではない。
 

法律学者・穂積兄弟

2013年03月12日 | 愛媛自慢
愛媛自慢シリーズ。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E5%AE%B6%E6%96%B0%E4%B8%80より引用する。まずは兄の穂積陳重、弟の穂積八束の順に紹介する。
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「学者の眼中、学理あって利害なし。区々たる地位、片々たる財産、学理の前には何するものぞ」学理のほか、名前、肩書き、地位、財産等には無頓着であれとの陳重の言葉

穂積陳重は、1855(安政2)年宇和島藩士・国学者の穗積重樹の次男として生まれた。長兄の重顎(しげあぎ)は後に字和島藩主であった伊達侯爵家の家令となる。陳重は、藩校であった明倫館に学んだ後、16歳で藩の具進生として上京、大学南校(東京大学の前身)に入学、1876(明治9)年には文部省留学生としてイギリス、ドイツに渡り、法律学を学んだ。1881(明治14)年に帰国、27歳のとき年東京大学法学部講師、1882年から1912(大正1)年まで東京大学ならびにそれが改組あるいは改称された東京帝国大学(1886~)の教授・法学部長に就任。さらに33歳で、日本ではじめての法学博士となった。

フランス法が盛んであった当時において、イギリス法・ドイツ法を移入し、1893(明治26)年法典調査会委員として民法などの起草に参加する等、創世期にあった日本の法学界に大きな影響を与えた。旧民法典を施行すべきか否かの法典論争においては、延期論を主張、同法典の延期後は、富井政章(とみいまさあき)、梅謙次郎(うめけんじろう)とともに法典調査会の主査委員を務め、新たな民法典(現行民法典)の起草にあたった。大学教授として30年、日本の“民法の祖”といわれたが、また、法理学(法を対象とし、その本質や理念、また根拠や価値などを哲学的な方法等により原理的・根本的に研究する学問である「法哲学」の別名)講座も開設者した。

さらには、大日本帝国憲法施行直後の1891(明治24)年、来日中のロシア皇太子を一巡査が襲撃したいわゆる大津事件が勃発した時、郷里宇和島の大先輩で当時大審院長であった児島惟謙から意見を求められたのに対し、「外国でも敗戦国でない限り、自国の法律を曲げた例はない」「政府と対決して自分の主張が勝つ」と言って激励、惟謙から謝電が送られた話は、有名である(参照「法窓夜話」)。

陳重は学究一途にとどまることなく、貴族院議員、帝国学士院第1部長、文政審議会委員などの要職に就き、晩年には枢密院議長をも務めたが、1926(大正15)年4月7日、71歳で死去。(以下、写真など省略)

穂積橋の由来

この穂積橋は、郷土の発展に終生貢献された穂積陳重男爵の御功績を讃えて昭和4年に命名されたものです。
穂積陳重先生は、安政2年(1855)市内中ノ町(今の京町)に生まれ、幼少より俊童の誉れ高く、若くして英独に留学し法学を研鑽、帰国後は、東京大学で教鞭をとり、法学部長を勤め、法典調査会主査委員として明治民法戸籍法を編纂するなど、民法生みの親といわれました。
 明治24年(1891)の大津事件では「政府の圧力に屈せず、法に照らして裁判なされるよう」と進言して大審院長児島惟謙を支え、後年には枢密院議長となり、男爵を授けられました。
 また先生は、故郷、宇和島町と八幡村の合併や、市制施行に尽力され、出京の郷土の青年に勉学を奨励、幾多の人材を撫育されました。
この功績を記念すべく、市が穂積家にひたすら銅像の建立を申し出ましたが、「老生は銅像にて仰がるるより、萬人の渡らるる橋になりたし」との、生前のご意志から固く辞退されました。
それ故、改築中の本開橋を穂積橋として御尊名を刻みたいと願い出たところ、それならば故人も本懐であろうと受諾されて、穂積橋が誕生したものであります。
近年、記念碑の風化が甚しいので市民有志が新しく碑を刻み、眩しい遺徳を後世に伝えるものであります。

著書に『法律進化論』(1924~27)、『隠居論』(1891)、『五人組制度論』『五人組法規集』(ともに1921)などがある。
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1860(万延元)年~1912(明治45)

わが国で近代を代表する法学者に一人穂積八束は、1860(万延元)年宇和島藩士・国学者の穗積重樹の三男として生まれた。藩校明倫館に学び、上京して1883(明治16)年東京大学法学部政治学科卒業の翌年からドイツに留学してシュルツェ、ラーバント教授らから君主絶対主義の立場にたつ憲法論を学んだ。

1889(明治22)年2月、大日本帝国憲法公布に合わせるように帰国した八束は、ただちに、東京帝国大学教授(一時期次兄陳重と兄弟で東大教授となった)となり、憲法学や国法学、行政学の講座を担当、そこで、当時台頭しつつあった自由民権学派の憲法理論に激しく反対、天皇絶対主義憲法論を強硬に主張した。

後、枢密院書記官、法典調査会査定委員、貴族院議員、宮中顧問官などを歴任。

八束は、特に大日本帝国憲法の解釈普及に力を注ぎ、同時に、伊藤博文を助けて憲法附属法典立案や各種法典編集に尽力した。また、民法典編纂過程で巻き起こったいわゆる「民法典論争」では、行延期派の旗手となり、「民法出でて忠孝亡ぶ」との名言をもって、ボアソナード編纂の民法典の施行延期を主張(この事実は、あまりにも有名)、延期された民法に家長権(かちょうけん=家長が家族員に対して有していた支配・統制の権利で、日本の旧家族制度における戸主権がその代表的なもの。「家父長権」ともいう)の尊重を盛り込ませることに大きな役割を果たした。

1910(明治43)年に病気のため半年の間大学を休んだ際に、学生に申し訳ないと講義にかえて書いたのが『憲法提要上下』である。辞表を受理しない大学に「働かぬ者に給料を出すのは官規を乱す」とか「大学は学者の養老院ではない」といったり、一本筋の通った、いい意味で頑固一徹な学者であった。

明治天皇崩御(ほうぎょ­=天皇・皇后・皇太后・太皇太后を敬ってその死をいう語。古くは、上皇・法皇といった)による大葬の日には肋膜炎(ろくまくえん)を押して青山葬儀所に参列したが、その直後より高熱を発し、3週間のち、明治天皇のあとを追うように、1912(明治45)年10月5日に心臓発作を併発して死去。享年52歳。

なお、八束のもとからは「天皇機関説」の美濃部達吉の外、天皇主権説に立って憲法を講じて国家主義的社会運動を指導し、美濃部を激しく攻撃した上杉慎吉(1878~1929)らが育った。

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参考文献
日本立法資料全集 (別巻 1) <穂積陳重立法関係文書の研究>
信山社出版 (1989.12)
民法起草者穂積陳重論 [日本比較法研究所研究叢書]
白羽祐三/著
中央大学出版部 (1995.10)
明治民法の制定と穂積文書-「法典調査會穂積陳重博士関係文書」の解説・目録および資料
福島正夫/編
民法成立課程研究會 (1956.7)
穂積八束博士論文集
穂積重威/編纂
有斐閣 (1943.9)
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宇和島出身の法律家としては大津事件の大審院長児島惟謙の名前が余りに有名だが、穂積兄弟がいたことを知らせたいと思う。
 (腱鞘炎治療のために引用のみで終わらせます)

電磁波に関する情報ふたたび

2013年03月12日 | 医療、健康法
電磁波、音波被害やそれを使った犯罪は既に常識となっている。再度まとめてみる。

http://ameblo.jp/kennkou1/entry-11314125749.htmlより一部引用。

パソコンや携帯電話からは電磁波が発生しているのは皆さんも御存知かと思いますが、その電磁波が人体に様々な悪影響を与えることを知っている方はあまりいないと思います。
そこで、今回は電磁波の健康被害についてご紹介します。

まず、電磁波とは電界(電気の力の範囲)と磁界(磁気の力の範囲)が相互に影響して発生する波のことを言います。ちなみに、電磁波の力を表すのが周波数(波長)です。

電磁波を帯びているものには、

・電離放射線・紫外線・可視光線・遠赤外線・電波・テレビ・携帯電話・電子レンジ・パソコンなどがあります。
基本的には電化製品は電磁波を発生させていると思って間違い無いです。

周波数が高いX線やガンマ線は強いエネルギーを持っているため、様々な影響を与えることが判明しています。また、周波数が低い電波なども長時間浴びることで、人体に害を与える可能性があるという調査報告などがあります。

たとえば、電磁波を浴びすぎると「電磁波過敏症」と呼ばれる、病気になってしまうこともあり、電磁波と言えども油断はできないのです。

☆電磁波過敏症とは
URL http://ktai-denjiha.boo.jp/faq/answer/kabinsho.html
引用:
日本では、まだ認知されていない病気ですが、「電磁波過敏症」と呼ばれる症状があります。
電磁波に過敏なため、身の回りにある微弱な電磁波を浴びただけでも、頭痛や吐き気を感じてしまう人々がいます。

電磁波過敏症は、アメリカの医学者ウィリアム・レイ博士によって命名されました。
博士によると、電磁波過敏症の患者の特徴は、最初に目、皮膚、神経に症状が現れます。そして次に呼吸困難や動悸、めまいや吐き気などの症状が現れてきます。また、疲労感やうつを伴う頭痛や短期的な記憶喪失、手足のしびれやまひが起こってくる人もいます。その他、下記のような症状が確認されています。

電磁波過敏症の13の症状分類(ウィリアム・レイ博士による)
1. 目の症状:見にくい、目が痛い、目がうずくなど
2. 皮膚の症状:乾燥する、赤くなる、できものなど
3. 鼻の症状:鼻づまり、鼻水など
4. 顔の痛み:顔がほてる、むくむ、水泡、ひりひりする
5. 口の症状:口内炎、メタリックな味がする
6. 歯や顎の痛み
7. 粘膜の症状:乾燥、異常な渇き
8. 頭痛:単なる頭痛のみならず記憶喪失やうつ症状まで
9. 疲労:異常な疲れ、集中力の欠如
10. めまい:気を失いそうな感覚、吐き気
11. 関節痛:肩こり、腕や関節の痛み
12. 呼吸:呼吸困難、動悸
13. しびれ:腕や足のしびれ、まひ

電磁波対策先進国のスウェーデンやデンマークでは電磁波過敏症は認知され、公的保健の対象になっています。特にスウェーデンは1995年に国策として「プルーデント・アボイダンス(慎重なる回避)」が確認され、労働者の安全と健康を守る法律をはじめ、コンピュータ画面からの電磁波放射の規制を制定し、その規制をクリアした製品しか販売できなくなっています。

WHO(世界保健機関)のブルントラント事務局長(前ノルウェー首相)は2002年3月9日付の地元ノルウェーの新聞において、自身が電磁波過敏症であることを告白しました。最初は、携帯電話を使うと耳の周辺が熱くなり、次第に症状が悪化し頭痛が起きるようになり、周辺4m以内の携帯電話に反応するようになってしまったそうです。
彼女は、電磁波に過敏に反応する人達がいることを真剣に考える必要があるとし、小児科医出身でもあることから、特に子供たちに対しては予防原則に従って行動すべきだと強く訴えています。

電磁波過敏症の原因については、まだはっきりとは分かりませんが、電磁波によるカルシウムイオン流出や脳中心部の松果体(しょうかたい)からの分泌ホルモンの抑制で、免疫機能の低下でアレルギー状態になりやすいことが原因ではないかと考えられています。
すでに日本でもかなりの電磁波過敏症の方がいらっしゃいます。電磁波過敏症の人々は、電車にも乗れず日常生活に支障をきたしていると聞きます。
最近、アメリカでも「化学物質過敏症」と並んで患者の数が増大しているそうです。
日本でも電磁波過敏症に対する認識と早急な対応策が急がれます。
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この続きには、パソコン盗撮や米軍の電磁波兵器についても詳しい引用があるのでお奨めする。日本の対策がいかに遅れているかが分かる。

以前も書いた通り、音響兵器に関しても客観的な記述がある。wikiより。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9F%B3%E9%9F%BF%E5%85%B5%E5%99%A8

現用のものでは、LRAD Corporation製の長距離音響装置LRAD(Long Range Acoustic Device)と呼ばれるものがイラク駐留米軍に配備されるとの報道が2004年にあり、[1]メーカー発表によると300台以上配備されている。米軍が大量に配備している他、世界各国の軍隊・警察・消防機関に導入されている。

この装置はモデルによるが、直径80cm程度の椀型か四角形をしており、重量は30kg前後で、有効範囲にある対象に向け作動させる事で、攻撃の意欲を無くさせる効果もある。これは暴動などの際に催涙ガス(催涙弾など)を使用すると呼吸器疾患のある者が重体となったり死亡する危険性があるため、これに代わるものとしての利用が期待されている。ただしその一方で、断続的に強力な音波を照射された場合、聴覚障害の危険性があることも示唆されている。このため運用面では、制圧目的の場合には一度に数秒程度とし、連続照射を前提としていないことがメーカー側から示されている。

この装置は、指向性を持っているため距離の離れた限られた範囲内に音声メッセージを明確に伝えることにも利用でき、例えば災害発生時に相手側に無線受信機がなくても被災者に適切な指示を伝えたり、群衆の中の特定集団にのみ指示を出す(周囲の人間の妨げに成らない)事も可能である。

兵器の戦場での運用や成果は一般に報道されにくいものだが、2005年11月5日、エジプトからケニアへの航海途上にあった米国の民間・商用豪華客船がソマリア沖で武装海賊の襲撃を受けた際、LRADで海賊を撃退したことが報じられた

また、2009年2月7日に報じられたところでは、調査捕鯨船に過激な妨害活動を行っているシー・シェパードに対し、日本の調査捕鯨船団が2009年2月からLRADを用いて、同団体の接近を阻止することに成功している。水産庁側は、事前に警察庁などと協議して国内、国際法のいずれにも抵触しないことを確認し、違法性は無いとしている。抗議船の船長は「この装置により妨害活動に集中することが困難になったことを認めざるを得ない」とコメントしている[2]ため、期待された効果を発揮しているようである。

前述のように、スペースに余裕のある民間の大型船が、テロリストなどの接近を妨害するため搭載している例がある。今後は非殺傷性を生かし、武装が難しい民間向けの自衛装置[3]として利用が拡大する可能性がある。
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また電磁波を使った復讐代行屋のサイトもある。残酷な写真があるのであまりお奨めできない。http://kuromajutuci.web.fc2.com/

以下のサイトなどは2万5千円という低価格で通販までしている。
http://blog.livedoor.jp/gunshop_yamiakinai/tag/%E8%B6%85%E9%9F%B3%E6%B3%A2%E6%94%BB%E6%92%83

本当に効果があるかないか分からないが、効果があるなら早く犯罪として立法化すべきだし、効果がなければ誇大広告や詐欺で取り締まるべきだろう。

こういう現状に対し、
http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:Sj7Uft6c2ssJ:blog.goo.ne.jp/mokushiroku666/e/ffe95b7a29faddf5f57a72b0d50deda9+&cd=6&hl=ja&ct=clnk&gl=jp が正論を書いている。

2008年、神奈川県小田原市の男性(41歳)が、「変な車に尾行されている」「盗聴されている」などと、警察へ相談したところ、警察は、公共保健施設みたいな所へ行くよう促し、精神的なものとして対応したようだ。翌日、その男性は、妻子を殺して、自分はマンション8階から飛び降り自殺を計りました。

このように、この犯罪は組織で実行するので、犯人らが見えない、ゲリラ活動そのものであり、無差別テロ行為そのものであり、ある面、戦場より怖い思いをします。

どの家から電磁波、超音波を照射しているのか・・・。いつ、照射されるか、低周波音、超音波、マイクロ波は、音波、電波なので目に見えない、防ぐ術も持ち合わせていないのです。かって経験したことのない凄まじい騒音攻撃、痛みの送信、頻繁にできる火傷、虫刺され、切り傷症状、朝まで続く怪奇現象(寝室天井から“金属板に穴を開けるキリ”のようなものが突き抜けてくるような音)、普段は全く聞こえてこない車やバイクの爆走音などが大騒音となって延々と送られてくる。

寝場所を求めて、台所に逃げても、冷蔵庫がコンコンと朝まで鳴り響いて一睡もすることはできません!

この時期、被害者は自殺したり、精神病院へ強制隔離されたり、自分らしくない暴言を吐いたり、犯罪を犯してしまう人もいると思います。この犯罪は個人の尊厳を著しく冒すものであり、著しい人権侵害なのであります。自殺誘導、殺人未遂、に当たるものと思われ、テロ対策法が適用されてしかるべきだと強く思慮いたします!

さて司法、行政、立法は、このテロともいう弱者に対する残虐な行為をいつまで、放置しておくつもりでしょうか?
__________________________

こういう発言に対して「精神異常」「妄想」と決め付け、そういう現実を必死で隠蔽する連中がごく一部いるが、彼らの目的は言うまでもない。
 欧米ではエレクトリック・ハラスメントと呼ばれ、かなり前から犯罪として立法化されており、検索すれば簡単に出てきます。ぜひ探して下さい。

ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物・二宮忠八

2013年03月09日 | 愛媛自慢
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%8C%E5%AE%AE%E5%BF%A0%E5%85%AB より

二宮 忠八(にのみや ちゅうはち、慶応2年6月9日(1866年7月20日)- 昭和11年(1936年)4月8日)は、明治時代の航空機研究者。伊予国宇和郡八幡浜浦矢野町(愛媛県八幡浜市矢野町)出身。
陸軍従軍中の1889年、「飛行器」を考案。その翌年には、ゴム動力による「模型飛行器」を製作。軍用として「飛行器」の実用化へ繋げる申請を軍へ二度行うも理解されず、以後は独自に人間が乗れる実機の開発を目指したが、完成には至らなかった。
なお、「飛行器」とは忠八本人の命名による[注 1]。また、忠八の死から18年後の1954年、英国王立航空協会は自国の展示場へ忠八の「玉虫型飛行器」の模型を展示し、彼のことを「ライト兄弟よりも先に飛行機の原理を発見した人物」と紹介している[1]。

生い立ち [編集]
八幡浜の商家の四男坊として生まれる。父は幸蔵、母はきた。忠八が出生したころの家は富裕であったが、まもなく事業に失敗し、また2人の兄による放蕩、さらに父幸蔵が忠八12歳の時に若くして亡くなり家は困窮した。忠八は生計を得るため、町の雑貨店や印刷所の文選工、薬屋などで働くかたわら、物理学や化学の書物を夜遅くまで読み耽けっていた。また、収入の足しに学資を得るために自ら考案した凧を作って売り、この凧は「忠八凧」と呼ばれて人気を博したという。この経験が後の飛行機作りの原型になったともいわれる。錦絵に描かれた気球にも空への憧れをかきたてられ、気球を付けた凧を作ったこともあった。

飛行への着想 [編集]
明治20年(1887年)、忠八は徴兵され、香川県の丸亀歩兵第12連隊第1大隊に入隊した。ある日(1889年11月のことという)、忠八は野外演習の休憩で昼食を取っているときに滑空しているカラスを見て、羽ばたいていないのに気付く。そして、翼で向かってくる風を受けとめることができれば、空を飛べるのではないかと考えた(固定翼の着想)。
それを基に忠八は、「模型飛行器」を作成。これがいわゆる「烏(からす)型飛行器」である。主翼は単葉で上反角を持ち、翼幅は45cm。全長は35cm。機尾に水平尾翼、機首に垂直安定板があった。また三輪を備えていた。推進力はゴムひも(陸軍病院勤務であった忠八は聴診器のゴム管を流用した)で駆動される推進式の四枚羽プロペラであった。明治24年(1891年)4月29日、3mの自力滑走の後、離陸して10mを飛行させて、日本初のプロペラ飛行実験を成功させた。翌日には手投げ発進の後、約36mを飛行させた。2年後の明治26年(1893年)10月には有人飛行を前提にした飛行機「玉虫型飛行器」の縮小模型(翼幅2m)を作成。これは無尾翼の複葉機で、下の翼(上の翼に比べると小さい)は可動であり操縦翼面として働く設計だった[2]。烏型と同様に四枚羽の推進式プロペラを機尾に備えていたが、動力源については未解決であった。日清戦争時に衛生卒として赴いた忠八は、戦場での「飛行器」の有効性について考え、有人の「玉虫型飛行器」の開発を上司である参謀の長岡外史大佐と大島義昌旅団長に上申したが、却下された。長岡は「戦時中である」という理由であった。また大島には戦地の病気で帰国し、戦争が終わった頃に尋ねてみたところ、「本当に空を飛んだら聞いてもよい」という返答が帰ってきた。軍は飛行機開発に乗り気ではないと感じた忠八は退役し、まずは飛行機製作の資金を作ってから独力で研究することにした。
大日本製薬株式会社に入社し、業績を挙げて明治39年(1906年)に支社長にまで昇進する。この時期は資金をまかなえず、ほかにスポンサーも現れなかったため飛行器の開発は停滞した。この間、明治36年(1903年)12月17日、ついにライト兄弟が有人飛行に成功する。しかしこのニュースはすぐには日本には伝わらず、なおも忠八は飛行器への情熱を持ち続けていた。
支社長就任後ようやく資金的な目処も立ち、忠八は研究を再開する。従軍当時に新聞記事でオートバイのガソリンエンジンを知り、これを動力に利用できないかと考えていた忠八は、明治41年(1908年)に精米器用の2馬力のガソリンエンジンを購入した。しかしこれでは力不足であることがわかり、ついで12馬力のエンジン(偶然にもライト兄弟の「フライヤー1」と同じ出力で)を自作する構想を立てた。その矢先にライト兄弟の飛行機を知る。忠八は、動力源以外完成していた飛行器の開発を取りやめ、製薬の仕事に打ち込むと共に、明治42年(1909年)にマルニを創業。この時の忠八の製作していた機体は重量が重過ぎるため、完成しても飛べたかは長らく疑問視されていたものの、理論的には正しい事は現在では認められている。

遅かった評価 [編集]
大正8年(1919年)、同じ愛媛県出身の陸軍中将(当時)白川義則と懇談した際に、忠八は以前飛行機の上申をしたが却下されたことを告げ、白川が専門家に諮ってみるとその内容は技術的に正しいことがわかった。
ようやく軍部は忠八の研究を評価し、大正11年(1922年)、忠八を表彰、その後も数々の表彰を受けた。大正14年(1925年)9月、安達謙蔵逓信大臣から銀瓶1対を授与され、大正15年(1926年)5月、帝国飛行協会総裁久邇宮邦彦王から有功章を受章、昭和2年(1927年)、勲六等に叙せられ、昭和12年度から国定教科書に掲載された。既に陸軍を退役していた長岡外史は直接忠八のもとを訪れ、謝罪した。
忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になっている。晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した。

世界航空機史上における位置付け [編集]

当時欧米で有人飛行を目指す流れは、
模型飛行機の実験を行い、それを人が乗れる大きさに拡大したものを製作する
グライダーによる滑空実験を行い、操縦技術を確立してからグライダーに動力を取り付ける
の2つに大別され、ライト兄弟はこの両方の研究成果を受け継ぎつつ後者の道を選んだ。兄弟は3000回以上の滑空と風洞をはじめとする科学的で綿密な実験結果に基づいて操縦者の意思で飛行する最初の飛行機を制作した。一方、忠八の研究は91年、愛媛県八幡浜市において自筆の設計図を元に実物大の飛行器復元模型が制作され、有人動力飛行実験に成功した事で飛行理論の正しさは証明されたものの[3]、その研究の過程や計画が研究途上で明確な位置付けがまだできず、海外の研究者の着目が少ない。
近年の見解 [編集]

日本では近年「日本の航空機の父」という評価が高まりつつあり、その先見性や独創性が一般に知られるに従ってメディアで取り上げられる事も多くなった。ライト兄弟の初飛行に先立ち動力付き有人飛行機を着想するも、金銭的事情で研究が進展せず有人飛行を断念したが、黎明期の先駆者としての功績と才能、様々な逸話、人格等、世界的な発見や功績は挙げていないものの、日本航空機史上へ名を刻むに足る人物として認知されつつある。
一方で実際にはゴム動力の模型飛行機はフランスで1871年にすでに製作され飛行しているにもかかわらず、「飛行機の真の発明者」「世界で最初に模型飛行機を製作」と報じる等、忠八の研究活動や航空史の流れを全く理解していない例も散見されたり(航空に関する年表も参照)、情報や認識が錯綜している。また忠八の作った航空機は人力航空機で、動力航空機とはかけ離れており過大評価されているとの意見もある。その活動について、安定した評価は形成されていない。(以下略)
___________________

上記の中で「忠八はその後、飛行機事故で死去した多くの人を弔うために飛行神社を設立、自ら神主になっている。晩年は幡山と号して、七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ、幡詞会をもうけ、『幡詞』を著した」と言うのが興味深い。
 なぜ飛行神社なのか?その答えは飛行機を偏愛した稲垣足穂の解説ww.geocities.jp/maomao_mac/hikouki.htmlを読めば一発で分かる。墜落死するのが飛行機の魅力だったわけだ。

http://www.uwakai.com/blog/2007/07/post_365.htmlには「七音五字四句一詞の形を「幡詞」と名づけ」の例が一つだけ引用してある。

大人は義に 
小人は利に 
野生の人は 
情に動けり


二宮幡山著 「幡詞」第一編より
___________________
なるほど、音は7つで文字は5、その上で4行だから非常に難しい。
 幡詞、というのは八幡浜から名付けられたのだろう。その八幡浜の名前の由来は次の通りである。


[八幡浜]
佐田岬半島の基部に位置し、天然の良港として古くから発展。明治時代、「四国のマンチェスター」。八幡浜という地名は、養老年間には見え、その由来は八幡大神(はちまんおおみかみ)がこの地の浜に立たせられたという伝説に由来する。ウンシュウミカンの産地。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E5%B9%A1%E7%A5%9Eによれば八幡大神の起源は
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八幡神(やはたのかみ、はちまんじん)は、日本で信仰される神で、清和源氏をはじめ全国の武士から武運の神(武神)「弓矢八幡」として崇敬を集めた[1]。誉田別命(ほんだわけのみこと)とも呼ばれ、応神天皇と同一とされる。神仏習合時代には八幡大菩薩(はちまんだいぼさつ)とも呼ばれた。(略)

八幡神を応神天皇とした記述は「古事記」や「日本書紀」「続日本紀」にはみられず、八幡神の由来は応神天皇とは無関係であった[3]。「東大寺要録」や「住吉大社神代記」に八幡神を応神天皇とする記述が登場することから、奈良時代から平安時代にかけて応神天皇が八幡神と習合し始めたと推定される[3]。八幡神社の祭神は応神天皇だが、上述の八幡三神を構成する比売神、神功皇后のほか、玉依姫命や応神天皇の父である仲哀天皇とともに祀っている神社も多い[3]。
「八幡」の文字が初めて出てくるのは『続日本紀』天平9年(737年)で、読み方を同書天平勝宝元年(749年)の宣命に「広幡乃八幡(ヤハタ)大神」のように「ヤハタ」と読み、『日本霊異記』の「矢幡(ヤハタ)神」や『源氏物語』玉(タマ)鬘(カズラ)巻の「ヤハタの宮」のように「八幡」は訓読であったが、のちに神仏習合して仏者の読み「ハチマン」、音読に転化したと考えられる。
「幡(はた)」とは「神」の寄りつく「依り代(よりしろ)」としての「旗(はた)」を意味する言葉とみられる[3]。八幡(やはた)は八つ(「数多く」を意味する)の旗を意味し、神功皇后は三韓征伐(新羅出征)の往復路で対馬に寄った際には祭壇に八つの旗を祀り[3]、また応神天皇が降誕した際に家屋の上に八つの旗がひらめいたとされる[3]。
八幡神は北九州の豪族国造宇佐氏の氏神だった[6]が、数々の奇端を現して大和朝廷の守護神とされた。歴史的には、託宣をよくする神としても知られる。
_____________________
とある。

これ以上長くなると神道や本地垂迹の話題になりキリが無いからやめることにする。
 武家の神様・八幡神とゆかりのある地に、飛行機の原理を発見し実用化しようと努力した二宮忠八という軍人が生まれ、飛行神社の宮司となって幡山と号し幡詞という短詩形を作った、というのも何かの因縁と思う。
 身近に神々が生きていた時代に憧れながら今日のブログを閉じます。

芝不器男 あなたなる夜雨の葛のあなたかな

2013年03月07日 | 愛媛自慢
腱鞘炎のせいか、あるいは他の病が重なっているのか、ともかく左手の手首と人差し指の下部が炎症や痙攣を起こし、独特の痛みを感じる。手を休めるために暫く引用が多い文章になります。

愛媛自慢というジャンルを新たに作った。愛媛は芸術家や学者を多く輩出している。その一人目を私の大好きな俳人・芝不器男にした。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:lRBaUCXVHqMJ:www.id.yamagata-u.ac.jp/PhysiologyII/Prof/prof_20101026.html+&cd=11&hl=ja&ct=clnk&gl=jp(山形大学医学部のHP)

あなたなる夜雨の葛のあなたかな

 芝不器男*(明治36年4月18日~昭和5年2月24日)の句です。清新で豊かな抒情にあふれ、時間と空間を鮮やかに捉えた句の数々は。高浜虚子の絶賛を受けました。以下は当句の解説です。
  句の前書きに「二十五日仙台に着く。みちはるかなる伊予の我が家をおもえば」とある。この時不器男は二十三歳。大正十五年の十二月号の「ホトトギス」に始めて掲載されている。その頃の不器男は明治十四年に東京帝国大学農学部を中退し、四月には東北帝国大学工学部に入学。この句が作られた九月は、長い夏休みを終え、故郷の愛媛から帰ってきた時の作である。この句は虚子の観賞によって有名になった。「この句は作者が仙台にはるばる着いて、その道途を顧み、あなたなる、まず白河あたりであろうか、そこで眺めた夜雨の中の葛を心に浮かべ、さらにそのあなたに故国伊予を思う、あたかも絵巻物の表現をとったのである。 山本健吉著「俳句鑑賞歳時記」(角川ソフィア文庫)

  芝不器男:愛媛県松野町に生まれる。1920年(大正9年)宇和島中学校を卒業し、松山高等学校に入学。1923年(大正12年)東京帝国大学農学部林学科に入学。1925年(大正14年)東京帝大を中退し、東北帝国大学工学部機械工学科に入学。1930年(昭和5年)1月になると病状が悪化し、2月24日午前2時15分永眠、享年26。

平成22年10月26日 藤井 聡
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松野町は私の郷里から車で1時間ぐらいの、2つ隣町。生家が記念館になっており、私はそこへ家族と2、3度ドライブに行って句集など様々な資料を買ってきた。この俳句は凄く有名だと思っていたらそうでもないらしいのであえて紹介した次第。
 虚子の批評全文を探してみたが、部分部分しかない。大事な一文を見つけたので引用する。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:OE7ADPbrDA0J:www.town.matsuno.ehime.jp/learn/hukio/sub2/sub2.htm+&cd=18&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

高浜虚子は『薄明るく浮かんだ夜雨の葛の前後の非常に長い部分は唯真暗で、一面に黒く塗ってあるばかりといったようなものでその黒い部分は故郷を思いやった情緒である』とこの句を絵巻物に例え賞賛しました。
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とある。詠むほうも詠むほう、評するほうも評するほう、で素晴らしい。
 
探してみると、この句の推敲の跡を調べた方がいた。下書き原稿の推敲の跡を丁寧に読み取って作者の思想や技巧を研究する解釈学的学問があるが、その一例である。これは面白い。

http://webcache.googleusercontent.com/search?q=cache:2vGeYDNNSUgJ:www5e.biglobe.ne.jp/~haijiten/haiku6-3.htm+&cd=1&hl=ja&ct=clnk&gl=jp

「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」推敲編


芝不器男の代表句に「あなたなる夜雨の葛のあなたかな」という句がある。
この句は大正15年9月下旬に東北帝大の学生だった不器男が、夏休みに愛媛に帰省、その帰りの中で出来た句だという。
当時は愛媛から仙台まで、連絡線や夜行列車を乗り継いで2日の行程だった。
この句の推敲過程が記されたノートが、色々と面倒を見てもらった医師で俳人でもあった横山白虹の家に残っているという。
最初に記されてあるのが

  陸奥の国と伊予の間の真葛かな

この句は、最終案の句と全然イメージが離れているし、これでは不器男の代表句とは言いがたい。
次に

  陸奥の国と伊予をへだつる真葛かな

「へだつる」に多少、作者の思いが込められたように思われるが、もう一声。
次が

  伊予陸奥をへだつる夜の真葛かな

ここで「夜」を持ってきた。
ここは「日中」よりも「夜」を持ってきたほうが、はるばると郷里から離れた思いが表現されると思ったのだろう。
しかし、まだまだ最終句とは程遠い。
次に

  かなたなる夜雨の葛のあなたかな

いきなり地名がなくなり、雨が降り出した。
なぜ地名を削ったか。やはり「伊予」と「陸奥」とは不器男にとっては事実かもしれないがあくまで個人的なこと。地名を取り去る事によって、誰でもが経験できるような普遍性を得ることが出来た。
そして雨を降らした事で、夜しとしとと降りしきる雨の向こう側の葛を見ながら遠い故郷を思う作者本人の姿がより一層はっきりしてくる。
しかし、まだ満足しない。
次が

  あなたなる夜雨の葛のかなたかな

「あなた」と「かなた」を逆にした。これには横山白虹さんの娘さんで俳人の寺井谷子さんが「『かなたなる』という上五は、書き言葉的なかたさがあるので下五に『かなたかな』とおいてみた」という。
しかし、まだかたい。
そこで

  あなたなる夜雨の葛のあなたかな

やっと、満足したようである。
さて、句会に提出する句が間に合わず、前日適当に2,3句作り「やっぱ、俳句はなんにも考えないですっとできた句に名句が多い」などとのたまっているあなたと群馬在住の俳人北さん、少しは見習ってみては。

参考  「NHK俳壇・2003年11月号」NHK出版協会
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最初は普通の写生俳句だったのをだんだん削り取り、結局「普遍的」な作品に変貌する。前衛的なミニマリズムの句の誕生である。
 虚子の名批評と合わせ読むとこの句の素晴らしさがさらに実感できる。
 
映像的イメージと、句の言葉を対照させてみると以下のようになる。


  闇            光               闇         
  ↓            ↓               ↓
 あなたなる       夜雨の葛の            あなたかな
 


夜雨の葛(おそらく無人駅の明かりに照らされて雨も光っている)を真ん中において、あとは真っ暗いだけ。
 意味の上でも、あなたなる(遠くにある)、あなたかな(遠くだなぁ)、と、具象的イメージの沸かない言葉が前後を挟んで、非常に具象的でなおかつ寂しい葛の葉が雨にボンヤリ光っている。

言い換えると、意味するものの配置と意味されるものの心象イメージが相乗効果を出しているため、最後の「あなたかな」の「かな」が凄まじく寂しさの感情をかきたてる。虚子はそこを「故郷を思いやった情緒である」と共感したわけだ。
 推敲前のオリジナル「陸奥の国と伊予の間の真葛かな」と比較すると、説明文と詩の違いが良くわかる。共に5.7.5のリズムに乗って作り手の情緒は同じだが、鑑賞者に与える感動の質が全く異なっている。

芝不器男は26歳の若さで睾丸腫瘍(精巣腫瘍)で逝去した。今なら発見が早ければ簡単に治る病気である。記念館には彼が愛用したピッケルが置いてあり、その他、愛用した小道具など全て高級品だった。そこの年譜には、隣町の庄屋の婿養子になったが釣りばかりして仕事をせず、義父らに嘆かれたと記してあったと記憶する。芝本人も蚕糸関係で財を成した庄屋的な豪商の息子だった筈である。

ひろさちや 名僧のひと言より

2013年03月06日 | 宗教
http://shuchi.php.co.jp/article/1032(PHPのweb版から引用)

ひろさちや(宗教評論家)

[最澄のひと言]愚直に歩めば道は開ける

道を求める心があれば衣食のことは自然とついてくる。
だが衣食のことばかり追い求めていたら道を求める心は起きない。

 【原文】
 「道心の中に衣食あり 衣食の中に道心なし」(伝述一心戒文)

 唐から帰国した最澄は、日本の仏教界を再編すべく、文字通り東奔西走する毎日を送るようになります。

 まずは中国で学んだ教えを広めるために日本天台宗を開き、1つの宗派として正式に認めてもらえるよう朝廷に働きかけます。そして、教育制度を整え、後進の育成に道筋をつけ、比叡山の施設を充実させていきました。さらには自ら関東や九州にまで出向き、土地の人々に数えを伝えて歩いたのです。

 国から官費を受けられる立場とはいえ、いくらお金があっても足りない状況だったことは想像に難くありません。

 ですから、「道を求める心があれば、経済的なことは自然とどうにかなる」というのは、最澄の心の底から出た言葉だったのでしょう。

 実は、これと同じような言葉を、「さよなら、さよなら、さよなら」でおなじみの映画評論家、淀川長治氏も残しています。

 「自分の好きなことを何年も何年も一生懸命やっていれば、絶対に金で苦労しない。これは私の持論です」

 淀川氏は、少年時代から映画が好きで好きで仕方がなく、大人になってからも映画以外のことは考えられなかったそうです。

 もちろん、生活するためにはお金が必要です。

 それでも、淀川氏はお金を稼ぐために映画を見るということは決してしませんでした。ただがむしゃらに映画のことだけを考えて、映画のすべてを愛し続けたことが、いつのまにか映画評論家という肩書きに結びついていたのです。

 そんな淀川氏でも、テレビで映画番組を担当したときには、ちょっとした迷いが生じました。映画をテレビで放映する場合、放送時間の関係で監督の意向を無視した再編集をすることがありますが、映画評論家たるものがそんな冒涜に与(くみ)していいのか、と批判を受けることがわかっていたからです。

 しかし、淀川氏は、映画館に足を運べない人もいる、テレビがきっかけで映画のすばらしさに目覚める人もいる、そんな人たちのためにテレビ放映は必要だと結論。結果として番組は高視聴率を得て、淀川氏もお茶の間の顔になりました。

 一本気な情熱が、ここでも道を切り開いたのです。

 時代も、情熱を注ぐ対象も全く違う2人が、同じ結論に達したというところに、むしろ真実が感じられませんか。

 「道心の中に衣食あり、衣食の中に道心なし」――多少は苦しい道でも、愚直に歩み続ければ道は開ける。若い人にこそ覚えていてほしい言葉です。
_______________________

ひろさちやの本は2冊ほど読んだ記憶がある。あまりに平易な文章なので馬鹿にしてしまいがちだが、かなり的確なことを書かれていたと思う。

最澄が言おうとしたことと淀長さんの成功例は「道心」という一点において比較対象にならない。が、要するに自分の損得は抜きにして一つの道を究めていけば食うには困らない、という大雑把な括り方をいえば、両者に繋がりはある。

私には色んなジャンルに、しかも極端に違う分野に様々なアドバイザー的な人物がいる。確かにひろさちや氏の言うとおりそれぞれの分野で名を成しておられる。

一方、私の場合はしばしば書いているように器用貧乏の典型なので、一生をこの道に賭ける、という発想がない。何人かの人から「君は自分を他人ごとのように見ているところがある」と言われた。実際、ある時にはAに熱中し、あるときにはBに熱中し、という風に次々に興味の対象が変化していく。とにかく稽古や修行が好きで、それが趣味道楽に変化してコツが分かったらた別のものにチャレンジしてしまう。自分の職業を規定するのが嫌いでその時の縁に触れて自分の別の面の能力が開いていく。それを見ているのが面白い。
 
自分の中ではそれなりに大きな統一性があり、生きていく上で自然と乗りかかった船なのだが、花開くとき風雨多しの言葉通り、思いもよらぬ出来事が重なり、危篤からどうにか生還して、元のような体に戻るかどうか分からないが、人生を逆算しながら余生の使命をどういう順番でどう克服するか思案中といった所である。
 
道心の中に衣食あり 衣食の中に道心なし

この言葉を噛み締めると、非常に厳しい訓示だと感じる。今の日本に最澄から頭を撫でてもらえる生き方をしている人が何人いるか、疑問に思う。




日蓮聖人の和歌

2013年03月06日 | 芸術・表現
腱鞘炎でパソコンはなるべくやらないようにと言われているので簡単に。
以下は日蓮の歌。


おのづから
よこしまに降る
雨はあらじ
風こそ夜の
窓をうつらめ

ちりしはな
をちしこのみも
さきむすぶ
いかにこ人の
返らざるらむ
 
こぞもうく
ことしもつらき
月日かな
おもひはいつも
はれぬものゆへ


なにか適当な解説があれば貼り付けてお仕舞いにしようと思ったが、創価学会のものしか出て来ず、仕方が無いので解説する。解説する、と言ってもこれらの歌が出来た背景や遺文集は一切無視して、素朴な感想文に留める。

日蓮の和歌は非常に少ない。私の知っている限りはこの3首のみで、簡単に検索した結果でも他には出てこなかった。その理由を少し考えてみたい。

一番上の歌は、所謂「道歌」と呼ばれるもの。本覚思想(凡夫即仏)に基づいている。直訳すると、「雨は放っておけば真っ直ぐ降るものです。風のために雨が斜めに降って夜の窓を打つのです」となり、意訳すれば、人間は本来仏ですが、悪い縁に触れて心が曲がってしまうのでしょう(それを法華経の力でいい縁に変えましょう)というところだろう。     依正不ニ、つまり主体とそれを取り巻く環境は切っても切れない、という考え方にも基づいている。ここを突き詰めていくと一念三千論に至る。

その下の二つは、多分、夫か子供を無くした女性信徒の感情を酌みながら自分の心情を重ねたものだったように思う。二首とも非常に悲しい歌で無常観に溢れている。現代語に訳するまでもない、文字通りの歌だ。


最初の歌には技巧が少し見えるが、3首ともごく真面目な歌で、「日蓮文学」と言われるほど文学的素養も教養もあった日蓮にしては全く意外な感がする。当然日蓮は膨大な和歌を知っているので、もっと多数の多彩な歌が詠めるはずだが、まるで歌には興味がないかのようだ。
 これは想像に過ぎないが日蓮の場合は朝から晩まで読経、説法、書簡に費やす生活だったために、敢えて和歌に思いを込める意義が無かったのかもしれない。
 一見して、推敲を重ねず一気に読んだ歌だと感じる。

かなり前に、書体から人物の性格を読む書道家がテレビに出て、日蓮の書の筆使いを実際に真似て写しながら「情の人」と断定したのを覚えている。実際の日蓮は遺文を読めば分かるように学僧としても天才的(というか天才そのもの)で、兄弟子さえ自分の信徒にするほどの人物だった。同時に単なる学者と異なり、利他(人の幸せを願う菩薩の精神)の側面が非常に強く、知性、喜怒哀楽、大胆さと精妙さ、あらゆる面で桁違いの人物だった。

日蓮聖人の和歌をとりあえず「芸術・表現」のジャンルに入れたが、R・ブレッソンの映画を単なる技術論やテマティック批評で読んでも意味が無いように、日蓮の歌には全く別の入社角度が必要になるだろう。

夜中を過ぎたのでこれで失礼します。



風狂の話・2

2013年03月03日 | 風狂考察
春一番のあとの大雨の中、余りにも用事が集中したので、風狂の続きでお茶を濁す。

wikiによれば次のような歴史的背景がある。
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風狂(ふうきょう)は、中国の仏教、特に禅宗において重要視される、仏教本来の常軌(戒律など)を逸した行動を、本来は破戒として否定的にとり得るものを、その悟りの境涯を現したものとして肯定的に評価した用語である。禅宗とともに日本にも伝わり、一休がその代表者である。

本来、風狂という用語は仏教語ではない。「風」字も「狂」字と同様に風疾あるいは瘋疾の意味である。瘋癲(ふうてん。寅さんのフーテンの語義)や癲狂と同義語である。よって、雅やかで世俗を超越したさまを表す「風流」とは本来、用法が異なっている。但し、日本では、江戸時代になって、松尾芭蕉の俳風に用いられたりして、風流と同義語の如く扱われるようになった。

風狂の風は、古くは中国への仏教伝来より余り時間の経過していない東晋頃より南北朝にかけて、すでに史伝に現れている。杯度や宝誌という僧が、その代表である。また、北周の廃仏で武帝を煽動したという衛元嵩も、その還俗前には、蜀(四川省)の成都で風狂の所行があり、杯度・宝誌の流と目されたと、『北史』や『周書』に見える。

唐代になると、万廻という僧が玄宗朝に見られるが、この時期になり、新興の禅宗と結びつくことで、その存在意義を前面に打ち出すようになる。その代表は、「臨済録」中で当の臨済義玄以上に活躍する普化である。天台山国清寺に伝わる寒山拾得や豊干も風狂の代表であり、特に「寒山子詩」に収録される風狂の禅詩で名高く、その風姿は禅画の画題となっている。また宋代になって、普化の名に托した普化宗という禅の一派も現れている。

また、唐末五代の江南に現れたという布袋も風狂僧の一人であるが、弥勒の化身として信仰を集め、寺院の本尊として安置されるまでになる。また、日本に伝わって七福神の一人となる。
宋以降の風狂の僧といえば、南宋の済顛が第一である。済顛は済公の名で知られ、明清の章回小説の主人公となり最近ではテレビドラマ化され、あたかも日本の一休の如き存在である。
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http://kotobank.jp/word/%E9%A2%A8%E7%8B%82によれば

もとは瘋癲(ふうてん)などと同じ精神病者,狂人,狂者を意味する言葉であったが,のち世間の常識的生き方や価値観の俗悪さにがまんがならず,それへの強烈な反発,批判として,狂人と見まがうような奇行,狂態を演じること,ないしその人をいうようになった。古い時代の風狂は多くの場合宗教人で,わけても禅林では寒山・拾得がその象徴的存在として渇仰された。また禅林以外では〈名聞コソ苦シカリケレ。乞食(かたい)ノミゾタノシカリ〉(《発心集》)とうそぶいていたという増賀上人が,風狂の先達として西行,長明,兼好,芭蕉らに慕われている。


①精神の平衡を失っていること。また,その人。
②風雅にひたりきること。 「此の中,産を破りて-し,家を忘れて放蕩せるもあり/近世畸人伝」
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となっている。

一般社会では対立概念だが風狂は、狂人=見性者=超俗=風雅(超俗のファッション化)、と意味内容が絡み合っている様が面白い。なるほど、十牛図の十番目にくる布袋様は弥勒の化身で酒を飲みながら町をふらつくのだと分かる。

そこで増賀上人について検索すると
http://kotobank.jp/word/%E5%A2%97%E8%B3%80?dic=sekaidaihyakka

ぞうが【増賀】 917‐1003(延喜17‐長保5)

平安時代の僧。狂人をよそおって名利を逃れ,道心を貫いた高僧。橘恒平の子。幼いときから仏法に志し,慈恵大僧正(良源)の弟子となった。比叡山で学ぶうちに遁世の思いがつのり,周囲の人々の制止にもかかわらず多武峰(とうのみね)に籠居し,法華経読誦と念仏にあけくれた。しかし聖僧としての名声は高まり,冷泉天皇の護(御)持僧(ごじそう)に召し出されたが逃げ帰った。また三条太皇太后の出家の戒師に召されたとき,儀式が終わるや,下痢でたえられないといって宮中の所かまわず汚物を落とした話など,その奇行の数々は,いずれも道心を貫くためのもので,世俗化した大寺院の仏教に批判的な人々の間で,増賀が遁世者,極楽往生者の理想として語り伝えられたことが知られる。
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とあり、高校時代に「今昔物語」でこの人の逸話を読んだ記憶が蘇る。
 奈良時代の風狂のオリジンはこの人だったわけだ。さらに詳しい伝記は
http://blog.goo.ne.jp/tenjin95/e/f561a52ee8453c60730013205c8b3236に紹介されている。

長過ぎるので内容は貼り付けないが、ハンパではない人物で圧倒される。勿論説話なので後代に粉飾された部分も多いだろうが、話半分としても痛快すぎる。
 
この僧も夢にヒントを得て境地を広げていった事実を知り、かなり前に河合隼雄が明恵上人(1173年─1232年)の夢をユング派の立場から分析した本を読んだ記憶が蘇ってきた。

風狂と禅に密接な関係があるという前提で言えば、日本の最初の禅者として行表(ぎょうひょう、養老6年(722年) - 延暦16年2月(797年)。最澄の師)の名前が残っているがほとんど広まらず、本格的には明庵栄西 (1187年入宋し虚庵懐敞の禅を伝灯)から始まる。
 だから、法華経と念仏の増賀上人の風狂は、書物のレベルでは中国の影響は受けている可能性もあるが、かなり突然変異的な発生の仕方で、彼の強烈な個性に帰する部分が多いと思える。

最澄→日蓮の真面目系に対して、増賀→一休の風狂系(トリックスター系)を比較するのも面白い。
 人間は対立する性格が混在しているから真面目な部分とカブク部分がある。どっちが良くてどっちが悪いという問題ではなく、都市のコスモロジーから見ても、官庁街、歓楽街、悪場所、住宅街、聖域等々があるのが当然で、こういう多種多様な地域が多重に生活を取り囲んでいるからこそ、人間はしなやかな生き方が出来る。

お茶を濁すつもりがつい長くなってしまった。このテーマは閉塞状況のど真ん中にある今の日本を生き抜くためのいいヒントになると思うので、おりに触れて考えていくことにする。


風狂について

2013年03月01日 | 風狂考察
あっという間に二月末。本当は微笑禅の会ネット会報を書くべきときだが、余りにも「重要な雑務」が多く、なるべく簡単に引用で済むブログでお茶を濁すことにした。

昨日一休禅師の歌を紹介したついでに再度「風狂」について考えてみた。
一休さん(後小松天皇の落胤とも言われている)の生まれたのは室町時代。
 室町時代は「広義には、1333年の鎌倉幕府滅亡と建武新政の開始から、1573年の足利義昭の追放による室町幕府の滅亡までを言う。足利時代とも。朝廷が分裂して対立した前期を南北朝時代、応仁の乱から関ヶ原の戦いまで全国で戦乱が起こる後期を戦国時代とすることもある」と言われている通り、非常に長い時代を指す。

そこでふと「一期は夢よ ただ狂へ」という文句を思い出した。それで検索をかけると面白いブログに出合った。http://blog.goo.ne.jp/cookie_milk/e/323dca070453f0c04f043dd47e6113a2より引用する。

くすむ人は見られぬ 夢の夢の夢の世を うつつ顔して

――まじめくさった人なんて見られたものじゃない。夢の夢の夢のようにはかないこの世の中を、さも一人悟ったような顔つきをしてさ

何せうぞ くすんで 一期は夢よ ただ狂え

――何になろう、まじめくさってみたところで。所詮、人生は夢よ。ただ面白おかしく遊び暮らせ

(閑吟集 54、55番)


※「くすむ」:非常に謹厳で分別くさい顔をしている、の意
※「狂」:忘我遊狂の意


室町時代の小歌集『閑吟集』より。
編者は序文で自らを「ここに一狂客あり」といい、本名を明かしていません。
この序文がまた美しい。
「小歌の作りたる、独り人の物にあらざるや明らけし。風行き雨施すは、天地の小歌なり。流水の淙々たる、落葉の索々たる、万物の小歌なり」
「命にまかせ、時しも秋の蛍に語らひて、月をしるべに記すことしかり」
なんて、これ自体が文学ですよねぇ。

馬場あき子さんは『閑吟集を読む』のなかで、「私はことにこの『梁塵秘抄』から『閑吟集』への過程において、日本語はもっとも美しく洗練された日常語をもち、歌謡の世界にはそういう日常語が生きていると思っています」と言い、また「狂うということはひとえにやりきれない日常を脱出するただひとつの手段でしたし、その日常の秩序のなかに、どうしても住みきれない、入って行けない自分というものを卑下して、「狂」と呼ぶことによって、逆に自分を受け入れてくれない日常や、従いきれない浮世の常識、掟、しきたり、といったものを侮蔑する精神的自負にもなっていたのであろうと考えられます」と言っています。

そんな一狂客が紹介した上記2首。
これらは決して自暴自棄になった無責任な歌ではありません。
辛く苦しいこの世(憂き世)は、所詮儚い浮き世である。それならば、夢の間の人生をぱぁっと思う存分楽しく生きよう。
そんな心を歌った歌です。

司馬遼太郎は「何せうぞ」の歌について、『この国のかたち<3>』のなかで次のように言っています。
「これはおのれへの励ましであって、虚無的なものではなかった。禅が流行し、念仏がいよいよ大衆化し、ひとびとは前世からきて後世へ去ってゆく今生の一瞬をより充実しようとしていたのである」
なお全311首中、三分の二を占めているのは恋の歌でした(^^) 

今回ご紹介した歌の現代語訳は『閑吟集』(岩波文庫)より拝借しました。
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とある。


そこで、この時代庶民の間で流行した「幸若舞」と言えば有名な

人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり
一度生を享け、滅せぬもののあるべきか
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ(敦盛)

を思い出す。

一休禅師の歌、閑吟集、幸若舞を通し共通低音として流れているのが風狂という世間を見るアングルとライフスタイルであり、リアリズム、諦観の末の一見ヤケッパチのような態度ながら、時代を生き抜く智慧とエネルギーの宝庫にも思える。

この問題およびこの時代は極めて面白いのでいずれ改めて取り上げることにする。