那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

宗教に絡んだ雑談です

2012年11月19日 | 宗教

私の使っているGOOブログがこの1週間アクセス解析の無料キャンペーンをやっているので使ってみた。
 面白いことにこのブログを入れているHPから入る人が一番多い。HPのアクセスカウンターは時々0になったり、20から40の間を行き来しているので壊れているのは間違いないと思ってはいたが、同じブログの中で見ている人が一番多いのかと思ったが、意外だった。

アクセスカウンターはフリーソフトが普通で、気に入ったものはHPに取り込めないなどの不安定さがあるから面倒なのでそのままにしているが、今度時間があるときに別のものに取り替えようと思う。

ところで昨日のブログに難病に禅の呼吸法が効果があると書いたので、今日は暫く座禅を組んでみたが、確かに心地よい。数呼吸で鳥肌立つ歓喜が訪れてきた。

禅が面白いのは、ただ何も考えずに姿勢、呼吸、心を整えて数息観や隋息観を行うことで、微笑禅の会の方法では途中で体を動かしていいことになっている。

それで思ったのだが、禅は一切祈らない。ところが人間はどうしても自分の力では解決できないことが多いから、祈祷系の信仰が尊ばれる。私の場合は法華経の一節を目覚めの一時に唱えたりして使い分けているし、微笑禅の会は「宗教ではないので他の宗派でも入会可能」と謳っている。

そこで自力と他力、祈りの効果などの問題が出てくる。
禅の場合は、自力のようだが、実は宇宙と一枚続きになり自他の差別感を無くすので、普通の自力ではなくなっている。つまり自他というのが二項対立にならず調和している。だったら根性の腐った敵対者に対しても敵対という観念が消えるかというと、そうでもない。山本玄峰師は「悪党の2~3人は睨み殺す」と言って、要人テロのハシリだった血盟団事件を擁護している。「国家のためにならないものは、たとえ善人でも殺していい、と仏は言っている」と断言している(そんなこと釈迦は言っていないと思うが、これが山本玄峰師の気合いというものだろう)。

一方祈祷や呪術の効果については、以前「多元宇宙論」で解決するしかない、と書いた記憶がある。そんなものが通じるか、と思う人には通じないだろうし、祈りとして適わざるなし、という信念で祈れば適う、という考え方だ。それにプラスして医師を含めて色んな識者に聞いたところ、送り手の力と受け手の感受性に拠るところも大きいらしい。ラジオの感度みたいなものだろうか。ちなみに釈迦本人は祈祷はしなかった。この辺りは全くのグレーゾーンで、何というか、もし1万の謎があるとすれば、化学的に証明可能なものはまだ10ぐらいではないかと思う。

言葉とイメージは非常に便利な道具だが、こんな不完全なものはなく、むしろ人間はこの道具を使っているために真理から遠ざかっているとも言える。あるモヤモヤっとした感情を言葉やイメージで表現するとどこかが欠けてしまう。意識の流れ、ではないが、一日の間に感じたこと、起こったことなどをより正確に緻密に書いていったら、大長編小説のようになり何年もかかるに違いない。

夏芽漱石は「菫程な小さき人に生れたし」と詠んだが、本当に子供はいいなぁ、動物はいいなぁ、植物はいいなぁ、と思う。

疲れてきました。さて、もう一座組んでみます。