那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

合氣道の技&私に対する性格診断

2016年03月07日 | スポーツ、武道、格闘技など

ブログを読む前に集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

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 また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html 一回目の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。

今月の春名先生を囲む会では私が講師となって五行歌の歌会を行いますので、参加される人は http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/f4c47ab144a03aef2fe22d51d9c8ddc3 を参考にして五行歌を作って私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp まで送って下さい。題詠(テーマ)は「炎」ですが、この言葉を作品の中に入れても入れなくても構いません。また上のurlで、はひふへほ、を折句にして歌った女性はキャバクラに勤めているホステスさんで、初心者の上に26歳の若さですから皆さんも絶対に作れる筈なので頑張ってください。いまのところ誰からもメールがありませんがあと11日しかありません。よく五行歌では「上手くつくろうと思い出したら、そこが地獄の一丁目」と言われますので、あまり傑作意識を持たず、普段思った通りに詠んでみて下さい。

また一般の人は http://gogyoka.bbs.fc2.com/ この掲示板に投稿をお願いします。

嬉しいお知らせがあります。柴原さんと出会ったところ「ムササビヒーリングの家」を経営されアンチエイジングから遠隔ヒーリングまでされていました。今月から「春名先生を囲む会」に参加されます。遠隔ヒーリングをしてもらったところ、私は膝に置いた手(上に向けます)から電気のようなものがビリビリっと伝わって来て非常にいい気分になりました。目を軽く閉じた方がより効果的です。母親にその要領を伝えたいのですが、気が強いので「うるさい!」と言って言うことを聞きませんが、要領が分かるまで繰り返し教えるつもりです。また遠隔ヒーリングは何時でも何回でもどの場所にいても癒しを与えることが出来るそうです。これは禅でいう「空」の思想に通じるもので、存在の統一性というか、個人も外界もウェブ上に絡まりあっていて全ては一つ、という思想と相通じるものです。例えばハンカチの一部を持ち上げると全体が移動しますが、その一部分が自分自身だと思えばいいでしょう。柴原さんは宇宙が一つの棒だとすれば棒のどこを押しても全体に伝わるとおっしゃっていました。おそらくこのブログを読んでいる方も同じようにすれば非常に気持ちよくマイナス感情が取れると思われるのでぜひ試してください。

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今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私が小野洋子ほどの資産家であれば5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。

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昨日このブログで紹介した塩田剛三の技の中で余りにも有名な動画があったので紹介します。

https://www.youtube.com/watch?v=kqAzttBJBK8

この技をみたR・ケネディは後日伝記に日本に神業の使える達人がいた、と書いています。ほんの瞬間だったので分からなかったかもしれませんが、相手が手刀で打って来るのを片手で受けただけで倒す場面がありましたが、この技は私にもできますので私が合氣道について講義するときはご披露することにします。

これは全く個人的な話題ですがあるメルマガが私を占ったので紹介します。

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あなたは・・・【忍耐強く繰り返す粘り強さが強みの人】

とても柔らかで平和な雰囲気を持ち、落ち着いていて物腰も丁寧です。社会との連帯感を何よりも大切にするので、内心に人の好き嫌いはあっても、決してそれを表に出さず社交性も持っています。どちらかというと控えめで、観察眼の鋭さから人の心理を巧みに読み取り、細やかに周りに気を配ります。

環境の変化に対して柔軟に対応してゆき、対人関係でも仲間意識を大切にし、誰とでも分けへだてなく調和を心がけています。自分の意見や感情をはっきりと表現することが苦手なため、優柔不断に思われたり、真意を理解されない場合があります。根気強く繰り返しへの耐性があるので、生活も規則正しいリズムを保ち堅実第一主義です。

社会のこと、政治経済のことなどにもアンテナを張っていて情報収集を怠りません。記憶力に優れていて数字や計算にも強いので、ランダムに集めた情報を整理して処理し、知的に読み解いて自分のものとして吸収することが得意です。指導者などの地位に魅力を感じることから、組織的な活動やグループ活動を好みます。

事業家的センスを兼ね備えていて、経済観念も発達しています。新しい企画を実現させるために長期的な視野に立った独自の判断力があり、仕事とプライベートをきちんと区分けする手堅さもあり処世術に長けています。心の根底に自分に対する自信を持っています。

常に人間関係においては相手の自由を尊重しているので、自分の意見を主張することなく、まずは相手のやりたいようにやらせてみようと心がけます。奉仕精神が旺盛で、人や社会の役に立つことに大きな喜びを感じます。また観察眼の鋭さから、文章の表現力も的確で知性の輝きを見せます。

このタイプの人の強みは、根気があり忍耐強く繰り返す粘り強さです。トラブルや困難が訪れた時ほどその強みを発揮し、勝負強さを発揮しながら、重要なことから優先的に対処してゆきます。
家族や組織の秩序を尊重しますから、周りからの支持も得ながらその活動ぶりは長く継続してゆくことが特徴です。
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いかがだったでしょうか。
自分が持っていたイメージとはちょっと違うなぁとか
ここはまさに当てはまる!
私はこんな良いところがあるんだなぁ…など、様々な感想を持たれたことでしょ
う。

本来のご自身を知ることで、今後の人間関係にもご活用いただけますし、ご家族、
恋人、ご友人などにも診断を受けていただいて、お互いの資質についてシェアし
あうのも、今後の良好なコミュニケーションに大変役立つことでしょう:*.: ..

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赤文字反転した部分がこの性格診断の間違えている部分です。当たるも八卦、当たらざるも八卦、と言いますが、いい加減なものですね。

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ところで上に書いた柴原さまがこれから遠隔ヒーリングを行いますので、ブログを読んでいる皆様も軽く目を閉じて膝の上に両手を上向きにして下さい。必ず幸せな気持ちになるでしょう。

 


合氣道の技について

2016年03月06日 | スポーツ、武道、格闘技など

ブログを読む前に集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531

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 また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html 一回目の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。

今月の春名先生を囲む会では私が講師となって五行歌の歌会を行いますので、参加される人は http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/f4c47ab144a03aef2fe22d51d9c8ddc3 を参考にして五行歌を作って私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp まで送って下さい。題詠(テーマ)は「炎」ですが、この言葉を作品の中に入れても入れなくても構いません。また上のurlで、はひふへほ、を折句にして歌った女性はキャバクラに勤めているホステスさんで、初心者の上に26歳の若さですから皆さんも絶対に作れる筈なので頑張ってください。いまのところ誰からもメールがありませんがあと12日しかありません。よく五行歌では「上手くつくろうと思い出したら、そこが地獄の一丁目」と言われますので、あまり傑作意識を持たず、普段思った通りに詠んでみて下さい。

また一般の人は http://gogyoka.bbs.fc2.com/ この掲示板に投稿をお願いします。

嬉しいお知らせがあります。柴原さんと出会ったところ「ムササビヒーリングの家」を経営されアンチエイジングから遠隔ヒーリングまでされていました。今月から「春名先生を囲む会」に参加されます。遠隔ヒーリングをしてもらったところ、私は膝に置いた手(上に向けます)から電気のようなものがビリビリっと伝わって来て非常にいい気分になりました。母親にその要領を伝えたいのですが、気が強いので「うるさい!」と言って言うことを聞きませんが、要領が分かるまで繰り返し教えるつもりです。また遠隔ヒーリングは何時でも何回でもどの場所にいても癒しを与えることが出来るそうです。これは禅でいう「空」の思想に通じるもので、存在の統一性というか、個人も外界もウェブ上に絡まりあっていて全ては一つ、という思想と相通じるものです。例えばハンカチの一部分を持ち上げると全体が移動しますが、その一部分が自分自身だと思えばいいでしょう。柴原さんは宇宙が一つの棒だとすれば棒のどこを押しても全体に伝わるとおっしゃっていました。

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今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私が小野洋子ほどの資産家であれば5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。

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合氣道(養神館)の技は文章では伝えることができないのでyoutubeをご覧になった後で解説をすることにします。

https://www.youtube.com/watch?v=xmbwGVnOio8

この前半の塩田剛三の技を見れば分かりますが、合気道は単なる護身術ではありません。特に塩田剛三がそうですが、7割がたが攻撃と言われています。一見ビンタのように見える技は掌底と思われがちですが、実は人差し指の付け根を釘のように鋭角に尖らせて相手の顎を打つために奥歯が折れてしまうので今は禁じ手になっています。パスカルの原理だったと思いますが、ある衝撃を与えた場合は接触面が狭いほど力が加わります。私はこのように人差し指の付け根を尖らせる練習を歩きながらしていた時に、しばしばタクシーが停まって困ったことがあります。

それから人差し指で相手の喉を刺したり、足の親指で相手の足の甲を踏みつけたり、と塩田剛三の技は非常に攻撃的です。次の技はとても私には出来ませんし、今の日本ではこの技を使える人は一人もいないでしょう。

https://www.youtube.com/watch?v=z4DKpY3suQ8

普通は合気道は相手の力を崩し円運動で相手にその力を倍返しにして返す、と言われていますが、このような例外があることを覚えておいてください。

また例えば小手返しという技にしても、一見は指だけで相手を倒しているように見えますが、実際は左手で技を掛けている時には右足の親指で地球を蹴りその地球の重さを相手の右手の小指と薬指の付け根に掛けています。

このように養神館の合氣道は奥が深いのでいずれ私が講師になって「春名先生を囲む会」の時に簡単な実技を見せますから、その時に改めて説明しようと思います。

残念ながら養神館は現在分派して二つに分かれているようです。私には糖尿病性のニューロパチーという難病があり、足首から下が過敏でフラツキがありますが、必ずこの難病を治し、養神館の師範までは取りたいと思っています。

これで今回の合気道の技についての解説を終えることにします。

 


合気道の歴史

2016年03月03日 | スポーツ、武道、格闘技など

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 また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html 一回目の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。

今月の春名先生を囲む会では私が講師となって五行歌の歌会を行いますので、参加される人は http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/f4c47ab144a03aef2fe22d51d9c8ddc3 を参考にして五行歌を作って私のメルアド wasaburo@hb.tp1.jp まで送って下さい。題詠(テーマ)は「炎」ですが、この言葉を作品の中に入れても入れなくても構いません。いまのところ誰からもメールがありませんが時間はまだタップリあります。また上のurlで、はひふへほ、を折句にして歌った女性はキャバクラに勤めているホステスさんで、初心者の上に26歳の若さですから皆さんも絶対に作れる筈なので頑張ってください。

また一般の人は http://gogyoka.bbs.fc2.com/ この掲示板に投稿をお願いします。

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今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私が小野洋子ほどの資産家であれば5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。

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終生野において一度も光を浴びることなく、卓抜した武道人としての使命を全うした者があった。それが、大東流合気柔術家、武田惣角であった。大東流と武田について、竹内博は次のように述べている。

 「現在の合気道は、その端を『大東流合気柔術』に発しています。この大東流というのは、起こりは清和天皇の第六皇子・貞純親王にあると言われ、親王の長子・経基をへて源家代々に伝わり、源義家の弟・新羅三郎義光に至って現在の合気道の基礎がつくられたといわれています。義光は、クモが細い糸で大きな虫を巧みに捕らえるさまから技のヒントを得、また、戦死体、あるいは罪人の死体を解剖して人体の構造を調べ研究したと言い伝えられています。」「義光の第二皇子・義清が甲斐の武田に住み、武田姓を名乗るようになってから武田家秘伝の武芸として門外不出のまま代々伝えら れ、天正2(1574)に武田国次が会津にくだって芦名盛氏の地頭になってからは、その子孫が代々継承し、『会津お止め技』となっていたようです。その後ほとんど世に知られずに伝わっていたのを、明治になってから武田氏の末孫・武田惣角先生がはじめて一般に公開するようになりました。」(塩田剛三著『合気道』)

こうしたものたちの中で最も自らの工夫・独創を多く加え、ついには新しい武道を誕生させるまでに至らしめた者が、合気道創始者、植芝盛平である。

 植芝は、初め起倒流の戸沢徳三郎、次いで柳生流の中井正勝に師事し、1908(明治41)年、25歳で柳生流の免許を受けた。その後も多くの武道諸流に触れ、自らの工夫を重ねる中で、大東流の武田惣角に出会うことになる。

 植芝盛平監修・植芝吉祥丸著の『合気道』によれば、植芝は1910年4月、開拓の目的で北海道に渡り、翌1911年、彼の地で武田に初めて会ったという。前掲書の一節に、「惣角師範は非常に小柄であったが、実に達人であったので、道主(植芝盛平のこと、引用者注)は深く傾倒し、最初は久田旅館(武田の宿所、引用者注)で、ずるずると1ヶ月、その後大正元年更に自宅へ迎えて師事し、食事の調理から風呂の世話まで、何事によらず一切自分の手で行い、ついには家まで新築してさし上げた。なかなか気性のはげしい人で、修行中の弟子に対しては峻厳そのものであったが、道主は己を空しくし寝食を忘れて、全精力を注いで修行に努めた。」とあり、植芝の当時の生命をかけた修行の様子を知ることができる。

 植芝が直接武田の指導を受けたのは日足らずであり、そのためか、彼が大東流の奥伝にまで到達していないという指摘(鶴山ら)がみられる。しかし、植芝クラスの天才にとって、100日という期間、師と寝食をともにし指導を受けたことは、師の武道のエッセンスをとらえるに十分すぎるものであったというべきであろう。それに、合気道が大東流と技術的に同一のものを持ちながらも、大東流の持つ驚くべき理合難解さ(それはときにパズル以上のものである)、体系の巨大さから解放されて、いかにも合気道らしい明快さ、優美さ、スピード感を身につけていくことができたのは、その期間が短かったことも幸いしてのことであったろう。1916(大正5)年には、同流の允可を受けたという。植芝の修行は、ひとつ武道にとどまるものではなかった。幼少時より人並はずれて心の修行に関心が深く、7歳(1890、明治23年)で真言宗の、10歳で禅の体験を積んでいる。

しかし、植芝に理念のうえで決定的な影響を与えたのは、何といっても大本教の出口王仁三郎である。出口は、旧来の習弊にとらわれぬ新宗教を建設し、それによって大東亜共栄を図ろうとした宗教家、政治社会運動家であった。彼の中心的理念であった人類愛善主義は、彼の合気道の理念形成において、その中核的な役割を担うことになったと考えられる。植芝が大本教に帰依したのは、1919(大正8)年であり、1922年には大本教の組織で武道教室を開催したという。

武道教室開催について自ら招聘した武田より、大東流教授代理の資格を受けた。このとき以降、植芝は武道の指導者としての道を歩むことになる。彼の武道(この時点では未だ合気道という名称はなかった)は、(大東流を中心とした各種の柔術・剣術・槍術等の修行に自らの工夫を加えたこと、大本教の理念を取り入れ、自らの理念の究明と理念に調和する技術および練習方法等の工夫をしたこと、)講道館柔道が行っていた集団指導方式に近い方式を採用したことをその特性として打ち出しつつ、次第に独自の道を確立していくことになる。彼は、武道の指導者として、嘉納的な近代性・革新性、武田的な伝統性・保守性、そして出口的な宗教性・政治社会性を併せ持った、複雑な人物であったといえよう。

 彼が武道の指導者として道を歩み始めた時代は、日本が軍国主義へと傾斜を強めていく時代であり、海軍を中心とした上級軍人の知遇を得たことは、彼の組織の発展において大きな力となった(後年、植芝は軍人に戦争のための武道を指導したことを反省している)。

 1932 (昭和7)年、武道宣揚会発足、1934年皇武会合気柔術武道解説書の発行、1940年財団法人皇武会認可、1942年植芝の弟子(当時皇武会道場総務)平井稔が武徳会に合気道の名称登録をする。そして1944年天真合気道として、はじめて正式に合気道の名称化をなした。1948年武産合気道と改称する。

 こうした名称変更の頻繁さは、彼の時代感覚と、合気道というものの性格の一面を示していて、たいへん興味深い。ほかの武道家、武道にはけっして見ることのできない植芝合気道の特殊性である。

 ほかに植芝の業績として看過できないものに、講道館員等への合気道の指導がある。これは、 1930(昭和5)年嘉納治五郎が植芝の演武を一見して「これこそ柔道の精髄」と賛美し、自らの弟子を植芝道場に入門させた。美談として語り伝えられているものである。このときの講道館派遣生の一人が望月稔である。望月はその後も長く植芝のもとで研鑚を積み、有力な合気道家として現在に至っている。このように嘉納が送ったもの以外にも、数多くの柔道家が植芝の門をたたいた。その一人が富木謙治である。 かくして合気道は戦後を迎えるわけである。

 合気道の戦後史は、1)財団法人合気会の発足とその飛躍的発展、2)分派の発生、3)海外への普及の三つのモメントにおいて展開される。財団 法人合気会は、戦前の皇武会の後身として、1948(昭和23)年2月、文部省の認可を受けた。戦後の合気道の復興と発展は、植芝盛平の嫡嗣である植芝吉祥丸を中心として行われた。

 合気道の一般への普及の糸口は、1956(昭和31)年、日本橋高島屋での演武会を機に開かれていった。これ以降、学校、会社等での説明演武会が次々と行われるようになり、大学をはじめとして多くのクラブ、または各地に支部道場がつくられていった。戦後はまた分派の発生の時代でもある。植芝盛平は戦前・戦後を問わず数多くの直弟子を育てたが、それらの内の大半が合気会系の指導者として活躍する一方で、また何人かの有力な者たちが独自の組織をつくり、理念や技術に工夫を加えるなど、各々の特徴を発揮しながら、現在に至っている。

 それらの中には、はっきりと別種の武道として存在するもの、流というほどでなく単に派程度の段階にとどまるものなど、多岐にわたっている。井上与一郎(号方軒)、富木謙治、望月稔、平井稔、また塩田剛三、藤平光一といった人々がそうした者の代表的存在である。

 しかし、合気道界は何といっても植芝盛平という巨星をともに師と仰ぐものたちによってのみ構成されているのであり、「絶対の和」を唱導した創始者の教えも効あってか、徒な争いは全く存在しないといってよい。それどころか、植芝吉祥丸が語っているように、そうした人々は「それなりに特異な存在として合気道の幅広さを物語っている」として、冷静に互いの存在を肯定しているのである。

 国外は、ヨーロッパ、アメリカを中心として八十余カ国にその足跡をしるしつつある。日本からの派遣指導員の数も200名を越すという。現在では外国人の指導者も多くなり、優秀な者も少なくないという。日本人の合気道家が驚くような新しい合気道への取り組み、またその活用を始めているものも多い。

 The Ultimate Athlete(『魂のスポーツマン』)の著者ジョージ・レナードおよびその合気道の指導者であるロバート・ナドウらは、そうした者の中の代表的存在である。存在論の実践的究明の手段、あるいは他の文化、演劇・舞踊・各種のサイコセラピーとの融合等々に、外国人の努力が見いだされる。1975(昭和50)年11月、合気会本部を中心として、国際合気道連盟(IAF)が結成された。現在加盟国は80ケ国をかぞえるまでになっている。


輪島功一の思い出

2012年12月22日 | スポーツ、武道、格闘技など
渡辺二郎の話を2度続けて書いて、輪島功一の記憶が何度も蘇った。wikiから引用して簡単に思い出を書く。
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輪島 功一(わじま こういち、男性、1943年4月21日 - )は、日本の元プロボクサー。元WBA・WBC世界スーパーウェルター級王者。現在はタレント兼団子屋経営者。本名は輪島 公一(読み同じ)。樺太出身、北海道士別市育ち。血液型はB型。

(那田注:プロボクシングでの契約ウェートは (66.678 - 69.853kg) である。ウェルター級とミドル級の間の階級で、全17階級中6番目に重い階級。1962年設置。日本のプロボクシングでの旧名はジュニアミドル級)

いつもはケンカなどはしない輪島少年だが、友達をいじめたり暴れたりする上級生がいれば「許さん!」と立ち上がり、1対1でバスケットボールのゾーンで殴りあい、相手を負かして「正義の味方」と呼ばれた。決して乱暴者や不良ではなく、腕白だが友達思いの優しい少年であった。
 のちに所属する三迫ボクシングジムの会長・三迫仁志は「輪島のすごいところは苦労人に在りがちな暗い表情が全く無く底抜けに明るくてひょうきんなところだ。たくさんの友人がいて、みんなが楽しそうにしてるのを見たら輪島の人柄がわかるでしょう」と輪島を評している。
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日本人でジュニアミドルという重い階級のチャンプが生まれたこと自体が驚きだった。輪島は漁師の子供で三半規管が異常に発達し非常に目のいいボクサーでディフェンスが完璧だった。また工事現場の労働者だったので腹筋と背筋と足腰の力が強く、ダッキングが得意で柳済斗から王座を奪還したときには、相手の股の下を潜り抜けて裏側に回ったほどだ。
 また輪島は何度かドラマに出て、たしか刑事役をしたことがある。私は彼の飄逸な演技を高く評価していて、これは凄い個性派俳優になる、と注目していたが、どういうわけか役者としては長続きしなかった。一般向きではなかったのだろう。

ではまたwikiから引用。
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テクニック
輪島は試合の中で時折繰り出す、既存のボクシングの常識ではありえない変則的なテクニックでも話題になったことが有名である。

カエルパンチ(かえる跳びパンチ)
極端に身をかがめたダッキングで相手の視界から消え、瞬時に跳び上がるようにパンチを繰り出す技。輪島の代名詞といっても過言ではないほど有名な技だが、実戦で繰り出したのはカルメロ・ボッシ戦で試合中盤に見せた一度だけである。「かえる跳びアッパー」とも呼称される場合があるが、実際に輪島が繰り出したパンチはロングレンジ気味の左フックであるため適切な表現とは言い難い。なお通称の由来は当時の試合中継の解説者が「輪島がまるでカエルのように跳び上がりました」と発言したことから。
当てることよりも相手を興奮させる効果が真の狙いであったと、輪島は後に発言している。事実、ボッシはこのパンチを見せられて以降明らかに冷静さを欠き、乱打で著しくスタミナを消耗している。

あっち向いてホイ
試合中自らあらぬ方向に視線を向けることで、釣られてそちらを見た相手の隙を突くという技。「よそ見パンチ」とも呼ばれる。輪島本人が語るところによれば、ある時タクシーのバックミラー越しに見えた運転手の視線の動きが非常に気になったことから着想を得たという。初めて使用したのは1971年のカルメロ・ボッシ戦。輪島は引退後、ボッシに仕掛けたこの奇襲戦法について「相手はオリンピックで銀メダルまで取った選手で、テクニックじゃ絶対かなうわけが無い。じゃあ駄目で元々だ、やるだけやってみようと思ってパッと横を向いたんです。そうしたら向こう(ボッシ)もそっちを見たんですよね。やってみるもんだな、と思いましたよ」と語っている。なおボクシングにおいて視線を一瞬逸らすフェイントは攻防技術としてポピュラーなものだが、「よそ見」と形容されるほど大きく視角を変えてしまう例は非常に珍しい。

記者会見でパフォーマンスをしたことでも知られる。オスカー・アルバラードとの再戦時、減量に苦しむ王者の前でおでんとビールをパクつき、王者にも勧め心理的に揺さぶりをかけた。また柳済斗との再戦時では、マスクをして現れ、風邪を引いて体調不良であるように装った。
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カエル跳びをやったのが1回だけ、というのはwikiの間違いだと思う。少なくとも私は世界戦で3回以上は見た。これもよほど足腰の筋肉が強くないと出来ない技で、一回しゃがんで立ち上がりぎわにフックをするのだから、あんなにハードなスポーツの試合中に出来るものではない。

アルバラードに負けたときも柳済斗に負けたときも、輪島は死んだんじゃないか、と思うほど血だらけになり泥雑巾のようにリングに倒れて病院へ搬送された。ファンは、輪島もういい加減に引退しろ、と願ったが不死鳥のように蘇った。
 柳済斗との再選のとき、明らかに自分で作ったと思われる大きなマスクを付けて記者会見し、咳を繰返している姿を見て、私は「芝居だな」と見抜いていた。「俺はもう体力も技術も全て劣っている。優れているのは頭だけだ」と公言していたからだ。
 この試合を私は早稲田大学の近くにあった喫茶店の初期型プロジェクターで浪人仲間たちと観戦していた。
 輪島をナメて試合を始めた柳済斗に対して輪島は驚くべき俊敏な動きで猛攻撃した。後半大差でポイントで勝っているのが分かった仲間たちは「輪島、もういい。余り攻めるな。勝ってるからクリンチで時間を潰せ」と叫んだが、輪島は一向に攻撃の手を休めず、最終ラウンドにロープダウンを奪ってKO勝ちした。

観戦していた仲間たちも、見知らぬ他人も泣きながら総立ちになって抱き合い握手し合った。
 あんなに感動した試合は前代未聞で今でも思い出すと鳥肌が立つ。最後にまたwikiから引用して今日のブログを終えます。
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*柳済斗との第2戦の実況は逸見政孝。逸見はアナウンサー人生でこの試合を実況できたことがアナウンサー人生で1番の印象として挙げている。

*日本中を感動の渦に巻き込んだ柳済斗との第2戦の翌日、都内で強盗が銀行に立て籠もる事件が起こった。このとき警察官が犯人に対し「輪島は逆境から立ち上がってチャンピオンになった。お前も昨日の輪島の試合を見ただろう。輪島を見習い人生をやり直せ」と説得したという。あまりにも劇的な輪島の王座復活は、当時の国民的関心事だったことが伺える。

渡辺二郎 続き

2012年12月21日 | スポーツ、武道、格闘技など
マヌケというか疲れというか、折角長いブログを書いたのに、ちょっとした操作ミスで全部消してしまった。自動復元機能がついているのだが、それも使えない状態に陥った。だからごくごく簡単に解説する。

彼が天才と言われる世界チャンプのボクサーから何故ヤクザ社会の幹部になったか、色々調べてみたら、以下のサイトに出会った。
http://idol-geinou-mihari.seesaa.net/article/226775281.html

大事な部分を抜粋すると、
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大阪で伝説のワルといえば、"浪速のロッキー"こと赤井英和などのイメージが強いですが、実際に大阪のヤクザや不良の間で伝説として語られているのは、渡辺二郎とシュートボクシングの創始者・シーザー武志です。ふたりとも高校時代から、関西の不良の間では名前を知らない者はいない存在だった。渡辺は自分からケンカを仕掛けることはなかったようですが、いったんケンカが始まったら周囲が引いてしまうほど一瞬で相手をボコボコにしてしまう。負け知らずでとにかく強く、その名前はヤクザ業界にまでとどろいていた。

悪いイメージばかりが付きまとう渡辺だが、彼をよく知る関係者は「真摯で義理堅い性格」と口をそろえる。

「ギャラ条件の悪いテレビ番組や映画でも、グチを言わずに快く出演してくれることで有名でした。恩義のある相手に対しては、金にならないことでも義理を通し続ける。紳助があれだけ渡辺を慕っていたのも、闇社会とのパイプ役というだけでなく、その性格を信頼していたからでしょう。逮捕された事件でも、世間に顔を知られている人間が拳銃の非合法取引や恐喝に関与すれば、逮捕されやすいというのは誰でも分かる。それでも『二郎さん、お願いします』と頼まれると、イヤとは言えない性分なんでしょうね」(芸能関係者)
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で感想は、美徳が重なり逆に失敗する典型例ということ。

①喧嘩が強い=長所。
②真摯で義理堅い=美徳
③人に頼まれると嫌と言えない=美徳

つまり渡辺の場合「兄貴的性格」や「任侠道」が悪いほうで開花してしまった。人生はやり直しができるのでその美徳を別の面で発揮して欲しい。

それからヤクザ映画やフィルムノワールの研究は一杯あるが、映画撮影と興行とヤクザの関係は切っても切れない部分があり、そういう研究論文などを知っている人がいたらコメントで教えてもらいたい、という内容でした。

2度も書くのは疲れるので大幅に省略しました。失礼します。

渡辺二郎の思い出

2012年12月20日 | スポーツ、武道、格闘技など
今日も簡単に。気になっていた人物・渡辺二郎に関してwikiから抜粋引用。
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渡辺 二郎(わたなべ じろう、1955年3月16日 - )は、日本の元プロボクサー(大阪帝拳ジム所属)。現在は暴力団関係者(山口組系極心連合会相談役)

生涯戦績は28戦26勝(18KO)2敗(世界戦14戦12勝(8KO)2敗)。

電車で外の景色を見て動体視力を鍛えろ」などの独自のトレーニング方法や、「汗でびしょ濡れになったTシャツは他の練習生を不快にさせるので着替えろ」などの心がけを述べており、一般的な入門書とは一線を画していた。
 ファイティング原田が十数kgの減量をしたと語っているのに反し、「それだけ体重が増えているのは普段の節制が足りないのだから、自慢ではなくて恥じるべき」と意見したことがある。
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私は格闘技、武道、そのほかスポーツ関係は、実践も観戦も大抵好きだ。ボクシングは10代の終わりごろに輪島功一やガッツ石松がいて、所謂「キャラが濃い」ボクサーだったために友人たちと大いに興奮してテレビ観戦した。キンシャサの戦いで全盛期のJ・フォアマンとピークを過ぎたモハメッド・アリとの世界ヘビー級選手権、「絶対にアリが勝つ」と信じてその通りになったときの感動も忘れがたい。まさかロシアンタンクなどという戦法を使うとは思わなかった。完全にガードしてロープにもたれ打たせるだけ打たせて、相手が打ち疲れた瞬間にジャブでKOしたのだが、その後のJ・フォアマンの復活も感動的で、知らない人は是非調べてみてほしい。

ところで渡辺二郎に関しては独特の感慨がある。
 彼は日本拳法の出身で確か大学選手権のチャンプだったと記憶している。同僚や批評家たちは彼を「天才」と呼び絶賛した。http://www7a.biglobe.ne.jp/~BOXCITY/jirou.htm なども褒めちぎっている。

彼の試合の様子は以下に収録されている。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&v=CK2kEd4QbDY&hl=ja

引退後解説者だったころに渡辺は次のように言っていた。
「ボクシングと喧嘩は根本的に違う。例えば心斎橋で肩が触れ合ってドツキアイになったら喧嘩。ボクシングの場合はその場でやらず、2ヵ月後にリングの上で決着しよう、と話をつけ、その2ヶ月間お互いにトレーニングしてルールのあるドツキアイをする」と解説した。非常に分かり易く、頭のいい人間だなぁ、と改めて好感を持った。

ところが後年、ご存知の通り平手酒造(ひらてみき)ではないがヤクザの用心棒となって逮捕されたときの顔を見ると、人相がすっかり変わり別人のようになっていた。
 こうなった理由は知らない。言うまでも無く、唯識、フロイト、ユングなどの深層心理学では、無意識の中には全く別の人格が潜んでいると説く。とくにユングの場合はシャドーという元型を仮定して、それとの統一を個性化(自己実現)の前提としている。あるちょっとしたことが原因で人格が反転したのだろう。

それにしても天才といわれ、最も冷静でクレイバーなボクサーと評価され、独自のダンディな哲学を持っていた人間があそこまで変わるものか、と愕然とした。
 こういう場合、大抵は金か女かドラッグで罠を仕掛けられるのだが、どうなんだろう。彼の属している山口組系極心連合会で調べてみると、芸能界と密接した繋がりがあり、トラブルが起こったときの解決など所謂「ケツ持ち」の仕事が多いようだ。また渡辺二郎は頼まれたら断れない性格とも言われている。

私は裁判官や弁護士にも大悪党もいれば、ヤクザにも善人がいることは体験的に知っている。だから彼がヤクザの構成員という理由で彼を偏見の対象とはしない。大ファンだった天才ボクサーが、その名誉を失ってしまったことに同情するのみである。
 今からでも遅くない、世のために一肌脱いで再び活躍して欲しいものだ。

大西マジックの思い出

2010年12月07日 | スポーツ、武道、格闘技など
それにしても、楽しかったこと二つ。
①ハンカチ王子は、高校野球で優勝したときに巨人に3億詰まれたけど、無視して、私が早大に入って、六大学の黄金時代を作りますと宣言し実行した。で、技巧派だったけど150キロ超える豪腕になり、条件も出さず北海道に行ったよ。
 水由さん、北海道の人は善良だから行くのが楽しみだって。日ハムですか、あんなマイナー球団にね。さすが群馬県の郷士の出身でした!

②さっき見ていたら、今日早稲田と明治のラグビーの試合があって、早稲田の楽勝でした。私はラッキーにも日本ラグビー理論の大成者大西鐵之祐の授業を受け、北島監督率いる黄金時代の明治との一戦を見ました。大西監督は70を超えていたけど特別臨時監督となって登場した。

明治は相変わらず重量フォアードで、パントしては前進、サインが3つしかない。大西監督は、学生の自主練習に任せ、サインが30前後あった。99対1ぐらいでスポーツ新聞jは明治有利と書いていた。大西先生は部下たちに「君たちはマスコミを信じるか。私を信じるか。必ず早稲田が勝つ」と言って、ユニフォームを渡すときに塩を撒いた。つまりグラウンドで死ね、と言う意味。
 で、見事に早稲田が勝った。大西マジックと言われたね。覚えてるだろK君。

で、今日のニュースで明治の監督が、涙目で「とにかく早稲田に勝て」とハッパをかけていた。僕は、ああ、明治の負けだな、とわかりました。勝て、倒せ、攻めろ、というのは敵に対する怨念と劣等感です。まるで朝鮮だ。指導者がこれではいけない。早稲田は伝統的に、相手に対する憎しみや勝ち負けは度外視して、黙々と稽古をする。体重が20キロ違っても、必殺のタックルを研究する。そして大西監督の世界一のラグビー理論、接近、展開、連続(展開、接近、連続だったかも)で、オープンに回し、小柄が大男に知恵で勝つ。
敵に勝つのではなく、自分に勝んだよ。だから試合が終わればside off 両者礼。敵も味方もない、でドロドロのユニフォームを交換する。

では大西先生の写真をアップ。もうこんな名物教授は早稲田にはいないだろうな。