那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

遂に取りました 文芸作品入賞です

2021年01月20日 | エッセー
2021年01月20日 | エッセー
http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日にの8時から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。手前のテーブルの場合もあります。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたので(現実には飲めても飲めなくても3千円になっています)。春名先生の講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。医療だけでなく歴史や芸術についても講義できるようになりました。私は八王子五行歌会の代表です。賛同される方は私まで電話を下さい。042-634-9230。出ないときは留守電にメッセージを残して下さい。生死とは何か、善悪とは何か、魂や神仏は存在するか、等々本来は宗教者や科学者が総出で考えるべきことを、飲み食いしながら3千円で話し合えるのは「春名先生を囲む会」だけです。このブログ方も是非賛同者になって下さい。先月のテーマは「キューバと社会主義」でした。もしあるとすれば次のテーマは「死後の魂です」このブログをご覧の皆様も是非賛同者になって下さい。
私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)
今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。
 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記してください。退会は自由ですので、私にメールか電話をください。

以下はその全文です。3000を超す作品の中から選ばれました。
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 私は小学4年生まで勉強はできるが気が弱く虐められっ子だった。
母に聞くと下校の途中、帽子を取られて投げ捨てられて母に会うと泣いていた。
母は気が強い女丈夫だったので、「誰にやられた、私が見ているから苛め直せ」
毎回そういわれたが怖くて出来なかった。
 小学4年生の時、母の勧めで警察道場に通うようになった。
師範は元壮士(と言えば聞こえはいいが要するにヤクザ者)で、母が経営している高級料亭に来て、「誰の許可を得て商売をしているのか」と脅したが、母は「なんでお前の許可がいる」と強気に追い返した相手だった。
 その師範は古流の剣道を教えた。
例えば闇稽古だ。道場の羽目板を全部閉じると真っ暗になる。そこで打ち合うのだが、相手が見えないので何処を打ってもいい。小手も胴も面もない、足を打ってもよかった。
 また、片方が竹刀を落とすと普通は「両者待て」と言って、落とした方が竹刀を拾って構えなおすまで試合を止めるのだが、その師範は「両者組み合え」に変えて、お互いが柔道のように戦い、相手の面を脱がした方が勝ちになった。これは実践を想定して、相手の首を刺すほうを勝ちにしたのだろう。
 私は母親方も大きな庄屋(苗字帯刀が許される)、父方は南朝の後村上天皇に仕えた荘園領主権地頭だったので、先祖の遺伝せいか、初めから間合いが分かり、気迫に押されて判定で負けることはあったが、一本も取られたことがない。
 小学6年になった時には愛媛県西予市(町村合併の前は東宇和郡)の中でも3本の指に入っていただろう。
 剣道を始め出して徐々に気が強くなった。ある時、虐めっ子と河原で喧嘩の対決なった。
一対一で対決する約束が、相手は卑怯にも仲間を2人連れてきて、しかも手に小石を持ち
あったとたん私の胸に小石をぶつけた。しかし、それで相手も気が引けたのだろう。それ以来苛めは無くなった。
 またこれも小学6年生の時、仲間の一人が中学生に殴られた。仲間同士でその中学生を追いかけると、小学校のグラウンドにいた。話し合いでは全員が一斉に中学生に飛び掛かる予定だったが、みんなが怖がって誰も飛び掛かろうとしない。私だけが「年上の癖に年下を虐めるな」と言うと、お前だけが来い、と言われ中学生の前に私だけが立つと突然パンチが飛んできた。私は頬を背けてパンチを避け、相手の鼻を狙ってパンチを浴びせた。
相手は鼻血を出して泣きだした。そこへ高校生が来て喧嘩を止めた。
 その後、映画のシーンのような不思議な儀式が始まった。
喧嘩の強い仲間から順番に握手を求めてきて「お前にそんな読経があるとは思わなかった。俺が悪買った」と言われた。
 私はHPにあるブログで苛めを無くす方法と題して
「虐められっ子は鉛筆削りでいいので、虐められたら相手ののど元に当て、今度虐めたら殺すと言え、相手は虐められっ子を見ると図に乗るのでそのぐらい脅さないと苛めが直らない」と書いたことがある。
 また私は高校生になった時、その高校ではカラーより下に紙の毛を伸ばしてはならないという学則があったが、教師に向かい「親からもらった体に手を触れるな。お前らは勉強だけ教えておけ」と言った。担任が弱り切り、私の父(明治生まれの小学校の校長で地元では教育委員会より権威があった)に事情を告げにきたが、父親は「それは息子の言い分が正しい」と答えたので担任は二の句が継なかったと聞く。
 これは孝教にある「身体髪膚これを父母に受くあえて毀傷せざるは孝の始めなり」を元にしているのだろう。
 また私が通っていた高校にはその名も怖い「血友会」と言う番長グループがあった。
私は校則で許されていない革靴を履いたり、ガクランの第一ボタンを外して歩いていると、副番長からいつも体育館の地下にある更衣室に呼び出され、二度とこういうことをするな、と言われても辞めず、同じことを続けていたら、ちょうど10回目の呼び出しの時に、突然学生手帳を出せと言われて出すと、証明写真を破られ、血友会の名簿に貼られ「お前は今日から血友会の会員になった。これからは仲間だから何をしてもいい」と言われた。その副番長と言っても、小さな田舎町なので子供のころからの顔見知りだった。
 そこで「先輩、この会の番長は誰ですか」と聞くと、顔見知りの金澤さんだった。
挨拶代わりに金澤さんの家に行くと、金沢さんは普段はおとなしい人でしかも美術部に入っていたので(私は剣道部)、抽象画を描きながら、「今度は言ってきたのは君か、ここで煙草でも吸っていてくれ」と言いながら抽象画を描いて、私に「この隅の色は何色がいいと思う?」と聞くので私は「紫色がいいんじゃないですか」と答えた。
 描き終わると私に向かい、これからは仲間だから何をしてもいいし、困ったことがあれば私に相談しなさい、と言わた。
 そこでまた副番長に、あんな大人しい人が何故番長なのですか、と聞きなおすと、小学生の時、金澤さんが苛めにあったとたん、椅子を振り上げて相手を殺しそうになるまで殴り続けたという。そこで、副番長(柔道部)が、あの人は怒ると何をするか分からないので、番長にして、私たちが代わりに喧嘩をすることになったと教えてくれた。
 こういう立場になった私は高校3年になるとウラバンになった。
私はウラバン、同級生の一番喧嘩が好きなのを番長にして、血友会を続けていた。
 血友会と言ってもヤクザのように上納金を払うわけではなく、仲間が無免許運転のバイクで怪我をしたときに500円ずつ出し合ってお見舞いにする程度だった。その会は西南愛媛の10校以上が会員になっていたので500円でもかなりの金額になるからだ。
 あるとき、私がクラスメートの中で一番可愛い子をナンパした時、私の家の近くに住む宇和島東高校の血友会の先輩がやって来た。話があるから近くの神社まで来てくれと言うので行ってみると、実はその女はその先輩の彼女で私と二股をかけて交際しているのが分かった。事情を聞いて、先輩の彼女とは知りませんでした。私はあの女から手を引くので先輩が付き合って下さい、と言うと、先輩もお前も知らず付き合ったいたのなら仕方がない、俺もその話を始めて知った。俺もそういう女なら手を引くと言って、私の煙草に火を付けてくれた。その男通しの話を聞いて、その女は涙を流したが、知ったことではないと思った。
 またクラス対抗のバスケット大会があったとき、同級生のある男が張り切りすぎて一番喧嘩の強い番長をマークして反則スレスレの妨害をしていた。試合が終わり、その喧嘩の好きな番長が私にあの男は誰だと聞くので名前を教えると、ちょっと体育館に呼んできてくれと言った。私は親友だったが、試合を見ていて同級生が悪いので、呼び出しをかけると、(ウラバンの役目は、呼び出しを掛けたり、喧嘩の仲裁に入る、いわば調整役だった)その喧嘩の好きな男と同級生が殴り合いになり、同級生の方が先に手を出すと、番長が頭に血が上り、相手を殴るだけ殴りつけ、床は血だらけになった上、殴られたショックで健忘症になり、救急車で運ばれた。
 その結果、番長は停学処分になった。停学中に遊びに行くと、お前が悪い、いや、あそこまで殴ったお前が悪いと言い争いになったが、仲間通しなので喧嘩にはならず、卒業してその番長が(若い時にこういう番長グループに入っていた人間ほど真面目な営業マンになっている)、一緒に酒を飲みながら、昔語りに笑いながらその時の話をする。
 
 私は虐められっ子から逆にウラバンになった話をしたが、鬱病を克服した話をすることにしよう。
 私は中学一年生の時、太宰治の「人間失格」を読んで以来、人間の裏側の姿を知って思い不眠症になった。高校生から大学生になると酒を飲んでごまかしていたが、酒が無いと眠れなくなり、等々アルコール性肝炎になった。
 その上、私は完全主義の性格があったので、アルコール性肝炎と同時に細かなことにこだわりすぎて鬱病を併発した。
 鬱業は別名「英雄病」とも言われ日本人では五木寛之、黒澤明、田宮二郎らがいる。
鬱病は落ち込んでいるときは大丈夫だか、元気になると突然自殺をする。
 私が大学院を修了して郷里に帰ったとき、可愛がっていた愛猫が車に引かれたのがきっかけとなり、ペットロスから鬱病になった。そのころ私は学習塾を経営して、一人で80人ほどの中高生を教えていたが、突然簡単な暗算や移行が出来なくなり、テレビを見ていても画面酔いするようになった。
 たまたま隣町に当時は珍しい心療内科が出来たので、行くと主治医が顔を見ただけで「貴方は鬱病なので当分通ってください」と言われた。何故顔を見ただけで分かるかと言うと、鬱病になると、水泳をした後にプールサイドにやっと上がった人のように疲れ切った顔をしているという。
 心理学者で有名な犬丸四方によれば捨てられた観音様のような、タレントで言えば山口百恵のような顔をしている、と書いてあった記憶がある。
 そこで鬱病の薬を貰うとともに、週に一度ユング派のカウンセラーにかかることになった。この人は、前歯が折れ、破れたジーパンを履いていたので、この人にカウンセラーが務まるのか不安だったが、以外にも名カウンセラーだった。
 一番最初に言われたのは「私は因果論を語りません。結果的に鬱病を治します」
そこで因果論を語らないと鬱病になった理由が分からないのではないですか」と質問すると、
 仮に子供が車にひかれて亡くなったとしましょう。そのせいで鬱病になったお母さんが「なぜ私の子供が無くなったのですか?」と聞かれても、雨の日に傘を刺して歩いていたら風が吹いてきたのでそれを取りに行こうとしたらたまたま車が走って来たからです、と因果論を話しても解決しません。分かることは「自然は人間の営為に無関心だからです」
と言われた時に、この人はただものではないと分かった。
 そこで面白い治療が始まった。
カウンセラーは毎回「貴方は自分のやったことが100点満点でないと自分を責めるでしょう。しかし人間は50点でかまいません」
 私は毎回「50点では気が済みません。せめて80点は取らないと自分が許せません」
この問答が毎回繰り返された。
 それが延々と続くので私がそのカウンセラーに「先生、毎回同じ話をしていても飽きてしまいます。別の話にしませんか?」と言っても「頭で分かるのと体で分かるのは違います。貴方が本当に50点で自分が許せるようになるまでこの話を続けます」と言われた。
 恐らくこの問答は半年続いたと記憶する。
またこれも鬱病に付随する病気だと思うが、人前に出ると恐怖心に駆られ心臓が止まりそうになる対人恐怖症もあった。これはカウンセラーが簡単に治ります。最初は10人の前で話しなさい。慣れてくると20人の前でも話せるようになります。段々慣れてくると相手が何人いても話せるようになります、と教えてくれた。これは行動療法と言われるものだが、この助言のおかげで今では相手が50万人いてもはなせるようになった。
 私が指導教授から君を必ず教授にするからまた東京に出てきて非常勤講師から始めないかと電話がかかったとき、カウンセラーは引っ越しは心に負担がかかるので今は考えた方がいい、と言われたが私は学習塾を畳んで東京に戻ることにした。
 そのカウンセラーは不思議な人で今でも突然メールが来て、調子はどうですかと聞く。
私が本当に鬱病が治ったのは坐禅をするようになってからだ。
 初めて坐禅を組んだ時、(いつも考え事ばかりしている性格なので)、何も考えずただ座っていると、まるでサウナから上がって冷水に飛び込んだような気がして頭がすっきりするようになった。
 さらに坐禅を続けていると、所謂「見性体験」という覚醒体験、意識の変成体験が訪れる。その一回目の見性体験から瞬間にして鬱病が治った。
 この虐めっ子が逆にウラバンになった話は是非とも子供に教えてやって欲しい。
鬱病が見性体験で一発で治った話は誰も信じないだろうが、座禅を組み続ければ分かるようになる。
 あのカウンセラーがまたメールをくれたらこの話をしてみたい。
ユング派は東洋思想から逆輸入された思想なのであのカウンセラーならこの体験を必ず信じてくれるだろう。











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文芸コンテストに入賞です

2021年01月20日 | エッセー
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私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)
今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。
 http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)なお、微笑禅の会の口座番号に変更があります。入会手続き入会金なし。会費は年に5千円とし、ゆうちょの以下の振替口座 00130-7-447671 名称「微笑禅の会」に振り込んでください。その際は住所氏名他連絡先、男女の区別を明記してください。退会は自由ですので、私にメールか電話をください。
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NPO法人再チャレンジ東京主宰、東京都共済、文部科学省後援の第八回いじめ・防止コンテストに応募したところ、3000を超す作品の中から厳正な審査の結果、入賞しました。
賞状と記念品は後日送られるそうです。

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私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)
今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。
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NPO法人再チャレンジ東京主宰、東京都共済、文部科学省後援の第八回いじめ・防止コンテストに応募したところ、3000を超す作品の中から厳正な審査の結果、入賞しました。
賞状と記念品は後日送られるそうです。

新年会の幹事さんへ

2021年01月14日 | エッセー
2021年01月01日 | 八王子早稲田会
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私が微笑禅の会(非宗教)を作ったのは日本に10人の見性者が生まれ、10人が協力し合えば世直しが出来ると思ったからです。(ちょうど日本に10人の坂本龍馬が居たら世直しが出来るように)
今後、微笑禅の会(非宗教)のネット会報は中止し、年に5千円の護持会費と数度の紙媒体での会報を出すことにします(メールで済ますこともあります)。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。
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三崎町ジェイズで使える1万円のギフトカートを半額の5千円でゆすります。
期限は3月一杯です。
欲しい方はメールをして取りに来てください。



牧野さんの家の方に

2016年11月09日 | エッセー

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(決定版が出て既に増補改訂版を購入された方には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 電子出版される可能性もあることをお知らせします。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html に最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。今月「春名先生を囲む会」でも病院でも治らなかった膝や肩の痛い人をその場で治すそうです。心当たりのある方はぜひ参加して下さい。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私がロックフェラーほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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私は早稲田大学大学院の修士課程に4年の休学を含めて計六年間在籍した。
 第一に肝臓病、第二に数千万の出資をして作った会社を親族に騙し取られた母に代わっての法廷闘争、それから余りに完璧な修士論文を構想したために原稿が書けない、という三重苦の状態にあったからである。
 私は修士二年のときから映画雑誌に膨大な量の批評や評論を書いていたので、それを修士論文に編集して「戦後実験映画論」にしようと思っていたのだが、指導教授の提案で、戦前の実験映画をテーマにしてはどうか、と言われ、方針変更となり「戦前日本における前衛映画の受容と展開」というタイトルになった。
 当初は「キネマ旬報」や「映画往来」を一次資料にして、ある程度の構想は出来ていた。また、戦前日本の小型映画運動は前衛運動でもあった、ということは知っていたので、単行本レベルでは小型運動の概要も分かっていた。
 牧野守氏と出会ったのは、もうこれ以上休学すると除籍になるという修士六年目の夏、「早稲田大学映画史研究会」の帰り道である。小型映画の話をしたところ、手を引っ張るようにして「私の家に小型映画雑誌があるから来なさい」と誘っていただいた。思えば、これが不運の始まりだった。ピーター・B・ハーイ氏が「牧野コレクションに出会っていたら『帝国の銀幕』は書けなかった」と述べているが、私の場合、その膨大な資料という悪魔に出会ってしまったのである。
 高田馬場のアパートから国分寺の牧野家まで毎週通った。なぜか私が出かける日に限って雷雨になったり大雪が降ったりした。あれは神様が、牧野コレクションに手を出してはいけない、と警告を発していたのに違いない。
 行くたびに膨大な雑誌を近所のコンビニでコピーした。毎回五千円から八千円ほどコピー代に使った。その作業で膝が悪くなるほど立ち続けた。そして大抵夕食をごちそうになった。
その作業がなんと修論締め切りの一週間まで続いたのである。もちろん学内にある全ての資料はコピーし終えていた。フィルムセンターの蔵書はもちろん、一枚のポスターを見るために栃木県の図書館まで行って一泊したこともある。
そのコピー資料の山を見て、これはヤバイ、と気づいた。いわゆる「資料倒れ」である。私は異常に神経質で完全主義の欠点があり、手元の資料で完成させようという割り切りが出来ず、まだまだある牧野コレクションの未コピーの部分ばかりが気になるような性格なので、頭が真っ白になってしまった。
そもそも修論締め切りの二ヶ月ほど前から頭が空回りし始めた。新しいコピーの束を抱え込むたびに論文の構想が無限に広がり収集がつかなくなるのである。 
 結果として私は未完成の論文を提出するほかなくなり、指導教授の配慮によりやっと修了できたのだった。そういう訳で、私が修士論文を完成できなかったのは牧野さんのせいであり、私は牧野さんを怨んでいる・・・・・というのはもちろん冗談である。
 実は私は指導教授から、君にはぜひ博士課程に進んで欲しいから良い論文を書くように、と耳打ちされていた。当時早稲田の博士課程は過去五年の間一人の合格者もいなかったので、これは大変な名誉であり、私は感激に打ち震えた。普通の人間ならこの厚意を奮発の材料として論文執筆に打ち込むだろう。ところが私は普通の人間ではなかった。
 私は一人っ子で、当時70歳前後の母に仕送りをしてもらって生活していた。父は学生時代に他界していたので、一人暮らしの母が商売(ブティック)をしながら月々三十万もの大金を送ってくれていたのである。しかも親族の詐欺により貯金は底を突いていた。もし私が博士課程に進めば、母からの仕送りに甘え続けねばならなくなる。「博士万年」と言って、一定の学問を完成させて収入を得る、というところまで行くにはゴールが見えない、というのが博士課程に在籍する人間の運命なのだ(私は肝臓が悪かったのでアルバイトをする体力はなかった)。「ああ、俺は一生母親の仕送りで生きて、そして母は田舎(愛媛)で孤独死するのだろう」という思いが、強迫観念のように心を占め続けた。
さらに私は文学青年だったので、ある意味で日本最高の名文といえる次のような手紙を知っていた。以下引用する。
 野口英世の母「野口シカの手紙」

おまイの。しせ(出世)にわ。みなたまけ(驚ろき)ました。わたくしもよろこんでをりまする。
なかた(中田)のかんのんさまに。さまにねん(毎年)。よこもり(夜篭り)を。いたしました。
べん京なぼでも(勉強いくらしても)。きりかない。
いぼし。ほわ(烏帽子=近所の地名 には)こまりおりますか。
おまいか。きたならば。もしわけ(申し訳)かてきましよ。
はるになるト。みなほかいド(北海道)に。いてしまいます。わたしも。こころぼそくありまする。
ドか(どうか)はやく。きてくだされ。
かねを。もろた。こトたれにこきかせません。それをきかせるトみなのれて(飲まれて)。しまいます。
はやくきてくたされ。はやくきてくたされはやくきてくたされ。はやくきてくたされ。
いしよ(一生)のたのみて。ありまする。
にし(西)さむいてわ。おかみ(拝み)。ひかしさむいてわおかみ。しております。
きた(北)さむいてはおかみおります。みなみ(南)たむいてわおかんておりまする。
ついたち(一日)にわしおたち(塩絶ち)をしております。
ゐ少さま(栄昌様=修験道の僧侶の名前)に。ついたちにわおかんてもろておりまする。
なにおわすれても。これわすれません。
さしん(写真)おみるト。いただいておりまする。はやくきてくたされ。いつくるトおせて(教えて)くたされ。
これのへんちちまちて(返事を待って)をりまする。ねてもねむれません。

  この野口シカの手紙の文句が頭を駆け巡り始めたのである。一人の学者が生まれるには一家が犠牲になる、と言われるが、まさに私の場合も郷里の母に一生仕送りをさせ続け、自分一人が学者になって母を孤独死させる・・・・・というイメージが頭を駆け巡った。つまり私の修士論文の作業は、博士課程に入れるという高揚感と、母を不幸にするだろうという非痛感が共存し、完全にアンビバレントな心境になって自我が崩壊しかけていたのである。
それで不思議なことが起こった。締め切りの三日前、もうその頃は徹夜続きでロクに頭が回っていなかったが、とりあえずいいところまでは書けていた。締め切りぎりぎりで完成できそうな気配だった。その論文の出だしは、英語文献を引用して「前衛映画とは何か」という定義をした部分だった。原稿用紙にして30枚以上あったと思う。夜中にその部分を添削していて、一行削除しようと思った。一行削除をするには、私のワープロでは「機能1」ボタンを押して「実行」を押す。ところが何気なく「機能2」ボタンを押して「実行」を押してしまったのだ。瞬間「全文削除していいですか」という警告文が出た(はずだが)、私は「実行」ボタンをいつものように無意識に二度打ちしていた。
 嘘だろうと思った。翌日になればどうにか救済方法が見つかるだろうと思い、その夜は酒を飲んで寝た。
 翌朝起きて、昨日の出来事は夢だったに違いない、と念じながらワープロを開いたが、やはり論文の中心になる文書が消えている。メーカーに電話したが救済策は無かった。私は完全にパニックに陥った。残り一日しかない。もう翻訳している時間は無い。それでもどうにかして辻褄をつけようとして出来る限りのことはやった。が、論文締め切りの早朝、無駄な努力であることを悟った。それで一番仲のいい先輩・奥村賢氏に電話を入れて、大学院を中退します、と報告した。奥村氏は「馬鹿野郎、これから行くからそこにいろ」と言ってタクシーで駆けつけてくれ、茫然自失としている私に代わって、ワープロに残っている諸文書を印刷してくれた。
そういうわけで奥村氏と指導教授の配慮のお陰で、未完成ながらどうにか中退せずに済んだわけだが、このボタン一つの操作ミスが人生を変えたのである。(しかし、それは私の無意識が望んでいたことなのかもしれない)
その後、批評や論文の要請があり2年ほど東京に残っていたが、ついに仕送りも不可能になり、妻子をつれて(私は大学院時代に結婚していた)郷里・愛媛の片田舎に帰ることとなった。都落ちである。
 最初の三年間は健康を取り戻すために完全休養していた。この間に車の免許を取って毎晩宇和海の堤防に行って釣りをし、太刀魚とアオリイカに関しては名人と呼ばれるようになるなどいろんな楽しいこともあったが省略しよう。要するに3年の間、70歳を過ぎた母親の収入で私と妻子は食わせてもらっていたのである。
 幸い、というか、知人の水由章氏が年刊の実験映像誌「Fs」を発行し、私はそれに「戦前日本の個人映画史」という連載を引き受けたので、田舎にいながら修士論文で書きたかったことにじっくりと取り組むことが出来た。戦前の実験映画といえば中井正一ぐらいしか知られていなかったときに、この雑誌で紹介した実験映画作家の活動は日本映画史の処女地を開拓した重要な研究だったと自負している。
 帰郷して4年目に入ったとき、突然一人の中学生が現れて、家庭教師をして欲しいと言ってきた。聞けば150人中100番前後の成績だという。それで、私の勉強部屋に相手が来る、という条件で引き受けた。たった二ヶ月英語と数学を教えただけで彼は次の定期試験でトップ10に入った。90人を追い抜いたのである。追い抜かれた友人たちが焦って次々と集まり、いつの間にか「那田塾」になった。あの塾へ行くと誰でも30番ぐらいは成績が上がる、と評判になり(実際にそうだった)、中高生合わせて80人ほど詰めかけて、街で一番人気のある学習塾になった。
 当然八畳の勉強部屋では手狭になり、母の営業するブティックを半分に仕切って塾にした。私は凝り性なので改築は全て自分で行った。柱を立て、ドアを付け、壁を仕切り、そして机も椅子も全部一人で作り上げた。
やっと母のスネカジリから巣立って貯金が出来るようになった。丁度そんな折に牧野氏が「私のコレクションは部分売りしないのが原則だが、君の情熱に免じて小型映画関係の書籍を譲ってもいい」という連絡を頂いた。125万ぶんの書籍を送っていただき、その上に分割払いにしてもらった。これで小型映画研究に関しては日本一のコレクションが手元に揃ったわけである。
 「那田塾」が7年ほど経ったときに、大学院時代の恩師から「早稲田の非常勤講師にならないか、将来は必ず君を教授にするから」という話があった。丁寧に言えば、そういう打診はかなり前からあったのだが、非常勤講師の低賃金で、借家で妻子を食わせていける筈もなく、そのことは忘れていた。しかし、学習塾の成功により家を買う頭金ぐらいは貯金があったので、上京を決意したのである。
 月に百万近い収入を捨てて、月収三万前後の非常勤講師になるのだから、それ相応に智恵を絞った。民家ではなくマンションビルを買って、そこに住みながら同時に家賃収入も得る、という方法を編み出して実行したのだった。
そういうわけで八王子のマンションに移り住んでからもう8年目になる。生活は苦しいが、(小泉構造改革の悪政により)ゴーストタウン化した郷里で小金を稼いで生きるよりも、貧乏でも知的刺激の豊富な都会で生きていくほうが、私には遥かに心地いい。幸い牧野氏の住む国分寺まで近いので、時々お会いして日本映画史の薀蓄を伺い、大いに耳学問も発展した。私は放っておくと「アヴァンギャルドおたく」に陥るので、牧野氏の大局に立った日本映画史観を聞くと上手い具合にバランスが取れるのである。
 幸い恩師の口利きで、戦前の小型映画運動に関する単著を出せるかもしれない可能性が生まれてきた。原稿は「Fs」や「映像学」に書き溜めたものがあるので実質的には8割がたは出来上がっている。恐らく来年には出版出来るだろう。これはもちろん牧野さんから譲ってもらった資料が元になっており、この出版で牧野さんに恩返しをしたいものだと願っている。思えば牧野コレクションを初めてコピーしたときから15年もの歳月が流れている。このスローペースでは私の書きたいものを書き切るには百歳ぐらいまで生きていなければならない。困ったものである。
もし私があの修士六年の夏、牧野氏と出会わず牧野さんの家のほうへ歩みを進めなかったとしたら、間違いなく私は六年ぶりの博士課程合格者としての名誉を得て、今頃はどこかの教授になっていたことだろう。しかし、私は牧野さんに出会ったことを後悔していない。逆に感謝している。この15年の人生経験は、私に映画研究という限られた分野を超え、人間はいかに生きるべきか、という本質を教えてくれた。「晴れて良し雲りても良し富士の山」というが、たとえ嵐であろうと霊峰富士は天下一の荘厳な姿で立ち続けている。逆境が人間を磨くのである。
この雑文のタイトルを「牧野さんの家のほうへ」としたのは土方巽のダンスの副題「澁澤さんの家のほうへ」のパクリである。おそらくそれもプルーストの『失われた時を求めて』の有名な一章「スワン家の方へ」のパクリだろう。

澁澤龍彦の家には三島由紀夫や四谷シモン、土方巽らが集い、さながらサロンのようであったと言われているが、いうまでもなく牧野家は日本映画研究者たちのための学習塾でありサロンであった。もうコレクションは無くなったが牧野氏には在野の映画研究の泰斗として今後も後進の指導に当たっていただきたい。くれぐれも健康には気をつけて。
 (見性体験記より)

 

 


チンパンジー研究で分かった人間の子育ての本質〜松沢哲郎氏に聞く

2016年07月28日 | エッセー

集団ストーカー被害者の方は次のurlを押してください。(遂に決定版が出ました。既に増補改訂版を購入された方  には無料で差し上げました) http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/21522a074264a7eb4afb4fd7df2e6531 決定版は出版される可能性もあることをお知らせします(あまり期待しないでください)。

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また「春名先生を囲む会」は私のHPに別途ページを作ったので次のURLをクリックしてお読みください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/haruna.html 最新の「春名先生を囲む会」の写真をアップロードしています。この会の趣旨と目的に賛同されるかたは毎月第三金曜日の午後七時半から誰でもOKですから夢庵西八王子店(平岡町)に来てください。正面を右に進むと座敷がありますからその座敷で待っています。なお、料金について変更があります。お酒の飲めない人は2千円にしましたのでお酒の飲めない人もぜひ賛同者となって「春名先生を囲む会」で講義を聞いたり、また積極的に講義をして下さい。

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 今後、微笑禅の会のネット会報は中止し、年に数度の紙媒体での会報を出すことにします。私が小野洋子ほどの資産家であれば年に5千円の会費は無料にしますが、五行歌の会の主宰・草壁先生の言われる通り、お金を出さないと文化は育たないからです。本当に悟ってみたい人は次のurlをクリックして「見性体験記」をご覧ください。http://w01.tp1.jp/~a920031141/zen.html 入会された方には「微笑禅入門―実践篇」(DVD)を差し上げます。もちろん会員から質問があれば答えますので私のメルアドまで質問を下さい。レジュメも作らず睡眠時間4時間で即興で語っています。DVDはボリュームを目一杯に上げて聞いて下さい。wasaburo@hb.tp1.jp (クリックしてもメールが開かないのでコピーして宛て先に入れて下さい)

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 「アウトグループ」という視点

 

——松沢先生は長年にわたってチンパンジーを研究されています。はじめにチンパンジーの子育ての特徴について聞かせてください。

 

「まずその前提として、なぜチンパンジーを研究するのかということをお話しますね。私は哲学科の出身なので、人間とは何かを知りたいなら人間について研究しないんですか、どうしてチンパンジーなんですかとよく聞かれます。そういった問いへの答えとして私が持っているのは『アウトグループ』という視点、つまり集団の外にあるものに目を向けた方がその集団のことがよく分かるという発想なんです」

 

「例えば、日本という国について深く知りたいと思えば、日本の歴史や地理、文化、社会制度を学びますよね。でもそれだけでは分からないことを理解するために、すごく手っ取り早い方法は外国に行くことです。例えば韓国、中国、台湾や東南アジアの国々について知ることで、日本という国の特徴が見えてきます。同様に、チンパンジーのことが深く分かれば、人間とチンパンジーの何が似ていて、どこが違うのかが分かります。人間ではないものに目を向けることで、人間とは何かがはっきり見えてくるんです」

 

——チンパンジーのDNAが人間に最も近いことはよく知られていますね。

 

「DNAの塩基配列は1.2%しか変わりません。もちろんDNAだけではなくて、形態から言ってもチンパンジーはニホンザルよりも人間に似ています。これはあまり一般の人に知られていない重要な知識ですが、ヒト科は4属なんですよ。サル目ヒト科の中に、ヒト属とパン属(*1)、ゴリラ属とオランウータン属があります。私がチンパンジーのことを好きだからそう言っているのではなくて、これは現在の生物の教科書にも、動物に関わる法律にも明記されていることです。21世紀の世界では学問上も法律上も、チンパンジーはヒト科なんです」

 

——人間とチンパンジーの親子関係はどのように違うのでしょうか。

 

「結論から言うと、大人たちが協力して子どもたちを育てる、それが人間の子育てです。チンパンジーは『シングルワーキングマザー』で、お母さんがほとんど一人で子どもを育てます。授乳期間が4年ほどあって、その間はずっと子どもを抱いて寝るので、母子関係は人間よりもずっと緊密です。一方、お父さんは群れの中にいるんだけど、基本的に子どもとの関わりは少なく、他の群れから攻撃された時に守ってくれるくらいです。群れの中に複数の男性がいて、誰が子どものお父さんかは分からないので、私は複数形のsをつけて『お父さんズ』と呼んでいます」

 

「男性と女性の子孫を残すための戦略が、人間とチンパンジーでは異なるということです。チンパンジーの女性は排卵期になるとお尻をピンク色にして主張し(*2)、多くの男性とセックスをします。一人の子を育て上げてから次の子を産むので、出産間隔は5~6年で、年子や2歳離れた兄弟姉妹はいません。もし人間が同じようにしていたら、生涯で4人ほどしか子どもを産めなくなってしまいます。そこで人間の女性は、子どもたちを次々に産んで、パートナーにも子育てを手伝ってもらう戦略をとったのです。人間の女性は排卵の時期を隠すように進化しましたが、これは『他に行って子どもを作ったら、私も同じことをするかもしれませんよ』という男性へのメッセージと捉えられます」

 

小さな弟妹の面倒を見る行動はサルにも見られる(姉に背負われるリスザルの赤ちゃん)

小さな弟妹の面倒を見る行動はサルにも見られる(姉に背負われるリスザルの赤ちゃん)

 

——男性が他の女性のところに行ってしまうのを防ぎ、子育てへの協力を取り付けるということですね。

 

「そう、子育てへの協力を取り付けるように女性は進化してきました。だから人間は霊長類の中でめずらしいくらい、一夫一婦のきずなが強いサルなんです。さらに、一夫一婦におさまらないのも人間のユニークなところです。チンパンジーは閉経の時期と寿命がほとんど同じだけど、人間の女性には閉経後も長い人生があります。すでに子育てを経験したおばあさんが娘を支え、おじいさんもそれなりに助けになる。日本ではほとんどなくなってしまったけれど、ベトナムなどの発展途上国に行けば、おんぶ紐をつけて小さい弟妹の世話をしている子どもの姿も普通に見られます。人間の子育てでは、複数の手のかかる子どもたちをみんなが協力して育てるんです」http://eduview.jp/?p=1496

 


恩師の思い出

2011年01月01日 | エッセー
いま正月の午後8時20分。忘れるといけないからここにメモします。
微笑禅の会の会員名簿はないかと探していたら名刺を入れる厚いファイルが出てきました。
大切な会員や愛国者の名刺はどこかに別に保存したのでしょうが、新保昇一先生の名刺が出てきたので、懐かしくなり電話しました。
 なんと25年前の早大院生のときの恩師なのに覚えていてくださった。
この人は、早稲田学院の英語の先生から大学で教えるようになり、教授法が判っている人で剣道の達人。当時名誉教授で現在80歳です。

 学生時代にも英語だけの授業をイギリス貴族に教えてもらったけど、院生になってからこの先生の授業をとることにしました。それで、「私は先生の授業についていけないかもしれませんが、出来るだけの努力はしますのでよろしくお願いします」とオリエンテーションで挨拶して2年取った。
 そしたらこの先生が僕を級長みたいにして、「立ち上がれ、先生に礼」等々を全部僕に任せてくれた。

 早稲田というのは、先輩が後輩の面倒を見る、という感覚で指導してくれる。損得は無い。だからこの先生と何回も飲んだ。
 ところがバカな同級生がいて、この先生を侮辱した。するとさすが新保先生、「俺とやるか、表に出ろ」と言った。教え子のバカはひたすら謝った。

そういう先生だから懐かしくて電話したわけです。案の定、お酒を召し上がっていらっしゃって、「俺たちの時代の早稲田は終わったよ。お前も体を大事にしろよ」等々、返事をしていただいた。ありがたくて涙がこぼれました。

私はこれから本格的に飲むので、このこと忘れないよう、このブログを備忘録として使います。

赤い靴の女(相当昔に書いたエッセー)

2010年12月24日 | エッセー
学生の頃、朝10時ぐらいの東西線に乗って早稲田から高田馬場まで座っていた。酒に疲れた頭でぼんやりと向かいの席に並んだ乗客の足元を見ていると、正面に真っ赤なパンプスが目に止まった。
 その赤いパンプスはひどく赤土に汚れていた。前夜雨が降っていたわけではないのに、なぜ赤土がついているのだろう、と不思議に思って視線を上げた。
 視線の先に完璧な顔の美人がうつむいて文庫本を読んでいた。まるでゴミ置き場に真っ赤なバラが一輪咲いているかのようで、混雑した電車の中では一際目立ってその女の体の周りが白く輝いていた。
 俺はその女の顔をうっとりと見つめた。東京にはこんな綺麗な女性がいるんだ、と胸をときめかした。すると、女性は顔を上げ、アーモンド色の瞳をきらりと輝かせて私の目を直視し、にっこりと微笑した。俺は胸がどきどきして慌てて視線をそらせた。

高田馬場駅でその女は降りた。後を追いかけたかったが、人ごみにその人は消えてしまった。
 その女性の美貌、微笑した瞳の美しさ、赤土の付いた赤い靴、俺は一目ぼれした。
しばらくは探偵のように、靴に付いた赤土の原因を推理してみた。本当に不思議だ。雨も降っていないのになぜ赤土に汚れたのか。また、東京の土は関東ローム層が堆積しているから黒いのが普通である。赤土があるとすれば特殊な工事現場ぐらいだが、一体彼女は、どこを歩いていたのか。
 なぜか頭の中に、横浜の港の近くで泣きながら泥道を歩いているあの女の姿が映画の一場面のように映った。ちょうど、男と別れてきたんだろう。だから半ばヤケになって、男と視線が合ったときに微笑を返したのではないか、とも考えた。
 あんな綺麗な瞳で赤の他人に目線を合わせて微笑むような、そんな澄んだ心の人間が、この世にいるとは思えない。一体どんな人なんだろう。俺の頭の中は、その女のことで一杯になった。もう二度と会えるはずがないだけに、その恋心は強く、つらかった。

ところが、会うはずがない相手に再会したのだ。
 人でごった返している高田馬場駅の前をぼんやりと歩いていたら、その女が目の前で自転車から降りて、坂の向こうへ歩いていった。その歩く姿を見て愕然とした。彼女は小児麻痺の後遺症でもあるらしく、腰が少し片側に突き出て、足を引きずって歩いていったのである。彼女は身体障害者だったのだ。
 
俺はその姿を見て、胸が苦しくなった。哀れんだのではない。ますます彼女に心を奪われてしまったのである。
 美というものはどこか捩れているほうがいい、と俺は常々思っていた。風呂屋の壁に描かれたペンキ絵の富士山のように完全なプロポーションのものは平板でつまらない。美は乱調にある。あんな美人が身体障害者だというのは、俺にとってはますます魅力的で、更にいえばより性的な存在に思えた。
 それから、人格形成の面から見ても、なに不自由なく育った美人よりも、自分の身体に劣等感を抱いて育った美人のほうが、人生の悲哀を知っている分ずっと人に親切にできるに違いない。最初に会ったとき、俺の目を直視して微笑んだのは、彼女がああいう体に生まれたからではないか。そう思った。
 
注意してみていると、彼女は毎日同じ場所に自転車を止めていた。どこかに勤めに出ているのだろう。ハンドルの前に籐のカゴの付いた特徴のある自転車を見るたびに俺の心は熱くなった。
 そしてついにラブレターを書いた。「あなたに一目ぼれしました。少しの時間でいいから話してください」といった内容の手紙を書いて、いつもの自転車のカゴに入れようとしたのだが、胸がどきどきしてどうしても手紙を入れることが出来なかった。
 俺は自分の小心さに腹立たしさを覚えながら、その人のことを諦めようと努力した。

夜、酔っ払って高田馬場の住宅街を歩いていると、狭い上り坂の途中に洋館風のアパートがあった。そのアパートの前には大きなカリンの木が植えてあって、家の前を通り過ぎると高貴な香りが鼻をなで、何故か俺は、あんな美人はこんな家に住んでいるに違いないと思ったものだ。

赤いパンプスに泥をつけた、美しい障害者。カリンのあるアパートで暮らしている。なんていいんだろう。俺は現実と空想をごちゃまぜにして、その女性のイメージを膨らませ、苦しい胸に自分勝手な絵を描いた。もうこの人とは一生、一言も話すことなくお互いにこの世から消えてしまう。そのはかなく辛い現実の前で、俺は女のようによろめき、胸を押さえて、立ち止まっていた。

それから何年たったことだろう。高田馬場にある公立の図書館に用事があって、広い図書館の中を歩き回っていたときに、視聴覚ライブラリーの受付にあの女が座っていたのである。彼女はそこに勤める職員で、だから毎日駅前に自転車を置いて通っていたのだ。

しかし、俺はそのときもう胸をふるわせることはなかった。そのとき俺は、美人で金持ちで高慢で鼻持ちならない韓国の留学生と同棲していて、肉欲の虜になっていたからである。風呂屋に描かれたペンキ絵の富士山を愛撫しているうちに、俺は赤い靴の女の特別な美しさを忘れてしまっていたのだ。

今、つくづく後悔している。下らぬ肉欲に溺れていた俺の心から、あの赤い靴の女の面影が消えてしまったことを。なぜあの時、受付にいる女性に声をかける気持ちになれなかったのか。肉欲は罪である。臆病は罪である。

本当にもう一生会うことが出来ないあの女。今はどんなくらしをしているだろう。
あなたは、なぜあの時赤いパンプスに赤土をつけていたのですか?
なぜ俺を見て、にっこり微笑んだのですか?
あなたの声を聞かせてください。

(もうこの美女も50代でしょう。光陰矢のごとし)