那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

「美人論」書評

2013年09月28日 | 書評、映像批評

大正三美人の続きとして、林きむ子を取り上げようと思いましたが、フト昔のHPに「美人論」という本の書評を書いた記憶が蘇りました。このブログに転載した筈、と思って探してみたらどうもないので昔の書評をコピペします。2007年12月に書いた書評です。 

因みに文化人類学では「可愛い顔には普遍性があるが、綺麗な顔には普遍性がない」と実証されています。

私のパソコンは不具合があって、私からは唐人お吉の写真が見えません。読者の皆さんに見えるか心配なので、念の為に面白いurlを貼っておきます。http://micmicmic.blog.so-net.ne.jp/2008-04-06 の上から二番目がお吉。カラーで見たい人はhttp://d.hatena.ne.jp/k-hisatune/20100207 をクリックして下さい。私は学生時代カラー(後から色をつけたもの)の写真を机の前の壁にマチスの絵とともに貼っていました。

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美人論(井上章一、朝日文庫、2005年第二刷)


この本を知ったのは、岸田秀の「性的唯幻論序説」を読んでいたときに、「美人が尊ばれるようになったのは明治以後である」といった文句とともにこの本を紹介していたからである。それで数年経ってフト思い出し、本書を購入してみたのだが、岸田さんは勘違いしていたとが分かった。
 ここで書かれているのは、江戸時代の上級武士の間では家柄で結婚が決まっていたので、不器量(面倒なので以下、ブス、と記す)でも結婚できた、ということである。江戸期以前に美人が重宝されていたことは例えば浮世絵を見ても分かるし、「源氏物語」を思い出せば、末摘花がブスにも関わらず光源氏の寵愛を受けた、という記述は、この時代には美人とブスの区別があった証拠である。恐らく、美人とブスの概念は、労働しなくても生きていける富裕階級が生まれた時点からあったものと思われる。
 そういうわけで、岸田さんの記憶違いがきっかけになって入手し、3日間ファミレスでランチを食べるついでに30分ぐらいずつ読んで読了した。以下、引用は一切せずに、記憶に残った部分のみを書き留める(「性的唯幻論序説」はひどい悪文だが、これも面白い本なのでいつか紹介しよう)。

井上氏は本来建築史の専門家で、理科系の人物だから、文章は余りうまいとはいえない。その代わりに非常に分かりやすい言葉で、しつこいぐらい丁寧に書いてある。文献を引用しては、その引用をさらに解説するというスタイルを通しているし、前節で書いたことを繰り返し書く、という癖があるので、一通り読めば、いいたいことが十二分に伝わって、記憶に残る。恐らく私が同じ本を書けば半分の量で終わっていただろう。そういう意味では丁寧な、あるいは原稿代を稼ぐのに都合のいい本でもある。

さて、本書が明治から現代にかけての様々な文献を駆使して証明しようとしているのは、実に単純なことである。それは明治時代に厳然としてあった美人の概念が1920年頃を境に崩壊し、現代では「誰でも美人」、あるいは美人の価値すら否定する風潮が生まれた、という流れである。
 もう少し細かく見てみよう。

明治時代には美人は「柳腰、うりざね顔、色白、おちょぼ口、スズを貼ったような目」という絶対条件があった。色黒の美人や口の大きな美人、丸顔の美人など存在しなかった。このような条件を満たさねばならないために、美人は稀有の存在だった。つまり現代よりも美人ははるかに強いオーラを持っていた。
 それで明治の元勲たちは美人を妻にした。江戸時代は士農工商という身分序列が確固として存在し、武士は家柄格式で結婚相手を決めていたが、明治の元勲は下級武士の出身であり、その身分序列を自分で破壊した階層なので、純粋に、家柄に関係なく美人を求めることに躊躇しなかった。本書には書いていないが、確かに伊藤博文、木戸孝允、陸奥宗光らは芸者を細君にしている。
 家柄も教養も関係なく、単に容色だけで上流階級に入ることの出来る美人という存在は、逆に言えば、上流階級の大多数を占めるブスにとっては脅威であり、嫉妬の対象となる。
 このために、「倫理」「恋愛論「人生論」といったタテマエの言説の場では、美人は「高慢で、好色で、教養の無い、周りに災難を巻き起こす」まるで悪魔のような存在であると定義され、一方ブスは「教養があり、性格が良く、貞節」であると讃えられた。

面白いエピソードを紹介している。「卒業顔」という言葉が流行っていて、それはブスを意味するというのだ。つまり、明治時代に女学校へ通う生徒は、参観日の折などに近隣の富裕階級の親たちが見学に来て、美人の順から自分の息子の嫁にするために、美人は全員中退する。従って女学校を最後まで勉めて卒業するのはブスであり、まして師範学校へいって教員にでもなろうものなら、ブスの中のブスとして軽蔑されていたらしい。当時は職業婦人は卑しい階級とされていたから、なるほどそういうこともあっただろう。女学校の入試面接のときに「あなたは器量が悪いから卒業できるでしょう」と言われた、といったエピソードが残されている。

そういうわけで、この時代は美人とブスとの差が実に明瞭に意識されていた。
ところが1920年頃になると、突然風潮が変わってくる。健康美人、知的美人、といった概念が導入されるのだ。ついでに言えば、日本には「表情」という言葉はもともと無く、明治に翻訳されて1920年頃から使われるようになる。つまり、江戸から明治にかけて上流階級の婦女子は、ちょうど今の美智子皇后や中山恭子補佐官のように、能面顔で表情を表さないのが上品だと思われていたのである。それがこの時代になると、表情豊かであることは良いものとされていく。
 こうしてこの時代になると、明治時代のような固定された美人の概念が民主化、大衆化していく。
その理由を筆者は詳しく書いていないが、恐らくこの時代重工業が発展し、サラリーマンという新中間層が生まれ、都市化が生まれ、大正デモクラシーと呼ばれる風潮が高まったことで、庶民の声がジャーナリズムに反映されていったからだろう。それまでは華族、政治家、豪商、知識人といった一握りの階級の言説(あるいは常識)だけで成り立っていたジャーナリズムに、中間層の声が反映されるようになった。そうすると圧倒的な多数を占めるブスの権利が主張されることになり、「顔面の造作」を示す美人という言葉の意味に、「知性」やら「健康」やらが侵入して、美人の概念が拡散するわけだ。

こうした美人の大衆化が1920年から始まり、現代まで続いていると作者は主張する。現代になると「誰でも美人」であり、さらに積極的に、美人なんて関係ない、という主張すら現れるようになった。それには化粧品産業の戦略もあったと説く。一握りの人間しか美人になれない時代よりも、誰でも美人になれる時代が来るとすれば、化粧品は顧客を飛躍的に伸ばすことが出来る。だからこういう美人の大衆化には化粧品業界の工作でもあるという。

視点を変えれば、「面食い」の男性への批判が強くなり、顔だけで女性を選ぶのは頭の悪い男のすることだ、という主張が常識になる。

そういう美人をめぐる言説の変化を実証してこの本は終わるのだが、後書きを読むと、どうやら作者の井上氏は、実は「面食い派」のほうに味方してこの本を書いたらしい。フェミニストたちへの一種の挑発の本である。ご丁寧なことに、フェミニストにしてブスの代名詞である東大教授・上野千鶴子の解説までついている。井上氏と上野さんは面識があって、トムとジェリーのように仲良く喧嘩している間柄らしい。


以上が本書の解説である。
私は、物心ついてから徹底した「面食い」なので、この本は大いに面白く読めた。とくに明治時代の美人の絶対条件「柳腰、うりざね顔、色白、おちょぼ口、スズを貼ったような目」は、私の好みのままである。明治時代には、こういう厳しい条件がついていたために、タテマエ論として道徳的には批判されながらも、本音論としては、化け物のように美しい、魂を奪われるほどの美人、という女性が存在したのである。このことが私は非常に面白い。現代のように美人の条件が甘くなり、個性こそが美、といわれるようになると、明治時代の美人のようなオーラというか破壊力が消えてしまう。
 面食いの人間にとって今より明治時代のほうがはるかにスリリングで、美人を娶るという喜びがあっただろう。
 ちなみにこの条件を満たすとすれば、美人はちょうど竹下夢二が描く女性のように、線が細く、不幸、薄幸というイメージが取り巻く。事実、当時の美人は「結核好み」と称されていたらしい。例えば次のような顔である。(右の写真は左に着色したもの)


実はこれは「唐人お吉」の19歳のときの写真である。異論もあるが、ほぼ本物とされている。
とすると1860年の写真ということになり、江戸末期である。お吉は下田一の美人芸妓と評判だったので、これが江戸から明治にかけての典型的な美人顔ということになるだろう。
 読者の皆さんはどう感じるか分からないが、私はこの写真と出合った学生時代から、猛烈なお吉ファンになった。向かって右側の切れ長の瞳と眉毛のバランスといい、鼻から口元にかけての幼さを残したセクシーさといい、文句の言いようが無い。
 ついでに言えば、「結核好み」というよりも、私には神経症の影と不幸の影が感じられる。実際、お吉は50歳のときに(明治24年)アル中+ホームレスになって、川に飛び込んで自殺した。
 こういう異常な強度を持つ、化け物のように美しい女性を私は愛し、哀れに思う。

人生は日常体験のほうが圧倒的に多い。非日常の体験というのは年に数回あるかないかである。私は子供の頃から「美が放出するポエジーの魔力」に取り付かれ、芸術学修士になった(なってしまった)。思い起こせば、医者になるチャンスも弁護士になるチャンスもあったのだが、「医者は病人と老人の相手。弁護士はトラブル解決業。俺は美を追求する」と豪語して、とうとう貧乏研究者になってしまった。
 そういう美に取り付かれた人間にとって、庶民には決して手の届かない、特権的で、徹底エリート主義で、神々しい魔力を放つ、魂を奪われるほどの美人、という存在は、これほど有難いものは無い。私は麻薬は嫌いなのでやらないが、芸術、自然、美人の中に、ごく稀に「非日常」と出会う。その瞬間のためにこの退屈な日常を生きているのだ。

もし近所にお吉が住んでいたら私は妻子を捨てても、その行く末が心中であろうがホームレスの道だろうが、躊躇無く、彼女を愛することに賭けてもいい・・・・・・・・というのは大嘘である。
 美人とは所詮顔の造作のバランスでしかない。諸行無常を悟るために、昔の禅の観法には「九想」というものがあり、私が図で見たものは、美女が老醜を晒し、死体となり、肉体が腐り、野犬に食われ、骨だけになってバラバラに散る、というイメージを坐禅をしながら頭に描いたという(現在でこういう修行をしているところは無いだろう)。
 このように、所詮は無常の美ではある。

しかし、美が無常であるからこそ、私は美を愛し、美人を愛する。お吉さんが今生きていたなら、せめて一緒に酒を飲みたいものだ。
(お吉はハリスの妾となったために、唐人とかラシャメンと言われ、溺死体も「触ると指が腐る」と丸二日も放置された。しかし、ハリスは胃潰瘍だったし、おまけに50歳を過ぎた肥満体で生活習慣病にかかっていたに違いないから、私はハリスはお吉を性的対象として扱わなかったと思っている)

ともかく「美人論」は面白かった。多分この解説で大切なところは全て語られているが、お薦めの一冊である。

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 以上です。6年ほど前に書いた書評なので、いまの私は少し考え方が変わっていていますが、これこれで当時の実感だからそのままに残します。恋愛と言うのは思春期に特有の「一時的視界狭窄」、つまり単なる思い込みですが、自分の中の女性的な部分の顕現(アニマ)ですから、神経が張り詰めている時は、異常な磁力で人をひきつけるのも確かです。

10月から募集する「八王子五行歌会」の題詠は「一目惚れ」です。基本的に上位三席までは月刊「五行歌」に掲載されますので、ぜひ投稿して下さい。詳しい投稿、採点などの手順は後日正式発表します。


 

 

 


大正三美人

2013年09月22日 | 世直しのためにどうすべきか

主権回復を目指す会からのお知らせです。

河野洋平に責任転嫁する不可解
http://nipponism.net/wordpress/?p=24378

   <問題の本質をそらしてはいけない!
            「河野談話」の踏襲を明言する自民党・安倍政権こそ元凶だ >

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主権回復の会から「河野談話」「村山談話」の白紙撤回に関する電子署名が可能です。私も署名しています。

私は大アジア主義の立場ですから、日本はアジアと平等の立場で仲良く、と考えていますが、合理的根拠のない慰安婦問題に謝罪する必要は全くありません。皆様もぜひ署名にご協力下さい。

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ついで、私は経済評論家・三橋貴明のメルマガも読んでいますが、安部首相支持派で保守系と言われる彼もこの頃は自民党の経済政策をことごとく批判しています。最新のメルマガでは

>「消費税増税」を実施し、法人税引き下げなど経団連の意向に沿った政策を推進し、国民を困窮に陥らせるとなると、これは総理ご自身で書いていた「瑞穂の国の資本主義」に明らかに反すると思うわけです。というわけで「「TPP参加」を即刻やめて「エネルギー安全保障」を強化せよ! 安倍総理「瑞穂の国の資本主義」への直言 」が本日発売になりました。

と著作の宣伝も兼ねて批判しています。大体、不況のときに消費税を上げたらどうなるかはバカでも分かる問題です。ただでさえ落ちている内需は冷え込み、更に安い商品を求めてデフレスパイラルに落ち込むでしょう。当然庶民の味方の「公明党」は消費税値上げ反対で自民党に抵抗しているかと思ったらhttp://terusoku.ldblog.jp/archives/31400425.html では「アベノミクスで日本経済は少しずつ良くなっている。このチャンスを逃すと、消費税増税の決断をいつするのか。今でしょ」と述べたようで、以下この発言への批判が続いています。予備校のCMのマネでしょうかwww。支持団体の創価学会はなんで黙っているのでしょう? 創価学会の皆さんは増税賛成なんでしょうか? 本当に不思議な組織ですね。末端の信者をよほどナメているのでしょうね。何でもワンワンと言う事を聞くのが信者だ、と上から目線で蔑視していなければこんな屁理屈は口が裂けても言えません。

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ところで「大正三美人」をご存知でしょうか?いつものようにwikiを参照にすると

 大正三美人(たいしょうさんびじん)とは大正時代美人と言われた3人のことである。

九条武子1887年 - 1928年

 旧姓・大谷武子。1887年、京都西本願寺大谷光尊の二女として生まれる。1909年男爵九条良致結婚才色兼備歌人として知られた。

 柳原白蓮1885年 - 1967年

 北小路資武と結婚したがほどなく離婚。九州の炭鉱王・伊藤伝右衛門と再婚したが、宮崎龍介との恋愛で話題をふりまく。1923年、宮崎と結婚し、情熱的歌人として知られた。

 江木欣々1877年 - 1930年

 新橋の芸者で、法律学者江木衷と結婚し、社交界で名を知られた。江木と死別した後の1930年、異父弟・早川徳次の家で縊死。

*また、林きむ子1884年 - 1967年)を江木欣々のかわりに数えられる場合もある。

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とあり、上二人はこのブログが入っている「八王子五行歌会」でも簡単に取り上げました。やんごとなき家系のお姫様ともいえる人たちで、共に社会運動家、歌人として有名(ここで「世直し」と繋がるわけです。ただの美人とはレベル違います)。
そこで、最期はクビを吊って死んだ芸妓(といってもただの芸者じゃありませんよ)江木欣々(栄子)について調べてみました。http://vmugiv.exblog.jp/20656318 より引用抜粋します。


長谷川時雨 『近代美人伝』
引き締まった白い顔に、長くはっきりした眉、
黒目がちの大きな目に、長いまつげが濃く伸びている。
色んな面を見せて複雑に輝く切子の壺のような女性。


父親は佐賀の尊皇派志士のちに愛媛県知事となった関新平。
母親は老舗の袋物屋の娘 藤谷花子。
花子は行儀見習いとして関家に上がっていたが、主人である新平が16歳の花子に手を出し妊娠。
生まれた欣々は父母の顔を知らぬまますぐに他家に養女に出され、
花子は実業家早川政吉の後妻となった。

ゆえに欣々には父方の異母きょうだいと、母方の異父きょうだいがいる。
実父関新平と本妻和気子との間に関悦子・藤子・ませ子。
実母花子と夫早川政吉との間に早川登鯉子、政治、徳次。

このうち、異母妹 関ませ子は鏑木清方の代表的美人画「築地明石町」のモデル、
異父弟 早川徳次は後のシャープの創業者である。

養親が困窮したため神田の芸者になった。
16歳の時、有吉男爵に落籍され男爵夫人となる。
しかし夫が1年あまりで病没したため、今度は新橋の芸者になった。
弁護士江木衷に落籍されて再婚。 
江木40歳、欣々20歳の年の離れた結婚であった。

江木は明治大正期の有名事件はすべて担当していたといわれるほどの敏腕弁護士で、
顧客も政財界のトップクラスばかりであった。
東大の前身である東京開成学校の法科を首席で卒業。
しかし優等生タイプではなく、教授に議論をふっかけては授業を潰したり屁理屈で煙に巻いたり、
悪ふざけでも首席を争う悪戯者だった。
一時官界にいた時は、出張の際に上司への報告がわりに
都々逸を電報で打って済ませたというエピソードが残っているほどである。 

頭の切れる辛辣でシニカルでな性格だが、
派手好きで開けっぴろげで面倒見がよくユーモアを解した人物であった。
彼を評する人々はみな「とにかく痛快な男」と証言している。
独身時代は相当浮き名を流しており、離婚歴もあったらしい。
しかし欣々と結婚すると外で遊ぶのをぴたりとやめてしまい、
その代わり、毎週知人友人有名人を自宅に招き豪華な宴会を開いた。
それを欣々が芸者時代に身につけた客あしらいと美貌でもって贅をつくして歓待した。

夫妻は黒塗りの古風な武家邸を住まいにしていた。
御者・馬丁・門下の弁護士・書生・使用人など、三十人近い大所帯だった。
「我儘者で、贅沢者で、食道楽で、飲道楽である」江木は、
食事・酒・煙草すべて一流の店のものだった。
夏には電車を借り切って書生や使用人まで引き連れて軽井沢へ避暑に行き、
毎週東京から鰻を取り寄せる。

欣々は和漢詩、絵画、篆刻、琴、茶道、華道、柔剣道など、一流の教師を呼んで学んだ。
欣々夫人の豪奢な生活ぶりは婦人雑誌などを通じて大いに紹介され、スター的存在となっていった。
「主人の職業は言わば勝ち負けを争うもの、
家の中は常に賑やかに陽気にしておりませんことには
その日の仕事に非常な影響があると思いますので、
子供のない私は派手な賑やかな妻として仕えております」

欣々は人生の絶頂期にあったが、江木が病気がちになる。
そして大正12年の関東大震災で本邸を失う。
夫妻は軽井沢の別荘にいて無事だったが、この頃から江木の病が重くなる。
ついに大正14年、江木が心臓マヒにより68歳で亡くなった。

別荘をはじめ、江木の遺産が多く遺されていたため生活面で苦労することはなかったが、
江木という後ろ盾を失ったことにより華やかな生活は消えてしまった。

欣々は家を新築し、降るように来る再婚話もすべて断り、
江木の冥福を祈って毎日読経をして尼僧のような生活を送った。

病気のため子宮の摘出手術を受けたが思わしくなく、時々は喀血することもある状態だった。
華美を誇った生活と、後ろ盾となる夫、さらに健康まで失った欣々は神経衰弱にかかってしまう。

異父弟早川徳次が静養のために欣々を大阪に招いた。
二ヶ月ほどの滞在中ほとんど横になっていた。
久しぶりに体調のよかった欣々は住吉大社に参詣に出かけ、
帰ってきてから土産物の菓子などをつまみつつ家族と夕食を取った。
しかし自室に戻った欣々は縊死していた。
江木家の家紋の入った風呂敷で顔を覆い、右手には水晶の数珠を握っていた。

異母妹ませ子の証言。
「死ぬのならもっと早く死なせたかった。あの通りの派手な気性ですもの。
本邸は毎晩宴会のようでした。
江木の力と自分の美貌からだと思っていたから、
顔が汚くなるということが一番怖い、それと江木の力も失いたくない。
それが、江木に死なれたのと、年を取ってきたのとが一緒に来て、
誰も訪ねて来なくなったのがたまらなかったらしいのです。
立派に暮してゆけるだけの財産もあったのに、よっぽどさびしくなったのだと見えて、
そんなことは絶対に言わなかった人なのに家には離れも二つあるから一緒に住まないかとも、
二男を子にくれないかとも言いました。
強い人があれだけ言ったのには、言うに言えない寂しさがあったのだと思いますけれど」

欣々は江木のお墓の隣に並べて葬られた。
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芸者、華族との結婚、死別。芸者、20歳も年上の法学者との結婚、夢のような日々、死別、自殺・・・・・言葉がありません。
 美貌なるがゆえに顔を家紋の入った風呂敷で包んでクビを吊ったというのも泣かせます。
相性が合いすぎる、というのは怖いものだと思います。超秀才・辣腕・ユーモリスト・遊び人の男が外で遊ぶのを一切辞める。一方、妻のほうは幾らでも再婚できるのに断って自殺する。これは恋だけでなく、愛と尊敬も一体になって相手が自分の人格と肉体の一部になっていないと起こらない運命の出会いでしょう。

かつて頭山満翁とその夫人が遣り取りした歌を紹介したときにも言いましたが、「偉人」は「偉人の妻」とワンセットです。これからの人生でこれ以上の人とは出会えない、と確信するから自殺以外に選択肢がなくなるのでしょう。今は拝金主義の世の中だから、不倫されてもお金に困らなければいい、なんて女性が一杯いるかもしれませんが、大正天皇の従妹で大正三美人の一人、柳原白蓮は今の世相と正反対の思想家でした。大富豪の夫を批判して、貧乏記者と禁断の再婚をされました。その部分をwikiから抜粋します。

918年(大正7年)、(白蓮が書いた)戯曲『指鬘外道』(しまんげどう)を雑誌「解放」に発表。これが評判になり、劇団が上演を希望、その許可を求める書状が届いた。差出人は「解放」記者・宮崎龍介だった。龍介の父は孫文辛亥革命を支援した宮崎滔天、宮崎も東京帝国大学で「新人会」を結成し、労働運動に打ち込んでいた。この後ろ盾となっていたのは、東京大学吉野作造早稲田大学大山郁夫らの「黎明会」で、「解放」はその機関誌だった。

1920年(大正9年)1月31日、別府の別荘で会った宮崎は情熱を込めて社会変革の夢を語った。それから白蓮は「ねたましきかな」と詠う「恋もつ人」になった。宮崎も「ブルジョア夫人との交際はまかりならん」として「新人会」を除名になった。白蓮は春秋2回の上京の機会に宮崎と逢瀬を重ねて、やがて白蓮は宮崎の子を宿した。姦通罪のあった男尊女卑のこの頃、道ならぬ恋は命がけだった。

1921年(大正10年)10月20日、白蓮は伝右衛門と上京した機会に姿を消した。2日後の10月22日の大阪朝日新聞は「筑紫の女王、柳原白蓮女史失踪!」と報じた。内容は「同棲十年の良人(おっと。と同義)を捨てて、情人の許へ走る」というものであった。

 
大正天皇の従妹が、石炭成金の大富豪の妻ながら、社会主義運動誌「解放」の記者と不倫(のち結婚)。その上に夫を批判する文章を新聞に掲載し、華族から除名される・・・これ、実話ですからスケールが大きいですね。

もう遅いのでここまでにしますが、大正時代の女性の生き方を見ていると日本人はいつからここまで転落したのだろうと思わざるを得ません。大正9年生まれの私の母が「日本は滅びる」といつも言いますが、私は「もう滅びてどん底まで落ちた、これから再生」だと思っています。


八王子市情報公開および個人情報保護条例:経過報告

2013年09月19日 | 法律

パチンコ廃止通信のメルマガが届きました。いつものようにブックマークから会員登録をされてご覧下さい。

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まず高齢者支援課は8月26日から高齢者福祉課に改名された。今後はこの名称を使うことにする。

私、母、そして実質的実務機関である高齢者福祉課の個人情報の開示請求を行ったわけだが、先ず八王子市高齢者福祉課が職務権限内で行った公文書に対して、グローマー拒否(存否も答えない)、というふざけた内容だった。これは条例に照らせば、個人情報の不開示の例外当たるのだから、「開示すべき公文書」である。それを存否すら答えないと返答したのだから、高齢者福祉課が条例に違反してまでも、どうしても隠したい特殊な理由があることが分かる。

以下は、私が一度「異議申し立て」として提出したものの一部を抜粋、添削したもの。とにかく以下を一読されたい。

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 {開示部分に対する異議申し立て}

私は延べ13年の間、早稲田大学や東京工芸大学で非常勤講師として教鞭をとってきた研究者である。開示された個人情報を見て驚いたのは全ての文書にノンブル(頁番号)が振ってないために、渡された文書が「何に対する記録でどこに続くのかサッパリ分からない」点である。こんないい加減な文書は研究の分野では問題外とされるが、公務員の職務権限に係わる公文書である以上は同様に主題別項目別にノンブルを振るよう、今後の情報公開請求者の利便性のためにも強く要求する。常識を逸する粗雑さである。個人間の手紙ですら頁を振らないと非常識と思われるのに、一体何を考えているのだろう。


次に、これも驚くべきことだが、公文書にも係わらず「主幹、主査、主任、係」の印章がある文書がごく僅かしかなく殆どが無印である。無印の公文書など何の価値もない。ここにも実施機関の杜撰な体質が読み取れる。無印と押印(並びに署名)の有無では虚偽公文書作成罪の時効が2年も違うという刑法の規定があることを知っていてわざと無印にしたのだろうか?杜撰を通り越して公文書とはいえないラクガキ程度のものである。


さらに驚いたのは、母の証言とされるものことごとくに母の署名が無いことだ。これは証拠価値がゼロであり、職員が勝手に作った「作文」と断定せざるを得ない。
 この点についてU係長は「複数の人間が立ち会っていますから」と抗弁したが、立会い者が何人いようが、最初から意図的悪意を持って職権を乱用したとすれば証拠能力はゼロである。小学校の算数ですら「10人×0=0人」と教えている初歩的な論理だ。

らに言えば、仮に署名があったとしても、さらにそれが録音装置や動画で残ったとしていても、命の危険を感じた人間は加害者に同調するしか身を守る方法がなく無意識に「ストックホルム症候群」に陥ることはよく知られた事実である。従ってこのようなケース特別の注意を払わない限り、聞き取り調査書は「虚偽公文書作成罪」になってしまい、保護が逆に虐待になる可能性が生じる。

 
 だからこそ「高齢者虐待の防止、高齢者の養護者に対する支援等に関する法律」(平成十七年十一月九日法律第百二十四号)には(以下略)と定めている。にも拘らず私には地域包括支援センターの職員等の立ち入り調査も質問もなく、警察からの連絡も無かった。つまり全ては実質的実施機関により「密室」で行われたのであり、上記の法令が定めている第三者の客観的判断が欠落したまま判断と実行が許されてしまったのである。
開示部分に対する異議申し立ては、従って議論以前の問題であり、テキストそのものがデタラメなのだから、ここでそのテキストに異議を申し立てる価値はない。

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高齢者福祉課もこの異議申し立てには反論できないらしく、母の開示部分には慌てて裏側に鉛筆でノンブルを振っていた。

いいですか? 全ての聞き取り調査に母の署名がないわけです。さらに大半に職員の押印がない。よくこのような杜撰な公文書が許されてきたものだと思う。

だから私は口頭で「証拠としての価値はゼロです。文章はが余りに下手だから直木賞は取れませんが、これは公文書ではなくてフィクションの分野に当てはまるでしょう。よくもここまでデタラメな調書を作ったものですね」と抗議しておいた。

普通の人なら多分、途中で諦めているでしょう。このような杜撰で悪意に満ちた文書を読んでいると、失望、諦め、面倒臭い、と感じるのは当然のことで、「特殊地域八王子」はこういう体質の積み重ねで生まれたのだなぁ、とわかっ次第。

この他、とんでもない作り話の公文書や、とんでもない利権の独占の事実がありますが、これは隠し玉として後日公表します。夜が更けたのでとりあえず今日はここまでで失礼します。


 


尾崎豊が理解できない世代

2013年09月16日 | 芸術・表現

先ず、西村修平さんがブログを更新されました。(メルマガ受信前の報告です)

慰安婦強制連行の捏造・発信元は朝日新聞


レオン・ラッセルのことなど

2013年09月13日 | 芸術・表現

西村修平さんの『主権回復を目指す会』のメルマガを紹介します。

東京オリンピック一考
http://nipponism.net/wordpress/?p=24145

             東京オリンピックを歓迎する

    <日本と首都再生の好機  首都高速の改修で日本橋に大空を取り戻せ >

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色々と議論のあった五輪招致成功。決まった以上は日本再生のために役立って欲しいものです。

私は1956年生まれなので、小学生の時にビートルズの『抱きしめたい』が日本で大ヒットして衝撃を与え、騒音音楽だとか、不良の音楽だ、とか、高校の校則に「マッシュルームカット禁止」などと書かれていた、笑い話のような思い出があります。学生服のカラーから下に伸びた後ろ髪は、朝礼のときに風紀係りの教員がハサミで片っ端から切っていくのでムカッとして抗議した話は「父の思い出」にも書いたと思います。

中学2年か3年生のときにビートルズは解散し、丁度その頃からフォークギターを買ってもらって練習し、高校時代に下手糞なコピーバンドを作ったのでギリギリで間に合った最後のビートルズ世代、と言えるでしょう。これは自分の人生で本当にラッキーでした。思春期に本物を聴いた、しかも後期のビートルズの楽曲を聴いた、という幸運です。

昔のHPではよく音楽の話をしてyoububeで紹介し批評する、というスタイルをとっていましたので、たまには音楽の紹介をしたいと思います。今日はちょっとしたことからレオン・ラッセルの『マスカレード』を思い出したので紹介します。http://www.youtube.com/watch?v=WVtYNbFAxrY ついでに一番有名な『ソング・フォー・ユー」もhttp://www.youtube.com/watch?v=37dw2r45Xzg

wikiの解説を読むと

ソロ・アーティストとしては1968年から現在に至るまで数多くのアルバムを発表、ルーツ・ミュージックの色が濃い泥臭い音楽性は高い評価を受けている。それは、アメリカ南部出身のミュージシャンによって、ロサンゼルスで爆発した。ラッセルのロック・ミュージックはロサンゼルス産でありながら、”スワンプ・ロック”という呼称が与えられ、彼こそが、スワンプ・ロックのカリスマであった。彼の代表曲である『ソング・フォー・ユー』は1970年の作で、レイ・チャールズカーペンターズなどにカバーされた。この頃、スワンプ・ロックは、エリック・クラプトンにも大きな影響を与え、アルバムに参加したばかりではなく、彼のバンドから、ベースのカール・レイドルやドラムのジェイミー・オルティカー、その他、ディック・シムズマーシー・レヴィを引き抜いている。1979年の日本公演でアルバム化されたクラプトンの「ジャスト・ワン・ナイト」では、ラッセルの代表作『ソング・フォー・ユー』のピアノの降下音の完全コピーで演奏を開始して、その音楽的起源を披露している。他にも『タイト・ロープ』、『スーパースター』、『マスカレード』など、カバーされた作品は多い。

とあり、ベンチャーズの音楽性を高く評価したともあります。

この世代に評価されたミュージシャンは現在と比べるとレベルが違うから巧いのは当たり前ですが、レオンは歌声に色気があっていいですね。興味をもたれた方は英語の歌詞とその翻訳を比べるなどして楽しんで下さい。中学校の英語の授業にこういうのを取り入れると生徒は大喜びするのではないでしょうか?


報告:西村修平さんが組織犯罪に逢われています

2013年09月08日 | 世直しのためにどうすべきか

 「主権回復を目指す会」の西村修平さんから以下のメールが届きました。転載します。

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 福井県警から事情聴取・・・西村修平


各位

小生にたいして、今年3月頃から数台の携帯から無言などの嫌がらせ電話が毎日掛かって来ます。
内容はたわいのないもので、この僕が偽装コミンテルンとか極左、エセ保守、売国奴、自民党を潰す気か、
用心しろなどなど・・・。
通話ストップの措置したら今度はショートメールで、それも受信拒否の対応をしたら、異なる携帯から
などなど・・・、恐らく安倍応援団とか反民主党に類するイカレタ「保守派」と思われます。

当方ついにぶち切れて、ある時、「てめぇの電話番号から身元を割り出して必ずぶっ殺してやる」と返信した。
それが効いたどうか、数日間、全く掛かってこなくなった。

その代わりに、7月の半ば、福井県警の生活安全課から、西村修平に対する「脅迫の捜査願い」が届けられてい
るので、話を伺いたいと電話が来た。嫌がらせを受けた僕が、嫌がらせをする加害者から警察へ訴えられたので
ある。

当方、「事情聴取なら何時でも福井へ出向くから、そいつも同席させろ」と事情を詳しく話した。警察は「分か
りました。結構です」と経緯を了承したが、勢い余って過剰な真似は注意して下さいと諭された。

それにしても情けないほど腑抜けな「安倍信者」?で、嫌がらせした挙げ句、ちょっと脅かされただけで警察に泣
きを入れるとは、世が世とはいえほとほと呆れ果ててしまった。


主権回復を目指す会 西村修平

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西村さんへ送ったメールが時々エラーになることがあるので心配していましたが、やはり組織犯罪に逢われていたのですね。

私も2009年から私個人の中傷を目的とするブログが複数立ち、しかも警察や行政書士の方に相談して対処しようとすると(この遣り取り中に消えたブログもあります)、中傷ブログを凍結したまま別のブログに前のブログの中傷を保存するなど証拠提出作業を遅らせる動きがあり、私怨にしては異常過ぎる、集団によるサイバーストーカーの被害が続いています。このブログへの中傷、私の代表する『八王子五行歌会』への迷惑投稿、その他公にしていない妨害や嫌がらせが次々と起こって、もう日常になっています。

妻子の失踪も婦人相談所が係わっているでしょうし、マニュアル通りに息子が転校させられると予測し、前もって八王子四中の担任に連絡をしていたのに、父親の権利を黙殺して八王子教育委員会が転校許可を断行したため、直接怒鳴りつけに行ったこともありますが、上位機関からの命令に従ったまで、という口実で逃げられました。母の監禁事件についてはこれから黒白をつけます。人間は不思議なもので、どんな苦境も慣れてきます。定期的な組織犯罪は私にとって風物詩です。

つい先日もこのブログに書いた 「八王子市情報公開条例:途中経過報告」で、その一部を紹介しました。自分が加害者なのに人を加害者にしておいて権力を後ろ盾にするという、卑劣さを通り越して、もう飽き飽きしている陳腐な手口も全く同じです。

その際に詠んだ五行歌を再度記します。


狂人に狂人 
犯罪者に犯罪者 
と言われる人の世に 
褒められるは恥なり 
蓮の花

 

さらに今「八王子五行歌会」では「世相」を題詠とした歌を募集しているので、続いて2首詠みました。それも紹介します。

ファミレスで
競馬新聞と睨めっこ
若者たちの悩み
羅列数字の隙間に
忍び込む真夜中


勧誘禁止のプレート無視して
新聞勧誘員ドアホン鳴らす
嘘の報道には飽きたよ
と開いたドアから
秋風の配達


私も初めのころは、殺すぞ、とか、朝までドアを開けとくからタイマンしようか、などと言い返したものですが、無駄な労力は使わないように、「可哀想に、いつか被害者から殺されるか幹部から口封じされるパシリなのだから、早く保護措置にでもなって精神病院に逃げたほうがいいのに」と思うようになりました。議論する知恵もない、いざとなれば逃げる、要するに人格異常者、サイコパスの集団だと分かったからです。

そうそう、こういう方々の通報によるガセネタで警察が来たことが二度あります。また、泥棒に入られて通報、隣人が夜中に金属を叩く音が五月蝿いので通報したことなど何度もありますが、そうするとむしろ私のほうが「変な人」と噂される仕組みになっていることを知りました。

「長いものには巻かれない」「臭いものには蓋をしない」「悪いと思ったことは権力相手でも告発する」と、自ら選んだ茨の道ですから、こういう組織犯罪に逢うのはとっくの昔に覚悟した上での行動です。

西村修平さんにエールを送る意味も込めて、短歌で締めくくりましょう。

有漏路(うろじ)より  無漏路(むろじ)へ帰る一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け(一休宗純)

 

晴れてよし  曇りてもよしの富士の山  もとの姿は変わらざりけり(山岡鉄舟)


おほぞらに  そびえて見ゆるたかねにも  登ればのぼる道はありけり(明治天皇御製)



八王子市情報公開条例:途中経過報告

2013年09月05日 | 法律

先ずは西村修平さんの「主権回復を目指す会」のメルマガを紹介します。詳細はいつもの通り左下のブックマークからご覧下さい。読者の皆様がお気に入りに登録して頂くことをお願いします。

釈然としない賛美と“英雄論”
http://nipponism.net/wordpress/?p=24035

   <吉田昌郎(元福島第1原発所長)の死に思う 何の解決にもならない吉田元所長の賛美と“英雄論” >

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次いで「パチンコ通信」からのメルマガもありました。何度か書いたように、これは会員登録をしない限りメルマガの内容は読めないので、ブックマークから無料の会員登録をお願いします。マルハン批判活動の報告ですが、マルハンの社長は大の映画ファンだと聞いています。せめて私が世話をしているロータス人づくり企画の一つ「ロータス文化学院」に出資して、松本俊夫先生、牧野守先生の人生の集大成と言われる授業に協力し、イメージアップしてもらいたいものです。パチンコはタバコと同じでいいところは殆どありませんが、競馬は酒と同じで上手に付き合えば頭の体操になり、年間トータルでプラスにもなる、というのが私の考え方です。

余談ですが人生にはトキメキが必要と思い、先々週から競馬を再開することにしました。再開以来2度目の先週の日曜、新潟最終日のメインレースは馬連で200倍以上付きました。私の選んだ有力場4頭の内、穴+穴が来たのですが、本命サイドから流して外れました。それでハートに火がつき、過去の長い競馬歴でパスしていた新潟の直線1000メートル競争に手を出し、馬連34倍をゲットしました。34倍など誰でも取れる馬券なので自慢になりませんが、レモンチャンという可愛い牝馬から流して当たったのはクスグッタイような変な気分です。私は馬連しかやりません。今後時々競馬の話を復活させる予定です。せめてホステスさんとの飲み代ぐらいは競馬で稼ぎたいものですね。体が健康だった頃は実際にそうしていました。私はG1レースでも「固い」と思ったらパスして、荒れるレースだけを狙い、1レースに2時間は考えます。重要なファクターが数百ありますからそれを瞬間に判断して行くので頭がフラフラになります。

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さて本題に入りましょう。

連日睡眠不足で、やっと3名の情報公開に対する異議申し立てを今日全て済ませた。尚、異議申し立て→審査会を繰返すようにとの総務省の有り難い助言に従うので、この問題は下手をすると来年一杯かかるかも知れない。

この問題で何度も市役所に通っていると面白いもので、各課で対応が全く異なることに気付く。総務課と法制課は紳士的常識的で、高齢者支援課の特定の人物だけが目付きが悪い。

私が異議申し立てをしたのは、個人情報のうち高齢者支援課の職権内の行為。母と私の個人情報の一部開示部分である。公務員が職務権限内で行ったことは不開示の例外、つまり公開すべきと八王子市の情報公開条例には書かれているので、存否すら答えない(グローマー拒否)など他の自治体では決して起こらない「特殊地域八王子ならでは」の決定だろう。

母と私の不開示部分については、以前同じテーマで「法律」のカテゴリーで予測していた通りだった。つまりザル法になりかねない曖昧な部分が、予定調和のように不開示理由一覧に書かれていた。前回私は八王子市情報公開条例を元に一つずつ批評したが、これと対応する「八王子市個人情報保護条例」を高齢者支援課は使ってきた。そこには以下に引用する第16条の3号と7号と1号が適用されたので、一つずつ批判を加える。まずその条例を示す。

八王子市個人情報保護条例」

第16条 実施機関は、開示請求があったときは、開示請求に係る個人情報に次の各号に掲げる情報(以下「不開示情報」という。)のいずれかが含まれている場合を除き、開示請求者に対し、当該個人情報を開示しなければならない。 

(1) 法令等の定めるところにより、本人に開示することができないと認められる情報

(3) 開示請求者以外の者の個人情報又は開示請求者以外の特定の個人を識別することはできない
が、開示することにより、なお開示請求者以外の個人の権利利益を害するおそれがあるもの。た
だし、次に掲げる情報を除く。
ア 法令の規定により又は慣行として開示請求者が知ることができ、又は知ることが予定されて
いる情報
イ 人の生命、健康、生活又は財産を保護するため、開示することが特に必要であると認められ
る情報
ウ 当該個人が公務員等(国家公務員法(昭和22年法律第120号)第2条第1項に規定する国家公
務員(独立行政法人通則法(平成11年法律第103号)第2条第2項に規定する特定独立行政法人
及び日本郵政公社の役員及び職員を除く。)、独立行政法人等(独立行政法人等の保有する個
人情報の保護に関する法律(平成15年法律第59号)第2条第1項に規定する独立行政法人等を
いう。以下同じ。)の役員及び職員、地方公務員法(昭和25年法律第261号)第2条に規定する
地方公務員(地方独立行政法人法(平成15年法律第118号)第2条第2項に規定する特定地方独
立行政法人の役員及び職員を除く。)並びに地方独立行政法人(同法第2条第1項に規定する
地方独立行政法人をいう。以下同じ。)の役員及び職員をいう。)である場合において、当該
情報がその職務の遂行に係る情報であるときは、当該情報のうち、当該公務員等の職及び当該
職務遂行の内容に係る部分

(7) 市の機関、国、独立行政法人等、他の地方公共団体又は地方独立行政法人が行う事務又は事
業に関する情報であって、開示することにより、次に掲げるおそれその他当該事務又は事業の性
質上、当該事務又は事業の適正な遂行に支障を及ぼすおそれがあるもの
ア 監査、検査、取締り、試験又は租税の賦課若しくは徴収に係る事務に関し、正確な事実の把
握を困難にするおそれ又は違法若しくは不当な行為を容易にし、若しくはその発見を困難にす
るおそれ
イ 契約、交渉又は争訟に係る事務に関し、市、国、独立行政法人等、他の地方公共団体又は地
方独立行政法人の財産上の利益又は当事者としての地位を不当に害するおそれ
ウ 評価、診断、判断、選考、指導、相談等に係る事務に関し、当該事務若しくは同種の事務の
目的が達成できなくなり、又はこれらの事務の公正若しくは円滑な執行に支障が生ずるおそれ
エ 調査研究に係る事務に関し、その公正かつ能率的な遂行を不当に阻害するおそれ
オ 人事管理に係る事務に関し、公正かつ円滑な人事の確保に支障を及ぼすおそれ

想像通り高齢者支援課に関して公開された内容は「私が母を虐待したから保護した」との作文だった。事実の詳細はこのブログの前々回に書いたhttp://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/e31ad82a40ad2ccd64bfda724a7f8667 をジックリとお読みいただきたい。まあ、ヒドイものである。ヤクザのような人物まで登場する。こういう日常を生きていると小説やドラマを見る必要がなくなる。日常そのものが小説より面白いからだ。

さて批判を始めよう。

1号(1)は「何という法令の第何条何項なのか」がサッパリ分からない。これは具体的に示す義務がある。

次いで(3)のウは、高齢者支援課に条例の意味が分かっていない人物が揃っているのだろうか、これは不開示の「例外規定」だから、要するに公開せよ、という意味である。

高齢者支援課は怪我の痛みを訴える母を一週間も治療しなかったために現在右手の握力が殆どなくなっている。少し話が飛ぶが、私が月刊五行歌に投稿して巻頭に選ばれたのは母と二人暮らしの日常の事実を歌ったものである。以前書いたかもしれないが(余りに多忙なので忘れてしまった)ここで披露する。

夜中 台所の水滴の音で 目が覚める 握力が弱った母の 命の音

今の私はこの歌は「臭い」と思っているが、月刊誌である人が「ほんとうに何とも言えない。こんな歌もあるんだな。」と批評してくれた(『五行歌』2013年5月号、342頁)

ともかく、母は後遺症を残し、私は心痛で母の解放後2週間の危篤に陥り、現在もこのため歩行障害という身障者のような体になったのだから、第3号のア、イ、ウとも完璧に条件を満たしており、公開するのが常識である。

さらに問題なのは大半の不開示理由に利用された第7号である。私は前からここが怪しいと気付き「法律」の「情報公開条例について考える③」http://blog.goo.ne.jp/nadahisashi/e/9b180a27191bf3bc7f2d89ee6ce0fa3aで疑問を呈している。この部分は「八王子市情報公開条例」では(公文書の公開義務) と題される第8条第6項に相当し文面はほぼ同じで、情報公開法はアイウエの4項目が挙げられてている。これに対して私は以下のように書いた。

__________________

 ア、ウ、エ、は情報公開を実質的にザル法にする言い訳でしょうか。公務員の行動に疑惑があった場合、監査、検査、調査、人事管理など取り締まりをする立場の者が正確な事実を把握するには相当の手間がかかります。ア、ウ、エは一言で言えば「面倒臭い場合は情報を公開しない」と宣言しているのと同じです。(注、個人情報の16条に合わせると、アウエオを含むことになる)

 イ、これは驚天動地で、メマイがしました。公務員の職務権限の中に不法行為があったら処罰するべきところ、八王子市の財産上の利益や地位を優先する、と言っているのです。

 不当に、というのがミソで、情報公開が不当か適当か揉めるような重要事項は八王子市長が審議会を諮問し決定することになっています。以下を参照して下さい。

 http://www.city.hachioji.tokyo.jp/seisaku/joho/shingikai/005716.html

 これは公聴可能で関係者は意見を述べることができるようです。私が公開請求した事案は相当重要と思いますが、審議会が開かれた様子もなく、ただ結論だけが速達で届きました。(異議申し立てをしたときに開かれる「審査会」(秘密会議)とは違いますから混乱しないで下さい)。いずれにしてもイは憲法違反です。問題は「不当に」開示請求をかけたかどうか、の点ですが、審議会も開かず一体誰が「不当」か「正当」かを決断したのでしょう?

  日本国憲法

 第十五条 公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。 2 すべて公務員は、全体の奉仕者であつて、一部の奉仕者ではない。

第十六条  何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。
第十七条  何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

 全て重要ですが特に17条とは真っ向対立ですね。皆さん、どう思いますか? 

___________________

 案の定予想通りだった。(なお、審議会だけでなく秘密会議ですが審査会でも異議申し立て者、つまり母と私は意見陳述や資料を見せて開示不開示の判断を仰ぐことが出来る。この制度を使って今後は高齢者支援課の犯罪を問うことになる)

この部分は「特殊地域八王子市」だけでなく多分殆どの地方自治体が採用している条例だと思うが、もう一度条例と憲法を比較する。

条例:契約、交渉又は争訟に係る事務に関し、市、国、独立行政法人等、他の地方公共団体又は地方独立行政法人の財産上の利益又は当事者としての地位を不当に害するおそれ(のあるときは情報を不開示にする)。

憲法:何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。

間違えないで欲しいのは「公共団体」とは「法人」を指すのが普通だが、この場合は地方自治体も含まれる。なぜなら前段に「公務員の不法行為により」と明言されているからで、http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E5%9B%BD%E6%86%B2%E6%B3%95%E7%AC%AC17%E6%9D%A1 にも地方自治体が含まれると書いてある。

しつこく強調するが、畏れ多くも憲法の精神に真っ向から逆らって、公務員が違法を行為をしてその証拠を公開させようとしても、市町村がその証拠を隠す条例を作っているのだから、中には根性の腐った連中が育つのは当然だろう。

これは偶然の一致だと思うが、高齢者支援課の特定の人物を刺激すると必ず色んな妨害が増えてくる。例えば今日入ったコメントを公開しよう。

昨日「きみ死にたまふことなかれ」で与謝野晶子について書いたブログへこんな楽しいコメントが入った。皆さん、噴出さないでくださいね^^

Unknown (セクハラレンジャー)2013-09-05 01:08:08だから 何が言いたいのかなー?確か 世直しが タイトルだったような・・。意味不明 先が見えない つまり 雑音程度。不気味だから静かにしててくれないか。

面白すぎます。このログのタイトルは「世直し、前衛芸術、競馬、坐禅、音楽、なんでもあり」と断っている。「意味不明 先が見えない つまり 雑音程度。不気味だから静かにしててくれないか」と言いたいのはこちらのほうだ。まあ例のヤレヤレ君かその仲間だろうが、実は高齢者支援課の中心人が書いた母への聞き取り調査の論理レベルや文体もこれにソックリで、同じ心境だと類似した思考回路になるのだろうか。さらにこのブログの入っている私のHPの「八王子五行歌会」の掲示板にも9月3日、4日と合計3つの迷惑宣伝が入り現在サーバに問い合わせ中である。この掲示板の後半のほうをくぐって見てください。こういう連続投稿は初めてである。http://gogyoka.bbs.fc2.com/ (注:アメリカのサーバを経由した通販広告と分かった。手の込んだことをやりますね。違法宣伝を自覚している証拠です)

集団ストーカーをする方々の知的レベルや精神状態を知るには絶好のサンプルと思い公開した。このような方々がアチコチで悪さをしているのだろう。早めに措置入院させるべきでしょうね。

死人に口なし、と言うから八王子高齢者支援課の中心人物らが狙っているのは、母と私がこれ以上異議申し立てができない状態になることだろう。もし不審の事態が起きたときには犯人は彼だから後は宜しく、と主観と客観の中間で断言しておく。

狂人に狂人 犯罪者に犯罪者 と言われる人の世に 褒められるは恥なり 蓮の花 (ひさし)   

 


 


 


君死にたまふこと無かれ:与謝野晶子のことなど

2013年09月01日 | 歴史

まずは「呉竹会」会員としてのお願いです。

呉竹会は新聞「青年運動」の編集や、会のHPの制作を手伝ってもらえるボランティアを募集しています。こういうキナ臭い時代だからこそ、大アジア主義の精神が益々重要です。ぜひ会員になられるようお願いすると共に、ボランティア希望の方は、03-5980-9701 (呉竹会青年部)まで電話してください。呉竹会の信条と活動については、いつものように左下のブックマーークをクリックお願いします。

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私の代表する「八王子五行歌会」(草壁焔太先生主宰)がこつこつと努力を重ねた甲斐があり、だんだん賑やかになってきた。投稿された作品がきっかけになって、私が大好きな歌人・与謝野晶子の話題になり、今日のブログは彼女について書くことにした。華麗な才能に溢れ、しかも良妻賢母の典型のような人で、私は彼女の歌だけでなく人柄も大好きである。

そこで、先ず余りに有名だけれど、意外と知られていない彼女の詩を全文引用する。

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あゝおとうとよ、君を泣く
君死にたまふことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃をにぎらせて
人を殺せとをしへしや
人を殺して死ねよとて
二十四までをそだてしや

堺の街のあきびとの
旧家をほこるあるじにて
親の名を継ぐ君なれば
君死にたまふことなかれ
旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事ぞ
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり

君死にたまふことなかれ
すめらみことは戦ひに
おほみずから出でまさね
かたみに人の血を流し
獣の道で死ねよとは
死ぬるを人のほまれとは
おほみこころのふかければ
もとよりいかで思されむ

あゝおとうとよ戦ひに
君死にたまふことなかれ
すぎにし秋を父ぎみに
おくれたまへる母ぎみは
なげきの中にいたましく
わが子を召され、家を守り
安しときける大御代も
母のしら髪はまさりぬる

暖簾のかげに伏して泣く
あえかにわかき新妻を
君わするるや、思へるや
十月も添はで 別れたる
少女ごころを思ひみよ
この世ひとりの君ならで
ああまた誰をたのむべき
君死にたまふことなかれ

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この歌を巡るwikipediaの記述も以下に引用する。

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晶子と親交の深い歌人であったが国粋主義者であった文芸批評家の大町桂月はこれに対して「家が大事也、妻が大事也、国は亡びてもよし、商人は戦ふべき義務なしといふは、余りに大胆すぐる言葉」と批判した。晶子は『明星』11月号に『ひらきぶみ』を発表、「桂月様たいさう危険なる思想と仰せられ候へど、当節のやうに死ねよ死ねよと申し候こと、またなにごとにも忠君愛国の文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方かへつて危険と申すものに候はずや」と国粋主義を非難し、「歌はまことの心を歌うもの」と桂月の批判を一蹴した(日露戦争当時は満州事変後の昭和の戦争の時期ほど言論弾圧が厳しかったわけではなく、白鳥省吾木下尚江中里介山大塚楠緒子らにも戦争を嘆く詩を垣間見ることができる)。

大町桂月は『太陽』誌上で論文『詩歌の骨髄』を掲載し「皇室中心主義の眼を以て、晶子の詩を検すれば、乱臣なり賊子なり、国家の刑罰を加ふべき罪人なりと絶叫せざるを得ざるものなり」と激しく非難したが、夫・与謝野鉄幹平出修の直談判により、桂月は「詩歌も状況によっては国家社会に服すべし」とする立場は変えなかったものの、晶子に対する「乱臣賊子云々」の語は取り下げ、論争は収束する。この後、1925年(大正14年)6月11日、桂月は57歳で病没するが、『横浜貿易新報』に晶子は追憶をよせた。

この騒動のため晶子は「嫌戦の歌人」という印象が強いが、1910年(明治43年)に発生した第六潜水艇の沈没事故の際には、「海底の 水の明りにしたためし 永き別れの ますら男の文」等約十篇の歌を詠み、第一次世界大戦の折は『戦争』という詩のなかで、「いまは戦ふ時である 戦嫌ひのわたしさへ 今日此頃は気が昂る」と極めて励戦的な戦争賛美の歌を作っている。満州事変勃発以降は、戦時体制・翼賛体制が強化されたことを勘案しても、満州国成立を容認・擁護し、1942年(昭和17年)に発表した『白櫻集』で、以前の歌「君死にたまうことなかれ」とは正反対に、戦争を美化し、鼓舞する歌を作った。例えば、「強きかな 天を恐れず 地に恥ぢぬ 戦をすなる ますらたけをは」や、海軍大尉として出征する四男に対して詠んだ『君死にたまうことなかれ』とは正反対の意味となる「水軍の 大尉となりて わが四郎 み軍にゆく たけく戦へ」など。このようなことから、反戦家としては一貫性がなかった。

日露戦争当時に「幸徳秋水の反戦論は大嫌いだ」と公言しているが、大逆事件では秋水ら死刑になった十二人に「産屋なる わが枕辺に 白く立つ 大逆囚の 十二の棺」という歌を1911年(明治44年)3月7日に『東京日日新聞』に発表している。刑死者の一人大石誠之助は『明星』の同人で関わりも深く、また女性でただ一人死刑となった管野スガは未決在監中に平出修弁護士に晶子の歌集の差し入れを頼んでいるが、晶子は直接差し入れなかったことを悔恨して小林天眠への手紙に残している。

1911年(明治44年)に『青鞜』発刊に参加、『そぞろごと』で賛辞を贈って巻頭を飾り、「新しい女の一人」として名を寄せた。同年、文部省内務省が文芸作品の顕彰と称し、諮問機関・文芸委員会を作ったことに対し、晶子は「栄太郎 東助といふ 大臣は 文学をしらず あはれなるかな」と皮肉に満ちて批判的な歌を作っている。文芸委員会に対しては、夏目漱石も「最も不愉快な方法で行政上に都合のいい作品のみを奨励するのが見えすいている」と言っている。

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彼女の反戦思想にブレがあったのか、それともその時その時に確固たる信念があったのかは分からない。

ちなみに、私は父が64歳のときに生まれたので、父の長兄は日露戦争で旅順で戦死している。郷土の村では唯一の志願兵だったらしい。葬儀には県知事も訪れ、墓石は県道沿いに石碑のように建てられ地元の人が供養を欠かさなかったが、時代の変化に伴い県道拡張工事に伴って(だと記憶しているが)、この石碑を移動する案が起こり、私の従兄に当たる人がノイローゼになるほど悩み交渉した結果、どうやら元の位置に落ち着いていると聞く。ちなみに私の父は戦前は大尉相当官だった。校長時代のことか助役時代のことかは分からない。ついでに言えば、戦前の教員は宮内庁から位階を叙位され、父は正六位だった(華族は従四位以上)。つまり陛下の臣民としての教育者だったのである。父は当然天皇陛下を尊敬していたが、決して自慢しない性格だったせいか、そのような賞状や数多くの勲章は皆タンスに入れて一人っ子の私にも教えなかったため、死後発見したものである。小学校時代の優等賞の賞状を除き、いつの間にか散逸しているようだ。母の上京後は親族たちが家を整理したためである。直筆の芥川龍之介の色紙や石原純の短冊などあったが、これも私が大学生時代に母が処分してしまった。

話を元に戻す。wikiの記事を見ていると、あの時代にしては意外に自由な思想が許され、交流関係も懐が深かった様子が分かる。与謝野晶子の反戦歌も、反天皇ではなく、反戦であり、軍部や役人の太政官的な横柄な態度に文学者たちが反発した様子が分かる。太宰治も元々は共産主義者で活動もしていたようだが、大東亜戦争では逆に日本浪漫派になり、戦争を肯定した。

小林秀雄の言説もwikiから引用すると

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太平洋戦争勃発時には積極的に反戦姿勢を示さず、また戦後「頭のいい人はたんと反省するがいい。僕は馬鹿だから反省しない」と開き直ったかのような態度をとったことから、いち早く右翼的立場から左翼的立場に転換した人々広く非難を浴びた。一部には、これを敗戦後に戦前とはうってかわって、「右翼的文化人」から「左翼的文化人」に変貌した当時の大多数の知識人らと比して立派であると逆に評価する声もあるが、「反省しない」と言う言葉を用いて、戦前の言動を正しかったとか、悪かったとか戦後の世間一般の価値観でもって自分自身を肯定・否定しているわけではなく、戦争に負けたとたんにその立場を180度転換した戦後の世間一般の価値観でしか己の立場を決定できない人々を小林は「頭がいい人」と揶揄し、批判したのである。(『考えるヒント』読者 より)

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とあり、つまり一流の文学者たちは「流行に左右される大衆やポピュリズム知識人に反発した」と、私は好意的に解釈している。現代の日本には社会の木鐸として警鐘を鳴らす「マスコミも評論家も知識人も教育者も絶滅した」と言われるほど閉塞しているので、私は与謝野晶子、太宰治、小林秀雄の闊達な意思表示を称えたい気持ちになる。

与謝野晶子の名言も紹介しよう。http://tamiyataku.blog.fc2.com/blog-entry-195.html より

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与謝野晶子語録全8件


「厭々(いやいや)する労働はかえって人を老衰に導くが、自己の生命の表現として自主的にする労働は、その生命を健康にする」

「才能のある人の間で猛烈な競争をかいくぐってきたたくましさがないと、大きな試合では勝てない」

「人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」

「創造は過去と現在とを材料としながら新しい未来を発明する能力です」

「夫婦は毎日毎日愛の創作をしているのだ」

「若さの前に不可能もなければ、陰影も無い、それは一切を突破する力であり、一切を明るくする太陽である」

「私たちの夫婦関係は毎日毎日新季蒔直(まきなお)しを試み、毎日毎日以前にない新しい愛の生活を築き上げているのです」

「特別に女子のためとして作られた書物は、全て女子を低能児たらしめる劣等の書である」
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私は与謝野晶子の良妻賢母ぶりや夫婦愛について多少の知識があるので、このような賢婦人がそばに居ればなぁ、と素直に思う。しかし、反論したい名言もある。

「才能のある人の間で猛烈な競争をかいくぐってきたたくましさがないと、大きな試合では勝てない」

これは現代では頂けない。バブル崩壊以降、私は「芸術家は死んだ」という言葉(ロラン・バルトだったかな?)をつくづくと実感した。作品は大したことがないのに、自己プロデュース能力が長けた「自称芸術家」が、批評能力の欠落した批評家や学芸員たちを詐欺師のように巧みに騙し、ロビー外交で受賞するという姿を嫌になるほど見てきたからである。

私の持論は、「趣味道楽遊び娯楽」が人間にとって構造的に必要なものであり、これを包括概念とすれば、芸術はその中のごく一部の過剰なものであり、娯楽と芸術の境界線は恣意的に生まれた、というものである。もちろん、だからと言って芸術が嫌い、ということではない。趣味道楽が無いと人間は生きられないという当たり前のことに気付いただけで、私は多数の論文や評論文、批評文を書いてきたが、それは「趣味」であり、面白いから書いたまでであり、そのことによって自己宣伝をする気はさらさらなかった。私の文章は多くの紙媒体に載っているが、ほとんどが依頼原稿である。

貧すれば鈍す、というが、映像関係を含め自称芸術家の中には「営業マンになったほうがいいんじゃないか」と思うほど、宣伝能力に長けた人物が多くなり、私は「芸術」という言葉を使うのさえ嫌になっている。だから、与謝野晶子の名言の一つは現代には通じない、と断言する。ただの趣味です、と謙虚にしているほうがずっと品がいい。

またこれは私自身の個性に由来する感慨だが、

「人間は何事にせよ、自己に適した一能一芸に深く達してさえおればよろしい」

との格言にも反発を抱く。私はいつも「器用貧乏の典型」と自称していて、興味の対象は?と聞かれると、「宇宙の全て」と答えて相手を煙に巻くのが大好きだ。私自身の個性ではあるにしても、同時に、オタクと言われ得意な分野以外は無知な人々の多い中、100芸に深く達するのもいいではないか、と思う。実際には10芸ぐらいが関の山にせよ、あらゆる分野に関心がある、という複眼的興味を失うと「オタクのまま大人になった知識人」となり下がり、総合的な感性や価値判断が狂ってくる。今はそういう時代で、本物が消えてしまった。

最後に

「特別に女子のためとして作られた書物は、全て女子を低能児たらしめる劣等の書である」

という言葉には驚いた。昔もそうだったのか、という驚きである。食堂や理髪店などで女性週刊誌が置いてあるのを手にすると、読むべき記事が一頁もないことに唖然とし、それ以来、手にしないようにしている。

化粧、ファッション、セックス、食べ物、嫁姑争い、迷信、恋占い、都市伝説、芸能人の噂・・・ほぼこれだけだ。この手の週刊誌の編集長は「完全に女性をナメている」確信犯だと思う。こんなものを1年も続けて読めば当然バカになるだろうし、知的女性は退屈でとても読む気が起こらないだろう。しかし、何十年もこの路線が変わらない。私はこの種のメディアを「日本人愚民化のためのデバイス」だと見切っているが、読む人が居るんだから、想像もつかない現象である。

最後に私の好きな与謝野晶子の短歌を幾つか紹介して今日のブログを終えることにする。有名だから皆さんご存知の筈。しかし、素晴らしく華麗な才能ですね。

金色の 小さき鳥のかたちしていちょう散るなり 夕日の丘に

清水へ 祇園をよぎる桜月夜こよひ逢ふ人 みなうつくしき

その子二十 櫛にながるる黒髪のおごりの春の うつくしきかな

道を云はず 後を思はず名を問はずここに恋ひ恋ふ 君と我と見る

鎌倉やみ仏なれど釈迦牟尼は美男におはす夏木立かな

 んとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな

海恋し 潮の遠鳴りかぞへては少女となりし 父母の家