那田尚史の部屋ver.3(集団ストーカーを解決します)

「ロータス人づくり企画」コーディネーター。元早大講師、微笑禅の会代表、探偵業のいと可笑しきオールジャンルのコラム。
 

2012年を振り返る

2012年12月30日 | 雑談
本当は微笑禅の会会報にしたかったが、母が風邪を引き私も疲れているので、気楽なテーマにした。

プライベートのことは山ほどのトラブルがあるがこれはブログに書く問題ではないので省略する。

今年の目標は「一人で頑張りすぎず、人と絆を結ぶこと」だった。去年は、簡潔に言えば「俺が一番偉いと思っている人間」と「利用して後ろ足で砂を蹴って敵に回る人間」、要するに根性の腐っている人間とことごとく絶縁した。凄まじい一年だった。
 今年は新たな知人が出来、また介護医療関係で人間味のある人たちと多く出あった。どうにか来年も絆を広げていきたい。

残念なのは元護国団団長・石井一昌氏の逝去。この人は早大で教えていた時代にブログに投稿して以来、なぜか気に入ってくれ、連日のように朝早くから電話が掛かってきた。確かこの団体は破防法適応のはずなので、この頃から電話は全部盗聴されていたかもしれない。
 平然と天皇陛下を批判する独自の信念を持った人で、愛国党の青年部長?が「石井先生、その悪口だけはやめてください」と言ったところ思い切り怒鳴りつけて説教していた姿を思い出す。普通の人から見れば恐ろしい人たちの集まりの中で乾杯の音頭をとったり、スピーチをしたりして、貴重な体験を積んだ。また色んな勉強もし、様々な人脈も出来、大きな財産を頂いた。最後は実につまらないことで口論になり、「石井さん、そんなに腹が立つなら一発殴ってください」と言ったら本気で顔面にパンチが飛んできた。咄嗟にパンチを逸らすことも出来たが、こっちもイライラしていたので顔を突き出すように受けたから、目の下に青あざが1ヶ月以上残って困った。

あとはいうまでもなくこの前の衆院選挙。民主党の自滅、真冬のせいで投票率の低下などの条件が重なり、自公連立政権に戻ったが、呉越同舟だから今後どうなるか観察したい。
 公明党の主張に一番近いのは共産党のように見える(現実は全然違うが公約だけを比較すると)。実際一時期は支持者層が重なっていたので松本清張が仕掛け人になり「創共協定」が出来かかったが、創価が宮本共産党委員長宅に盗聴事件を犯して計画倒れになった。そのとき盗聴部隊のリーダーだったのが「そうはいかんざきの」神崎公明党委員長と言われている(裁判では山崎正友一人の犯行、ということになっているが)。

ともかく、大不況の中、道徳観念の欠如、自殺、殺人が横行している日本を立ち直してもらいたい。個人の努力の範囲を超えている部分が多くありすぎる。

では夜遅いので失礼します。

愛国運動について

2012年12月30日 | 世直しのためにどうすべきか
 
昨日、中曽根首相辺りから日本の首相のスケールが小さくなった、と書いた。
で、フト瀬戸弘幸さんが中曽根を絶賛していることを思い出した。瀬戸さんが中曽根を支持する理由は分かっているつもりだし、決して瀬戸さんを批判するつもりは無い。

私は西村修平さんと瀬戸さんが連帯していた時代の愛国運動が復活ことを願っている。私もお二人とは親しくして頂き一緒に活動していたが、大病で入退院を繰り返し、気付いたときには内部分裂が起こっており、私は原因不明の歩行障害が出てまともに歩けない状態になっていた。

私は早大で非常勤講師をしている頃から、短い生涯を芸術研究だけで終わらせず世直し運動をしたいと考え、あるきっかけで元護国団団長・石井一昌さん(平成24年9月16日、急性肺炎にて逝去、享年86才)と親しくなり、それと全く関係なく瀬戸さんと親しくなった。お二人が地元が一緒で深い繋がりがあったことを知ったのは後のことである。瀬戸さんと懇意になってから西村さんとも顔を合わせるようになり、今も私はお二人のブログをほぼ毎日読んでいる。

私は「創価学会批判の要諦」をHPに掲載した頃からおかしな連中が接近して裁判を繰り返し、やがて妻子の失踪から離婚、私の大病(危篤二回)、介護に来た母の突然の衰弱、微笑禅の会を任せた人物とのトラブル、そのほか数えられないほどの人物との出会いと喧嘩別れを繰返してきた。いくらバカでも多少の学習能力は残っているので、これだけの体験を積めば裏のカラクリが見えてくる。
 
一つ一つの事象には非常に複雑な問題が絡んでいるが、巨視的に見れば、必ず内部分裂を仕組み、さらにそれをネタにデタラメだらけの違法ネット中傷、また立ち回り先(隣近所や飲み屋など)で直接中傷を繰返す連中がいる。法曹会もそれを援護射撃している。結局こういう連中の思う壺に嵌まっているわけだ。
 だから殴り合いをしようが罵りあいをしようが、決して分裂せず、大同団結を崩してはならない、と考えている。しばしば引用する明治天皇御製、
あやまちを 諌めかはして 親しむが まことの友の こゝろなるらむ
の通りである。

私だけでなく、多くの真の愛国者は同じ考えを持っていると思う。
 西村さんと瀬戸さんの影響は非常に大きい。対立することを一番喜んでいるのは誰か、それを考えると歯がゆい思いがする。

宇都宮徳馬氏のこと

2012年12月28日 | 政治

前回、学生時代に選挙を手伝った宇都宮徳馬氏のことについて触れた。人望の厚い人なので自分から申し込んだのだろうが、調べてみたら父親は陸軍大将、戦前は共産主義者で獄中転向組の人物と分かった。田中清玄と共通項があり、昔からこういうタイプが好きだったのだろう。戦前の大学生は大抵が共産主義だったので別に珍しいことではない。大事な部分だけを引用抜粋する。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E9%83%BD%E5%AE%AE%E5%BE%B3%E9%A6%AC

獄中で転向を表明、釈放。その後、株式相場で満州事変に関係した軍需企業の株式に投資し、大金を得る。これを資金に1938年、医家向けの製薬会社、合資会社ミノファーゲン製薬本舗を設立し、同社社長に就任。また会社経営の傍ら、「高杉俊輔」のペンネームで読売新聞経済欄に寄稿し、軍部や革新官僚に対する批判を行った。

第二次世界大戦後、1952年の第25回衆議院議員総選挙に自由党公認で旧東京都第2区から出馬し、初当選を果たした。1955年の保守合同により、自由民主党結党に参加。宇都宮は石橋湛山や三木武夫らの系譜に連なり、外交面で平和共存外交、日ソ・日中・日朝国交回復を主張。保守派の中では異色の存在であり、最左派に位置していた。またアルジェリア戦争に際してアルジェリア民族解放戦線(FLN)を援助し[1]、1959年9月にはアルジェリアの戦場を視察した。

しかし、自民党内では石橋湛山の引退後、最左派の宇都宮は右派から疎まれ、入閣も阻まれる等、党内で孤立していく。1975年、東京都知事選挙への立候補を一旦表明するが、断念(代わって同じ旧東京2区選出の石原慎太郎が衆議院議員を辞職して出馬したが、3選出馬した美濃部亮吉知事に敗れた)。1976年、ロッキード事件や金大中事件への日本政府の対応や三木おろしに抗議し、自民党を離党。さらに衆議院議員も辞職した。

同年、第34回衆議院議員総選挙には無所属で旧東京2区から出馬し、当選。同じく無所属の鳩山邦夫(鳩山一郎元首相の長男の次男、孫で地盤継承者)、麻生良方と共に衆院無党派クラブを結成し、代表に就任(1978年に解散)。1979年の第35回衆議院議員総選挙では落選した。翌1980年、第12回参議院議員通常選挙に東京地方区から無所属(新自由クラブ・社会民主連合推薦)で出馬し、当選。この立候補は、民社党が擁立した栗栖弘臣が有事法制の制定を公約に掲げたことに危機感を募らせたためであった。同年、宇都宮軍縮研究室を設立し、月刊誌「軍縮問題資料」を発刊した。

1986年、第14回参議院議員通常選挙に際し山本コウタロー、國弘正雄、片岡勝らが平和運動を主体にした政党「ピース・スタジオ」を立ち上げ、宇都宮を比例代表名簿1位に据えての立候補を企図したが、宇都宮は三木から「20億円かかるぞ」と言われ、断念した。その後、小杉隆の説得に応じて新自由クラブの比例代表名簿1位に登載され、比例区で当選する。

人物

軍縮と対共産圏平和外交を主張したため左派に位置づけられることが多いが、徹底した経済規制緩和を主張した実業家でもあり、計画経済への反対にとどまらず混合経済や公営企業にも反対し教育の民営化を主張していた。農地改革は「封建的要素の払拭」の面で一応評価するものの、政府による農業統制の強化につながり自由な農業経営が妨げられることに懸念を示していた。

また労働運動への警戒も表明していたが、共産主義・社会主義勢力とは相互寛容関係の構築を目指していた[3]。

かつて北朝鮮の国家主席金日成と会談した際、既に後継者を金正日と決めていた金日成に対し「政治家は一代限りにすべきです」と諫言した。これに対して金日成は「本当の友人の直言はうれしいものだ」と微笑みながら応じたという。

売春汚職事件で読売新聞記者が「売春汚職、宇都宮徳馬自民党衆議院議員を収賄容疑で召喚必至」と報じた。しかし、これはガセネタであり、宇都宮は読売新聞・検察関係者を名誉毀損で告訴し、読売新聞記者の立松和博が名誉毀損容疑で逮捕された。立松は不起訴処分となったものの、読売新聞は社会面トップに五段抜きの異例の取消記事を掲載する一方で、立松を懲戒休職・左遷させた。伊藤榮樹『検事総長の回想―秋霜烈日』によると、宇都宮の収賄被疑は、検察内部から立松への情報提供者を突き止めるため、意図的に流した偽情報であった。
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ブログに時間を取りすぎているので、簡単に書くが、この人物はバランスの取れたロマンチストだと思う。私が応援したのは自民党を離党した後だろうがどの選挙だったのか覚えていない。

三角大福戦争と言われていた時期、私は4人とも好きだった。今の政治家と比べるとこの時代はスケールが違っていた。
 見栄えが悪いので人気は無かったが福田首相は「カミソリ福田」と言われて頭も切れユーモアもあり、私は好きだった。田中角栄は清濁併せ呑む人情家で、ロッキード事件はアメリカに嵌められたと思っている。大平正芳は敬虔なクリスチャンで「政治にあまり期待してはいけない」と発言したときは感動した。三木武夫はロッキード事件が無ければ首相になりえないクリーンなイメージの人物だが同時に策略家でもあった。

今思い出すとあの頃は戦国時代のようで、鈴木善行、中曽根(担ぎ手の無い「オンボロ神輿」と言われた)辺りからグンと人物の大きさが落ちた気がする。
 
では失礼します。

組閣のことなど

2012年12月27日 | 世直しのためにどうすべきか

やっと組閣人事が決まった。
一番気になっていたのが法務大臣と国家公安委員長だが、両方自民党。公明党からは一人入閣して国土大臣。

ところで自公連立と言っても、公約は正反対。

自民
原発:再稼働を3年以内に結論
安全保障:日米安保条約基軸、集団的自衛権行使可能に

公明
原発:すみやかに原発ゼロを目指す
安全保障:安保基軸も、日米関係再構築、集団的自衛権には反対


極々普通に見てこれで連立が組めるのかと不思議でならない。

http://www.zakzak.co.jp/society/politics/news/20121226/plt1212260708000-n1.htmには

「自民党は政権公約に、大看板の経済政策とともに、『憲法改正』や『自衛隊の国防軍化』『尖閣諸島への公務員常駐』『竹島の日(2月22日)に政府主催の式典開催』などの保守的政策を並べた。安倍氏も当初はアピールしていたが、選挙戦途中から、連立を組む公明党への配慮もあり、矛先を収めた。麻生氏は『来年夏の参院選までの辛抱だ。それまでは景気回復、デフレ対策一本だ』と言っており、その方向で進めるつもりだ」
とある。

こういう報道を見てると、気の合わない夫婦が家庭内別居しているというか呉越同舟の感がある。

組閣直後に批判ばかりするつもりはないし、今後の舵取りをジックリと見ていくつもりだが、日本はアジア的半民主主義ともいわれて久しく、国政選挙で投票率50%程度なのだから既に民主主義は崩壊状態にある。何か別の政治形態が無いものだろうか?

話はポンと飛ぶが、学生時代にボランティアで選挙応援した良識派議員の名前を思い出しました。宇都宮徳馬氏です。どういう経緯かサッパリ忘れましたが、後援会事務所での雑用に汗を流したものです。

では夜遅くなったので失礼します。


正夢の話など

2012年12月26日 | 神秘

今夜は組閣が決定するらしい。非常に重要なことなので決まった後で触れることにする。
 
秋山実之の話をしたときに、日本海海戦の前夜、正夢を見てから神秘主義者になった、と書いて、後日この話題を取り上げると言ったので、今日はこの話をする。

①私自身の体験
子供の頃から思春期にかけて何回か体験した。
 まず、既視感(デジャブ)もこの時期に頻繁に起こるが、これは不思議なことではない。再々起こるので自分で分析してみたことがある。例え川沿いの柳の木を見て、あ、これは前に見た風景だ、と感じた場合、無意識に脳がその風景を自動記憶していて、その直後に自覚的に見るための症状と思って間違いない。ボンヤリとしていたり、逆に強い緊張状態になると起こる現象で、本当は瞬間的に2度見ているのだが1度目を忘れているだけだと思う。

私が不思議に思った例として
a,小学生時代に、父が一時期養子になっていたところから大きな黒檀のタンスが運ばれてきた。その当日その横で昼寝をしているとタンスの中に日本刀が入っている夢を見たのでアチコチ探してみたところ、隠し扉から本当に江戸末期の脇差が出てきた。
 父の養子先は大地主だったので「道中差し」と言われる反りの高い面白い一品だった。

b.これも小学生か中学生時代、同じく昼寝をしていると母方の亡くなった祖母が現れて「今日のお餅はとても美味しかったよ」と語った。私は寝ぼけたまま母親に「今、お婆ちゃんが来てこう言ってたよ」と話したら、たまたまお盆の時期で、母は地元の餅屋さんにお供え用の餅を頼んで台所に置いたまま仏壇に供え忘れていた。地元では底の浅い長四角の桶?に数十個の単位で餅を注文する風習があり、その桶ごと台所に置いていたらしい。私はそのときがお盆に当たることも、餅を頼んであることも知らなかった。その祖母と私は大変仲が良かった。

c,これは中学生のころ、私は東京の中学に通っていたが休みで郷里に帰省していた時の話だと思う。母親は私が幼児のころまで料亭を経営していて、自宅に三味線のお師匠さん(女性)と文楽のお師匠さん(男性)を住まわせていた。中学生の時には三味線のお師匠さんのほうは老人になって、猫を可愛がっていた。私は子供の頃からこの女性に可愛がられて、何度か東京土産を送る仲だった。
 これも昼寝をしていると、懐に黒猫が入って来てやたらと懐いてくる夢を見た。目が覚めて直感的にその老女のことが気に係り母親に夢の話をしたところ、当日亡くなられたか、あるいは翌日亡くなられたか(この辺り記憶が曖昧だが、何処かに書いてあるので探してみる)、とにかくこの夢を見た直後に亡くなったことを知った。典型的な「虫の知らせ」だとおもう。

d、これは大学生時代の話。私の執筆リストの中の競馬攻略本に書いている。編集者から原稿依頼があったので、どうせ皆怪しげな薀蓄を傾けるのだろうと予測して、ハードボイルド小説風に書いた文章の中から、正夢の例を抜粋する。

1982年の2月20日、こんなことがあった。

2-5の万馬券を当てて大喜びで払い戻し窓ロへ行ったところ、この馬券外れてますよ、といって突き返された。馬券をよく見ると肩のところに、第2回5日目、と印刷してある。開催日の数字が2-5だったのだ・・・という夢を見て目が覚めた。

変に現実感のある夢だったのですぐに俺は遊び仲間(今は福井県で豆腐店を経営している吉田進一君)に電話を掛けた。事情を説明して、とにかく今日は2ー5を買ってみよう、と強引に彼を誘い後楽園場外へ駆けつけた。

ちょうど第8レースの結果がモニターに映っているところだった。連複2-5、1万2190円、と発表された。遅かった! 夢が知らせたのはこのことだったのだ。友人は言葉を失い、俺は昼過ぎまで寝ていたことを心の底から後悔した。

すっかり冷静さを失った俺は、9、10、11、12レースと無茶苦茶な買い方をして外しつづけた。ところがこの最終レースで二度目の万馬券(1万5050円)が飛び出しその連複がまたしても2-5だったのである(当時は馬連のない時代だったから万馬券そのものが非常に珍しかった)。

2-5で万馬券が出て、しかも取れない、結局、夢の通りになったわけである。

俺は厭な気分になった。嵐の日に飛行機に乗って揺れているような感じだ。無理もない。時間が裏返しになって戻ってきたのだ。今まで信じていた世界が根っこからボキッと折れてしまったのである。


これは正夢の中の予知夢の典型例で、妙な現実感があり、数字がピッタリと当たり、分かっているのに結局万馬券が取れない、というところまで全て当たっている。

この話を後年、親しくしてもらっている研究者に話したところ、「それは逆立ちの論理で、そういう夢を何度も見てて、当たったときだけを思い出している」と解説されたが、全く違うと思う。私が競馬の夢を見たのは2度だけ。妙に現実感があるから友人に電話してまで駆けつけたのだから、夢の通りの現実が後から着いてきただけである。ちなみにもう一度の夢は、確かヒロオタイヨーという馬が一着に来た夢をまざまざと見たので新聞を見たらメインレースに出馬しており本命になっていた。試しに単勝を千円だけ買ったら当たったものの2倍にしかならなかった。この夢は多分私がこの馬の名前を知っていて無意識の総合的な判断で夢に見た、と解釈できるが、当たらなかった万馬券の夢は、どう考えても今でも気持ちが悪い。

こういう現象をユングやその後継者たちは共時性(シンクロニシティ=意味のある偶然の一致)と言って色んな研究を残し、今でも論争が続いているようだ。
 私は時間の構造に関係していると思っている。つまり時間が過去から未来へ一直線に伸びている矢印のようなものではなく、ストーブの熱が上昇して下降するように時間も未来から現在へ対流しているような感覚がある。

大分時間を食ったので今日は私が体験した正夢の話だけで終えるが、知り合いやユング派のカウンセラーなどから聞いた例などは、後日話題に困ったときに記す。
 
組閣のことが気になったのでニュース速報を見たらまだ未定だった。代わりに紅白歌合戦のメンバーが発表されていた。トリはsmapとのことで唖然。AKB48も選ばれてて愕然。
 子供の頃から不思議で仕方ないのは、赤組と白組とどっちが勝つか気になっている国民がどれぐらいいるか、という問題。本当にどうでもいいことなのに、この姿勢をNHKは変えませんね。唯一気に掛かるのが美輪明宏が名曲「ヨイトマケの唄」で白組から出ること。ピンク組じゃないと出ない、と言って出場辞退するすると面白いなぁ~と思います。

尿酸値が高い人のために

2012年12月25日 | 医療、健康法
年末になると、確定申告または青色申告を自分でやっているために、昨日フト気付くと11時を過ぎてしまい、久々にブログを休みました。

いつもの悪い癖で、まだ時間があるのだからユックリやればいいのに、ロクに食事も摂らずふらふらになってメマイが始まってやっと止めました。集中力がありすぎる=オーバーワークですので、長所のようで欠点です。

それでこのところ毎朝体が起きなくて布団の中でもがいているので、その理由を色々と考えていました。で、ほんの少し尿酸値が高いので検索してみました。以下http://www13.plala.or.jp/aguni/summer/yo-nyousan.html から引用抜粋します。


<痛風を予防する生活習慣>

美食をしない
水分をたっぷりとり、尿量を増やして尿酸の排泄を促す
肥満を予防する
野菜・海藻類を十分とる
プリン体の多い食品はややひかえめにする。調理の際はゆでてから使うのもよい
酒は尿酸値を上げるので1日に清酒なら1合、ビール中びん1本、ウイスキーダブル1杯を限度とする。とくに清酒、ビール、ワインはプリン体が多く含まれているので、とりすぎに注意
うっすらと汗をかく程度の運動を
だし汁は昆布を使う(煮干しなど小魚やかつお節などはひかえた方が安心)
酒の肴は白身の魚、チーズ、野菜類、海藻類、豆類などがよい
<プリン体が多く含まれる食品>
レバーなど動物の内臓
肉汁
イワシ
アジ
エビ
煮干し
かつお節
 
<痛風の人はプリン体の含まれた食事は食べられない!?>

 例えばレバーは、プリン体を多く含むと同時に鉄分に富んだ食品ですし、イワシもEPAという動脈硬化を防ぐ働きをする物質をたっぷり含んでいます。ですから、食べ物の種類を気にするより、むしろバランスのよい食事をとるよう心がけてください。食事に関しては、標準体重を保つように過食をしないこと、そしてアルコールはひかえめにが、いちばんのポイントです。


尿酸値を下げるには


 まず、尿酸値が高くなる原因として、遺伝・食生活の問題・アルコール・ストレス・激しい運動・他の病気の影響・薬剤の影響が挙げられます。
●遺伝
 痛風の方のうち、約20%の人が、身内に痛風もちがいます。
●食生活
 痛風の方のうち、60%の人に肥満があります。肥満に伴う核酸の増加により、尿酸がたくさん生産されるためです。逆に体重を減らすと尿酸値が改善されます。
 また、肉類の食べ過ぎは血液を酸性にして尿酸を増加させます。野菜や海藻類のアルカリ性食品を摂ることで、血液をアルカリ性にさせ、尿酸の排泄を促進させることができます。
●アルコール
 アルコールは体内で分解される時に、尿酸を生成します。また、その際に乳酸も生成され、この乳酸が尿酸の排泄を遅らせます。ビールには尿酸の元であるプリン体が多く含まれていますのでなるべく避け、プリン体の少ない焼酎やウイスキーを適量を守って飲みましょう。
また、お酒のおつまみも珍味系は核酸(プリン体)を多くふくみますので気をつけましょう。
●ストレス、激しい運動
 ストレスや激しい運動は尿酸のもう一つの元であるATPの消費・分解を促進させ、尿酸値を上昇させます。また、疲労物質の乳酸が生産され、尿酸の排泄を遅らせます。また、ウォーキングなどの有酸素運動は肥満解消や尿酸値を下げる効果がありますが、マシンなどを使った無酸素運動は逆に尿酸値を上げてしまいます。さらに、発汗は尿酸値を高めます。水分は1日2リットルを目安に積極的に摂ってください。
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イワシ、アジ、エビ、煮干しにプリン体が多いとは驚きですね。イワシなど健康食だと思っていましたし、煮干(イリコ)もカルシウムもタップリで健康に必須と誰でも思うでしょう。逆にチーズはカロリーが高いのでなるべく控えていたのですが、これは体にいいとはビックリしました。

ストレスや激しい運動は尿酸のもう一つの元であるATPの消費・分解を促進させ、尿酸値を上昇させます。も驚きで、ストレスは万病の元ですが、合気道でぐっしょり汗を書いていた頃は健康そのものでした。

マシンなどを使った無酸素運動は逆に尿酸値を上げてしまいます。これも微妙に難しいですね。スポーツジムやリハビリ施設に行くとマシンを使った運動器具が置いてあります。激しい運動は有酸素運動だからダメ、マシンを使った無酸素運動もダメ、なるほどウォーキング程度ならいいのか、そういえば以前ウォーキングで糖尿病を健康値に戻した経験があるな、と思った次第。

歩行障害があって歩くと激痛が走るのに、この真冬に歩くのか、と思うとゲンナリしますが、以前は真冬に雨が降っていても傘を差してウォーキングしたものです。あれも慣れてくると依存症のようになって歩かないともの足りません。そういえば歩行禅という方法を編み出したのもその頃のことです(今は一般化されていますが当時は検索してもヒットしませんでした)。禅寺で行う経行(きんひん)と全く違って雑踏の中を無念無想で歩く訓練です。

最後に、心が体を動かすのか、体が心を動かすのか、という問題について。健康なときは私は前者だと思っていましたが、危篤になり2週間意識を失う大病をして以来、とにかく健康が一番と考えが変わりました。その秘訣は「頑張らないこと」ですね。

そんなわけで、これ以上頑張ると明日に響くので失礼します。

秋山実之について

2012年12月23日 | 歴史
今日は天皇陛下の誕生日につき、まずはご長寿とご健康をお祈りします。

というわけで、連想が明治天皇から日露戦争に跳び、東郷平八郎の声をまず拾ってみた。晩年なので、また確か喉頭癌で亡くなられたので声には力がない。
http://www.youtube.com/watch?v=MsXkrwGa6Vg

若い頃の写真を見れば分かるようにかなりの美男で、イギリス留学をしているので英語もペラペラ、海軍でも英語で命令するので軍人たちが困ったという逸話もある。

そこで連想が秋山実之に飛んだ。(秋山も非常な美男で先祖は水軍)
http://www.z-flag.jp/saneyuki_akiyama/battle_of_tsushima/seven_step.htmlには日本海海戦に備えて秋山が立てた作戦の一つ、7段構えの戦法をこう解説している。
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然らば七段構えとは何ぞ?

これは大別昼戦夜戦と正攻奇襲を交互に活用するもので、済州島近海から浦塩沖に至る海上を七段に区分し、それぞれの区域に於て最も有効適切なる攻撃法によってこれを撃滅しようというのである。

即ち順序を追うていえば、
先づ第一段は我が駆逐隊、水雷艇隊の全力を以て彼我主力艦隊の交戦の前夜に敵艦隊を襲撃せしめ、
第二段は右の襲撃を行ったその翌日我艦隊の全力を挙げて敵艦隊に正攻撃を加え、
第三段第五段は之に引続き其夜間、我が駆逐隊水雷艇隊の全力を以て再び敵艦隊に対し、奇襲的水雷攻撃を試み
第四第六段は更に其翌日我が艦隊の大部分を以て敵の残存部隊を鬱陵島附近及び浦塩港前に追撃し、
第七段は先きに浦塩港口に敷設して置いた水雷沈設帯に敵艦隊を追い込むという用意周到の作戦で、雄大かつ緻密なることは古今の海戦を通じて未だその比を見ざる所であった。

しかし実践に臨んで諸般の事情から実際に用いられたのは、僅かに第二段から第四段までであった。何故かというと、戦争の始まったのは昼間であったが為めに、夜戦の目的の第一段は自然省かれ、第五段以下はそれを用いるまでもなく、第四段までに既に敵艦隊は全滅してしまったのでこれ又その必要がなくなったのであった。

出典: 伝記「秋山眞之」(活躍篇【下】)より
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この他、余りに有名な「T字ターン(東郷ターン)」と呼ばれるアクロバット的な戦術など
秋山は狂ったように知恵を使い考え抜いた。それで世界最強のバルチック艦隊との戦いの前夜、正夢をみる。そして正夢の通りに海戦が終わった。
 この体験から彼は神秘主義者となって、wikiによれば
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大学校教官時代に佐藤鉄太郎らが主宰していた研究会「天晴会」に勧誘されて経典を研究するようになり、晩年は霊研究や宗教研究に没頭した。軍人の信仰者が多かった日蓮宗に帰依するとともに、神道家川面凡児に師事して神道研究を行い、皇典研究会を設立した。新宗教皇道大本には海軍機関学校教官の浅野和三郎との縁(秋山と浅野の初対面は大本時代)で入信し、綾部参り等を行ったものの、目的は信仰ではなく神道研究だったとされる。大本側の資料によれば、大正5年12月14日に出口王仁三郎の招きで綾部に立ち寄り大本教主顧問となったが、大正6年5月に喧嘩別れした[2]。
大正6年(1917年)5月に虫垂炎を煩って箱根にて療養に努めたが、翌大正7年(1918年)に再発。悪化して腹膜炎を併発し、2月4日、小田原の山下亀三郎別邸にて死去した。死去直前に教育勅語や般若心経を唱えていたという。享年49。
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という不思議な生涯を短命で閉じる。
 浅野和三郎は日本における心霊学の父ともいえる人物で著書も多く、イギイスで講演なども行っている。

正夢の話は何度か書いた。それは今度まとめて記すことにして、今夜はこれにて失礼します。

輪島功一の思い出

2012年12月22日 | スポーツ、武道、格闘技など
渡辺二郎の話を2度続けて書いて、輪島功一の記憶が何度も蘇った。wikiから引用して簡単に思い出を書く。
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輪島 功一(わじま こういち、男性、1943年4月21日 - )は、日本の元プロボクサー。元WBA・WBC世界スーパーウェルター級王者。現在はタレント兼団子屋経営者。本名は輪島 公一(読み同じ)。樺太出身、北海道士別市育ち。血液型はB型。

(那田注:プロボクシングでの契約ウェートは (66.678 - 69.853kg) である。ウェルター級とミドル級の間の階級で、全17階級中6番目に重い階級。1962年設置。日本のプロボクシングでの旧名はジュニアミドル級)

いつもはケンカなどはしない輪島少年だが、友達をいじめたり暴れたりする上級生がいれば「許さん!」と立ち上がり、1対1でバスケットボールのゾーンで殴りあい、相手を負かして「正義の味方」と呼ばれた。決して乱暴者や不良ではなく、腕白だが友達思いの優しい少年であった。
 のちに所属する三迫ボクシングジムの会長・三迫仁志は「輪島のすごいところは苦労人に在りがちな暗い表情が全く無く底抜けに明るくてひょうきんなところだ。たくさんの友人がいて、みんなが楽しそうにしてるのを見たら輪島の人柄がわかるでしょう」と輪島を評している。
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日本人でジュニアミドルという重い階級のチャンプが生まれたこと自体が驚きだった。輪島は漁師の子供で三半規管が異常に発達し非常に目のいいボクサーでディフェンスが完璧だった。また工事現場の労働者だったので腹筋と背筋と足腰の力が強く、ダッキングが得意で柳済斗から王座を奪還したときには、相手の股の下を潜り抜けて裏側に回ったほどだ。
 また輪島は何度かドラマに出て、たしか刑事役をしたことがある。私は彼の飄逸な演技を高く評価していて、これは凄い個性派俳優になる、と注目していたが、どういうわけか役者としては長続きしなかった。一般向きではなかったのだろう。

ではまたwikiから引用。
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テクニック
輪島は試合の中で時折繰り出す、既存のボクシングの常識ではありえない変則的なテクニックでも話題になったことが有名である。

カエルパンチ(かえる跳びパンチ)
極端に身をかがめたダッキングで相手の視界から消え、瞬時に跳び上がるようにパンチを繰り出す技。輪島の代名詞といっても過言ではないほど有名な技だが、実戦で繰り出したのはカルメロ・ボッシ戦で試合中盤に見せた一度だけである。「かえる跳びアッパー」とも呼称される場合があるが、実際に輪島が繰り出したパンチはロングレンジ気味の左フックであるため適切な表現とは言い難い。なお通称の由来は当時の試合中継の解説者が「輪島がまるでカエルのように跳び上がりました」と発言したことから。
当てることよりも相手を興奮させる効果が真の狙いであったと、輪島は後に発言している。事実、ボッシはこのパンチを見せられて以降明らかに冷静さを欠き、乱打で著しくスタミナを消耗している。

あっち向いてホイ
試合中自らあらぬ方向に視線を向けることで、釣られてそちらを見た相手の隙を突くという技。「よそ見パンチ」とも呼ばれる。輪島本人が語るところによれば、ある時タクシーのバックミラー越しに見えた運転手の視線の動きが非常に気になったことから着想を得たという。初めて使用したのは1971年のカルメロ・ボッシ戦。輪島は引退後、ボッシに仕掛けたこの奇襲戦法について「相手はオリンピックで銀メダルまで取った選手で、テクニックじゃ絶対かなうわけが無い。じゃあ駄目で元々だ、やるだけやってみようと思ってパッと横を向いたんです。そうしたら向こう(ボッシ)もそっちを見たんですよね。やってみるもんだな、と思いましたよ」と語っている。なおボクシングにおいて視線を一瞬逸らすフェイントは攻防技術としてポピュラーなものだが、「よそ見」と形容されるほど大きく視角を変えてしまう例は非常に珍しい。

記者会見でパフォーマンスをしたことでも知られる。オスカー・アルバラードとの再戦時、減量に苦しむ王者の前でおでんとビールをパクつき、王者にも勧め心理的に揺さぶりをかけた。また柳済斗との再戦時では、マスクをして現れ、風邪を引いて体調不良であるように装った。
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カエル跳びをやったのが1回だけ、というのはwikiの間違いだと思う。少なくとも私は世界戦で3回以上は見た。これもよほど足腰の筋肉が強くないと出来ない技で、一回しゃがんで立ち上がりぎわにフックをするのだから、あんなにハードなスポーツの試合中に出来るものではない。

アルバラードに負けたときも柳済斗に負けたときも、輪島は死んだんじゃないか、と思うほど血だらけになり泥雑巾のようにリングに倒れて病院へ搬送された。ファンは、輪島もういい加減に引退しろ、と願ったが不死鳥のように蘇った。
 柳済斗との再選のとき、明らかに自分で作ったと思われる大きなマスクを付けて記者会見し、咳を繰返している姿を見て、私は「芝居だな」と見抜いていた。「俺はもう体力も技術も全て劣っている。優れているのは頭だけだ」と公言していたからだ。
 この試合を私は早稲田大学の近くにあった喫茶店の初期型プロジェクターで浪人仲間たちと観戦していた。
 輪島をナメて試合を始めた柳済斗に対して輪島は驚くべき俊敏な動きで猛攻撃した。後半大差でポイントで勝っているのが分かった仲間たちは「輪島、もういい。余り攻めるな。勝ってるからクリンチで時間を潰せ」と叫んだが、輪島は一向に攻撃の手を休めず、最終ラウンドにロープダウンを奪ってKO勝ちした。

観戦していた仲間たちも、見知らぬ他人も泣きながら総立ちになって抱き合い握手し合った。
 あんなに感動した試合は前代未聞で今でも思い出すと鳥肌が立つ。最後にまたwikiから引用して今日のブログを終えます。
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*柳済斗との第2戦の実況は逸見政孝。逸見はアナウンサー人生でこの試合を実況できたことがアナウンサー人生で1番の印象として挙げている。

*日本中を感動の渦に巻き込んだ柳済斗との第2戦の翌日、都内で強盗が銀行に立て籠もる事件が起こった。このとき警察官が犯人に対し「輪島は逆境から立ち上がってチャンピオンになった。お前も昨日の輪島の試合を見ただろう。輪島を見習い人生をやり直せ」と説得したという。あまりにも劇的な輪島の王座復活は、当時の国民的関心事だったことが伺える。

渡辺二郎 続き

2012年12月21日 | スポーツ、武道、格闘技など
マヌケというか疲れというか、折角長いブログを書いたのに、ちょっとした操作ミスで全部消してしまった。自動復元機能がついているのだが、それも使えない状態に陥った。だからごくごく簡単に解説する。

彼が天才と言われる世界チャンプのボクサーから何故ヤクザ社会の幹部になったか、色々調べてみたら、以下のサイトに出会った。
http://idol-geinou-mihari.seesaa.net/article/226775281.html

大事な部分を抜粋すると、
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大阪で伝説のワルといえば、"浪速のロッキー"こと赤井英和などのイメージが強いですが、実際に大阪のヤクザや不良の間で伝説として語られているのは、渡辺二郎とシュートボクシングの創始者・シーザー武志です。ふたりとも高校時代から、関西の不良の間では名前を知らない者はいない存在だった。渡辺は自分からケンカを仕掛けることはなかったようですが、いったんケンカが始まったら周囲が引いてしまうほど一瞬で相手をボコボコにしてしまう。負け知らずでとにかく強く、その名前はヤクザ業界にまでとどろいていた。

悪いイメージばかりが付きまとう渡辺だが、彼をよく知る関係者は「真摯で義理堅い性格」と口をそろえる。

「ギャラ条件の悪いテレビ番組や映画でも、グチを言わずに快く出演してくれることで有名でした。恩義のある相手に対しては、金にならないことでも義理を通し続ける。紳助があれだけ渡辺を慕っていたのも、闇社会とのパイプ役というだけでなく、その性格を信頼していたからでしょう。逮捕された事件でも、世間に顔を知られている人間が拳銃の非合法取引や恐喝に関与すれば、逮捕されやすいというのは誰でも分かる。それでも『二郎さん、お願いします』と頼まれると、イヤとは言えない性分なんでしょうね」(芸能関係者)
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で感想は、美徳が重なり逆に失敗する典型例ということ。

①喧嘩が強い=長所。
②真摯で義理堅い=美徳
③人に頼まれると嫌と言えない=美徳

つまり渡辺の場合「兄貴的性格」や「任侠道」が悪いほうで開花してしまった。人生はやり直しができるのでその美徳を別の面で発揮して欲しい。

それからヤクザ映画やフィルムノワールの研究は一杯あるが、映画撮影と興行とヤクザの関係は切っても切れない部分があり、そういう研究論文などを知っている人がいたらコメントで教えてもらいたい、という内容でした。

2度も書くのは疲れるので大幅に省略しました。失礼します。

渡辺二郎の思い出

2012年12月20日 | スポーツ、武道、格闘技など
今日も簡単に。気になっていた人物・渡辺二郎に関してwikiから抜粋引用。
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渡辺 二郎(わたなべ じろう、1955年3月16日 - )は、日本の元プロボクサー(大阪帝拳ジム所属)。現在は暴力団関係者(山口組系極心連合会相談役)

生涯戦績は28戦26勝(18KO)2敗(世界戦14戦12勝(8KO)2敗)。

電車で外の景色を見て動体視力を鍛えろ」などの独自のトレーニング方法や、「汗でびしょ濡れになったTシャツは他の練習生を不快にさせるので着替えろ」などの心がけを述べており、一般的な入門書とは一線を画していた。
 ファイティング原田が十数kgの減量をしたと語っているのに反し、「それだけ体重が増えているのは普段の節制が足りないのだから、自慢ではなくて恥じるべき」と意見したことがある。
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私は格闘技、武道、そのほかスポーツ関係は、実践も観戦も大抵好きだ。ボクシングは10代の終わりごろに輪島功一やガッツ石松がいて、所謂「キャラが濃い」ボクサーだったために友人たちと大いに興奮してテレビ観戦した。キンシャサの戦いで全盛期のJ・フォアマンとピークを過ぎたモハメッド・アリとの世界ヘビー級選手権、「絶対にアリが勝つ」と信じてその通りになったときの感動も忘れがたい。まさかロシアンタンクなどという戦法を使うとは思わなかった。完全にガードしてロープにもたれ打たせるだけ打たせて、相手が打ち疲れた瞬間にジャブでKOしたのだが、その後のJ・フォアマンの復活も感動的で、知らない人は是非調べてみてほしい。

ところで渡辺二郎に関しては独特の感慨がある。
 彼は日本拳法の出身で確か大学選手権のチャンプだったと記憶している。同僚や批評家たちは彼を「天才」と呼び絶賛した。http://www7a.biglobe.ne.jp/~BOXCITY/jirou.htm なども褒めちぎっている。

彼の試合の様子は以下に収録されている。
http://www.youtube.com/watch?gl=JP&v=CK2kEd4QbDY&hl=ja

引退後解説者だったころに渡辺は次のように言っていた。
「ボクシングと喧嘩は根本的に違う。例えば心斎橋で肩が触れ合ってドツキアイになったら喧嘩。ボクシングの場合はその場でやらず、2ヵ月後にリングの上で決着しよう、と話をつけ、その2ヶ月間お互いにトレーニングしてルールのあるドツキアイをする」と解説した。非常に分かり易く、頭のいい人間だなぁ、と改めて好感を持った。

ところが後年、ご存知の通り平手酒造(ひらてみき)ではないがヤクザの用心棒となって逮捕されたときの顔を見ると、人相がすっかり変わり別人のようになっていた。
 こうなった理由は知らない。言うまでも無く、唯識、フロイト、ユングなどの深層心理学では、無意識の中には全く別の人格が潜んでいると説く。とくにユングの場合はシャドーという元型を仮定して、それとの統一を個性化(自己実現)の前提としている。あるちょっとしたことが原因で人格が反転したのだろう。

それにしても天才といわれ、最も冷静でクレイバーなボクサーと評価され、独自のダンディな哲学を持っていた人間があそこまで変わるものか、と愕然とした。
 こういう場合、大抵は金か女かドラッグで罠を仕掛けられるのだが、どうなんだろう。彼の属している山口組系極心連合会で調べてみると、芸能界と密接した繋がりがあり、トラブルが起こったときの解決など所謂「ケツ持ち」の仕事が多いようだ。また渡辺二郎は頼まれたら断れない性格とも言われている。

私は裁判官や弁護士にも大悪党もいれば、ヤクザにも善人がいることは体験的に知っている。だから彼がヤクザの構成員という理由で彼を偏見の対象とはしない。大ファンだった天才ボクサーが、その名誉を失ってしまったことに同情するのみである。
 今からでも遅くない、世のために一肌脱いで再び活躍して欲しいものだ。

ホメオスタシス

2012年12月19日 | 医療、健康法
本当は今日はブログはサボりたいところだが、「ブログは毎日書くこと」とgooブログからお達しが毎週あるのでw、今日はほとんど抜粋引用で済ませます。
 以前から気になっていたこのテーマ、wikiより引用。
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恒常性、ホメオスタシス(英:Homeostasis ホメオステイシス:ΟΜΟΙΟΣΤΑΣΙΣ ホモイオスタシス)は生物のもつ重要な性質のひとつで生体の内部や外部の環境因子の変化にかかわらず生体の状態が一定に保たれるという性質、あるいはその状態を指す。生物が生物である要件のひとつであるほか、健康を定義する重要な要素でもある。生体恒常性とも言われる。

1859年頃フランスの生理学者クロード・ベルナールは、生体の内部環境は組織液の循環等の要因によって外部から独立している(内部環境の固定性)と提唱、これを1920年代後半から30年代前半頃にアメリカ合衆国の生理学者ウォルター・B・キャノンがギリシア語に由来する「ホメオスタシス」(ギリシア語で同一の(ΟΜΟΙΟ、ホモイオ)状態(ΣΤΑΣΙΣ、スタシス)を意味する)と命名したものである。

恒常性の保たれる範囲は体温や血圧、体液の浸透圧やpHなどをはじめ病原微生物やウイルスといった異物(非自己)の排除、創傷の修復など生体機能全般に及ぶ。
恒常性が保たれるためにはこれらが変化したとき、それを元に戻そうとする作用、すなわち生じた変化を打ち消す向きの変化を生む働きが存在しなければならない。これは、負のフィードバック作用と呼ばれる。この作用を主に司っているのが間脳視床下部であり、その指令の伝達網の役割を自律神経系や内分泌系(ホルモン分泌)が担っている。
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次いで心理学的な使われ方 http://psychoterm.jp/basic/perception/01.html より
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ホメオスタシスという概念は、また、臨床心理学における「家族療法」においても用いられています。

家族療法は、家族を1つのシステムとみなし、それを対象としてアプローチしていく、システム論に基づいた心理療法です。

家族療法では、家族という社会システムが、常にある一定の秩序を保とうとする傾向性を持つものとして説明され、その際に「家族ホメオスタシス」という概念が用いられるのです。

家族の構成員の不適応や精神病理は、その構成員に原因があるとは考えず、家族システムの秩序維持である「家族ホメオスタシス」の作用やそれが歪んだせいだと考えます。

つまり、家族内コミュニケーションに悪循環が生じると、そのシステムの秩序維持(家族ホメオスタシス)作用への反発として、特定の家族に不適応や精神疾患が生じると考えるわけです。
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これに関して言いたいことは山ほどあるが、もし神仏が存在する、と考えるならこれが一つの根拠になるだろう。
 前から「善因善果 悪因悪果」が本当かどうかわからないと慧可の思想を紹介したり、多元宇宙論で解決するしかない、等々自問自答してきたが、人間だけでなく宇宙を善のベクトルに向けようとする普遍的な意思があるとすれば、ホメオスタシス的な力だと思う。

人間の体温は1度上下するだけで病気になる。心も悩み事が一つあるだけで眠れなくなる。実に精巧に作られている。それを上手にバランスを取り、悪を止め善を成す作用。実に不思議な力ですね。

私がある、と言えば嘘になる、私は無い、と言っても嘘になる。他者(非生物も含め)とのつながりの中で私という縁が生まれる。宇宙中に張り詰められてこんがらがった糸の結び目としての私、とはいえ物心付いたころから変わることの無い個我の持続性。このあたりを巧く説明してみたいものです。

ではこんなところで失礼します。





良寛さんの短歌

2012年12月18日 | 
選挙も終わり、自公連立政権が始まる。
民主党が余りにお粗末だったからまた昔に返った訳だが、昔と同じことをやっていたら今度こそ本当に国民の怒りが爆発するだろう。

というわけで、今日も簡単に。
以下のサイトに良寛の和歌が紹介されていた。解説も優れているので2首だけ取り上げる。


http://www15.ocn.ne.jp/~kamido/ryoukan/meika1.html

あわ雪の中に顕(た)ちたる三千大千世界(みちおほち)またその中にあわ雪ぞ降る

 まず、三千大千世界とは、仏教の世界観による世界のことであり、須弥山(しゅみせん)を中心に日・月・四大州・上天を含む世界を一世界として、これが千個集まったものを小千世界であり、それが千個集まったものを中千世界、中千世界が千個集まったものを大千世界といい、これらを総称していう。
「国上山に住む良寛様の目の前には、あわ雪がしんしんと降り続いており、その中に三千大千世界が視えたのである。その中の一つ一つの世界にもあわ雪が降り続いていることだ」と解釈できる。良寛様の空想の歌であり、あわ雪は総てを覆い尽くすということである。つまりこれは宇宙の総ての世界が同じような現象に覆われるということである。あわ雪ならばあわ雪、花吹雪ならば花吹雪である。宇宙は一つに繋がっているということであろう。とても奥行きの深い代表的名歌である。

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私は子供の頃から、宇宙の中に自分がいるわけだが、自分の細胞それぞれに宇宙がまたある、という感覚があった。もっと極端に言えば、素粒子の中にまた宇宙が存在している(物質の最小単位が素粒子だから物理学的にはあり得ないが)という無限に連鎖しイレコ状に重なり合う宇宙の感覚もある。
 全ての存在が相互にウェブ状態で絡み合っている感覚は一念三千論を勉強したこととも繋がっている。もっとも、こういう風に深読みしなくても、淡雪を通して全宇宙を思い浮かべて万物と一体になっている自分を自覚し、また新たな変性意識のなかで淡雪を見つめている、という風に読めなくもないが、この歌は深読み(創造的解釈)のほうが面白い。
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つきてみよひふみよいむなやここのとを十とをさめてまた始まるを

 貞心尼は良寛様に弟子にして下さいと歌を認め手鞠を置いていったが、その入門の許可の手紙と共にこの返歌が添えられてあった。
「手鞠をついてみなさい。一二三四五六七八九十で、十までついたらまた一から始めます」と直訳できる。しかしこれには深い意味があり、「仏の道はこれで終わりということなく、ずっと続くものです」ということが含まれている。またニーチェがツァラトゥストラに語らせた永遠回帰の思想にもつながっている。とにかく、ここから二人の交流が始まったのである。

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貞心尼は40才年下の良寛の弟子兼愛人。二人の関係に興味のある人は検索してみてください。
 ところでこの歌は少しでも禅をかじった人なら数息観のことが含意されている、と直ぐ分かる筈だ。ストンと丹田に息を収めたら、1,2,3~10まで心で数えていく。途中で雑念(数以外の言葉やイメージ)が湧いたら、また1から始める。見事10まで数えられたらまた1から出直すのが数息観。
 微笑禅のやり方では、吐く息を意識せず、毛穴から漏れるイメージでなるべく長く息をもたせる。すると1分を越えたあたりから密息が出来るようになる。これは一種「皮膚呼吸」のような感覚で、実際は鼻からごく細い息が漏れ、同時に吸っているのでしょうが、「ひと~つ」が何分も持続して嬉し涙が零れ、申し分のない数息観が出来るようになる。
 ともかく、いつも懐に鞠を入れて子供と鞠つきをして遊ぶのが好きだった良寛さんは、鞠つきに例えて、一緒に数息観をやりましょう(弟子入り許可)、と返した、と解釈するのがごく普通でしょう。
 
今日はこれで失礼します。







総選挙結果について

2012年12月17日 | 世直しのためにどうすべきか

今日も疲れているので簡単に

衆院選、自民党単独で過半数なのに、様々な報道機関が「自公連立」という条件で話を進めている。
 昨日も触れたように自公の間にはかなり逆向きの党是があるのだから、これもマスメディアによる誘導の一つと考えられる。
 獲得議席数なら日本維新の会のほうが多いし、こっちとくっついたほうがマシではないかと思うのは私一人ではないだろう。

誤解を受けそうな発言をするが、残念なのは日本共産党の議席数が減ったことだ。八王子に住んでいるので公明党も多い(10%)が、公明党嫌いも多く、そういう人は結構共産党を支持している。憲法問題やフェミニズムによる逆差別など私と考え方が違う面もあるものの、日本を良くするにはしっかりした保守としっかりした革新左翼がお互いに議論する必要がある

あやまちを 諌めかはして 親しむが まことの友の こゝろなるらむ
と明治天皇御製にあるように、議論してかつ憎悪の感情を持たないのが本当のライバル関係で
ある。
 

当然選挙に行ってきた

2012年12月16日 | 世直しのためにどうすべきか

夜8時前タクシーで選挙に行ってきた。
youtubeをさっき見たが、投票率50%台とか。私は30%台ぐらいだろうと予測していたので意外に高い。

今開票速報が始まっている。サンスポでは
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2012.12.16 20:14
自公過半数、政権奪還へ 衆院選開票速報
 第46回衆院選は16日に投票、即日開票された。共同通信社が全国で実施した出口調査で、自民、公明両党の獲得議席は合わせて過半数(241議席)を上回り、約3年3カ月ぶりに政権奪還するのが確実な情勢となった。
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と書いてあるが、瀬戸弘幸さんのブログでは時事通信の
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公明党の山口那津男代表は10日のTBSラジオ番組で、自民党が衆院選公約に基づき集団的自衛権を行使できるよう憲法解釈を変更したり、 憲法9条改正に動いたりした場合、衆院選後に自公両党で連立政権を組んだとしても、連立離脱があり得るとの見解を示し、けん制した。
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を引用して「是非そうなって欲しい。日本を取り戻し再生させるにはカルト創価学会のような気色の悪い連中を先ずは中に入れては駄目でしょう。日本維新の会の石原代表も自民党が憲法を改正するなら協力すると言っていますから、反対する公明党には連立から一日も早く出て行って欲しいものです」
と書いている。
 これに関しては同感で、昔の自民党は自浄能力があったが、自公連立になってからは、良識派がどんどん消えているのを肌で感じる。
 今後の展開は分からないが、自民+公明なのか自民+石原維新の会なのかが一番の見所だろう。場合によっては自民党単独政権の可能性もある。


大学生の頃、政治的野心の強い叔父に頼まれて、埼玉の自民党有力候補の甥という名目で立候補者の奥さんと車であちこち回って選挙演説したこともあるし、自主的に他の良識派として有名な人の裏方としてボランティア活動したこともある。
 父の養女の姉の婿(血は繋がっていないが近い親族)には国土大臣を務めた西田司もおり、国会議事堂の近くにある議員会館に入って挨拶をしたこともある。だから選挙の裏側は普通の人よりは分かっているつもりだ。(これら関わった人物の好悪については敢えて書かない)。

現在の知り合いには遅れてきた世代の新左翼もいれば、草の根運動家も、真面目に現場の声を聞いて動いてくれる共産党員も、言うまでもなく愛国右翼もいる。
 創価学会はじめカルト信者にも意外に親切な人がいる(もっと多く情報を仕入れて比較検討すればなぁ、と残念でならない)。
 結局は共感性の問題で、まさかの友が真の友、と思っている。

赤穂義士の場合でも、最初は討ち入りの血判を押した130名が、有名な神文返しなどで篩に掛けたところ残ったのは47名のみ。3分の2はどこかに仕官したと言われている。

今夜は居酒屋などで政治談議でもちきりだろう。日本が少しは明るくなるのか、どん底に落ちてクーデターか、出来れば前者になって欲しいものだ。

胸の振り子 続き

2012年12月15日 | 芸術・表現
色んな重要書類が山積みになってきたので、今日もごく簡単に書きます。

昨日の「胸の振り子」は隠れた名曲の典型で、まず知っている人がいない。

歌詞の部分に幾つか謎、というか「隠し味」がある。

柳にツバメはあなたと私

のところ。歌った後に横にいたホステスさんから、どういう意味ですか?と聞かれたので
「松に鶴」と同じようにワンセットの仲のいいカップルという意味じゃないの、と答えたところ、老齢のスナックのマスターからその通りだといわれた。

次いで「胸の振り子が鳴る鳴る」の部分。これは非常にマニアックな論争があり、なんの意味か諸説ある。簡単に言えば、ハートがドキドキする、というべきところを詩的に言い換えたもの。サトウハチローは、人生は豪胆で不良、中学を落第、退校、勘当、留置場入りを重ねているが、表現は繊細で「爪色の雨」が処女詩集、「ちいさい秋みつけた」という童謡も書いている。
 
「煙草の煙にもつれる思い」なんて表現も中々出てこない。西條八十に師事し、草野心平や宮沢賢治と同じ同人誌仲間だっただけのことはある。

これは石和温泉の知る人ぞ知るプロのジャズミュージシャン中川武先生(「ないとあんどでい」というスナック経営)に、畏れ多くも私が教えて感動され、今は中川先生の持ち歌になっている。一緒にスキャットしたり即興でメロディを変えたりして、さあ飲もうと座ったら、お客さんからアンコールが掛かって2度ステージに上がったこともあります。石和に遊びに行ったらぜひ寄ってください。

以下はwikiからサトウハチローの作詞した歌謡曲をコピーしたもの。案の定「胸の振り子」は抜けています。ではこの辺で失礼します。

リンゴの唄
麗人の唄(映画『麗人』の主題歌)
二人は若い(玉川映二 名義)
あゝそれなのに(星野貞志 名義)
うちの女房にゃ髭がある(同上)
花売り娘
ホームラン・ブギ
目ン無い千鳥
誰かさんと誰かさん
勝利の日まで
ずずんとずずんと(テレビ番組『坊やとママ』テーマソング)
黒いパイプ
夢淡き東京
浅草の唄
長崎の鐘
エンゼルはいつでも(森永製菓)
グラスをのぞくフラミンゴ(千福のテーマ)
悲しくてやりきれない
ありがとう(テレビドラマ「ありがとう」主題歌)
ほんとかしらほんとかしら(美空ひばり)
わが母の姿は(美空ひばり)
明日を祈る(堺正章)
なんでこんなに(堺正章)